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3 女中仲間と恐ろしの主
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通されたのは、先程までいた洋館を出たすぐ右側の建物だった。
使用人の住む棟は本邸とは別なのだと、老紳士が教えてくれた。
小さな戸口から入りすぐの細い階段上がる。細い木張りの廊下を通り、2つ目の戸を老紳士はコンコンと叩いた。返事がないことを確認し、老紳士はその戸を開ける。
その後ろを歩いていたハナは、通された部屋に目を疑った。
「ここが、使用人のお部屋なのですか……?」
狭い部屋だが、そこには2台の床の高い布団と机が置かれている。対になるようにそれぞれの壁際にあった。間の壁には小さな窓がある。
片方には荷物があったので、誰かと相部屋なのかもしれない。ハナは、何もない方の机の腰掛けに座った。
「お荷物は何もお持ちでないようですので……取り急ぎベッドの準備だけいたしました」
「ベッド……?」
ハナが首をかしげると、老紳士は布団のことだと教えてくれた。
「寝巻きや着替えは机の隣の引き出しの中に。そちらは自由にお使いください。その他、分からないことあれば、何でもお申し付けくださいね。私の部屋は一階の、戸口のすぐ隣ですので」
老紳士はにこやかな笑みでハナに告げる。
「えっと……今日は、これから――?」
「今日はお休みになるようにと。明日は朝7時に戸口の外に。使用人が集まっておりますので、そちらにお越しください。では」
老紳士は戸を開け、出ていこうとする。
「あ、あの……ありがとうございます、えっと……」
「私は鷹保様の執事・畠中と申します。ここでは執事長とお呼びいただければ」
執事長はにこりともう一度微笑むと小さく会釈をして、今度こそ部屋を出ていった。
ハナは部屋に一人になった。窓から差し込むのは、もう沈みかけた夕日だ。ベッドの方をちらりと向く。
(本当に、こんな布団で寝てしまっていいのかしら? でも、乗るだけなら……)
ハナは好奇心に負けて、おそるおそるベッドに触れた。馬車の座席よりは固いが、それでもハナが田舎で寝ていたものより数倍柔らかい。
「うわぁ……」
ハナはそこにそっと腰をかける。たまらず、そのまま横になる。
(ふわふわで、気持ちいい……)
ハナは弱った自分の心を包み込んでくれるようなベッドの心地に、笑みを漏らし目を閉じる。
眠るつもりはなかったが、帝都に来てからの怒涛の一日を思い返しているうちに、ハナは深い眠りに落ちていた。
「エクスキューズ、ミー……?」
聞いたことのない言葉に、ハナの意識が浮上した。
「んん……」
ハナは重たいまぶたをゆっくりと開ける。誰かがハナの顔を覗いていた。緑色の瞳、輝く金色の長い髪。
ハナははっとして、目を見開く。一気に意識が覚醒した。
「良かった、起きたのね」
彼女はそう言うと、向かいのベッドに戻っていく。ハナは身体を起こして、彼女を視線で追う。濃い緑の着物に臙脂色の前掛けをした彼女は、両手で髪をすくい上げ、まとめているところだった。
「あの……私、ハナと申します!」
ハナは同室らしい彼女の背中に向かって声を張る。
「あら、日本語喋れるのね」
彼女はそう言いながらこちらを振り返る。彼女の方が日本語を喋るのが不思議だと思った。
瞳と髪の色だけでない。白い肌に高い鼻は、日本人の物だとは思えなかった。
「私はリサ。ここの女中なの。あなたも早く着替えた方がいいわ。じきに7時になる」
「え……?」
「使用人は毎朝7時、外に集合。昨日、そう教わらなかった?」
はっとした。
「あ、ありがとうございます!」
ハナは慌ててベッドから飛び降りた。
(確か、こっちの引き出しに――)
机の横の引き出しに、リサが着ているものと同じ着物を見つけ、慌てて着替える。ささっと髪をまとめると、部屋を出ようとしていたリサの後ろについた。
「ご一緒させていただいてもいいですか? 働くのも、初めてで……」
「ふふ。あなた、面白いわね」
リサは振り返って言う。その笑みに、ハナはここでの生活はうまくやれそうだと感じた。
集まりに向かう間、ハナはリサから色々な事を聞いた。
使用人同士は仕事中はあまり話さないようにすること、分からないことは執事長や女中長に聞くこと。女中はハナも入れて5人いるが、女中長は厳しい方なので特に気をつけること。真面目に仕事をしていれば、お給金もちゃんともらえること。
リサは、お給金で“化粧水”というものを買ったと楽しそうに話していたが、ハナは何に使うものか皆目見当がつかなかった。
「鷹保様は、どんな方ですか?」
会話の流れでそう聞いた。
「旦那様は、とても優しい方よ」
リサがそう言って、ハナは首をかしげた。
(鷹保様は、リサさんには優しいのかしら?)
使用人の集まりは、執事長が取り仕切っていた。ハナは何がわからないのかもわからないまま、集まりの中で立っていた。
集まっていたのはハナやリサと同じ格好の女中が他に3人、中でも年配の眼鏡の女性が女中長だということは覚えた。朝食の準備で今はいないが、料理人も2人いるらしい。
ハナは初日だったため輪の中に入れず、脇からキョロキョロと仕事仲間を観察していた。
女中仲間は女中長以外、皆、異人風の風貌だった。リサは金色に輝く髪が綺麗だが、他の二人も色素の薄い茶色い瞳や、淡い栗色の髪が綺麗で、ハナは自分の黒髪が恥ずかしくなる。
(皆、お人形みたいな顔をしている。私は、どうして鷹保様に拾われたのかしら――?)
「――さん、ハナさん!」
耳元で大きな声で名を呼ばれ、はっと振り返った。鬼のような形相で、女中長が立っていた。
「集まりはとっくに終わりましたよ!」
見れば、先程まで周りにいたはずの女中たちは皆いなくなっていて、ハナだけがぽつりと取り残されていた。
「す、すみません! あの、皆綺麗な人ばかりで驚いてしまって……」
しどろもどろになっていると、女中長はすっと目を細めてハナを見た。
「あなただって、綺麗な青い瞳をしているじゃない」
「え?」
思わず聞き返した。自分の顔など、今まであまり意識してこなかった。ハナは田舎で何度か見た、水に映った自分の姿を思い出す。そういえば、瞳が青かったかもしれない。
「さ、無駄話は終わり。ハナさんは、今日からここの女中として、立派に勤めていただきますからね!」
女中長の眉間に皺がよる。ハナは思わず「はい」と答え姿勢をしゃんとした。
「ハナさんには、ここの屋敷の大体の部屋を覚えてもらって、それから掃除に入ってもらいます。いいですね」
「はい」
女中長はそれだけ言うと、さっさと歩き出す。
「ぼさっとしてないで、ついてきなさい!」
ハナは慌てて、女中長の後についていった。
お屋敷の中は広いが単純な作りだった。本邸の一階は大部分が大ホールと応接間と中庭で、申し訳程度にキッチンと小さな使用人室がある。使用人はここで食事を取るらしく、朝食がまだだったハナは残っていたおにぎりを頂きながら、二階の説明を受けた。
二階には執務室と客間があるらしい。倉庫もそこにあるらしいが、執務室周辺は立ち入ってはいけないということだった。
また、本邸とは別に、使用人棟の前にあるのは別邸があるらしい。鷹保の寝室があるらしく、そこにも立ち入ってはいけないと教わった。
「ハナさんには、覚えてもらう意味も込めて、しばらく本邸の掃除を頼みます。今日は廊下の掃除を。用具は二階の倉庫にあるものを使うように」
女中長はそれだけ言うと、まだおにぎりを頬張っていたハナを置いて、使用人室を出ていった。
ハナは急いでおにぎりを口に含んで飲み込み、ペチッと両頬を叩いた。
(せっかくいただいたお仕事。気合を入れて、頑張らないと!)
立ち上がり、使用人室を後にする。
階段を登り、二階に着いたところでハナは立ち止まった。
(えっと……どっちだっけ?)
執務室は昨日訪れた場所だと、女中長からの説明で見当がついた。けれど、昨日は鷹保に手を引かれるがまま歩いていたので、階段を上がった先で右に行くのか左に行くのか分からなくなってしまったのだ。
(うーん、……きっと、こっち!)
ハナは当てずっぽうで、階段の先を右に曲がった。正面に見えた廊下の突き当りの窓に、なんとなく見覚えがあった。
(よし、こっちで…………ん?)
背後を振り返ると、そちらにも同じような廊下と窓が広がっている。
(ああ、もう本当に分からない!)
半ばやけっぱちで、女中長から聞いたとおりに廊下の左側の扉を開いた。
やたら中が明るい。倉庫と聞いていたから、薄暗いものだと勝手に思い込んでいた。
しかし、間違いだとすぐに気づいた。見覚えのある、机、書棚、革張りの長椅子。
「ここ……鷹保様の執務室!」
鷹保は不在らしい。ハナはほっと安堵の息をつくと、そうっと後ずさり、部屋から出ていこうとした。しかし、カタンと何かが足に触れ、倒してしまった。
ビクリと身体を震わせ振り向くと、倒れていたのはくずかごだった。中から、くしゃくしゃになった紙くずがはみ出している。
「これ……お手紙かしら?」
くずかごに入っていたものだろうと思ったが、封の開いていない手紙を捨てるだろうか。
ハナは手紙を拾い上げ、その皺を伸ばして考えた。
「どうしましょう、これ……」
(とにかく、中身を確認できるようにしておこう)
ハナは床に膝をついて、手紙の皺を丁寧に伸ばした。
「お前、何をしているっ!」
突然の怒号に、ハナはビクリと大きく揺れた。そのはずみで、手紙の封が一部破けてしまった。
(しまった!)
背を向けていた戸の方を、恐る恐る振り返る。そこには、鬼のような顔をした鷹保が立っていた。
鷹保は鬼のような顔のまま、ハナの方へずかずかと歩み寄った。
「申し訳ありません! 屋敷内で部屋が分からなくなってしまい、間違えて入ってしまいました!」
ハナはすぐさま立ち上がると、手紙を手にしたまま深く深く頭を下げた。
(どうしよう。鷹保様、とても怒っていらっしゃる)
もしかしたら、この邸宅からは追い出されてしまうかもしれない。帝都に来て、二度も失敗するなんて……。
ハナはすがる思いで鷹保を見上げた。鷹保は眉間に皺を刻んだまま、ハナとは目を合わせず、代わりにハナの手元を見た。ハッと目を見開き、その剣幕がいっそう激しくなった。
「その手紙……なぜ拾った!」
鷹保はハナの方へ一歩踏み出す。ハナは思わず後ずさった。
「えっと……くずかごを、倒してしまって……」
言う間にも、鷹保は鬼の形相のままハナの方へ歩み寄る。ハナも一歩一歩、後ずさる。
(怖い。どうしよう。私……)
泣きそうになるも、鷹保の眼力はハナに目を離すことを許さなかった。
鷹保はじりじりとハナに詰め寄る。じきに、ハナの背中は壁にトンと当たってしまった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
逃げ道を失ったハナは、まだ詰め寄る鷹保に恐怖を覚えた。次の瞬間、ドンっと鷹保の手がハナの顔の横の壁を叩いた。「ひっ」と思わず肩が震える。
「見たのか?」
「えっと……」
「見たんだな!」
鷹保は今までで一番大きな声で怒鳴る。ハナは恐怖におののいて、ただ黙っていることしかできない。
「いいか、誰にも言うな」
その言葉に、ハナは何のことだか分からないままコクコクと必死にうなずいた。
するとすぐに鷹保はハナを開放する。
「その手紙は紙くずだよ、おひいさん」
急に優しくなった声色に、鷹保を改めて見る。昨日と同じ洋装で、昨日と同じ優しい笑みを浮かべた鷹保がそこにいた。
「それから、いくらおひいさんだからって、女中は執務室には入ってはいけないよ?」
鷹保は笑みを崩さず、ハナに手を差し出す。
ハナは黙って手紙を鷹保に渡した。すると鷹保はそれを胸元にしまい、戸を開けてハナを外に出るよう促す。
「またね、おひいさん」
ハナが廊下に出ると、鷹保は微笑んだまま執務室の戸を閉めた。
そこで、ハナはやっと胸をなでおろす。
(鷹保様……あの笑みは優しいだけじゃない。怖い。私は、とんでもない人のところに――)
ぶるりと身体が震える。けれども、仕事は仕事だ。執務室に入ってしまったのも、自分の不手際だ。
(もう、絶対に間違えないようにしよう)
ハナはそう心に誓って、廊下の反対側の倉庫に向かった。
使用人の住む棟は本邸とは別なのだと、老紳士が教えてくれた。
小さな戸口から入りすぐの細い階段上がる。細い木張りの廊下を通り、2つ目の戸を老紳士はコンコンと叩いた。返事がないことを確認し、老紳士はその戸を開ける。
その後ろを歩いていたハナは、通された部屋に目を疑った。
「ここが、使用人のお部屋なのですか……?」
狭い部屋だが、そこには2台の床の高い布団と机が置かれている。対になるようにそれぞれの壁際にあった。間の壁には小さな窓がある。
片方には荷物があったので、誰かと相部屋なのかもしれない。ハナは、何もない方の机の腰掛けに座った。
「お荷物は何もお持ちでないようですので……取り急ぎベッドの準備だけいたしました」
「ベッド……?」
ハナが首をかしげると、老紳士は布団のことだと教えてくれた。
「寝巻きや着替えは机の隣の引き出しの中に。そちらは自由にお使いください。その他、分からないことあれば、何でもお申し付けくださいね。私の部屋は一階の、戸口のすぐ隣ですので」
老紳士はにこやかな笑みでハナに告げる。
「えっと……今日は、これから――?」
「今日はお休みになるようにと。明日は朝7時に戸口の外に。使用人が集まっておりますので、そちらにお越しください。では」
老紳士は戸を開け、出ていこうとする。
「あ、あの……ありがとうございます、えっと……」
「私は鷹保様の執事・畠中と申します。ここでは執事長とお呼びいただければ」
執事長はにこりともう一度微笑むと小さく会釈をして、今度こそ部屋を出ていった。
ハナは部屋に一人になった。窓から差し込むのは、もう沈みかけた夕日だ。ベッドの方をちらりと向く。
(本当に、こんな布団で寝てしまっていいのかしら? でも、乗るだけなら……)
ハナは好奇心に負けて、おそるおそるベッドに触れた。馬車の座席よりは固いが、それでもハナが田舎で寝ていたものより数倍柔らかい。
「うわぁ……」
ハナはそこにそっと腰をかける。たまらず、そのまま横になる。
(ふわふわで、気持ちいい……)
ハナは弱った自分の心を包み込んでくれるようなベッドの心地に、笑みを漏らし目を閉じる。
眠るつもりはなかったが、帝都に来てからの怒涛の一日を思い返しているうちに、ハナは深い眠りに落ちていた。
「エクスキューズ、ミー……?」
聞いたことのない言葉に、ハナの意識が浮上した。
「んん……」
ハナは重たいまぶたをゆっくりと開ける。誰かがハナの顔を覗いていた。緑色の瞳、輝く金色の長い髪。
ハナははっとして、目を見開く。一気に意識が覚醒した。
「良かった、起きたのね」
彼女はそう言うと、向かいのベッドに戻っていく。ハナは身体を起こして、彼女を視線で追う。濃い緑の着物に臙脂色の前掛けをした彼女は、両手で髪をすくい上げ、まとめているところだった。
「あの……私、ハナと申します!」
ハナは同室らしい彼女の背中に向かって声を張る。
「あら、日本語喋れるのね」
彼女はそう言いながらこちらを振り返る。彼女の方が日本語を喋るのが不思議だと思った。
瞳と髪の色だけでない。白い肌に高い鼻は、日本人の物だとは思えなかった。
「私はリサ。ここの女中なの。あなたも早く着替えた方がいいわ。じきに7時になる」
「え……?」
「使用人は毎朝7時、外に集合。昨日、そう教わらなかった?」
はっとした。
「あ、ありがとうございます!」
ハナは慌ててベッドから飛び降りた。
(確か、こっちの引き出しに――)
机の横の引き出しに、リサが着ているものと同じ着物を見つけ、慌てて着替える。ささっと髪をまとめると、部屋を出ようとしていたリサの後ろについた。
「ご一緒させていただいてもいいですか? 働くのも、初めてで……」
「ふふ。あなた、面白いわね」
リサは振り返って言う。その笑みに、ハナはここでの生活はうまくやれそうだと感じた。
集まりに向かう間、ハナはリサから色々な事を聞いた。
使用人同士は仕事中はあまり話さないようにすること、分からないことは執事長や女中長に聞くこと。女中はハナも入れて5人いるが、女中長は厳しい方なので特に気をつけること。真面目に仕事をしていれば、お給金もちゃんともらえること。
リサは、お給金で“化粧水”というものを買ったと楽しそうに話していたが、ハナは何に使うものか皆目見当がつかなかった。
「鷹保様は、どんな方ですか?」
会話の流れでそう聞いた。
「旦那様は、とても優しい方よ」
リサがそう言って、ハナは首をかしげた。
(鷹保様は、リサさんには優しいのかしら?)
使用人の集まりは、執事長が取り仕切っていた。ハナは何がわからないのかもわからないまま、集まりの中で立っていた。
集まっていたのはハナやリサと同じ格好の女中が他に3人、中でも年配の眼鏡の女性が女中長だということは覚えた。朝食の準備で今はいないが、料理人も2人いるらしい。
ハナは初日だったため輪の中に入れず、脇からキョロキョロと仕事仲間を観察していた。
女中仲間は女中長以外、皆、異人風の風貌だった。リサは金色に輝く髪が綺麗だが、他の二人も色素の薄い茶色い瞳や、淡い栗色の髪が綺麗で、ハナは自分の黒髪が恥ずかしくなる。
(皆、お人形みたいな顔をしている。私は、どうして鷹保様に拾われたのかしら――?)
「――さん、ハナさん!」
耳元で大きな声で名を呼ばれ、はっと振り返った。鬼のような形相で、女中長が立っていた。
「集まりはとっくに終わりましたよ!」
見れば、先程まで周りにいたはずの女中たちは皆いなくなっていて、ハナだけがぽつりと取り残されていた。
「す、すみません! あの、皆綺麗な人ばかりで驚いてしまって……」
しどろもどろになっていると、女中長はすっと目を細めてハナを見た。
「あなただって、綺麗な青い瞳をしているじゃない」
「え?」
思わず聞き返した。自分の顔など、今まであまり意識してこなかった。ハナは田舎で何度か見た、水に映った自分の姿を思い出す。そういえば、瞳が青かったかもしれない。
「さ、無駄話は終わり。ハナさんは、今日からここの女中として、立派に勤めていただきますからね!」
女中長の眉間に皺がよる。ハナは思わず「はい」と答え姿勢をしゃんとした。
「ハナさんには、ここの屋敷の大体の部屋を覚えてもらって、それから掃除に入ってもらいます。いいですね」
「はい」
女中長はそれだけ言うと、さっさと歩き出す。
「ぼさっとしてないで、ついてきなさい!」
ハナは慌てて、女中長の後についていった。
お屋敷の中は広いが単純な作りだった。本邸の一階は大部分が大ホールと応接間と中庭で、申し訳程度にキッチンと小さな使用人室がある。使用人はここで食事を取るらしく、朝食がまだだったハナは残っていたおにぎりを頂きながら、二階の説明を受けた。
二階には執務室と客間があるらしい。倉庫もそこにあるらしいが、執務室周辺は立ち入ってはいけないということだった。
また、本邸とは別に、使用人棟の前にあるのは別邸があるらしい。鷹保の寝室があるらしく、そこにも立ち入ってはいけないと教わった。
「ハナさんには、覚えてもらう意味も込めて、しばらく本邸の掃除を頼みます。今日は廊下の掃除を。用具は二階の倉庫にあるものを使うように」
女中長はそれだけ言うと、まだおにぎりを頬張っていたハナを置いて、使用人室を出ていった。
ハナは急いでおにぎりを口に含んで飲み込み、ペチッと両頬を叩いた。
(せっかくいただいたお仕事。気合を入れて、頑張らないと!)
立ち上がり、使用人室を後にする。
階段を登り、二階に着いたところでハナは立ち止まった。
(えっと……どっちだっけ?)
執務室は昨日訪れた場所だと、女中長からの説明で見当がついた。けれど、昨日は鷹保に手を引かれるがまま歩いていたので、階段を上がった先で右に行くのか左に行くのか分からなくなってしまったのだ。
(うーん、……きっと、こっち!)
ハナは当てずっぽうで、階段の先を右に曲がった。正面に見えた廊下の突き当りの窓に、なんとなく見覚えがあった。
(よし、こっちで…………ん?)
背後を振り返ると、そちらにも同じような廊下と窓が広がっている。
(ああ、もう本当に分からない!)
半ばやけっぱちで、女中長から聞いたとおりに廊下の左側の扉を開いた。
やたら中が明るい。倉庫と聞いていたから、薄暗いものだと勝手に思い込んでいた。
しかし、間違いだとすぐに気づいた。見覚えのある、机、書棚、革張りの長椅子。
「ここ……鷹保様の執務室!」
鷹保は不在らしい。ハナはほっと安堵の息をつくと、そうっと後ずさり、部屋から出ていこうとした。しかし、カタンと何かが足に触れ、倒してしまった。
ビクリと身体を震わせ振り向くと、倒れていたのはくずかごだった。中から、くしゃくしゃになった紙くずがはみ出している。
「これ……お手紙かしら?」
くずかごに入っていたものだろうと思ったが、封の開いていない手紙を捨てるだろうか。
ハナは手紙を拾い上げ、その皺を伸ばして考えた。
「どうしましょう、これ……」
(とにかく、中身を確認できるようにしておこう)
ハナは床に膝をついて、手紙の皺を丁寧に伸ばした。
「お前、何をしているっ!」
突然の怒号に、ハナはビクリと大きく揺れた。そのはずみで、手紙の封が一部破けてしまった。
(しまった!)
背を向けていた戸の方を、恐る恐る振り返る。そこには、鬼のような顔をした鷹保が立っていた。
鷹保は鬼のような顔のまま、ハナの方へずかずかと歩み寄った。
「申し訳ありません! 屋敷内で部屋が分からなくなってしまい、間違えて入ってしまいました!」
ハナはすぐさま立ち上がると、手紙を手にしたまま深く深く頭を下げた。
(どうしよう。鷹保様、とても怒っていらっしゃる)
もしかしたら、この邸宅からは追い出されてしまうかもしれない。帝都に来て、二度も失敗するなんて……。
ハナはすがる思いで鷹保を見上げた。鷹保は眉間に皺を刻んだまま、ハナとは目を合わせず、代わりにハナの手元を見た。ハッと目を見開き、その剣幕がいっそう激しくなった。
「その手紙……なぜ拾った!」
鷹保はハナの方へ一歩踏み出す。ハナは思わず後ずさった。
「えっと……くずかごを、倒してしまって……」
言う間にも、鷹保は鬼の形相のままハナの方へ歩み寄る。ハナも一歩一歩、後ずさる。
(怖い。どうしよう。私……)
泣きそうになるも、鷹保の眼力はハナに目を離すことを許さなかった。
鷹保はじりじりとハナに詰め寄る。じきに、ハナの背中は壁にトンと当たってしまった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
逃げ道を失ったハナは、まだ詰め寄る鷹保に恐怖を覚えた。次の瞬間、ドンっと鷹保の手がハナの顔の横の壁を叩いた。「ひっ」と思わず肩が震える。
「見たのか?」
「えっと……」
「見たんだな!」
鷹保は今までで一番大きな声で怒鳴る。ハナは恐怖におののいて、ただ黙っていることしかできない。
「いいか、誰にも言うな」
その言葉に、ハナは何のことだか分からないままコクコクと必死にうなずいた。
するとすぐに鷹保はハナを開放する。
「その手紙は紙くずだよ、おひいさん」
急に優しくなった声色に、鷹保を改めて見る。昨日と同じ洋装で、昨日と同じ優しい笑みを浮かべた鷹保がそこにいた。
「それから、いくらおひいさんだからって、女中は執務室には入ってはいけないよ?」
鷹保は笑みを崩さず、ハナに手を差し出す。
ハナは黙って手紙を鷹保に渡した。すると鷹保はそれを胸元にしまい、戸を開けてハナを外に出るよう促す。
「またね、おひいさん」
ハナが廊下に出ると、鷹保は微笑んだまま執務室の戸を閉めた。
そこで、ハナはやっと胸をなでおろす。
(鷹保様……あの笑みは優しいだけじゃない。怖い。私は、とんでもない人のところに――)
ぶるりと身体が震える。けれども、仕事は仕事だ。執務室に入ってしまったのも、自分の不手際だ。
(もう、絶対に間違えないようにしよう)
ハナはそう心に誓って、廊下の反対側の倉庫に向かった。
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