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19 帝都のシンデレラ
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◇◇◇
翌朝、ハナは早くに目が覚めた。昨日の夕刊で風向きが隼助にあると知ったが、その後が気になって仕方ない。
(夕飯は食べ損ねてしまったけれど、胸はいっぱいだわ)
ハナは昨日拾った夕刊を指でなぞると、頬が勝手ににやけた。もう一度読み返してみたくなり、昇り始めたばかりの日の光を頼りに、格子戸の近くで新聞を広げた。
そうしてどのくらいが経っただろう。日が大分高くなり、昼頃になるだろうに、今日は財前が一向に現れない。
昨夜の新聞のせいで気分を害したらしいから、それのせいかもしれないとハナは思った。
(別に良いわ。今は何も食べなくたって、胸はいっぱいだもの)
そう思いながら新聞に指を滑らせていると、いつもは静かな財前邸の表辺りが、急に騒がしくなった。
何かしら、と思う間もなく、バタバタと表の方から煩い足音が近づいてくる。
きっと財前だ。ハナは反射的に身構えた。
けれども、蔵の前まで来た財前は何故か格子戸の鍵をカチャリと開ける。そして、ハナの腕を急に掴んだ。
「いいか、喋るなよ!」
財前に耳元でそう言われ、ぞわりと背中に嫌な汗が伝う。何が起きているのか分からないが、ハナは財前に手を引かれ蔵から連れ出される。
「あの阿呆め! 頭だけはキレやがる……」
財前が独り言つように吐き捨てる。しかし、その言葉に反応する者がいた。
「誰が阿呆だって?」
その声に、財前は立ち止まる。ハナは目の前に現れた人物を見て、その目を疑った。
(嘘、どうして……)
「迎えに来たよ、おひいさん」
見慣れぬ装いだが、目の前にいるその声の主は、ハナが一番思い焦がれた人物だ。
「隼助、様……」
ハナの声に、隼助が目を細めて微笑む。しかし財前が、チッと舌打ちをして庭を横切ろうとした。
「無駄だよ、財前侯。もうじき警察がお前を取り押さえに来るからな」
「警察? ……痛っ!」
ハナが疑問の声を上げると、財前がハナの腕を掴む力を強める。思わず声を上げ顔を歪めると、隼助はその怜悧な顔に思いっきり皺を寄せた。
「財前侯は暴行罪も付け加えてほしいのかな?」
たっぷりの嫌味を込めて隼助がそう言うと、財前はその力を緩める。その隙をついて、ハナは財前から逃げ出した。
隼助が両手を広げる。ハナは迷わずそこに飛び込んだ。
「私に対する不敬は赦しても、ハナへの暴力は許さないよ」
しっかりとハナを抱きとめながら、隼助はそう言って財前侯を睨んだ。
その瞬間だった。
「捕らえろ!」
財前邸に、警察がなだれ込んでくる。財前はあっけなく警察に身柄を拘束されてしまった。
「隼助様、これは一体……?」
財前邸に押し入った警察が引き上げていくのを見ながら、隼助の腕に抱かれたまま、ハナは彼を見上げた。
「女衒だよ。財前は、田舎から子女を買い付け遊女に仕立て上げていたんだ。お気に入りは宝華亭に送り、女衒で肥やした私腹で遊女として侍らせた、と、そんな所だ」
隼助がため息混じりに言う。
「ハナの件があってから、おかしいと調べていたんだ。宝華亭にとって、財前は太口の客以上の存在だったんだよ。お前さんは財前の女衒とは別で売られたんだろうが、運悪く財前のお眼鏡に叶ってしまったんだ……」
「じゃあ、宝華亭もいずれは――」
「ああ。まあ、銀座の一等地に大きな客亭が建つこと自体、不思議だったんだよ。あんな儲け方でもしていない限りはね」
ほう、と胸をなでおろす。しかし、安心して下を向いたのがいけなかった。
「ところで、おひいさんは私の腕の中にいるのに、どうして私の方を見てくれないんだい?」
耳元で囁かれ、顔がぽわっと熱くなる。
そうっと顔を上げると、優しく微笑む隼助と目が合った。
「ああ、ハナだ。私の愛しいハナだ」
隼助はハナを抱く力をぎゅっと強めた。顎をすくい上げるようになぞられ、至近距離でじっと目つめられる。
ハナの心臓は暴れ出し、喉から飛び出てしまいそうになった。けれど、この気持ちは抑えなければならない。
(ダメよ、ハナ。だって、隼助様は私の、お兄様……)
ハナは目を伏せようとした。けれども目をそらすことはできない。隼助の瞳に映る自分が困惑した顔をしていて、申し訳なくなった。
「どうしたんだい?」
「隼助様……あの……」
伝えなければ。けれど、伝えてしまったらもうこの関係は終わってしまうかもしれない。
(もう少しだけ、隼助様をお慕いしていたい――)
ハナは隼助の背におずおずと手を伸ばした。隼助の温もりを感じ、愛しさと切なさが同時に胸の中に渦巻く。
「ハナは可愛いことをするねえ」
隼助はハナの頭を撫でる。その温もりが、ハナを悲しく温めていく。込み上げてくるものが目元を濡らして、ハナは泣くまいと唇をぎゅっと結んだ。
しばらくそうしていると、隼助はハナの腰を抱いていた手を解く。ハナも隼助の背に回した手を離した。
「さあ、行こうか、『おひいさん』」
まるで魔法が解けてしまったかのように、ハナは悲しみに包まれた。隼助はハナの手をきゅっと掴む。それが余計にハナの胸を締め付けた。
警察の引いた財前邸の前には、隼助の馬車が停まっていた。馬車の周りには、記者が詰めかけている。ハナはカメラを向けられて、思わず俯いた。
妹だと弁明できたとしても、何となくいけないことをしている気がしたのだ。これ以上、隼助を大変な目に遭わせたくはない。
けれど、ハナは耳を疑った。隼助と自分が馬車の前につくと、黄色い声が上がったのだ。
「あ、あれ……?」
まるで自分たちを祝福するような声に、ハナは戸惑いを隠せない。
「皆が私たちのことを祝福しているのだよ、ハナ」
先程『おひいさん』と呼ばれたことに絶望していたハナは、愛しい人にまた名前を呼ばれたことに嬉しくなる。
(でも、どうして――?)
わけが分からず視線を彷徨わせ立ち尽くしていると、馬車の前に控えていた執事長がにこやかにその戸を開いた。
隼助はそこから何かを取り出し、ハナの前にひざまずく。
「これがぴったりと足に嵌るのは、おひいさんの証拠だろう?」
ハナは目を見開いた。財前邸で黄色いスープ漬けになってしまった靴の片方を、隼助が持っていたのだ。
「あ、あの、でもこの靴……あ、もう片方は、先程の――」
しどろもどろになりながら、意味が分からずおろおろしていると、隼助がわざとらしく頭を抱えてため息を零した。
「おひいさんは、困るくらいに想像の上をゆくよ」
「え……?」
「片足だって嵌るから、おひいさんだと証明できるんだよ。シンデレラだって、そういう童話だったろう?」
「すみません、私、知らなくて……」
頭を抱えたまま、隼助の肩がプルプルと震える。怒らせてしまったと思ったのも束の間、隼助が頭を上げた。
破顔していた。心底面白いというように、声を上げて笑う。それは、ハナのよく知る『隼助』の顔だった。
「さすが、私のおひいさんだよ」
「え?」
思いっきり肩を揺らしながら、隼助は笑う。
「いや、違うな。今は帝都のシンデレラだ、ハナ」
優しく微笑み、隼助がもう一度ハナに靴を差し出した。よく分からないが、ハナはその靴に足を差し入れた。
すると途端に、馬車を取り囲む記者が、集まった貴婦人が、うっとりと感嘆の声を漏らす。
「素敵ね……」
「ええ、まるでおとぎ話のよう……」
おどおどするハナをよそに、隼助は満足そうに微笑んで立ち上がる。そのまま、ハナに手を伸ばし、馬車の中へといざなった。
馬車に乗り込むと、隼助はハナにぴったりと寄り添うように座った。ももとももが触れ合いそうな近さに、ハナの心臓ははち切れそうだ。
けれど、妹のはずのハナはどうしていいか分からず、どぎまぎしていた。
「ハナはどこまで知っているんだい?」
不意に隼助に手を握られ、ドキっとしたところで聞かれた。
「えっと、どこまで、とは……?」
「財前のことだ。きっとあることないことハナに吹聴したと思ってな。財前から、私のことは聞かなかったか?」
「隼助様のお父上が、隼助様は妾の子で、本当はお兄様がいらっしゃることを公表したことと、お兄様が中條家を破門されたことは――」
「そうか」
言いかけで隼助の声に制された。
「アイツ、自分に不都合なことは伝えていないのだな」
「え?」
ハナが疑問符を頭に浮かべると、執事長が「どうぞ」と今朝の朝刊をハナに手渡した。
「ここ。このコラムに、私が寄稿した」
隼助が指を差した先を辿る。
「『大日本帝国における自由恋愛の可能性について』……?」
ハナはその先を目で追った。『中條隼助』という名が見えた。
「まあ、要は『自由恋愛が認められ始めた世の中で、生まれた家柄で結婚相手が決まるのはおかしい、好き合っている者同士が結ばれてなお、幸せな未来が開ける』といった内容だ」
「じゃあ、隼助様は――」
「ああ、ハナと一緒になるために、色々と画策していたんだよ。世論を味方につければ、世間のあり方も変えられると思ったのさ」
隼助は何でもないことのようにハナに言った。
「けれど、村に行ってみればハナはもう既に売られていた。財前の手にあると知った時は背筋が凍る思いだったよ」
隼助はハナの手をキュっと握った。
「それは――」
ハナは隼助を見上げた。かっちりと目が合った。
「――それは、私が隼助様の、妹だからですか?」
隼助はハナと目が合ったまま、固まった。しかし、しばらくの沈黙の後、隼助はケラケラと笑いだす。
「あ、あれ……?」
おかしくてたまらないというように、隼助は口元を押さえて笑う。
「いや、悪いな。ハナは私を兄として慕っていたのかと思ったら、急に全てが馬鹿らしくなって……」
ふう、と文字通り一息ついて、隼助は続けた。
「私に妹はいないよ」
「…………へ?」
ハナはあまりの驚きに、間抜けな声が出た。
「妹の話は、父の作り話だったのさ」
隼助は、目の色の異なる妹がいるという話は、父親がでっちあげた嘘だったことを話してくれた。
一人ぼっちで全てを背負わねばならない隼助への、慰めの存在になればいいとついた嘘だったという。
「それに、私の本当の母親の居場所は分かっている。それも、父が白状してくれたよ。ハナの母親ではない。つまり、私とハナは兄妹ではないよ」
あまりの事実に、何も言えなくなる。
(じゃあ、私と隼助様は、結ばれてもいいの……?)
しかし、隼助は難しい顔をして黙り込んでしまった。それから、ぽつりと零す。
「男女の仲だと喜び、慕っていたのは私だけだったのか……」
「違います!」
思わず大きな声を出した。隼助が振り向く。
「私は隼助様の妹だと思ったのは、村で自分の生い立ちを聞いたからで……母親が異人で、身寄りがなかったと聞いて、隼助様の妹の話を思い出して、それでそう思い至っただけで、だから、それまでは……その……」
言いながら恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
「続きは言ってくれないのかい?」
「えっと……あの……お慕い、しています」
「それは、兄上として?」
「いえ、……男性として、です」
そう言った瞬間、ふわりと甘い香りに包まれる。隼助の香りだ。
背に回った隼助の腕が、自分を恋人であることを認めてくれる。ハナもそっと、隼助の背に自分の腕を回した。
「愛しているよ、私だけのおひいさん」
隼助がハナの耳元で囁く。ハナはそのくすぐったさに身をすくめ、幸せな今を抱きしめるように自身の腕にきゅっと力を込めた。
翌朝、ハナは早くに目が覚めた。昨日の夕刊で風向きが隼助にあると知ったが、その後が気になって仕方ない。
(夕飯は食べ損ねてしまったけれど、胸はいっぱいだわ)
ハナは昨日拾った夕刊を指でなぞると、頬が勝手ににやけた。もう一度読み返してみたくなり、昇り始めたばかりの日の光を頼りに、格子戸の近くで新聞を広げた。
そうしてどのくらいが経っただろう。日が大分高くなり、昼頃になるだろうに、今日は財前が一向に現れない。
昨夜の新聞のせいで気分を害したらしいから、それのせいかもしれないとハナは思った。
(別に良いわ。今は何も食べなくたって、胸はいっぱいだもの)
そう思いながら新聞に指を滑らせていると、いつもは静かな財前邸の表辺りが、急に騒がしくなった。
何かしら、と思う間もなく、バタバタと表の方から煩い足音が近づいてくる。
きっと財前だ。ハナは反射的に身構えた。
けれども、蔵の前まで来た財前は何故か格子戸の鍵をカチャリと開ける。そして、ハナの腕を急に掴んだ。
「いいか、喋るなよ!」
財前に耳元でそう言われ、ぞわりと背中に嫌な汗が伝う。何が起きているのか分からないが、ハナは財前に手を引かれ蔵から連れ出される。
「あの阿呆め! 頭だけはキレやがる……」
財前が独り言つように吐き捨てる。しかし、その言葉に反応する者がいた。
「誰が阿呆だって?」
その声に、財前は立ち止まる。ハナは目の前に現れた人物を見て、その目を疑った。
(嘘、どうして……)
「迎えに来たよ、おひいさん」
見慣れぬ装いだが、目の前にいるその声の主は、ハナが一番思い焦がれた人物だ。
「隼助、様……」
ハナの声に、隼助が目を細めて微笑む。しかし財前が、チッと舌打ちをして庭を横切ろうとした。
「無駄だよ、財前侯。もうじき警察がお前を取り押さえに来るからな」
「警察? ……痛っ!」
ハナが疑問の声を上げると、財前がハナの腕を掴む力を強める。思わず声を上げ顔を歪めると、隼助はその怜悧な顔に思いっきり皺を寄せた。
「財前侯は暴行罪も付け加えてほしいのかな?」
たっぷりの嫌味を込めて隼助がそう言うと、財前はその力を緩める。その隙をついて、ハナは財前から逃げ出した。
隼助が両手を広げる。ハナは迷わずそこに飛び込んだ。
「私に対する不敬は赦しても、ハナへの暴力は許さないよ」
しっかりとハナを抱きとめながら、隼助はそう言って財前侯を睨んだ。
その瞬間だった。
「捕らえろ!」
財前邸に、警察がなだれ込んでくる。財前はあっけなく警察に身柄を拘束されてしまった。
「隼助様、これは一体……?」
財前邸に押し入った警察が引き上げていくのを見ながら、隼助の腕に抱かれたまま、ハナは彼を見上げた。
「女衒だよ。財前は、田舎から子女を買い付け遊女に仕立て上げていたんだ。お気に入りは宝華亭に送り、女衒で肥やした私腹で遊女として侍らせた、と、そんな所だ」
隼助がため息混じりに言う。
「ハナの件があってから、おかしいと調べていたんだ。宝華亭にとって、財前は太口の客以上の存在だったんだよ。お前さんは財前の女衒とは別で売られたんだろうが、運悪く財前のお眼鏡に叶ってしまったんだ……」
「じゃあ、宝華亭もいずれは――」
「ああ。まあ、銀座の一等地に大きな客亭が建つこと自体、不思議だったんだよ。あんな儲け方でもしていない限りはね」
ほう、と胸をなでおろす。しかし、安心して下を向いたのがいけなかった。
「ところで、おひいさんは私の腕の中にいるのに、どうして私の方を見てくれないんだい?」
耳元で囁かれ、顔がぽわっと熱くなる。
そうっと顔を上げると、優しく微笑む隼助と目が合った。
「ああ、ハナだ。私の愛しいハナだ」
隼助はハナを抱く力をぎゅっと強めた。顎をすくい上げるようになぞられ、至近距離でじっと目つめられる。
ハナの心臓は暴れ出し、喉から飛び出てしまいそうになった。けれど、この気持ちは抑えなければならない。
(ダメよ、ハナ。だって、隼助様は私の、お兄様……)
ハナは目を伏せようとした。けれども目をそらすことはできない。隼助の瞳に映る自分が困惑した顔をしていて、申し訳なくなった。
「どうしたんだい?」
「隼助様……あの……」
伝えなければ。けれど、伝えてしまったらもうこの関係は終わってしまうかもしれない。
(もう少しだけ、隼助様をお慕いしていたい――)
ハナは隼助の背におずおずと手を伸ばした。隼助の温もりを感じ、愛しさと切なさが同時に胸の中に渦巻く。
「ハナは可愛いことをするねえ」
隼助はハナの頭を撫でる。その温もりが、ハナを悲しく温めていく。込み上げてくるものが目元を濡らして、ハナは泣くまいと唇をぎゅっと結んだ。
しばらくそうしていると、隼助はハナの腰を抱いていた手を解く。ハナも隼助の背に回した手を離した。
「さあ、行こうか、『おひいさん』」
まるで魔法が解けてしまったかのように、ハナは悲しみに包まれた。隼助はハナの手をきゅっと掴む。それが余計にハナの胸を締め付けた。
警察の引いた財前邸の前には、隼助の馬車が停まっていた。馬車の周りには、記者が詰めかけている。ハナはカメラを向けられて、思わず俯いた。
妹だと弁明できたとしても、何となくいけないことをしている気がしたのだ。これ以上、隼助を大変な目に遭わせたくはない。
けれど、ハナは耳を疑った。隼助と自分が馬車の前につくと、黄色い声が上がったのだ。
「あ、あれ……?」
まるで自分たちを祝福するような声に、ハナは戸惑いを隠せない。
「皆が私たちのことを祝福しているのだよ、ハナ」
先程『おひいさん』と呼ばれたことに絶望していたハナは、愛しい人にまた名前を呼ばれたことに嬉しくなる。
(でも、どうして――?)
わけが分からず視線を彷徨わせ立ち尽くしていると、馬車の前に控えていた執事長がにこやかにその戸を開いた。
隼助はそこから何かを取り出し、ハナの前にひざまずく。
「これがぴったりと足に嵌るのは、おひいさんの証拠だろう?」
ハナは目を見開いた。財前邸で黄色いスープ漬けになってしまった靴の片方を、隼助が持っていたのだ。
「あ、あの、でもこの靴……あ、もう片方は、先程の――」
しどろもどろになりながら、意味が分からずおろおろしていると、隼助がわざとらしく頭を抱えてため息を零した。
「おひいさんは、困るくらいに想像の上をゆくよ」
「え……?」
「片足だって嵌るから、おひいさんだと証明できるんだよ。シンデレラだって、そういう童話だったろう?」
「すみません、私、知らなくて……」
頭を抱えたまま、隼助の肩がプルプルと震える。怒らせてしまったと思ったのも束の間、隼助が頭を上げた。
破顔していた。心底面白いというように、声を上げて笑う。それは、ハナのよく知る『隼助』の顔だった。
「さすが、私のおひいさんだよ」
「え?」
思いっきり肩を揺らしながら、隼助は笑う。
「いや、違うな。今は帝都のシンデレラだ、ハナ」
優しく微笑み、隼助がもう一度ハナに靴を差し出した。よく分からないが、ハナはその靴に足を差し入れた。
すると途端に、馬車を取り囲む記者が、集まった貴婦人が、うっとりと感嘆の声を漏らす。
「素敵ね……」
「ええ、まるでおとぎ話のよう……」
おどおどするハナをよそに、隼助は満足そうに微笑んで立ち上がる。そのまま、ハナに手を伸ばし、馬車の中へといざなった。
馬車に乗り込むと、隼助はハナにぴったりと寄り添うように座った。ももとももが触れ合いそうな近さに、ハナの心臓ははち切れそうだ。
けれど、妹のはずのハナはどうしていいか分からず、どぎまぎしていた。
「ハナはどこまで知っているんだい?」
不意に隼助に手を握られ、ドキっとしたところで聞かれた。
「えっと、どこまで、とは……?」
「財前のことだ。きっとあることないことハナに吹聴したと思ってな。財前から、私のことは聞かなかったか?」
「隼助様のお父上が、隼助様は妾の子で、本当はお兄様がいらっしゃることを公表したことと、お兄様が中條家を破門されたことは――」
「そうか」
言いかけで隼助の声に制された。
「アイツ、自分に不都合なことは伝えていないのだな」
「え?」
ハナが疑問符を頭に浮かべると、執事長が「どうぞ」と今朝の朝刊をハナに手渡した。
「ここ。このコラムに、私が寄稿した」
隼助が指を差した先を辿る。
「『大日本帝国における自由恋愛の可能性について』……?」
ハナはその先を目で追った。『中條隼助』という名が見えた。
「まあ、要は『自由恋愛が認められ始めた世の中で、生まれた家柄で結婚相手が決まるのはおかしい、好き合っている者同士が結ばれてなお、幸せな未来が開ける』といった内容だ」
「じゃあ、隼助様は――」
「ああ、ハナと一緒になるために、色々と画策していたんだよ。世論を味方につければ、世間のあり方も変えられると思ったのさ」
隼助は何でもないことのようにハナに言った。
「けれど、村に行ってみればハナはもう既に売られていた。財前の手にあると知った時は背筋が凍る思いだったよ」
隼助はハナの手をキュっと握った。
「それは――」
ハナは隼助を見上げた。かっちりと目が合った。
「――それは、私が隼助様の、妹だからですか?」
隼助はハナと目が合ったまま、固まった。しかし、しばらくの沈黙の後、隼助はケラケラと笑いだす。
「あ、あれ……?」
おかしくてたまらないというように、隼助は口元を押さえて笑う。
「いや、悪いな。ハナは私を兄として慕っていたのかと思ったら、急に全てが馬鹿らしくなって……」
ふう、と文字通り一息ついて、隼助は続けた。
「私に妹はいないよ」
「…………へ?」
ハナはあまりの驚きに、間抜けな声が出た。
「妹の話は、父の作り話だったのさ」
隼助は、目の色の異なる妹がいるという話は、父親がでっちあげた嘘だったことを話してくれた。
一人ぼっちで全てを背負わねばならない隼助への、慰めの存在になればいいとついた嘘だったという。
「それに、私の本当の母親の居場所は分かっている。それも、父が白状してくれたよ。ハナの母親ではない。つまり、私とハナは兄妹ではないよ」
あまりの事実に、何も言えなくなる。
(じゃあ、私と隼助様は、結ばれてもいいの……?)
しかし、隼助は難しい顔をして黙り込んでしまった。それから、ぽつりと零す。
「男女の仲だと喜び、慕っていたのは私だけだったのか……」
「違います!」
思わず大きな声を出した。隼助が振り向く。
「私は隼助様の妹だと思ったのは、村で自分の生い立ちを聞いたからで……母親が異人で、身寄りがなかったと聞いて、隼助様の妹の話を思い出して、それでそう思い至っただけで、だから、それまでは……その……」
言いながら恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
「続きは言ってくれないのかい?」
「えっと……あの……お慕い、しています」
「それは、兄上として?」
「いえ、……男性として、です」
そう言った瞬間、ふわりと甘い香りに包まれる。隼助の香りだ。
背に回った隼助の腕が、自分を恋人であることを認めてくれる。ハナもそっと、隼助の背に自分の腕を回した。
「愛しているよ、私だけのおひいさん」
隼助がハナの耳元で囁く。ハナはそのくすぐったさに身をすくめ、幸せな今を抱きしめるように自身の腕にきゅっと力を込めた。
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