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20 幸せの再来
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二人の乗った馬車は、鷹保邸の近くで停まってしまった。門の前に押しかけた記者や野次馬のせいで、先に進めなくなっているらしい。
執事長が馬車を降り、先導して道を開ける。そこを馬車が通ると、窓の外にたくさんの人が見えて、ハナは目を見張った。
「みんな、ハナを一目見ようと集まったのさ。帝都のシンデレラは、もうすっかり人気者だね」
隼助はそう言って隣で笑う。ハナは皆、隼助を見に来たのだと思ったが、それでも嬉しくなった。
やがて門の中に馬車が入る。先に隼助が降りると、カシャカシャと音がして、ハナは門の方を振り返った。
「カメラの音だよ。皆、おひいさんを撮りたいのさ」
隼助はハナの手を取り、下ろしてくれる。これは、エスコートと言うらしい。男を立てるためのものだから、されるままにしてくれと先ほど隼助に頼まれていたのだ。
馬車を降りると、繋がれた手にそっと隼助の唇が落ちてきた。たくさんのカメラの音が響く。驚き目を見開くと、隼助は不敵に笑った。
ハナはその場に固まってしまったが、隼助は門の方を向く。
「私は帝都の公爵家、中條の子息で名は隼助」
堂々と宣言をする。それからハナの方をちらりと見て微笑むと、その腰をぐっと自分の方へ引き寄せた。
「ここにいる女、ハナこそたった一人、私のおひいさんだ」
嬉しくて、恥ずかしい。思わず顔を伏せると、隼助がハナの顎を掬った。
「こんなに晴れ晴れしい日に、俯いているなんて勿体ないだろう」
隼助はハナにだけ聞こえるようにそう言うと、短い口づけを落とす。
すると、野次馬の貴婦人たちからうっとりとした歓声が沸き起こる。財前邸で聞いたものとは比にならない黄色い声の大きさに、ハナは顔から火が吹き出そうな心地だった。
「さあ、もう充分サービスしたよ。2人の時間を邪魔するほど、帝都の皆は野暮ではないたろう?」
隼助はニカっと口角を上げ、門前の人々に語りかける。それからさっと身を翻すと、ハナの腰を抱いたまま本邸の中へゆっくりと歩いていった。
まるで見せつけるような態度に、ハナは恥ずかしさでいっぱいになる。けれど同時に、嬉しさで頬が緩んでいった。
鷹保邸に入るとすぐ、来客があると執事長に聞いた。隼助はハナの腰を抱いたまま応接室へ向かった。
執事長が応接室の扉を開く。その先にいた人物に、ハナは驚き立ち止まった。
「ありゃ、ハナちゃん泥だらけじゃないか」
「鷹保……じゃなくて、隼助もその恰好、よくお似合いだ」
そう声を掛けたのは十蔵と、いつだったか彼の店の前で声をかけられた新聞記者だった。
2人はケラケラ笑いながら、応接室のソファに座っている。
ハナは彼らがここにいることに疑問を抱いたが、それ以上にとんでもないことを思い出した。
財前邸に幽閉されていたので、もう何日も風呂に入っていない。それどころか、土の上の茣蓙に寝泊まりしていたし、靴を拭くために着物の裾で黄色いスープを拭き取ったりした。
(鏡は見ていないけれど、今はとてもひどい恰好をしているわ――)
「どうだい、私の灰かぶりは。とっても可愛いおひいさんだろう?」
隼助は2人にそう言うと、ハナの頬にチュッと音を立ててキスをする。「ヒューヒュー」「熱いね~」と2人が囃し立てる。険悪ではなさそうな様子に、ハナはとりあえず胸を撫で下ろした。
「でも、どうして十蔵さんと記者さんが……?」
「彼らは今回の影の立役者だからね」
隼助の言葉に、ハナは首をかしげた。
「例の新聞記事三本立て、あれは彼らに協力してもらったのさ」
「え…………?」
「我が社の独占記事にする代わりに、彼のコラムを乗せる。世論を味方につけるための悪どい方法を、よくもまあ思いつくものだよ」
新聞記者が、腕を組んでそう言った。その言葉に悪意を感じるが、言い方は戦友に向けるもののように明るい。
「『好きな者同士が結ばれてこそ、幸せな未来が開ける。望まぬ結婚は望まぬ未来を産む。今こそ変革の時』」
コラムの一節を、記者が歌うように続ける。
「『権力が物を言い自由に恋愛できぬ人の世では大切な人を失うと、かのシェイクスピアは500年も前に言っている』だったか? よくもまあ、こんな恥ずかしいことを書けるもんだと尊敬したよ」
「『新たな時代のシンデレラが必要ならば、彼女こそふさわしい。私に恋の苦しさと、愛の尊さと、私らしく生きる希望を与えてくれた、たった一人の愛しい女性は、田舎の農村出身である』」
十蔵がそう言って、ケラケラ笑った。
「虫唾の走るくらい甘ったるい愛の言葉だ」
「だが、帝都中の女は私の言葉に夢中だ。見ただろう、門の前の野次馬、ほとんどが貴婦人さ」
隼助は自信たっぷりにそう言った。ハナは恥ずかし過ぎて体中が熱くなったが、隼助は余裕の笑みを浮かべている。
「そうそう、私はこれを返しに来たんだ」
新聞記者が懐から手紙を2通取り出した。
「これは隼助宛のものだからね。私が持っていても仕方ないさ。少し拝借したが、宛てられた本人が持っておくべきだろう」
記者は立ち上がり、まだ入り口近くにいた隼助に手紙を手渡した。
「私はこれで。また帝都にネタを探しに回らねばならんからな」
そう言って、記者は笑いながら応接室から出ていった。
「ハナちゃん」
声をかけられ、十蔵の方を向いた。
「十蔵さんは、なぜここに――?」
「鷹保――、隼助くんに、場所を提供していたんだよ。情報を売る場所さ。朝のあの辺りは、人が少ないからね」
「私はマスターのチェリーが欲しかっただけだよ」
隼助がケラケラ笑った。
「俺も金が欲しかっただけさ」
十蔵もケラケラ笑った。
「お二人は、仲がよろしいのですか?」
「さあ、どうだろうねえ?」
隼助が十蔵の方に意味深な視線を向ける。
「ただの喫茶店の店主と客。ただそれだけだよ」
十蔵は不敵な笑みを隼助に返した。
それからすぐに、十蔵がハナの方を向く。不意に目が合って、ハナはピクリと身体を揺らした。
「ハナちゃん、」
「は、はい……!」
「……幸せに、なるんだよ」
「も、もちろんです……っ!」
「隼助くんにいじめられたら、すぐにうちに戻ってきていいからね」
「へ…………?」
十蔵が言うと、隼助はハナの腰を抱く手に力を込める。十蔵はまたケラケラ笑って立ち上がり、ヒラヒラと手を振って応接室から去っていった。
応接室に、2人きりになる。
ハナは隼助から離れようとしたが、思い切り腰を抱かれてそれは叶わなかった。
「せっかく2人になれたというのに、どうしてハナは逃げるんだい」
隼助は意地でも離さないというように、ハナの腰に自分の腕を絡ませた。
「泥だらけですし、ひどい顔してますし、着物もこんなに汚れて……ほら、あの、匂いとか! 気になるので、先に風呂にでも入ろうかと――」
「私は一時もハナと離れたくはないよ」
「で、でも……もう、何日も入ってないですし!」
「ハナの匂い、私は好きだ」
「そういう問題ではなくてですね、あの――」
「では、共に入ろうか?」
「はい?」
「風呂に」
不敵な笑みで隼助の放った一言に脳が追いつかず、一旦ハナは固まった。けれど、その意味を理解して、急にのぼせたように熱くなった。
「――は、破廉恥ですっ!」
隼助はクツクツと喉を鳴らして笑った。
「冗談だよ。面白いねえ、私の恋人は」
「な……っ!」
言い返す間もなく、隼助は続けた。
「風呂に入っておいで。私はガゼボで待っているよ」
隼助はあっさりとハナを開放した。それが少し寂しくて、彼の顔を振り向いてしまった。
「それとも、私と共に――」
「結構ですっ! 一人で入れますからっ!」
「おやまあ」
隼助は冗談まじりに肩をすくめる。ハナは火照った顔を隠すように、急いで使用人棟へと向かった。
簡単に風呂に入り、女中服に着替えてから、ハナはガゼボに向かった。
風呂の中で、隼助と恋仲になったのだから、いずれは共に入ることがあるのかもしれないなどと妄想し、そのせいですぐに逆上せそうになった。
こんなことは、絶対に隼助には言えない。
隼助はいつもの茶色い背広を着て、ガゼボの長椅子に、膝を折り曲げて横になっていた。
「おや、早かったねえ」
ハナに気が付き身体を起こすと、いつかのように自分の横をトントンと叩いた。
ハナは懐かしい気持ちで、そこに腰掛ける。すると、隼助はハナとの距離を詰める。前よりもずっと近い距離に隼助を感じて、ハナの心がじわんと温かくなっていく。
ふと足元に白い花が群生しているのに気がついた。
「すずらん……ちゃんと、咲いたんですね」
苗を植えたのはハナだが、まだ花は咲いていなかった。小さなコロンとした花が、二人の足元で小さく微笑む。
「『幸せの再来』」
隼助の言葉に、ハナは顔を上げた。
「すずらんの花言葉だよ。今の私も、同じ気持ちさ」
「……私もです」
ハナはそう言って、隼助に身を擦り寄せた。勢いでそうしてから、後悔した。離れようとしたら、肩を抱かれた。離れることは許されないらしい。
「ハナは、新聞のことは知っているのかい?」
隼助に聞かれ、「ある程度は」と答えた。
「財前から奪った新聞を、読める字だけは追って読みました」
「そうかい。それなら、事の顛末は置いておくとして――」
隼助は懐から手紙を取り出した。先程記者から手渡されたものらしい。
「――ハナと一緒に、読もうと思ってね」
「……どうしてですか?」
「知ってほしいと思ったんだ。私のことを」
優しく「嫌かい?」と訊ねられ、ふるふると首を振る。隼助は嬉しそうに、手紙を開いて見せてくれた。
「これは父からのものだ。新聞に載せたのはほんの一節。私が妾の子であることと、兄がいること、本当の名は隼助ということだけだ」
ハナは隼助の指し示す字を目で追った。けれど、その隣に『戀』の文字が見えて、思わず声に出して読んでしまった。
「自由な恋が叶わぬ時代に、恋し彼女は、――」
「――異人にて、女中として雇うが、我はその心を抑えられし……」
隼助は自嘲するように笑いながら、ハナの読んだ手紙の続きを読み上げてくれた。
ハナは、ここに書かれているのは、隼助の本当の母親のことだと悟った。
父親も、母親を愛していた。けれど、自由に恋愛できぬ身で、仕方なく女中として雇い、ひっそりと愛し合った。
本妻である母親もそれを知っていたが、自分も愛する人と共にいられない苦痛を知っていたから赦していた。
兄が生まれ、続いて隼助が生まれたこと、隼助は使用人の子として秘密裏に育てられたこと。兄が異人と恋に落ち駆け落ちしてから、母親の人柄が変わってしまったこと。そのせいで隼助への当たりが強くなり、彼を守る為に鷹保を名乗らせたこと――。
次々に明らかになる事実に、ハナは膝の上で拳を握った。隼助は、愛されていた。
愛されていたゆえの、兄の身代わりだった。
母親の暴言も、ただの嫌悪ではなかった。彼女には許せない理由が、ちゃんとあったのだ。
妹がいるという嘘をついていた、隼助の気持ちが少しでも軽くなればいいという嘘だった。
手紙はそう締められていた。
「どうして、こうも悲しみが続いてしまうのでしょう……」
守りたいだけなのに、愛したいだけなのに、それが許されない。
そんな時代の波の中で、隼助が自分と恋仲だと宣言したことの重大さを、改めて認識する。
「大丈夫だ、もう悲しくはない」
隼助は、ハナの肩を抱く力を強めた。
「悲しい時代は、私が終わらせる。お前さんは、私の隣にいてくれるだろう?」
ハナはコクリとうなずいた。
「もうひとつ、見せたいものがある」
そう言って隼助が懐から取り出したのは、しわくちゃに折り目のついた手紙だった。
「覚えているかい?」
コクリと頷いた。忘れもしない。ハナが隼助に恐怖を覚えた、あの日に拾ってしまった手紙だ。
「私は兄を恨んでいた。だから、手紙も読まずに捨てていた」
隼助は、破れてしまったところを丁寧に切って開け直したらしい。中から便箋を取り出すと、ハナの前に広げた。
「『誰かを一途に愛すること、それは残酷だが、同時に素晴らしいことである』。――ずっとその意味が分からなかった。そして今も、意味が分からない」
「へ…………?」
思わず声を出してしまった。
隼助なら、心得ていそうだ。それにハナ自身も、痛いくらいにその気持ちが分かるのだ。
「誰かを一途に愛することは、どうして残酷なのだろうな。素晴らしさしかないと、私は思う」
隼助はハナの肩を抱いていた手で、今度はハナの頭を撫でた。ハッとする間もなく、その優しさに身を寄せた。くすぐったくて、温かくて、気持ちがいい。
これが、愛するということなのだと言うように、隼助はハナの頭を撫で続ける。
「残酷と捉えるかどうかは生き方次第。私は欲張りだから、ハナも中條公爵の嫡男も、どちらも諦められなかったさ」
それは、欲張りだからではない。ハナはそう思ったが、隼助は優しい笑みを浮かべる。
それはまるで、ハナの言わんとしていることを分かっているような顔つきだ。だから、ハナはそれについては何も言わなかった。
代わりに、彼の功績を称えた。
「隼助様はどちらも手に入れてしまったではないですか」
「ああ、そうだ。だから、残酷などとは思わないのだよ」
空が茜色に染まり始める。隼助の柔らかな笑みは、夕日よりも眩しかった。
執事長が馬車を降り、先導して道を開ける。そこを馬車が通ると、窓の外にたくさんの人が見えて、ハナは目を見張った。
「みんな、ハナを一目見ようと集まったのさ。帝都のシンデレラは、もうすっかり人気者だね」
隼助はそう言って隣で笑う。ハナは皆、隼助を見に来たのだと思ったが、それでも嬉しくなった。
やがて門の中に馬車が入る。先に隼助が降りると、カシャカシャと音がして、ハナは門の方を振り返った。
「カメラの音だよ。皆、おひいさんを撮りたいのさ」
隼助はハナの手を取り、下ろしてくれる。これは、エスコートと言うらしい。男を立てるためのものだから、されるままにしてくれと先ほど隼助に頼まれていたのだ。
馬車を降りると、繋がれた手にそっと隼助の唇が落ちてきた。たくさんのカメラの音が響く。驚き目を見開くと、隼助は不敵に笑った。
ハナはその場に固まってしまったが、隼助は門の方を向く。
「私は帝都の公爵家、中條の子息で名は隼助」
堂々と宣言をする。それからハナの方をちらりと見て微笑むと、その腰をぐっと自分の方へ引き寄せた。
「ここにいる女、ハナこそたった一人、私のおひいさんだ」
嬉しくて、恥ずかしい。思わず顔を伏せると、隼助がハナの顎を掬った。
「こんなに晴れ晴れしい日に、俯いているなんて勿体ないだろう」
隼助はハナにだけ聞こえるようにそう言うと、短い口づけを落とす。
すると、野次馬の貴婦人たちからうっとりとした歓声が沸き起こる。財前邸で聞いたものとは比にならない黄色い声の大きさに、ハナは顔から火が吹き出そうな心地だった。
「さあ、もう充分サービスしたよ。2人の時間を邪魔するほど、帝都の皆は野暮ではないたろう?」
隼助はニカっと口角を上げ、門前の人々に語りかける。それからさっと身を翻すと、ハナの腰を抱いたまま本邸の中へゆっくりと歩いていった。
まるで見せつけるような態度に、ハナは恥ずかしさでいっぱいになる。けれど同時に、嬉しさで頬が緩んでいった。
鷹保邸に入るとすぐ、来客があると執事長に聞いた。隼助はハナの腰を抱いたまま応接室へ向かった。
執事長が応接室の扉を開く。その先にいた人物に、ハナは驚き立ち止まった。
「ありゃ、ハナちゃん泥だらけじゃないか」
「鷹保……じゃなくて、隼助もその恰好、よくお似合いだ」
そう声を掛けたのは十蔵と、いつだったか彼の店の前で声をかけられた新聞記者だった。
2人はケラケラ笑いながら、応接室のソファに座っている。
ハナは彼らがここにいることに疑問を抱いたが、それ以上にとんでもないことを思い出した。
財前邸に幽閉されていたので、もう何日も風呂に入っていない。それどころか、土の上の茣蓙に寝泊まりしていたし、靴を拭くために着物の裾で黄色いスープを拭き取ったりした。
(鏡は見ていないけれど、今はとてもひどい恰好をしているわ――)
「どうだい、私の灰かぶりは。とっても可愛いおひいさんだろう?」
隼助は2人にそう言うと、ハナの頬にチュッと音を立ててキスをする。「ヒューヒュー」「熱いね~」と2人が囃し立てる。険悪ではなさそうな様子に、ハナはとりあえず胸を撫で下ろした。
「でも、どうして十蔵さんと記者さんが……?」
「彼らは今回の影の立役者だからね」
隼助の言葉に、ハナは首をかしげた。
「例の新聞記事三本立て、あれは彼らに協力してもらったのさ」
「え…………?」
「我が社の独占記事にする代わりに、彼のコラムを乗せる。世論を味方につけるための悪どい方法を、よくもまあ思いつくものだよ」
新聞記者が、腕を組んでそう言った。その言葉に悪意を感じるが、言い方は戦友に向けるもののように明るい。
「『好きな者同士が結ばれてこそ、幸せな未来が開ける。望まぬ結婚は望まぬ未来を産む。今こそ変革の時』」
コラムの一節を、記者が歌うように続ける。
「『権力が物を言い自由に恋愛できぬ人の世では大切な人を失うと、かのシェイクスピアは500年も前に言っている』だったか? よくもまあ、こんな恥ずかしいことを書けるもんだと尊敬したよ」
「『新たな時代のシンデレラが必要ならば、彼女こそふさわしい。私に恋の苦しさと、愛の尊さと、私らしく生きる希望を与えてくれた、たった一人の愛しい女性は、田舎の農村出身である』」
十蔵がそう言って、ケラケラ笑った。
「虫唾の走るくらい甘ったるい愛の言葉だ」
「だが、帝都中の女は私の言葉に夢中だ。見ただろう、門の前の野次馬、ほとんどが貴婦人さ」
隼助は自信たっぷりにそう言った。ハナは恥ずかし過ぎて体中が熱くなったが、隼助は余裕の笑みを浮かべている。
「そうそう、私はこれを返しに来たんだ」
新聞記者が懐から手紙を2通取り出した。
「これは隼助宛のものだからね。私が持っていても仕方ないさ。少し拝借したが、宛てられた本人が持っておくべきだろう」
記者は立ち上がり、まだ入り口近くにいた隼助に手紙を手渡した。
「私はこれで。また帝都にネタを探しに回らねばならんからな」
そう言って、記者は笑いながら応接室から出ていった。
「ハナちゃん」
声をかけられ、十蔵の方を向いた。
「十蔵さんは、なぜここに――?」
「鷹保――、隼助くんに、場所を提供していたんだよ。情報を売る場所さ。朝のあの辺りは、人が少ないからね」
「私はマスターのチェリーが欲しかっただけだよ」
隼助がケラケラ笑った。
「俺も金が欲しかっただけさ」
十蔵もケラケラ笑った。
「お二人は、仲がよろしいのですか?」
「さあ、どうだろうねえ?」
隼助が十蔵の方に意味深な視線を向ける。
「ただの喫茶店の店主と客。ただそれだけだよ」
十蔵は不敵な笑みを隼助に返した。
それからすぐに、十蔵がハナの方を向く。不意に目が合って、ハナはピクリと身体を揺らした。
「ハナちゃん、」
「は、はい……!」
「……幸せに、なるんだよ」
「も、もちろんです……っ!」
「隼助くんにいじめられたら、すぐにうちに戻ってきていいからね」
「へ…………?」
十蔵が言うと、隼助はハナの腰を抱く手に力を込める。十蔵はまたケラケラ笑って立ち上がり、ヒラヒラと手を振って応接室から去っていった。
応接室に、2人きりになる。
ハナは隼助から離れようとしたが、思い切り腰を抱かれてそれは叶わなかった。
「せっかく2人になれたというのに、どうしてハナは逃げるんだい」
隼助は意地でも離さないというように、ハナの腰に自分の腕を絡ませた。
「泥だらけですし、ひどい顔してますし、着物もこんなに汚れて……ほら、あの、匂いとか! 気になるので、先に風呂にでも入ろうかと――」
「私は一時もハナと離れたくはないよ」
「で、でも……もう、何日も入ってないですし!」
「ハナの匂い、私は好きだ」
「そういう問題ではなくてですね、あの――」
「では、共に入ろうか?」
「はい?」
「風呂に」
不敵な笑みで隼助の放った一言に脳が追いつかず、一旦ハナは固まった。けれど、その意味を理解して、急にのぼせたように熱くなった。
「――は、破廉恥ですっ!」
隼助はクツクツと喉を鳴らして笑った。
「冗談だよ。面白いねえ、私の恋人は」
「な……っ!」
言い返す間もなく、隼助は続けた。
「風呂に入っておいで。私はガゼボで待っているよ」
隼助はあっさりとハナを開放した。それが少し寂しくて、彼の顔を振り向いてしまった。
「それとも、私と共に――」
「結構ですっ! 一人で入れますからっ!」
「おやまあ」
隼助は冗談まじりに肩をすくめる。ハナは火照った顔を隠すように、急いで使用人棟へと向かった。
簡単に風呂に入り、女中服に着替えてから、ハナはガゼボに向かった。
風呂の中で、隼助と恋仲になったのだから、いずれは共に入ることがあるのかもしれないなどと妄想し、そのせいですぐに逆上せそうになった。
こんなことは、絶対に隼助には言えない。
隼助はいつもの茶色い背広を着て、ガゼボの長椅子に、膝を折り曲げて横になっていた。
「おや、早かったねえ」
ハナに気が付き身体を起こすと、いつかのように自分の横をトントンと叩いた。
ハナは懐かしい気持ちで、そこに腰掛ける。すると、隼助はハナとの距離を詰める。前よりもずっと近い距離に隼助を感じて、ハナの心がじわんと温かくなっていく。
ふと足元に白い花が群生しているのに気がついた。
「すずらん……ちゃんと、咲いたんですね」
苗を植えたのはハナだが、まだ花は咲いていなかった。小さなコロンとした花が、二人の足元で小さく微笑む。
「『幸せの再来』」
隼助の言葉に、ハナは顔を上げた。
「すずらんの花言葉だよ。今の私も、同じ気持ちさ」
「……私もです」
ハナはそう言って、隼助に身を擦り寄せた。勢いでそうしてから、後悔した。離れようとしたら、肩を抱かれた。離れることは許されないらしい。
「ハナは、新聞のことは知っているのかい?」
隼助に聞かれ、「ある程度は」と答えた。
「財前から奪った新聞を、読める字だけは追って読みました」
「そうかい。それなら、事の顛末は置いておくとして――」
隼助は懐から手紙を取り出した。先程記者から手渡されたものらしい。
「――ハナと一緒に、読もうと思ってね」
「……どうしてですか?」
「知ってほしいと思ったんだ。私のことを」
優しく「嫌かい?」と訊ねられ、ふるふると首を振る。隼助は嬉しそうに、手紙を開いて見せてくれた。
「これは父からのものだ。新聞に載せたのはほんの一節。私が妾の子であることと、兄がいること、本当の名は隼助ということだけだ」
ハナは隼助の指し示す字を目で追った。けれど、その隣に『戀』の文字が見えて、思わず声に出して読んでしまった。
「自由な恋が叶わぬ時代に、恋し彼女は、――」
「――異人にて、女中として雇うが、我はその心を抑えられし……」
隼助は自嘲するように笑いながら、ハナの読んだ手紙の続きを読み上げてくれた。
ハナは、ここに書かれているのは、隼助の本当の母親のことだと悟った。
父親も、母親を愛していた。けれど、自由に恋愛できぬ身で、仕方なく女中として雇い、ひっそりと愛し合った。
本妻である母親もそれを知っていたが、自分も愛する人と共にいられない苦痛を知っていたから赦していた。
兄が生まれ、続いて隼助が生まれたこと、隼助は使用人の子として秘密裏に育てられたこと。兄が異人と恋に落ち駆け落ちしてから、母親の人柄が変わってしまったこと。そのせいで隼助への当たりが強くなり、彼を守る為に鷹保を名乗らせたこと――。
次々に明らかになる事実に、ハナは膝の上で拳を握った。隼助は、愛されていた。
愛されていたゆえの、兄の身代わりだった。
母親の暴言も、ただの嫌悪ではなかった。彼女には許せない理由が、ちゃんとあったのだ。
妹がいるという嘘をついていた、隼助の気持ちが少しでも軽くなればいいという嘘だった。
手紙はそう締められていた。
「どうして、こうも悲しみが続いてしまうのでしょう……」
守りたいだけなのに、愛したいだけなのに、それが許されない。
そんな時代の波の中で、隼助が自分と恋仲だと宣言したことの重大さを、改めて認識する。
「大丈夫だ、もう悲しくはない」
隼助は、ハナの肩を抱く力を強めた。
「悲しい時代は、私が終わらせる。お前さんは、私の隣にいてくれるだろう?」
ハナはコクリとうなずいた。
「もうひとつ、見せたいものがある」
そう言って隼助が懐から取り出したのは、しわくちゃに折り目のついた手紙だった。
「覚えているかい?」
コクリと頷いた。忘れもしない。ハナが隼助に恐怖を覚えた、あの日に拾ってしまった手紙だ。
「私は兄を恨んでいた。だから、手紙も読まずに捨てていた」
隼助は、破れてしまったところを丁寧に切って開け直したらしい。中から便箋を取り出すと、ハナの前に広げた。
「『誰かを一途に愛すること、それは残酷だが、同時に素晴らしいことである』。――ずっとその意味が分からなかった。そして今も、意味が分からない」
「へ…………?」
思わず声を出してしまった。
隼助なら、心得ていそうだ。それにハナ自身も、痛いくらいにその気持ちが分かるのだ。
「誰かを一途に愛することは、どうして残酷なのだろうな。素晴らしさしかないと、私は思う」
隼助はハナの肩を抱いていた手で、今度はハナの頭を撫でた。ハッとする間もなく、その優しさに身を寄せた。くすぐったくて、温かくて、気持ちがいい。
これが、愛するということなのだと言うように、隼助はハナの頭を撫で続ける。
「残酷と捉えるかどうかは生き方次第。私は欲張りだから、ハナも中條公爵の嫡男も、どちらも諦められなかったさ」
それは、欲張りだからではない。ハナはそう思ったが、隼助は優しい笑みを浮かべる。
それはまるで、ハナの言わんとしていることを分かっているような顔つきだ。だから、ハナはそれについては何も言わなかった。
代わりに、彼の功績を称えた。
「隼助様はどちらも手に入れてしまったではないですか」
「ああ、そうだ。だから、残酷などとは思わないのだよ」
空が茜色に染まり始める。隼助の柔らかな笑みは、夕日よりも眩しかった。
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