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20 抗う気持ちと戦うココロ

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 実家のリビングに、元旦那が座っている。
 結婚の挨拶以来かもしれない。
 あの時は、元旦那は私の隣に座っていた。そして、その向かいに両親が座っていた。

 けれど今、私の隣にいるのは、ミニカーで遊ぶ颯麻。
 そして、目の前に元旦那が一人。

 足の悪い父はダイニングチェアに座っている。
 母がお茶を淹れて、私と元旦那それぞれの前に置いてくれた。
 そして父の前の席に座り、こちらに視線を向けている。

「話したいことって――」

 妙な沈黙に耐え切れず、私が話の口火を切った。

「ごめんなさい!」

 言いながら、旦那はすぐに頭を深く下げてきた。

 何のことか分からず、一瞬動揺する。
 けれど、きっと養育費と慰謝料を先延ばしにしていることだろうと、すぐに思い至った。

「メッセージ見たよ。遅れるって。
 分かってるから大丈――」

 言いかけた私の言葉を、元旦那は遮った。

「やっぱり俺には梓桜がいないとダメなんだ!」

 顔を上げた元旦那が、こちらを見ていた。
 今にも、泣き出しそうな顔をして。

「え……?」

 何を言っているのか分からない。
 私は、あなたに必要だったの?
 必要ないから、あんなに私を放置したんじゃないの?

 驚きと理解の出来なさに絶句してしまう。
 すると、旦那は続けた。

「梓桜が好きだって、大事だって離れて気づいた。
 一緒にいたいんだよ、やっぱり俺は」

 まくしたてるように言われ、私の頭の中はぐちゃぐちゃになる。

 確かに、私も好きだった。
 お付き合いを始めた頃は、幸せに満たされていた。

 好きだったから、彼との子供を産んだ。
 好きだったから、明るい未来があるんだと思っていた。
 けれど――。

 黙っていると、元旦那が颯麻の方をじっと見ていることに気づいた。

「大きくなったな」

 颯麻が、ちらりと元旦那の方を向く。

「お前のパパだよ」

 そう言う元旦那と、颯麻の顔は、確かに目元が似ている。
 遺伝子だから、仕方ない。

 『パパ』だなんて、言わないで欲しい。
 けれど、それが事実だから、私は何も言い返せない。

 元旦那の頭の中に映る颯麻は、どのくらいの頃なのだろう。
 どのくらいの頃の颯麻まで、覚えているだろう。

 私は独りぼっちで、泣き叫ぶこの子のお世話をした。
 時に泣き、叫び、それでもこの子は私が育てなきゃと、責任感だけで育ててきた。
 その気持ちを、彼は知らない。

 それでも、彼が『パパ』なのだ。

 もし、私が彼とよりを戻したら――

 今度こそ変わってくれる?
 今度こそ『パパ』でいてくれる?
 今度こそ、愛してくれる?

 颯麻のために、父親がいた方がいいことだって分かってる。
 けれど、私はまだ彼のことを信じられない。

 実家まで来て、頭を下げてくれた。
 これは、きっと彼なりの誠実な行動なのだろう。

 けれど、どんなに謝られても、あの日々は消えない。
 浮気された日に掛けられた、心無い一言。
 寂しかった、苦しかった、孤独だった。

 それでも、一人きりで頑張ってきた。
 そんな私の気持ちを、今の彼は全部理解しようとしてくれるのだろうか。

 孤独なりに頑張って、一人で生きて行こうと決めた私が、ここで旦那の元に戻る理由はあるのだろうか。

 まだ何も言えない私。
 颯麻と似た元旦那の顔を見ていると、不意に脳裏に大輝が浮かんだ。

 笑う顔、寂しそうな背中、堂々とした居姿。
 泣いた私をずっと抱きしめてくれた温もり、分厚い胸板。

『俺のこと、好きになって』

 そう言った大輝の、自信に満ちた顔も、全部。

『パパ』

 颯麻に向かって言った、その覚悟も全部。

 ――大好きだ。

 つまりは、私も元旦那と一緒だ。
 私は元旦那に、男としての魅力を――ううん、人間としての魅力を感じなくなってしまったんだ。

 自分が彼と同類だと思うと、嫌悪感がこみあげてくる。
 けれど、そう思うくらいには、彼に剣を感を抱いているんだ。

 息子との血の繋がりだけで、この人を『家族』と呼ばなきゃいけない未来を考える。
 そんなの、私は――

 こみ上げてきたものを飲み込み、苦しくなった喉を開放して、口を開く。
 けれど、私は何も発することができなかった。
 颯麻に視線を向ける元旦那を、胸の内からあふれ出てくる色々な想いを堪えた顔で、睨むことしかできない。

 何も言えずにいると、不意に母が口を開いた。

「ちょっといいかしら」

 振り向くと、母は何を考えているのか分からない真顔をしていた。
 こんな母の表情は、初めて見る。

「二人の問題に母親が口出すのもどうかとは思うんだけれど、同じ「母」という立場から言わせてもらうわね」

 前置きをするように、母は話し出す。

「あなたは梓桜が大変な時に、梓桜を傷つけたの。自覚してる?
 子供を産むっていうのは、命がけのことで、私も梓桜を産むときに緊急帝王切開になって、死を覚悟した。そのくらいの覚悟で娘は出産したのよ。
 なのに、産まれたばかりで一番か弱くて、守ってあげなきゃいけない時期の自分の子供を、出産で身体がズタボロになった娘を放置して、あなたは娘に育児も家事も全て押し付けて、他の女性と遊んでいた。
 そうでしょう? あなたの子供なのよ?」

 母は念を押すように「梓桜だけの子供じゃない、確実にあなたの子」と付け加える。

「なのに、あなたは何もしなかった。育児も家庭も放棄したも同然じゃない。
 なのに、戻ってきて欲しいだなんて、虫のいい話だとは思わないの?」

「放棄はしていません!
 家族のために働いていましたし、養育費だってちゃんと払っていますし。
 誠意がなければこうして実家までなんて来ませんよ」

 旦那はそこまで言うと「梓桜だって分かってくれるよな」と付け足す。
 こみ上げてきたものを飲み込むように俯いていた私。
 その顔を、下から覗き込んでくる。

 このまま黙っているのは嫌だった。
 私も何か言わなきゃ。

「養育費……」

 声が震えて、上手く発音できているか分からない。
 けれど、私も言いたいことがある。

 母にばかり、代弁してもらっていてはいけない。
 これは、私と彼の問題なのだ。

 泣きそうになるのを堪えて、踏ん張って、前を向いた。
 元旦那が、はっと目を見開いたのが分かる。

 けれど、私は目をそらさない。
 頑張って、彼を見据えた。

「養育費、支払い遅れてるよね、年明けから。
 今月分、まだ支払われてないよ。催促できなかった私も悪い。けど――」

「仕方ないだろう、忙しかったんだよ。ちゃんと払うつもりだったし、だからメールもした。悪かったって、思ってる」 

 言葉を、遮られてしまった。
 けれど、元旦那の言うとおりだった。

 実際、あのメッセージを見た時、彼も前に進んでいるんだと思った。
 彼の中で、彼自身が何かを消化したのだと思った。

 なのに、私は全く前にすすめていない。
 そんな自分が嫌で、前に進みたいと思ったのだ。

 私がしていることは、言い訳でしかない。

 私は結局、何も言えない未熟な人間。
 そう思えて仕方なかった。
 泣きたくなんてないのに、目頭が熱くなる。

 私は結局、自分の弱さが嫌で、泣いて逃げようとしてるだけだ。
 だったら強くありたい。
 なのに、涙は止まってくれそうにない。

 どうしたらいいの?
 私、この人のことはもう好きじゃない。
 けれど、許した方がいい?
 私は心の狭い人間なの?

 考えれば考えるほど涙が溢れてくる。
 泣けば泣くほど、自分の弱さが露呈しているようで、また涙がこみ上げる。
 悪循環だ。

「梓桜、泣くなよ……」

 不意に、目の前から何かが伸びてくる。
 元旦那の手だった。

「触らないで!」

 反射的に、その手を振り払ってしまった。

「な、梓桜……」

「ご、ごめん……」

 自分でも驚き、口元に手を当てた。

「梓桜は冷たいなぁ。な、そう思うだろ?」

 そう言った元旦那の手は、息子に伸びる。

「嫌っ!」

 その手を振り払うように、私は息子を抱き寄せていた。

「そんなに怖い顔するなよ。
 いいじゃねーか、俺この子の父親だぞ?
 この子と俺、血は繋がってるんだから――」

 彼の言う通りだ。
 何をしているんだろう。

 けれど、どうしても彼に触れられるのが嫌だった。
 とっさに身体が、そう動いてしまうくらいには。

 また黙ってしまうと、また母が口を開いた。

「娘の傷は癒えてないの。
 娘がどんな思いで『結婚生活』を手放したのか考えてないから、そうやって迂闊に手を伸ばせるんでしょう?」
 
「……っ、すみませんでした」

 元旦那は母にそう言って、立ち上がる。

「俺は梓桜と結婚して、良かったと思ってる。
 ……また来るよ」

 元旦那は、まだ颯麻を抱きしめたままの私に、儚く悲しい笑顔を残して去っていった。
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