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3章【闇バイト、爆誕。お前の知らない世界へようこそ】
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暗い鉄格子の向こう、照明は黄色く鈍く光っていた。拘置所の雑居房。ベンチ代わりのコンクリートの出っ張りに、ポテトは座っていた。
髪は伸び放題、ヒゲも剃られておらず、ジャージのような薄い囚人服が体のラインをむっちりと強調していた。小デブの中年男が、ぼそりと呟く。
「……しらね。俺は捕まるようなことしてねぇし」
周囲に誰もいないわけではなかった。隣のスペースには黙っている強面の男、向かいには何かをずっと数えている若者。だが、誰もポテトに興味を示さなかった。
いや、興味はあった。ただし“関わりたくないタイプ”として。
「おい、兄ちゃん。何で入ったんだ?」
隣の強面男がぽつりと訊いてきた。ポテトは面倒そうに答える。
「ガチレスすると、運が悪かっただけ。俺、ただ荷物運んだだけだし」
「……は?」
「しかも、頼まれただけ。金も全然もらってねぇし。なのにこれ?しらねぇって話」
言葉の一つ一つが、自分の罪を薄めるための麻酔のようだった。だが、聞いていた相手の顔はみるみる呆れたものに変わっていく。
「そういうの、いちばんムカつくタイプだわ」
そう吐き捨てられた瞬間、ポテトは顔を背けた。逃げるわけじゃない。自分のスタイルを守るため——そう言い訳をしながら。
その夜、鉄製のベッドに横たわりながら、ポテトは初めて“自由がない”ということを体で理解していた。タバコが吸えない。コンビニにも行けない。金を借りる相手もいない。
「ガチで……なんもねぇじゃん」
目を閉じても、まぶたの裏に焼き付くのはSNSでバズった動画のコメント。
「こんなやつ、リアルにいたら終わってるだろw」
「捕まれ捕まれって思ってたら、マジで草」
「口臭してそうって思ってたら、本当に臭そうなエピ出てきて草」
すべてがポテトの自信を削り取っていく。でも、それを“反省”とは呼ばせたくなかった。彼はただ、こう思う。
——世間って、冷たくね?
その瞬間、ポテトは“真実”を見ないフリをする力をまた発揮した。
「俺は悪くねぇ。だって、俺がそう思ってねぇから」
現実という鏡の前で、彼はまた、自分だけのフィルターで見つめ直す。そして、自分を慰めるように心の中で叫ぶ。
「お前の知らないやつ、俺、これから見せてやるよ」
暗い部屋で、誰にも聞かれない声が小さく響いた。
数日が経ち、拘置所での生活にもポテトなりの“ルーティン”ができてきた。
朝は6時半に起床。味のない米とぬるい味噌汁を食べる。食後に煙草が吸えないことにキレそうになり、毎回心の中でこうつぶやく。
「ガチで非人道的……これ、拷問じゃね?」
周囲の囚人は誰も笑わないし、誰も反応しない。ポテトだけが、まるで王のように自分だけの舞台で一人芝居を演じていた。
彼の中では、“ここ”は一時的な場所。すぐに出られる。誤解だったってことになって、SNSで「俺、冤罪だったわ」って投稿して、またバズればいい。そう思っていた。
そんな中、接見にやって来たのは——弁護士ではなく、かもめだった。
ガラス越しの対面室。受話器を取るポテトの顔には、皮肉にも安心と焦りが入り混じっていた。
「……お前、来たんだ」
かもめはいつもと変わらぬ笑顔で「うん」と頷いた。
「ポテト、元気してた?」
「してねーよ。見てわかんだろ。マジでここ、地獄なんだけど」
「だよね~。……でもさ、ちょっと言っていい?」
「ん?」
「お前が“冗談”だと思ってたやつ、本気でヤバいやつだったらしいよ」
ポテトの顔がわずかにひきつる。
「……何の話?」
かもめはスマホを取り出し、スクショを見せる。警察の発表。ポテトが運んだ荷物が、詐欺グループの拠点で使われていた証拠品だったということ。しかも、ポテトの映像が拡散され、“闇バイト芸人”としてネットニュースでも取り上げられていた。
「お前、名前は出てないけど……顔、バッチリ。モザイクも意味ないレベルで“ポテト”って認知されてる」
ポテトは絶句した。
「は?……いや、ちょ、マジでそれ……しらねぇし……俺、ただの……」
かもめの顔から笑みが消えた。
「もうさ、“俺は悪くない”って言うの、そろそろやめなよ。……見てるこっちが痛いよ」
ガラス越しにかもめは立ち上がった。
「また来るわ。じゃあね、“ポテトさん”」
手を振って、かもめは去っていった。残されたポテトは、受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。
“俺は悪くない”——その呪文が、初めて効かなくなってきた瞬間だった。
「……いや、マジで……ガチで、俺は悪くねぇ……」
誰にも届かない声で、ポテトは何度も呟いた。
接見室から戻ったポテトは、鉄の扉が閉まる音にビクつきながら、自分の雑居房に戻った。硬いベッドに腰を下ろし、何も言わずに壁を見つめたまま、十数分。
普段なら他の囚人に意味不明な持論を披露してウザがられていたポテトが、今日は一言も発さない。その異様な静けさに、隣のベッドの男がポツリとつぶやく。
「……どうした、今日は喋んねえのか?」
ポテトは答えない。唇をかすかに動かしていたが、言葉にはならなかった。目はどこか虚ろで、脳内ではかもめの最後の言葉がリピート再生されていた。
——「もうさ、“俺は悪くない”って言うの、そろそろやめなよ」
そんな中、看守の声が響いた。
「大湯、弁護士との面会だ」
体がビクリと反応する。重い体を引きずるように立ち上がり、看守に連れられて再び面会室へと向かった。
待っていたのは、スーツ姿の中年弁護士。顔には疲れが滲み、ポテトを見る目には“厄介な仕事”を引き当てた諦念が見えた。
「大湯さんですね。担当の羽賀です。よろしくお願いします」
「……ガチで助けてください。俺、マジではめられたんで」
弁護士は書類をめくりながら淡々と語る。
「あなたが運んだ荷物の件については、すでに組織的詐欺グループとの関連性が疑われています。あなたの主張は“知らなかった”ということですが——」
「しらねぇもんは、しらねぇっしょ?!」
ポテトは声を荒げた。だが羽賀弁護士は微動だにせず続ける。
「……問題は、あなたが“知らなかったふりをしていた”と見なされる証拠が揃いすぎている点です」
ポテトの顔が一気に青ざめた。
「証拠……?いや、まって、それってさ……」
「SNSでの発言、映像、やりとりの履歴。すべてがあなたの“加担意識”を補強しています。“エンタメ”としても、裁判では通用しません」
ポテトは受話器を強く握りしめた。
「……じゃあ、俺、どうなんの?」
「懲役は避けられない可能性が高いです。ただし、初犯であり、反省の姿勢が認められれば……多少の減刑の余地はあります」
その瞬間、ポテトの中で何かが音を立てて崩れた。
——減刑?懲役?俺が?
“ただの運び屋”だったはずの自分が、今や“犯罪者”のレッテルを貼られようとしている。ネットでバズったことすら、今となっては自分の首を絞める証拠に変わっていた。
「ガチで……俺、なんなん……?」
ぽつりと呟いたその声には、今までにない“弱さ”が滲んでいた。
弁護士は少しだけ目を細めた。
「大湯さん、あなたは……『自分を守るための嘘』に、自分自身が騙されてきたのかもしれませんね」
ポテトは受話器を置いた。何も言えなかった。自分が何者だったのか、何をしてきたのか——初めて、見つめなければならない瞬間が訪れていた。
雑居房に戻ったポテトは、深夜まで眠れなかった。眠れないというより、眠ろうとしなかった。
「……俺が騙されたんだろ? マジで、トミーが悪いだけじゃん……」
そんな独り言を何度も繰り返しながら、冷たい天井をにらみつける。部屋の隅では、どこかの囚人が寝言を言っていた。だが、その音すらポテトの耳には届かない。
彼の中で何かが、ぐるぐると回っていた。
「ガチで言うけど、俺、ただ荷物運んだだけじゃん……。それって罪なの?意味わかんねーし」
だが、何度自分に言い聞かせても、脳裏に浮かんでくるのは、SNSでのあの映像だ。ピースサインでふざけながら、ポテトはこう言っていた。
「お前の知らないやつ、俺、もう超えてるから」
その瞬間、目の奥がチカチカした。鼻の奥がツンと痛い。喉が詰まり、何かがせり上がる。
「……くそっ……なんで、俺だけ……」
嗚咽が混じるほどではない。ただ、声にならない叫びが喉に渦巻いていた。だが、次の瞬間、ポテトの中でまた“いつものスイッチ”が入る。
「いや、俺だけじゃねーし。だいたい、りゅうとか、りょうとか、かもめだって……止めなかったろ?あいつらも同罪じゃん。しらねーけど」
いつものように責任を分散させて、自分を守るための“他責思考”が暴れ始める。誰かのせいにしている間は、現実を直視しなくて済む。だから、ポテトは必死だった。
だが、どれだけ“他人のせい”にしても、逃げきれない現実がひとつだけあった。
——明日、送致が決まっていた。
拘置所ではなく、刑務所。今度は本当に「塀の中」だった。
「……しらね。ガチで意味わからん。俺、ただ運んだだけだから」
それでも、誰も答えてはくれない。鉄格子の向こうには、返事をしてくれる人など一人もいなかった。
朝になった。
看守が扉を開けた。ポテトは無言で立ち上がった。まるで死刑囚のような足取りで、移送用の服を着せられる。足元はゴム製のサンダル。冷たく、音だけがペタペタと響く。
護送車の中。窓の外には、かつてポテトが通っていたあのゲーセンが一瞬だけ見えた。すでに閉店して、シャッターは錆びついている。
彼はその風景に、懐かしさも、悲しさも、何も感じなかった。ただ、自分の体が“前に進まされている”という事実だけが、重くのしかかっていた。
「お前の知らないやつになる」——その言葉を、自分自身がまるで理解していなかったことに、ようやく気づきかけていた。
けれど、それでも口から出る言葉は、いつもと同じだった。
「……俺、悪くねぇし」
護送車が揺れるたびに、ポテトの体がふわりと浮いては沈んだ。前を向いたまま、無言で座っている他の数人の受刑者。誰も言葉を発さないし、誰もポテトには興味を示さなかった。
窓の外には、くすんだ空。ビルの壁面、工事中の足場、曇ったガラスに映る自分の顔。むくみきった頬と、どこかふてぶてしい目つき。それでも本人の中には、まだ“俺は違う”という幻想が残っていた。
「俺、捕まったけど……でも冤罪ってやつだから」
心の中で、そうつぶやいた。だが、もう誰にも言い訳は届かない。警察にも、裁判にも、ネットにも。
到着した刑務所の敷地は、テレビで見るよりもはるかに古く、そして寒々しかった。鉄製の門がギィィと音を立てて開くたび、ポテトの足が少しずつ重くなる。
荷物検査、身体検査、番号の呼称、教育係のような職員の無表情な声。
「これより、収監手続きを開始する。お前の番号は――2854」
「……番号?」
「呼ばれたら“はい”と返せ。番号で呼ばれるのが嫌なら、ここに来るな」
その一言が、ポテトの胸をざっくりと刺した。
——人間じゃなくなった感覚。
“ポテト”というあだ名が、“大湯”という本名が、“誰か”であることの意味が、ここでは通用しない。あるのは、ただの数字。番号。肉体の管理。
新入りのための講習が始まると、ポテトはお決まりの調子で舌打ちをした。
「マジで意味ねぇって。こんな話、聞く必要ある?」
だが、隣の受刑者に肘で軽く小突かれ、思わず黙った。
「お前、調子に乗ってると、あとで痛い目見るぞ」
その声に含まれていたのは、単なる忠告ではなかった。忠告と脅しの中間。そして何より、“経験者”の重み。
ポテトは、しぶしぶ正面を向いた。
夜。初めての独居房。コンクリートの壁に囲まれた、幅の狭いベッド。トイレはむき出し。毛布は薄い。空気は冷たく、天井は低い。スマホもタバコも、何もない。
「……これ、ガチで、しんどくね?」
ようやく、口にしたその一言が、静かな部屋に響いた。
誰にも届かない場所で、誰にも見られていないと思っていたその瞬間。天井の監視カメラの小さな赤い点が、ひっそりと光っていた。
“お前の知らない世界”は、こうして彼の現実になっていた。
朝5時、突然のブザー音でポテトは目を覚ました。
「ガチで……早すぎだろ」
独房の中には、もちろん時計などない。ただ、決められた時間に、決められた音が鳴り、決められた行動をしなければならない。それが“ここ”のルールだった。
食事は白飯と味噌汁と、色あせた漬物。配膳されるとき、「はい、番号2854」と呼ばれ、ポテトは条件反射的に「……はい」と返した。
その瞬間、自分の口から出た“はい”という言葉に、驚いた。
ポテトは“返事”をする人間じゃなかった。注意されても「しらね」、頼まれても「お前がやれ」、何か言われたら「ガチで黙れ」——それが、彼の生き方だった。
けれど、この場所では、“はい”と言わなければ、飯すらもらえない。
午前中は労務。黙々と箱詰め作業をさせられる。作業中、隣の受刑者がふと話しかけてきた。
「お前、テレビ出てたやつだろ?SNSでバズってたじゃん。あの“ポテト”って」
一瞬、ポテトは反応に困った。
「……いや、ガチで俺じゃないっす」
だが、顔は隠せない。体型も、話し方も、全て“あのポテト”そのものだった。
「マジでウケたわ。借金して偉そうって、新しいジャンルだよな。今、あれ切り抜きでめっちゃ出回ってんぞ」
「……」
ポテトは何も返さなかった。反論する元気も、誇らしげに言い返す気力もなかった。
その夜、独房に戻ると、彼は初めて“静かさ”の意味を知った。
静かすぎる空間。タバコも音楽もスマホもない。SNSの通知も、LINEのスタンプもない。
誰も「いいね」してくれない。誰も「草」って笑ってくれない。
「……俺、誰だったっけ?」
声に出したその問いに、答える者はいない。
ベッドに仰向けになると、天井に小さな染みが見えた。まるで、過去の自分がこっちを見下ろしているようだった。
——ピースサインで笑っていた“ポテト”。
——「お前の知らないやつ」として、調子に乗っていた“ポテト”。
「……しらね。って言ってたな、俺。ずっと」
涙は出なかった。悲しみよりも先に来たのは、空虚さだった。
自分が“面白がっていた世界”が、こうして現実に引きずり出され、反撃してきた。それは、彼自身の手で作った地獄だった。
それでも、ポテトは最後に呟いた。
「……ま、俺、まだ詰んでねぇし」
諦めの中に、かすかな開き直り。反省とは違う、でも自分なりの“次”を見ようとする姿勢。それが、彼の最大の“防衛本能”だった。
そして、部屋の灯りがパチンと消えた。
ポテトは目を閉じた。
塀の中の“王様”は、今日もどこかで、自分に都合のいい夢を見ていた。
髪は伸び放題、ヒゲも剃られておらず、ジャージのような薄い囚人服が体のラインをむっちりと強調していた。小デブの中年男が、ぼそりと呟く。
「……しらね。俺は捕まるようなことしてねぇし」
周囲に誰もいないわけではなかった。隣のスペースには黙っている強面の男、向かいには何かをずっと数えている若者。だが、誰もポテトに興味を示さなかった。
いや、興味はあった。ただし“関わりたくないタイプ”として。
「おい、兄ちゃん。何で入ったんだ?」
隣の強面男がぽつりと訊いてきた。ポテトは面倒そうに答える。
「ガチレスすると、運が悪かっただけ。俺、ただ荷物運んだだけだし」
「……は?」
「しかも、頼まれただけ。金も全然もらってねぇし。なのにこれ?しらねぇって話」
言葉の一つ一つが、自分の罪を薄めるための麻酔のようだった。だが、聞いていた相手の顔はみるみる呆れたものに変わっていく。
「そういうの、いちばんムカつくタイプだわ」
そう吐き捨てられた瞬間、ポテトは顔を背けた。逃げるわけじゃない。自分のスタイルを守るため——そう言い訳をしながら。
その夜、鉄製のベッドに横たわりながら、ポテトは初めて“自由がない”ということを体で理解していた。タバコが吸えない。コンビニにも行けない。金を借りる相手もいない。
「ガチで……なんもねぇじゃん」
目を閉じても、まぶたの裏に焼き付くのはSNSでバズった動画のコメント。
「こんなやつ、リアルにいたら終わってるだろw」
「捕まれ捕まれって思ってたら、マジで草」
「口臭してそうって思ってたら、本当に臭そうなエピ出てきて草」
すべてがポテトの自信を削り取っていく。でも、それを“反省”とは呼ばせたくなかった。彼はただ、こう思う。
——世間って、冷たくね?
その瞬間、ポテトは“真実”を見ないフリをする力をまた発揮した。
「俺は悪くねぇ。だって、俺がそう思ってねぇから」
現実という鏡の前で、彼はまた、自分だけのフィルターで見つめ直す。そして、自分を慰めるように心の中で叫ぶ。
「お前の知らないやつ、俺、これから見せてやるよ」
暗い部屋で、誰にも聞かれない声が小さく響いた。
数日が経ち、拘置所での生活にもポテトなりの“ルーティン”ができてきた。
朝は6時半に起床。味のない米とぬるい味噌汁を食べる。食後に煙草が吸えないことにキレそうになり、毎回心の中でこうつぶやく。
「ガチで非人道的……これ、拷問じゃね?」
周囲の囚人は誰も笑わないし、誰も反応しない。ポテトだけが、まるで王のように自分だけの舞台で一人芝居を演じていた。
彼の中では、“ここ”は一時的な場所。すぐに出られる。誤解だったってことになって、SNSで「俺、冤罪だったわ」って投稿して、またバズればいい。そう思っていた。
そんな中、接見にやって来たのは——弁護士ではなく、かもめだった。
ガラス越しの対面室。受話器を取るポテトの顔には、皮肉にも安心と焦りが入り混じっていた。
「……お前、来たんだ」
かもめはいつもと変わらぬ笑顔で「うん」と頷いた。
「ポテト、元気してた?」
「してねーよ。見てわかんだろ。マジでここ、地獄なんだけど」
「だよね~。……でもさ、ちょっと言っていい?」
「ん?」
「お前が“冗談”だと思ってたやつ、本気でヤバいやつだったらしいよ」
ポテトの顔がわずかにひきつる。
「……何の話?」
かもめはスマホを取り出し、スクショを見せる。警察の発表。ポテトが運んだ荷物が、詐欺グループの拠点で使われていた証拠品だったということ。しかも、ポテトの映像が拡散され、“闇バイト芸人”としてネットニュースでも取り上げられていた。
「お前、名前は出てないけど……顔、バッチリ。モザイクも意味ないレベルで“ポテト”って認知されてる」
ポテトは絶句した。
「は?……いや、ちょ、マジでそれ……しらねぇし……俺、ただの……」
かもめの顔から笑みが消えた。
「もうさ、“俺は悪くない”って言うの、そろそろやめなよ。……見てるこっちが痛いよ」
ガラス越しにかもめは立ち上がった。
「また来るわ。じゃあね、“ポテトさん”」
手を振って、かもめは去っていった。残されたポテトは、受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。
“俺は悪くない”——その呪文が、初めて効かなくなってきた瞬間だった。
「……いや、マジで……ガチで、俺は悪くねぇ……」
誰にも届かない声で、ポテトは何度も呟いた。
接見室から戻ったポテトは、鉄の扉が閉まる音にビクつきながら、自分の雑居房に戻った。硬いベッドに腰を下ろし、何も言わずに壁を見つめたまま、十数分。
普段なら他の囚人に意味不明な持論を披露してウザがられていたポテトが、今日は一言も発さない。その異様な静けさに、隣のベッドの男がポツリとつぶやく。
「……どうした、今日は喋んねえのか?」
ポテトは答えない。唇をかすかに動かしていたが、言葉にはならなかった。目はどこか虚ろで、脳内ではかもめの最後の言葉がリピート再生されていた。
——「もうさ、“俺は悪くない”って言うの、そろそろやめなよ」
そんな中、看守の声が響いた。
「大湯、弁護士との面会だ」
体がビクリと反応する。重い体を引きずるように立ち上がり、看守に連れられて再び面会室へと向かった。
待っていたのは、スーツ姿の中年弁護士。顔には疲れが滲み、ポテトを見る目には“厄介な仕事”を引き当てた諦念が見えた。
「大湯さんですね。担当の羽賀です。よろしくお願いします」
「……ガチで助けてください。俺、マジではめられたんで」
弁護士は書類をめくりながら淡々と語る。
「あなたが運んだ荷物の件については、すでに組織的詐欺グループとの関連性が疑われています。あなたの主張は“知らなかった”ということですが——」
「しらねぇもんは、しらねぇっしょ?!」
ポテトは声を荒げた。だが羽賀弁護士は微動だにせず続ける。
「……問題は、あなたが“知らなかったふりをしていた”と見なされる証拠が揃いすぎている点です」
ポテトの顔が一気に青ざめた。
「証拠……?いや、まって、それってさ……」
「SNSでの発言、映像、やりとりの履歴。すべてがあなたの“加担意識”を補強しています。“エンタメ”としても、裁判では通用しません」
ポテトは受話器を強く握りしめた。
「……じゃあ、俺、どうなんの?」
「懲役は避けられない可能性が高いです。ただし、初犯であり、反省の姿勢が認められれば……多少の減刑の余地はあります」
その瞬間、ポテトの中で何かが音を立てて崩れた。
——減刑?懲役?俺が?
“ただの運び屋”だったはずの自分が、今や“犯罪者”のレッテルを貼られようとしている。ネットでバズったことすら、今となっては自分の首を絞める証拠に変わっていた。
「ガチで……俺、なんなん……?」
ぽつりと呟いたその声には、今までにない“弱さ”が滲んでいた。
弁護士は少しだけ目を細めた。
「大湯さん、あなたは……『自分を守るための嘘』に、自分自身が騙されてきたのかもしれませんね」
ポテトは受話器を置いた。何も言えなかった。自分が何者だったのか、何をしてきたのか——初めて、見つめなければならない瞬間が訪れていた。
雑居房に戻ったポテトは、深夜まで眠れなかった。眠れないというより、眠ろうとしなかった。
「……俺が騙されたんだろ? マジで、トミーが悪いだけじゃん……」
そんな独り言を何度も繰り返しながら、冷たい天井をにらみつける。部屋の隅では、どこかの囚人が寝言を言っていた。だが、その音すらポテトの耳には届かない。
彼の中で何かが、ぐるぐると回っていた。
「ガチで言うけど、俺、ただ荷物運んだだけじゃん……。それって罪なの?意味わかんねーし」
だが、何度自分に言い聞かせても、脳裏に浮かんでくるのは、SNSでのあの映像だ。ピースサインでふざけながら、ポテトはこう言っていた。
「お前の知らないやつ、俺、もう超えてるから」
その瞬間、目の奥がチカチカした。鼻の奥がツンと痛い。喉が詰まり、何かがせり上がる。
「……くそっ……なんで、俺だけ……」
嗚咽が混じるほどではない。ただ、声にならない叫びが喉に渦巻いていた。だが、次の瞬間、ポテトの中でまた“いつものスイッチ”が入る。
「いや、俺だけじゃねーし。だいたい、りゅうとか、りょうとか、かもめだって……止めなかったろ?あいつらも同罪じゃん。しらねーけど」
いつものように責任を分散させて、自分を守るための“他責思考”が暴れ始める。誰かのせいにしている間は、現実を直視しなくて済む。だから、ポテトは必死だった。
だが、どれだけ“他人のせい”にしても、逃げきれない現実がひとつだけあった。
——明日、送致が決まっていた。
拘置所ではなく、刑務所。今度は本当に「塀の中」だった。
「……しらね。ガチで意味わからん。俺、ただ運んだだけだから」
それでも、誰も答えてはくれない。鉄格子の向こうには、返事をしてくれる人など一人もいなかった。
朝になった。
看守が扉を開けた。ポテトは無言で立ち上がった。まるで死刑囚のような足取りで、移送用の服を着せられる。足元はゴム製のサンダル。冷たく、音だけがペタペタと響く。
護送車の中。窓の外には、かつてポテトが通っていたあのゲーセンが一瞬だけ見えた。すでに閉店して、シャッターは錆びついている。
彼はその風景に、懐かしさも、悲しさも、何も感じなかった。ただ、自分の体が“前に進まされている”という事実だけが、重くのしかかっていた。
「お前の知らないやつになる」——その言葉を、自分自身がまるで理解していなかったことに、ようやく気づきかけていた。
けれど、それでも口から出る言葉は、いつもと同じだった。
「……俺、悪くねぇし」
護送車が揺れるたびに、ポテトの体がふわりと浮いては沈んだ。前を向いたまま、無言で座っている他の数人の受刑者。誰も言葉を発さないし、誰もポテトには興味を示さなかった。
窓の外には、くすんだ空。ビルの壁面、工事中の足場、曇ったガラスに映る自分の顔。むくみきった頬と、どこかふてぶてしい目つき。それでも本人の中には、まだ“俺は違う”という幻想が残っていた。
「俺、捕まったけど……でも冤罪ってやつだから」
心の中で、そうつぶやいた。だが、もう誰にも言い訳は届かない。警察にも、裁判にも、ネットにも。
到着した刑務所の敷地は、テレビで見るよりもはるかに古く、そして寒々しかった。鉄製の門がギィィと音を立てて開くたび、ポテトの足が少しずつ重くなる。
荷物検査、身体検査、番号の呼称、教育係のような職員の無表情な声。
「これより、収監手続きを開始する。お前の番号は――2854」
「……番号?」
「呼ばれたら“はい”と返せ。番号で呼ばれるのが嫌なら、ここに来るな」
その一言が、ポテトの胸をざっくりと刺した。
——人間じゃなくなった感覚。
“ポテト”というあだ名が、“大湯”という本名が、“誰か”であることの意味が、ここでは通用しない。あるのは、ただの数字。番号。肉体の管理。
新入りのための講習が始まると、ポテトはお決まりの調子で舌打ちをした。
「マジで意味ねぇって。こんな話、聞く必要ある?」
だが、隣の受刑者に肘で軽く小突かれ、思わず黙った。
「お前、調子に乗ってると、あとで痛い目見るぞ」
その声に含まれていたのは、単なる忠告ではなかった。忠告と脅しの中間。そして何より、“経験者”の重み。
ポテトは、しぶしぶ正面を向いた。
夜。初めての独居房。コンクリートの壁に囲まれた、幅の狭いベッド。トイレはむき出し。毛布は薄い。空気は冷たく、天井は低い。スマホもタバコも、何もない。
「……これ、ガチで、しんどくね?」
ようやく、口にしたその一言が、静かな部屋に響いた。
誰にも届かない場所で、誰にも見られていないと思っていたその瞬間。天井の監視カメラの小さな赤い点が、ひっそりと光っていた。
“お前の知らない世界”は、こうして彼の現実になっていた。
朝5時、突然のブザー音でポテトは目を覚ました。
「ガチで……早すぎだろ」
独房の中には、もちろん時計などない。ただ、決められた時間に、決められた音が鳴り、決められた行動をしなければならない。それが“ここ”のルールだった。
食事は白飯と味噌汁と、色あせた漬物。配膳されるとき、「はい、番号2854」と呼ばれ、ポテトは条件反射的に「……はい」と返した。
その瞬間、自分の口から出た“はい”という言葉に、驚いた。
ポテトは“返事”をする人間じゃなかった。注意されても「しらね」、頼まれても「お前がやれ」、何か言われたら「ガチで黙れ」——それが、彼の生き方だった。
けれど、この場所では、“はい”と言わなければ、飯すらもらえない。
午前中は労務。黙々と箱詰め作業をさせられる。作業中、隣の受刑者がふと話しかけてきた。
「お前、テレビ出てたやつだろ?SNSでバズってたじゃん。あの“ポテト”って」
一瞬、ポテトは反応に困った。
「……いや、ガチで俺じゃないっす」
だが、顔は隠せない。体型も、話し方も、全て“あのポテト”そのものだった。
「マジでウケたわ。借金して偉そうって、新しいジャンルだよな。今、あれ切り抜きでめっちゃ出回ってんぞ」
「……」
ポテトは何も返さなかった。反論する元気も、誇らしげに言い返す気力もなかった。
その夜、独房に戻ると、彼は初めて“静かさ”の意味を知った。
静かすぎる空間。タバコも音楽もスマホもない。SNSの通知も、LINEのスタンプもない。
誰も「いいね」してくれない。誰も「草」って笑ってくれない。
「……俺、誰だったっけ?」
声に出したその問いに、答える者はいない。
ベッドに仰向けになると、天井に小さな染みが見えた。まるで、過去の自分がこっちを見下ろしているようだった。
——ピースサインで笑っていた“ポテト”。
——「お前の知らないやつ」として、調子に乗っていた“ポテト”。
「……しらね。って言ってたな、俺。ずっと」
涙は出なかった。悲しみよりも先に来たのは、空虚さだった。
自分が“面白がっていた世界”が、こうして現実に引きずり出され、反撃してきた。それは、彼自身の手で作った地獄だった。
それでも、ポテトは最後に呟いた。
「……ま、俺、まだ詰んでねぇし」
諦めの中に、かすかな開き直り。反省とは違う、でも自分なりの“次”を見ようとする姿勢。それが、彼の最大の“防衛本能”だった。
そして、部屋の灯りがパチンと消えた。
ポテトは目を閉じた。
塀の中の“王様”は、今日もどこかで、自分に都合のいい夢を見ていた。
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