持たざる者は、世界に抗い、神を討つ

シベリアン太郎

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第145話 包囲網

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 古の彫刻が飾られた石造りの執務室に、焚かれた香の残り香がゆらゆらと漂っている。ラザフォードは書類を整理するふりをしながら、薄暗い窓の向こうに目を向けていた。
 表面上は静寂そのものだ。だが──。

(何かがおかしい)

 確証はない。ただ、ここ数日感じる些細な違和感が、心の奥で警鐘を鳴らし続けていた。部下の僧官の視線がわずかに逸れた気がした。修道士たちが会話を止めた瞬間。廊下に響く足音が、妙に規則的だったこと──。

「……気にしすぎか?」

 自嘲気味に呟く。しかし、その声には力がなかった。
 禁書庫での動きは慎重に行ったはずだ。接触者との連絡も秘匿を重ね、外部との出入りにも細心の注意を払った。クラリスのような“嗅覚”を持つ者にも、足取りを掴ませぬよう立ち回ってきたはずだった。
 それなのに──なぜだ?  なぜ、空気が変わり始めている?

(……まさか、あの廃修道院で何か……)

 思考が焦燥に引き裂かれる。もしあの夜、誰かに尾行されていたとすれば──既に遅い。掌が汗ばんでいるのに気付き、握ったペンをゆっくりと置く。壁際の小さな棚から、鍵のかかった木箱を取り出した。中には〈黒翼〉との暗号書と印章、そして一枚の古地図。そこには、あの〈門〉の候補地とされるいくつかの地名が記されていた。

(まだ、間に合う……まだ動ける)

 だが焦りは隠せなかった。自分の周囲にわずかに忍び寄る「気配」は、かつて幾度となく見てきた粛清の前触れ──それに酷似していた。

「……くそ……!」

 苛立ちを露わにして机を叩く。かつては誰もが自分の権威を恐れ、疑問すら抱かなかったはずだ。それが今や、何かが揺らぎ始めている。セラフィーナか。あるいは、あの女司書か。それともまた別の……。“光”の側が動き始めている──そう、直感が告げていた。

(見逃してはくれん、というわけか。ならば……)

 ラザフォードは再び、古地図に目を落とした。〈黒翼〉への最終信号と、逃走経路の再確認。今すぐ動くか、それとも証拠の隠滅を優先するか──決断の時は迫っていた。



 静寂の中、遠く聖堂の鐘が一度だけ、くぐもった音を響かせた。
 深夜、蝋燭の明かりだけが揺れる密室。ラザフォード枢機卿は書斎の奥で、血相を変えて封印結界を解除していた。

「……なぜだ……なぜ奴らが動いている……!」

 昼間から感じていた不穏な空気。聖女の周囲の騎士団が増えていること、一部の高官たちが妙に沈黙していること。さらに今しがた、己が管理している施設の一つ──郊外の旧砦が突如封鎖されたという報が、密偵から届いた。

「……まさか、漏れたのか? いや、それとも、裏切りか?」

 焦燥と怒気が混じり、ラザフォードの額に冷や汗が浮かぶ。だが、今は追及している時間などない。即座に対応を取らねば、次は自分の番だ。
 彼は机の奥、偽装された壁の一部を指先でなぞり、複雑な魔紋を描いて開いた。そこには〈黒翼〉との緊急連絡用の転送石が安置されている。

「〈冥主〉直属の通信路……この場に残るのは危険だが、仕方あるまい」

 転送石に魔力を注ぎ込み、低く呟く。

「ラザフォードより緊急報告。〈聖女〉が動いた。禁書庫、旧砦、その他数拠点が摘発される可能性あり。我の拘束も間近。即応を求む。潜伏網の再構築、もしくは……排除を含む対策を協議されたし」

 彼は意を決し、執務室の壁に隠された“緊急転移の魔導陣”へと手を伸ばす。それは〈黒翼〉より与えられた一時的な退避手段──リスクも大きいが、背に腹は代えられなかった。
 しかしその瞬間──

「ラザフォード枢機卿、開門を」

 厚い扉の向こうから、静かながら威厳ある声が響いた。

「これは命令である。拒否すれば、実力行使も辞さぬ」

(来たか……セラフィーナめ、やはり奴を甘く見ていたか)

 自嘲の笑みが口元に浮かぶ。だが、終わりではない。

「──ふん、貴様らなどに……捕まってたまるかよ!」

 静寂な夜の帳が聖都を覆う中、目に見えぬ気配が徐々に迫っていた。衛兵が不自然に持ち場を交代し、修道士たちの巡回が強化されていた。まるで何も起きていないかのように、緩やかに。しかし着実に、ラザフォードの執務館は包囲されつつあった。
 その中心には、クラリスの姿があった。

「今のところは、逃走の兆候なし。外部連絡の魔力反応も現在は確認されていません。ですが……慎重に」
「当然だ。相手は枢機卿、ただの官吏ではない」

 クラリスの隣で、〈聖女〉直属の隠密兵が頷いた。逮捕命令は既に正式に発動されており、〈聖女〉セラフィーナの署名入り文書も用意されている。あとは包囲を完成させ、ラザフォードを逃がさず拘束するのみだった。

 ラザフォードの執務室は、静寂の中に不穏な魔力のざわめきを孕んでいた。ラザフォードは机を乱暴に払いのけ、壁に隠された魔法陣の装置を露わにする。

「……まだ起動していないだと……!」

 苛立ちの声が室内にこだまする。指先を震わせながら魔石を差し込み、複雑な術式を走らせる。緊急転移用の魔法陣。だが、本来数時間の調整を要するそれを、数分で強引に起動させようとしていた。

「ええい! ……なぜこんなにも……時間がかかる……!」

 額には脂汗がにじみ、苛立ちに任せて手元の水晶板を叩き割る。
 外では、衛兵たちの足音が近づきつつあった。クラリスの指揮のもと、包囲は確実に完成しつつある。

(間に合わんか……!?)

 拘束される恐怖が脳裏をよぎる。それでもラザフォードは術式に最後の力を注ぎ込んだ。

「全魔力開放、座標固定せず……成功率、二割……上等だ……!」

 魔力が炸裂する。陣が青白く明滅し、空間が歪み始める。

「ラザフォード枢機卿、開門せよ!!」

 扉の外から、クラリスの声が轟く。だが、それを無視してラザフォードは笑った。

「──俺を侮ったな、愚か者どもめ……!」

 その瞬間だった。
 魔法陣が悲鳴を上げるように軋み、想定以上の魔力負荷が室内に充満した。未調整の術式が空間座標に誤差を生じさせ、術式全体が暴走を始める。

「……なッ──!?」

 床の紋が赤黒く光り、破裂音が走る。
 次の瞬間、爆発。
 転移の閃光と同時に、部屋全体が凄まじい魔力の奔流に呑まれた。天井が吹き飛び、書棚は粉々に砕け、窓ガラスがまるで叫ぶように割れ飛んだ。
 急行していたクラリスたちが見たのは、閃光に包まれて焼け焦げる執務室の残骸だった。

「……爆発……!? これは……!」

 聖騎士たちがとっさに展開した防御結界がなければ、多くの被害が出たことは間違いない。

「転移魔法陣……だが、これは──!」

 室内には魔力の焦げた残滓が残され、転移座標を示す痕跡は、完全に崩壊していた。

「痕跡が……混濁している。これは──不完全な転移……」

 クラリスの表情が険しくなる。

「──ラザフォードは、どこへ?」



 辺り一面に濃霧が漂い、瘴気が蠢く暗き森の奥深くに、転移の眩い閃光が弾ける。

 ズシャァッッ……!

 倒木を巻き込み、ラザフォードの肉体が森に叩きつけられた。血を吐き、意識をかろうじて繋ぎとめる。

「ぐ……は……ここは……どこだ……?」

 地面は腐り、空気は瘴気に満ちている。常人ならば数分で発狂するだろう。

(転移座標……ずれて……? まさか……)

 彼の周囲で、無数の凄まじい殺気が、じわじわとその牙を剥いていた。
 転移の瞬間の爆発による、重傷の身体を省みることなく、ラザフォードは、起き上がる。

「まだ……終わってなど……いない……!」

 その眼に宿った執念は、もはや人としてのものではなかった。
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