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第一部
31話
しおりを挟むリビングのテーブルの椅子に座り、静香はパソコンを操作して連載小説の原稿、そして「神宮寺恭一郎は優雅な日常を過ごせない」の新作原稿のほぼ完成形を読んでいた。締め切りまで後1週間あるのだが、やはり筆が早い。というか本気を出せばこれだけ早く完成できるのなら今までもやれたはずだが。何というか今までの彼は編集を振り回すことに本気を出し過ぎている、その熱意を別のところに注ぐべきだ、本当に。
元々文字を読むのが早い静香はドンドンページを読み進める。いつものように櫻井がコーヒーを入れてくれて、静香の側に置いてくれた。そう、いつも通りなのだ…櫻井がジーっと見つめていることを除けば。普段は静香が訪ねても「それ読んでて」とだけ伝えると静香の存在を気にせず好きに過ごしていたのに。そんなことをしている理由は火を見るよりも明らかだけど。
「あの先生気が散るのでゲームでもしててもらえますか」
「…っ」
露骨に傷ついた顔をするのは辞めて欲しい、こちらが悪いみたいではないか。
「いや、顔見るくらい良くない?」
「仕事とプライベートは分けるべきです、今は仕事中、見られると集中できません」
ハッキリと拒絶された櫻井は意地の悪い笑みを浮かべる。
「…前は見られても全く気にしてなかった癖に」
「…」
やはり早まった真似をしたかもしれない。そもそも今日ここに来たのはケジメのつもりだった。家に戻ってからよく考え、すぐには信じられなかったが、自分は櫻井颯真を恋愛的な意味で好きになっているらしく。いつからか、と頭を捻って思い出そうとしても遂に無理だった。恋とは分かりやすく落ちるものだと思っていたのに。自覚と失恋を同時に経験した静香は、これからどうするべきかを考えていたのだ。自分から言い出した手前、嫌われていると分かったとしても担当を降りるとは言いたくなかった。が、遅かれ早かれ櫻井の方から申し出があると思っていたので、キッチリ自分の気持ちに区切りをつけておこうとしたのである。
あんな目に合ったのに、櫻井に対する恨みや怒りが湧いてこなかったことも含め自分が思いの外馬鹿だということに気づいた。襲われても嫌いにならないとは、静香は自覚していなかっただけで割と櫻井に入れ込んでいたのか。自分は別にお人好しと言うわけではなかったはずだが、最初、ハリネズミのように全身で自分を拒絶していた櫻井が妙に気になってしまった。そんな櫻井が本当に少しずつでも気を許してるのが何だか嬉しかったのだ…ああ、そうだ。全然懐かなかった猫が徐々に懐いていく感覚だ。実家の猫を思い出す、今気づいた。試す行為を繰り返しているのに数時間馬鹿正直に待ち続けた静香に焦り、無理矢理喫茶店へ引っ張り込んだり。放っておいても良かったのにナンパされている静香を助けてもくれた。つっけんどんな態度を取る割に変なところで優しかった、だから少しずつ気になりだした。
もう会わないつもりで部屋に行ったのに急に泣き出された時は驚いた。人を泣かせたのは初めてだったので戸惑いの方が大きかった。が、やはり自分はこの不器用で我が儘で、人の気持ちを試してばかりの櫻井を放って置けないのだと再確認した結果となった。静香の恋愛経験はないに等しいし、鈍いので本気で櫻井に嫌われていたと思っていたし、あそこまでの感情を抱かれているのも分からなかった。…好きな相手に重い感情をぶつけられて悪い気はしないし寧ろ嬉しいと言う感情が沸き上がったのだから、自分も割と普通の人間だったのだと気づくことが出来た。
思えば静香はあまり人に執着しないで生きて来た。両親が弟ばかりに構い、お手伝いさんが自分の親代わりとして世話をしてくれたことも悲しくなかったし、中学生の時に両親に放任していたことを謝られても「はあ」としか思えなかった。当時自分は酷く冷たい人間なのだと少しショックを受けた。その後、告白されたこともあったがいまいちよく分からず断り、大学生の時「付き合って行くうちに好きになれるかも」という淡い興味を抱いて承諾した。結果は散々たるものだったけれど、それに関してはあやふやな気持ちで付き合った静香にも非はある。
恐らく櫻井颯真という人間は静香にとって初めて「放って置けない」と思った存在だ。自分は彼のように面倒な人がタイプだったらしい。未だに自分でも良く分かっていないが、これを「恋」というのだろう。恋は理屈ではないと言うし。櫻井は頻りに自分を見捨てないで欲しいと言っていたが、それはこちらの台詞だと心の中で返した。静香が人の心を持っているか危うい、酷く冷淡な人間だと知ればどんな反応を示すのだろうか。
静香はスーッと目を細める。静香は仕事とプライベートはキッチリ分けたい性質だ、それは櫻井とて同じはず。人が嫌いだ、信用できないと公言していた反面編集と綿密なやり取りをし締切を一度も破ったことがない、という証言からも明らかだ。「仕事」以外の時は別人のように我が儘に振舞うのだから質が悪いのは否定しないけれど。
なのにさっきから熱の籠もった視線を向けられると、どうにも居心地が悪い。…櫻井がややSっけのある人間だというのは前回の事から察している。今も澄ました静香の表情が崩れることを期待しているのだろう。それではとても困る。顔が引き締まらないとかいう理由ではない、境界線はキッチリしておくべきだと思うからだ。
「…先生、仕事中はいつも通りにしていただきたいのですが、もしそれが無理だと言うのなら…今日私が言ったことはなかったことにします」
その瞬間、所謂好きな相手を虐める子供の様な顔をしていた櫻井の顔色が青白くなった。流石に言い過ぎたかと後悔したが、「…じゃあ顔見ないから同じ部屋には居て良い?」と恐る恐る訊ねて来た。
それくらいなら、と承諾した。安心したように顔を綻ばせた櫻井から目が離せなかった。
櫻井も仕事スイッチが入ったのか、原稿を読み終わった後は静香の意見に容赦なく反論し、逆にアドバイスを受け入れる等といつも通りに振舞っている。盛り上がってしまい櫻井の部屋を後にしたのは12時を回る前だった。この後出社して地方に住んでいる作家と連絡を取ったり、溜まっている書類を片付けなければならない、と連載原稿のデータを預かると玄関へと向かった。
「それでは失礼します。何かありましたら電話かメールで。…問題ないとは思いますけど他社の原稿もお忘れなく」
今まで櫻井の振る舞いが黙認されていたのは「出せば売れるから」「締め切りは絶対破らない」という理由が大きい。それを一度でも破ったらどうなるか…。
櫻井は不遜に笑った。
「そっちも殆ど出来てるし、何なら仕事に関係ない原稿も書いてる」
「…相変わらずの筆の速さですね」
そういえば失踪する際はスマホは置いて行き、パソコンだけ持っていくと言っていた。どうやって時間を潰すのか気になっていたが、本当に常に小説を書いて過ごしているのかもしれない。素直に凄い人だと思った。
締め切り破りの常習犯や書けずにギリギリなるまで原稿を完成できない作家もいる中、そういう心配がない点で櫻井学という作家は編集としては安心できる作家だ。完成しているのにギリギリまで出さない性質の悪さには今だけは目を瞑る。
と、雑談をしている時間は余りない。
「それでは先生、お疲れ様でした」
櫻井に背を向け、ドアノブに手を掛けた瞬間、背後から抱きしめられた。櫻井の身長は静香の頭一つ分大きいのですっぽりと包まれる形となる。突然のことで動揺はしたが、すぐに切り返す。
「あの、どうかしましたか」
すると背後ではっ、と息を呑む気配と「え、いや…」という焦る声。どうやら無意識下での行動らしかった。その割には手慣れている、傍から見ればドラマのワンシーンに見えてしまいそうだ。静香は兎も角櫻井はモデル顔負けのルックスなので、そう見えて不思議ではない。
「ごめん、急に」
謝る弱々しい声と裏腹に腕に力は徐々に強まる。…別に嫌と言うわけではないが、溜まっている仕事が気がかりなのと場所がいけない。襲われた場所もキスを繰り返した場所もこの玄関だ。自分が不健全な人間だと自覚してしまった今となっては、あの日盛大に乱れた自分の痴態を否応なく思い出させるには十分だった。櫻井の手によって新しい扉を開いてしまったのか、元々素質があったのかは分からない。背中にぴったりと密着され、櫻井の体温と凄い速さで脈打つ心臓の鼓動が伝わってくるためこっちも恥ずかしくなってくる。手慣れていそうなのに緊張しているのか、と意外に思うが先ほどの告白を思い返す限り告白したこと自体が初めての可能性が出て来た。
あの日のこともだが、その後の事も思い出してしまう。どうにか自宅に帰って一息着くと猛烈な羞恥心が静香を襲った。首筋に咲いた赤い花、痛む腰、そして…未だに櫻井の物が入っている感覚が続く下半身。幸い休みだったので一日中部屋に籠ってはいたが、割と切り替えの早い静香でもその日は引き摺っていた。月曜日にはどうにか普段通りに振舞うことが出来るようになったが。
少しばかり不健全なことを思い出していた静香の意識は、耳元で囁く低い声によって引き戻される。
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