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恋は盲目
16―3
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カメリオが市場で少女たちに囲まれてまごついている頃、トゥルースは執務机で書面に向き合っていた。室内には筆記具の音と、時折紙を捲る音が響き、ミッケに請われて算術を指導するナスーフの声がぼそぼそと聞こえる。
トゥルースはふと、いつもの調子でカメリオに書庫から資料の調達を頼むべく、目線を移した。当然、いつもはあるカメリオの姿は、そこには居ない。
(傍らに君の愛らしい横顔が在ることに、俺はすっかりと慣れてしまっていたようだ)
若干の自嘲を込めた溜め息を漏らしたトゥルースは、書庫へ向かうべく席を立った。自分が代わりを引き受けるとばかりにトゥルースの執務机に駆け寄ってきたズバイルを微笑んで制し、立ち入った書庫にはひんやりとした紙の匂いが立ち籠もっている。
麻紐で束ねた質の悪い紙束が整頓された書棚から目当ての資料を探す中で、トゥルースの視線は書庫で見掛けるとは思ってもいなかった筆跡に吸い寄せられた。
「これは――マリウスの字だな」
ペンを握るには些か力強い筆跡で書かれた『資料の置き場所』という表題通り、束ねられた紙には書庫の中に収められた資料の表題と位置が記されている。トゥルースはカメリオの健気な努力の一端に触れ、温かな気持ちに胸を満たした。
(姿は見えなくても、君の為すことには惚れ直させられるな)
そっと紙束に綴られた筆跡を指先でなぞり、トゥルースは口許を綻ばせる。しかし、頁を捲っていくうちに目早く見付けたカメリオのものとは異なる筆跡が、トゥルースの眉間を曇らせた。
(マリウスが此処で受け入れられているのは、喜ばしいことではないか……何を妬むというんだ)
補足するように書き加えられているのは、ズバイルとミッケの字のようだ。温かな気持ちに胸を満たしていたはずのトゥルースは、自身が思っていたよりも狭量な男であることを思い知り、瞬きをする。
二人の善意の行いはカメリオの心の支えとなるものであり、新たに商会支部員となった彼が小僧たちから受け入れられつつある証しだと、商会支部の長としてはトゥルースも理解している。だが、カメリオに対する子供じみた独占欲が湧くのは、彼への教育を占有できないことが引き金になるようだ。
「我ながら傲慢だな……君を飾るのは全て、俺でありたいなんて」
多くの恋を知りながらも、バハルクーヴ島に来るまでは、カメリオに出会うまでは、気付きもしなかった自身の一面は、トゥルースにとってはなかなかの難敵だ。にわかに湧いた嫉妬心を閉じた頁に挟み込み、カメリオの筆跡を頼りに目当ての資料を見付けたトゥルースは、誰に聞かせるでもない咳払いを一つして書庫を後にした。
「――それで、雨季になるまで帰って来なかったのはどうしてなの?」
イフラースの供を一通りこなし、久しぶりに立ち寄った『さざなみ亭』でカメリオを待ち受けていたのは、母エンサタの抱擁と詰問であった。苦しい程の抱擁を受けながらの、答えに苦しむ言葉に対して、カメリオは目を白黒させて言葉を絞り出す。
「家に、帰ったら……甘えそうに、なるし……」
「本当にそれだけ?」
カメリオの背丈はエンサタに商会入りを告げた時よりも少し高くなったが、こうして訊ねられると、カメリオはまるで小さな子供に戻ったように、言い訳が思い付かなくなってしまう。抵抗のつもりの沈黙も、照れ臭くも懐かしい母の体温に、程なく溶かされてしまった。
「…………母さんに会ったら、話さなくていいことまで、話しそう……だから」
「あら。母さんの口はそんなに軽くないわよ」
カメリオは母エンサタには隠し事ができない自分の性格を、よく理解しているつもりだ。日に日に募るカメリオの胸の内に抱える気持ちを、正直に打ち明けるのが恐ろしいと思う心が、カメリオを意気地無しにしていた。
「……心配掛けてたのは、ごめん」
しかしこうして、久しぶりに実家であり母エンサタが営む店にカメリオが足を踏み入れたのは、ビオラに言伝を頼んでまで自身を案じてくれた母に対して、申し訳無い気持ちがあったからだ。心配を掛けてしまっていたことは、抱擁の強さからも痛いほどに伝わってくる。
「少し早いけどお昼、食べていきなさい」
カメリオの申し訳なさと綯い交ぜになった情けないような気持ちが伝わったのか、エンサタは抱擁を解いて厨房へと向かう。まだ腕の感触が残る肋を撫で、カメリオは決まり悪く笑って頷いた。
トゥルースはふと、いつもの調子でカメリオに書庫から資料の調達を頼むべく、目線を移した。当然、いつもはあるカメリオの姿は、そこには居ない。
(傍らに君の愛らしい横顔が在ることに、俺はすっかりと慣れてしまっていたようだ)
若干の自嘲を込めた溜め息を漏らしたトゥルースは、書庫へ向かうべく席を立った。自分が代わりを引き受けるとばかりにトゥルースの執務机に駆け寄ってきたズバイルを微笑んで制し、立ち入った書庫にはひんやりとした紙の匂いが立ち籠もっている。
麻紐で束ねた質の悪い紙束が整頓された書棚から目当ての資料を探す中で、トゥルースの視線は書庫で見掛けるとは思ってもいなかった筆跡に吸い寄せられた。
「これは――マリウスの字だな」
ペンを握るには些か力強い筆跡で書かれた『資料の置き場所』という表題通り、束ねられた紙には書庫の中に収められた資料の表題と位置が記されている。トゥルースはカメリオの健気な努力の一端に触れ、温かな気持ちに胸を満たした。
(姿は見えなくても、君の為すことには惚れ直させられるな)
そっと紙束に綴られた筆跡を指先でなぞり、トゥルースは口許を綻ばせる。しかし、頁を捲っていくうちに目早く見付けたカメリオのものとは異なる筆跡が、トゥルースの眉間を曇らせた。
(マリウスが此処で受け入れられているのは、喜ばしいことではないか……何を妬むというんだ)
補足するように書き加えられているのは、ズバイルとミッケの字のようだ。温かな気持ちに胸を満たしていたはずのトゥルースは、自身が思っていたよりも狭量な男であることを思い知り、瞬きをする。
二人の善意の行いはカメリオの心の支えとなるものであり、新たに商会支部員となった彼が小僧たちから受け入れられつつある証しだと、商会支部の長としてはトゥルースも理解している。だが、カメリオに対する子供じみた独占欲が湧くのは、彼への教育を占有できないことが引き金になるようだ。
「我ながら傲慢だな……君を飾るのは全て、俺でありたいなんて」
多くの恋を知りながらも、バハルクーヴ島に来るまでは、カメリオに出会うまでは、気付きもしなかった自身の一面は、トゥルースにとってはなかなかの難敵だ。にわかに湧いた嫉妬心を閉じた頁に挟み込み、カメリオの筆跡を頼りに目当ての資料を見付けたトゥルースは、誰に聞かせるでもない咳払いを一つして書庫を後にした。
「――それで、雨季になるまで帰って来なかったのはどうしてなの?」
イフラースの供を一通りこなし、久しぶりに立ち寄った『さざなみ亭』でカメリオを待ち受けていたのは、母エンサタの抱擁と詰問であった。苦しい程の抱擁を受けながらの、答えに苦しむ言葉に対して、カメリオは目を白黒させて言葉を絞り出す。
「家に、帰ったら……甘えそうに、なるし……」
「本当にそれだけ?」
カメリオの背丈はエンサタに商会入りを告げた時よりも少し高くなったが、こうして訊ねられると、カメリオはまるで小さな子供に戻ったように、言い訳が思い付かなくなってしまう。抵抗のつもりの沈黙も、照れ臭くも懐かしい母の体温に、程なく溶かされてしまった。
「…………母さんに会ったら、話さなくていいことまで、話しそう……だから」
「あら。母さんの口はそんなに軽くないわよ」
カメリオは母エンサタには隠し事ができない自分の性格を、よく理解しているつもりだ。日に日に募るカメリオの胸の内に抱える気持ちを、正直に打ち明けるのが恐ろしいと思う心が、カメリオを意気地無しにしていた。
「……心配掛けてたのは、ごめん」
しかしこうして、久しぶりに実家であり母エンサタが営む店にカメリオが足を踏み入れたのは、ビオラに言伝を頼んでまで自身を案じてくれた母に対して、申し訳無い気持ちがあったからだ。心配を掛けてしまっていたことは、抱擁の強さからも痛いほどに伝わってくる。
「少し早いけどお昼、食べていきなさい」
カメリオの申し訳なさと綯い交ぜになった情けないような気持ちが伝わったのか、エンサタは抱擁を解いて厨房へと向かう。まだ腕の感触が残る肋を撫で、カメリオは決まり悪く笑って頷いた。
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これからもどうぞ、トゥルース達の恋と奮闘の日々をお見守りください!