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第一部 以仁王の挙兵
05 治承三年の政変
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……ことの起こりは「治承三年の政変」にあるとされる。
治承三年(一一七九年)六月、平清盛の娘、盛子が死んだ。
これだけなら単なる悲劇であったが、問題は盛子の死別した夫が近衛基実といい、藤原北家の出身であり、五摂家──近衛家の祖だったということである。
そして基実の死後、盛子は彼の遺した藤原摂関家の広大な領土を相続していた。ところがその盛子が死んだあとに、後白河法皇が、
「その遺領は本来は藤原のもの。異姓の者(平家の盛子のこと)が押領するは、よろしくない」
と言い出し、その領地を全て没収してしまった。
これに清盛が憤って抗議しようとしたのもつかの間、翌七月、今度は清盛が期待をかけた嫡子・重盛が没してしまう。
歎き悲しむ清盛をよそに、また後白河法皇が除目人事に意を用いて、重盛の知行国・越前を没収してしまう。
「おのれ、院(後白河法皇のこと)め、われら平家を追うか」
そうはさせじと清盛は、十一月、福原から数千騎の軍勢を繰り出し、京に入った。
清盛はこれまでの人事を覆して、平家の知行国を十七ヶ国から三十二ヶ国とした。
これにより、「平家物語」において、「日本秋津島は僅かに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」と語られるようになった政変である。
「院よ、ご自重ありたし」
清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、その領地を没収した。院の近臣や皇子たちも例外ではなく、その領地を召し上げられ、こうして後白河法皇の院政は終わった。
いっときは。
*
この「治承三年の政変」により、平家は軍事、警察における独占のみならず、政治・行政の権力を手にしたため、この国初の武家政権の誕生と見る向きもある。
いずれにせよ、今まさに「平家にあらずんば人にあらず」という、平氏政権が現出し、この国はまさに、平家──清盛の意のままになるかと思われた。
が、何事にも反動はつきもので、たとえば国司が交代した(させられた)相模や上総は、現地の豪族である三浦義明や上総広常が、新たな目代(国司の現地代理人)との衝突を余儀なくされ、憤懣を抱いた。
それでも豪族らはまだ、生活を保たなければならないため、直接的な行動には出ずにいた。
問題は皇族である。
領地を召し上げられた上に、平家が高倉天皇からその子の安徳天皇に皇位を譲らせた結果、皇位を継げなくなった皇族がいた。
その名を、以仁王といった。
*
以仁王は、後白河法皇の第三皇子であったが、皇位は弟である高倉天皇の手に渡った。これは高倉天皇の母が平滋子という女性だったことによる。
滋子は堂上平家(公家の方の平家)の出で、清盛の妻・徳子の姉であった。
それでもまだ、高倉天皇の譲位の相手としての期待を持っていたが、それも治承三年の政変により、高倉天皇から、まだ数え年三歳(一歳二ヶ月)の幼子、安徳天皇へと皇位が受け継がれたため、打ち砕かれてしまう。
「此は、何としたことじゃ」
以仁王は平家を恨んだ。
恨んで、恨んで、恨み抜いた。
その結果。
「そうじゃ、平家など、倒してしまえばよいではないか」
という結論に至った。
そして以仁王は英邁であり、古今東西の書を読み、学問を善くした。
その以仁王が、いかに平家を倒すかを考えた。
考えた結果が、源氏を味方にする、ということである。
「平治の乱にて、平家の膝下とされた源氏。これは、使える」
以仁王は平家を倒すには、「治承三年の政変」と同じく、軍事クーデターを起こすほかないという結論を得ていた。
であれば、軍事力――兵力を糾合する必要がある。
それも、平家ではない。
そこで目をつけたのが源氏であった。
「摂津源氏の源頼政は、平家に従っているが、いろいろと不満はあるはず。まずこれを、味方につける」
京に近い摂津を根拠とする摂津源氏・源頼政は、洛中を制圧するのに、大いに期待が持てる。
何より、以仁王には、清盛が頼政をやがて切り捨てるであろう証拠が、見えていた。
正確には、切り捨てると判じてもおかしくないだけの傍証があった。
だから頼政の説得はできる。
問題はそれからだ。
「一方で、河内源氏の源頼朝は流人の身。これを説得するには……まず、使いがいるな」
何しろ、遠隔地にいる相手だ。
書で伝えるにしても、持っていく者が要る。
できうれば、書を渡すその場で、会話で説得する人物であってほしい。
「さて、どうするか……」
思い悩む以仁王。
その耳に、何者かの侵入する、幽けき気配を感ずる。
「……何者だ」
「これはご無礼を」
侵入者は、熊野から来たと言った。
「熊野?」
「へい、十郎といいまさぁ、宮さま」
*
十郎は源氏の人間で、先の平治の乱において敗者となった。そこで、姉を頼って、熊野の新宮(熊野速玉大社)に身を寄せた。十郎の姉は、新宮の僧侶や神官の長を務める者に嫁いでいた。
たつたはらの女房。そう呼ばれた姉は、夫を支え、その夫はやがて、熊野の別当(熊野三山を統べる役目)を務めることになった。
だが夫はその一年後に死に、姉は落飾して鳥居禅尼と名乗った。
「……このまま熊野にいてもいいが、平治の乱の敗者のおれは、いつまで経っても世に出れない」
十郎には憤懣があった。
このまま姉の――鳥居禅尼の庇護の下にいるのはいい。
だがそれだけだ。
そうではなくて、自らの手で世に出たい。
河内源氏の係累はほとんどが殺されたか、流されたかしている。
今、まともに動けるのは自分だけではないか。
平清盛は高齢だ。もうすぐ死ぬ。
であれば、その機に自分が動けば。
「河内源氏の一番になれるのでは」
十郎は熊野の情報網を使って、おのれの血族である源氏の人々が今、どうなっているか探った。やがて来るであろう、平清盛の死にあたり、その揺り返しに「使える」一族がいないか、調べるために。
こうして十郎は調べた。伊豆の頼朝、木曽の義仲、奥州の義経らのことを。
「そうやって調べるうちに、宮さま……あなたがおれたち源氏に秋波を送っているって(色目を使うの意)、気づきましてね」
そう言って十郎――新宮十郎こと、源行家は上目遣いで以仁王を見た。
治承三年(一一七九年)六月、平清盛の娘、盛子が死んだ。
これだけなら単なる悲劇であったが、問題は盛子の死別した夫が近衛基実といい、藤原北家の出身であり、五摂家──近衛家の祖だったということである。
そして基実の死後、盛子は彼の遺した藤原摂関家の広大な領土を相続していた。ところがその盛子が死んだあとに、後白河法皇が、
「その遺領は本来は藤原のもの。異姓の者(平家の盛子のこと)が押領するは、よろしくない」
と言い出し、その領地を全て没収してしまった。
これに清盛が憤って抗議しようとしたのもつかの間、翌七月、今度は清盛が期待をかけた嫡子・重盛が没してしまう。
歎き悲しむ清盛をよそに、また後白河法皇が除目人事に意を用いて、重盛の知行国・越前を没収してしまう。
「おのれ、院(後白河法皇のこと)め、われら平家を追うか」
そうはさせじと清盛は、十一月、福原から数千騎の軍勢を繰り出し、京に入った。
清盛はこれまでの人事を覆して、平家の知行国を十七ヶ国から三十二ヶ国とした。
これにより、「平家物語」において、「日本秋津島は僅かに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」と語られるようになった政変である。
「院よ、ご自重ありたし」
清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、その領地を没収した。院の近臣や皇子たちも例外ではなく、その領地を召し上げられ、こうして後白河法皇の院政は終わった。
いっときは。
*
この「治承三年の政変」により、平家は軍事、警察における独占のみならず、政治・行政の権力を手にしたため、この国初の武家政権の誕生と見る向きもある。
いずれにせよ、今まさに「平家にあらずんば人にあらず」という、平氏政権が現出し、この国はまさに、平家──清盛の意のままになるかと思われた。
が、何事にも反動はつきもので、たとえば国司が交代した(させられた)相模や上総は、現地の豪族である三浦義明や上総広常が、新たな目代(国司の現地代理人)との衝突を余儀なくされ、憤懣を抱いた。
それでも豪族らはまだ、生活を保たなければならないため、直接的な行動には出ずにいた。
問題は皇族である。
領地を召し上げられた上に、平家が高倉天皇からその子の安徳天皇に皇位を譲らせた結果、皇位を継げなくなった皇族がいた。
その名を、以仁王といった。
*
以仁王は、後白河法皇の第三皇子であったが、皇位は弟である高倉天皇の手に渡った。これは高倉天皇の母が平滋子という女性だったことによる。
滋子は堂上平家(公家の方の平家)の出で、清盛の妻・徳子の姉であった。
それでもまだ、高倉天皇の譲位の相手としての期待を持っていたが、それも治承三年の政変により、高倉天皇から、まだ数え年三歳(一歳二ヶ月)の幼子、安徳天皇へと皇位が受け継がれたため、打ち砕かれてしまう。
「此は、何としたことじゃ」
以仁王は平家を恨んだ。
恨んで、恨んで、恨み抜いた。
その結果。
「そうじゃ、平家など、倒してしまえばよいではないか」
という結論に至った。
そして以仁王は英邁であり、古今東西の書を読み、学問を善くした。
その以仁王が、いかに平家を倒すかを考えた。
考えた結果が、源氏を味方にする、ということである。
「平治の乱にて、平家の膝下とされた源氏。これは、使える」
以仁王は平家を倒すには、「治承三年の政変」と同じく、軍事クーデターを起こすほかないという結論を得ていた。
であれば、軍事力――兵力を糾合する必要がある。
それも、平家ではない。
そこで目をつけたのが源氏であった。
「摂津源氏の源頼政は、平家に従っているが、いろいろと不満はあるはず。まずこれを、味方につける」
京に近い摂津を根拠とする摂津源氏・源頼政は、洛中を制圧するのに、大いに期待が持てる。
何より、以仁王には、清盛が頼政をやがて切り捨てるであろう証拠が、見えていた。
正確には、切り捨てると判じてもおかしくないだけの傍証があった。
だから頼政の説得はできる。
問題はそれからだ。
「一方で、河内源氏の源頼朝は流人の身。これを説得するには……まず、使いがいるな」
何しろ、遠隔地にいる相手だ。
書で伝えるにしても、持っていく者が要る。
できうれば、書を渡すその場で、会話で説得する人物であってほしい。
「さて、どうするか……」
思い悩む以仁王。
その耳に、何者かの侵入する、幽けき気配を感ずる。
「……何者だ」
「これはご無礼を」
侵入者は、熊野から来たと言った。
「熊野?」
「へい、十郎といいまさぁ、宮さま」
*
十郎は源氏の人間で、先の平治の乱において敗者となった。そこで、姉を頼って、熊野の新宮(熊野速玉大社)に身を寄せた。十郎の姉は、新宮の僧侶や神官の長を務める者に嫁いでいた。
たつたはらの女房。そう呼ばれた姉は、夫を支え、その夫はやがて、熊野の別当(熊野三山を統べる役目)を務めることになった。
だが夫はその一年後に死に、姉は落飾して鳥居禅尼と名乗った。
「……このまま熊野にいてもいいが、平治の乱の敗者のおれは、いつまで経っても世に出れない」
十郎には憤懣があった。
このまま姉の――鳥居禅尼の庇護の下にいるのはいい。
だがそれだけだ。
そうではなくて、自らの手で世に出たい。
河内源氏の係累はほとんどが殺されたか、流されたかしている。
今、まともに動けるのは自分だけではないか。
平清盛は高齢だ。もうすぐ死ぬ。
であれば、その機に自分が動けば。
「河内源氏の一番になれるのでは」
十郎は熊野の情報網を使って、おのれの血族である源氏の人々が今、どうなっているか探った。やがて来るであろう、平清盛の死にあたり、その揺り返しに「使える」一族がいないか、調べるために。
こうして十郎は調べた。伊豆の頼朝、木曽の義仲、奥州の義経らのことを。
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