笹竜胆(ささりんどう)咲く ~源頼朝、挙兵~

四谷軒

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第二部 頼朝、挙兵

22 海

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 源頼朝は麾下三百騎を集め、出陣を告げた。
 進む先は相模さがみ土肥どひ
 この時点で付き従っている土肥実平の領する土肥へ向かい、しかるのちに迫る平家――大庭景親を相手する、という作戦だ。

「しかも大庭の背後から、三浦が攻めかかる」

 誰ともなく言い出したことだが、いつの間にか北条の宗時が唱えたことになっていた。
 それはいい、そうすべきだと彼が言いつづけた結果である。
 頼朝は否定も肯定もしなかったが、いずれにしろ、このまま伊豆で待ち構えていても、事態は好転しない。
 それだけを言い、弓を張り、鎧兜よろいかぶとを身にまとった。
 政子はというと、娘の大姫と共に、伊豆山権現に行くことになった。

「二人の逢瀬の場所か」

 宗時はそう捉えて、義時に政子と大姫を連れて行くよう、命じた。
 すでに父・時政が甲斐に発っているので、総領息子の宗時が北条を仕切っていた。

「私も、頼朝どのに扈従こしょうしたいのですが」

「だから、頼朝どのの妻の政子に扈従するではないか」

 何か、うまいことを言った風な兄の宗時に、義時は苦い顔をした。
 兄は兄なりに、政子と義時に気を遣っているらしいが、どうにもこのような物言いは苦手だ。

「じゃあ行きましょう、義時」

 あんなことを言いやがる。
 さすがの義時も、この政子の言葉には閉口した。
 でも大姫がよちよちやって来て、裾を引っ張るので、顔をほころばせてしまう。

「……わかりました」

「頼んだぞ、義時。伊豆山権現は箱根権現とならんで、修験しゅげんの地。ここなら、政子と大姫を預けられる」

「……はい」

 そして頼朝からも「頼んだぞ」と言われては、断る術もない。
 義時は一礼して承諾の意を示し、政子と大姫と連れ立って、伊豆山権現へと向かった。



「伊豆山権現、か……」

 頼朝が征くのを見送ったあと、政子は大姫を抱き、義時を伴って、伊豆山へと向かった。
 頼朝は、何を考えているのかわからないところがある。
 だが、あとから思うと、「こうだったのか」ということをする。
 だから、この伊豆山行きにも、何か裏があるのだろう。
 そんなことをぼんやりと考えながら、政子は海岸沿いを歩いていた。
 暑い。
 それにしても、暑い。
 八月の伊豆は特に暑い。
 うだるような暑さである。
 政子は肌にべとつくころもが厭になった。

「泳ぐ」

 あと少しで伊豆山権現というところで――ふもとの砂浜で、ついに政子は衣を脱ぎ捨てた。
 大姫はいつの間にか義時に抱かれてすうすう寝ている。
 泳ぐには好機と言えた。

「姉上」

 義時は叫んで止めようとしたが、大姫に気を遣って、小声でしかとがめられない。
 前から裸で泳ぐのが好きな姉だったが、何も今やらなくてもいいではないか。
 赤くなったり青くなったり、百面相をしながら義時はそう思った。
 そうこうするうちに、政子はぐんぐんと泳ぎ進んでいってしまう。
 今、政子の行く手には、真鶴が見えている。
 舟ひとつないのか、綺麗な半島が、まるで首を突き出すように伸びている様子が、よく見える。

「東、か……」

 頼朝は、三浦の願いをかなえると言った。
 そのために、東を指し示せ、と。
 政子は、三浦の願いが何かは知らないが、おそらく東へ進出して勢力を広げることだろうと思う。
 そのために、三浦義澄の兄・杉本義宗などは安房に進出したという。
 そういえば、安房の北、上総に下総は、上総広常や千葉経胤といった、頼朝の豪族が多い。

「では頼朝どのは、三浦と共に大庭を打ち破り、しかるのちに相模から武蔵、武蔵から房総へと向かうのか」

 それはちがう。
 そもそも、大庭景親三千騎に、頼朝三百騎と三浦三百騎がはさみうちしたとして、勝てるのか。
 しかも大庭は、梶原という武者を伊豆に差し向けたといううわさがある。
 おそらく、伊豆の豪族に頼朝の後背を襲わせる策だろう。

「それは予見できたこと。問題は、そこから」

 政子は思い切り潜った。
 海水が心地よい。
 透き通るような青の中、政子の思考はめぐる。
 頼朝は、大庭と戦う気でいる。
 負けるというのがわかっていながら。
 それは、たとえ負けるとしても武士としての意地で、というのではない。
 もっと透徹した論理に基づくものだ。
 そもそも、それは三浦を頼り、三浦の願いをかなえるといっているではないか。
 息の限界を感じる。
 政子は海面に上がった。
 真鶴半島が見える。
 その名の由来を、たしか頼朝から聞いたことがあった。

「そうか……」

 頼朝は、この戦いに負けてから、房総へつもりだ。
 三浦の願いをかなえるために。
 義時が、早く帰って来いと身振りで訴えている。
 大姫は、砂浜に寝かせたらしい。

「もう少し」

 政子は泳ぐ。潜る。
 思考の深みに潜っていくような。
 そういう体感が得られる、潜水が好きだ。
 頼朝は箱根権現とならぶ伊豆山権現と言った。
 その伊豆山権現に政子と大姫をあずけるのは、父・時政を甲斐武田にあずけるのと、同義。

「人質。伊豆山に伊豆を頼朝どのにつけるために。箱根も味方させるために」

 負けるとわかっているから、そうやって逃げ隠れ、匿うことを期待しているのか。
 いやちがう。
 そもそも、
 あの、何もかも計算づくで冷め切った男が。
 平治の乱で、負けいくさは身にみているだろうに。

「では、なぜ」

 そろそろ浮上しなくては。
 海面に出る瞬間。
 夏のぎらつく太陽を見た瞬間。
 政子は気がついた。
 

最初はなから清盛入道と……? 遥か遠く、福原にいる男と」

 戦っていたというのか。
 万里を越えて。
 見えない相手と。
 そのための負けいくさ。
 そのための三浦。

「すべては……つながっていた」

 そして頼朝は目指すだろう。
 おのれを守るために、あの地へ。
 そういえばあの地は、そろそろ笹竜胆ささりんどうが咲く頃だ。
 政子は、あの地の方向へ目を向けた。

「それにしても……何という回り道だろう」

 それでも、それこそが近道だ。
 あの地への。
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