笹竜胆(ささりんどう)咲く ~源頼朝、挙兵~

四谷軒

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第四部 富士川の戦い

45 兄弟

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 ……奥州。
 源頼朝がこれから築く己の勢力の手本となった、奥州藤原氏が盤踞ばんきょする地。
 その奥州でも暑い最中さなか、揚羽蝶が舞い飛ぶ草原で。
 ひとりの若者が、絹布に記された文字を読んでいた。

「最勝親王、か。大きく出たね」

 絹布は最勝親王──以仁王もちひとおうの令旨である。
 かつて源行家という男がこの最北の地を訪れ、若者を探し当ててもたらしたものだった。

「……要は平家を倒せばいいんだろう?」

 ばかなことだ。
 若者はそう思った。

「なら、清盛入道の首を、取っちゃえばいいじゃんか。寝てるところを、バッサリ、とね」

 若者は手刀で空を切った。何度か切った。
 やがて飽きたのか、もう一方の手に持っていた絹布の令旨も投げ出し、と地に寝転んだ。
 上空を見上げる。
 鳥が飛んでいる。

「まるで鶴が飛び立つような、か」

 鳥瞰する視点。
 それは源頼朝の持つ、天賦の才なのだろう。

「僕にはあるかな……いや、無いか」

 無いなら無いでい。
 ただ、鳥も飛ぶだけではない。
 ついばむには、餌食えばむには、急降下して、捕えなければならない。

「爪やくちばしを使って……そっちの方は、僕が得意かな?」

「九郎さま」

 若者――九郎のさかさまの視点に、ひとりの法師武者が立った。

「武蔵坊か」

秀衡ひでひらさまがお呼びです」

「またか」

 九郎は立ち上がった。
 以仁王の令旨がもたらされてからこっち、いつもこうだ。
 やれ挙兵しろ、奥州の兵を連れて行け。
 いつもそればかり。

「……そんな奥州兵ものを連れて行ってみろ、兄上は、むくれるぞ」

「むくれますか」

「ああ」

 九郎はわざとふくれ面をする。
 武蔵坊はおごそかに沈黙を守ったため、つまらなさそうに、顔を戻した。

「武蔵坊」

「はい」

「兄上はな、巣を作りたいんだ」

「巣、ですか」

 武蔵坊は地面に目を落とす。
 そこには、蟻の巣があった。
 蟻たちは、せっせと捕らえた餌を巣に運んでいる。

「そうさ」

 九郎も目を落とした。
 実に楽しそうな表情で。

「どこぞに……たぶん、笹竜胆ささりんどうが咲く、あの地かな……そこに巣作りをする気だ」

 とてもうつくしい花だ。
 青紫の、うっとりする色をしている。
 九郎がそう語るのを武蔵坊は黙って聞いていた。

「……まあ、そういう、うつくしい花咲く地に、奥州武者に来て欲しくないだろう」

「来て欲しくないですか」

 戦力増強は、望むところではないのだろうか。
 九郎はその武蔵坊の思惟を否定する。

「その巣は兄上の群れしか入れない。ちがう色の群れは、入れない」

 だから九郎は秀衡――藤原秀衡の要請を断ってきた。

「兵は要らない。話のわかる奴だけ、いればいい。武蔵坊――お前のような」

「恐縮です」

「そういう――そういう少数なら、兄上も『しかたない』と受け入れるだろう。そこからだ、そこから、僕は兵を得る。平家を啄むために」

 九郎は手刀で空を切る。
 真一文字に振ったそれは、舞い飛ぶ蝶を落とした。
 蝶は――平家の家紋である。

「じゃ、行くか」

 九郎は立ち上がった。
 秀衡には、大人になるまで世話になった恩はある。
 まずはその恩に報い、顔を知らない兄に、会いに行こう。
 この兄なら、今まで誰にも理解できなかった、おのれの才を理解できるだろう。

「そうなれば、面白い」

 九郎はずっと鬱屈していた。
 赤子の頃に母に抱かれて逃げ、少年になっても逃げ、そして今、大人になっても逃げて奥州にいる。

「逃げるのも面白いけどね、たまには攻めなきゃ」

 ついて来いと武蔵坊に言って、九郎は向かう。
 平泉の、奥州藤原、秀衡の館に。

 ――源九郎義経の短く、それでいて激しい戦いの日々が、今ここに始まる。



 十月二日。
 千葉常胤と上総広常の助力を得た頼朝は、太日川ふといがわ(江戸川)、隅田川を越え、武蔵へと足を踏み入れた。

よ」

 頼朝は事前に、父・義朝に若い頃から付き従っていた、足立遠元を召喚した。遠元は武蔵の勢族である葛西清重を同道しており、清重は秩父一族であり、同じ秩父一族である江戸重長や畠山重忠らと、があった。

「畠山重忠には、三浦義明のことがある。今、にしたがえば、三浦との和をとりなすと伝えよ」

 この頃には、頼朝はおのれのことを君主と意識させていた。
 そのために、笹竜胆ささりんどう咲くあの地に入ることを、当面の目当てとなしていた。

「……これは三浦義澄からの申し出もあるゆえ、ぜひとも成し遂げて欲しい」

 畠山重忠は、三浦義澄を追尾中に、いわば三浦側の暴走によって戦端を開いた。
 頼朝と義澄は、そこを考慮に入れていた。

「うけたまわりました」

 遠元はうやうやしく一礼して、それから「では、江戸重長も同じく、したがわせましょう」とつけくわえた。
 だが頼朝は首を振る。

「畠山は三浦とのいきさつがあるから、予の前に出られぬ。それはわかる。だが江戸はどうか。畠山と三浦との争いに乗じた。まず会いに来て、わびに来るべきではないか」

 千葉常胤と上総広常という両翼を得て、今や頼朝は上空に舞い、飛んで君臨する猛禽だった。
 遠元が言いよどんでいると、頼朝は遠元の隣の葛西清重に江戸重長を殺せと命じた。

「殺さば、江戸重長の所領をやろう。どうか」

「いえ」

 清重はそれを断る。
 所領を得るのは、一族を養うため。
 同じ一族である江戸を殺すに忍びない――と。

「……そうか」

 頼朝はそれを許した。
 許すということで、命を奪うも奪わないのも、おのれの裁量であることを示すために。
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