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第三部 河越夜戦
39 伊勢新九郎の夢
しおりを挟む汝や知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は
飯尾彦六左衛門
北条新九郎氏康は、馬上、ついに前方に扇谷上杉朝定がいるのを発見した。
扇谷上杉の陣から古河公方の陣への直線上、幾度も馬で往復して出来上がった道を、手勢を連れて、馬を馳せている。
「扇谷上杉朝定!」
氏康は大音声で、朝定を呼ぶ。
朝定はぎくりとして、つい振り向いてしまう。
その反応で、氏康は声をかけた相手が間違いなく朝定であることを確認した。
「相違ありません、扇谷上杉です」
夜目の利く風魔小太郎も肯定する。
朝定は馬を急がせるが、その時点で、清水小太郎吉政がさらに上回る速さで馬を飛ばしていた。
「待ちやがれ!」
「……くっ」
「殿! ここはわれらにお任せを!」
朝定と共にいるのは、難波田善銀の甥、難波田隼人正とその三人の息子が率いる武者たちで、いずれもこれはと善銀が見込んだ、選りすぐりの武者たちだった。
「しゃらくせえ!」
清水小太郎が金棒を右に左に振り回し、隼人正と息子たちを薙ぎ倒していく。白備えたちも抜刀して、武者たちに突っ込んでいく。
「猪助! われらも!」
「承知!」
風魔小太郎と二曲輪猪助も手裏剣を飛ばして、清水小太郎らを援護する。
……そして、氏康は、まっしぐらに朝定に近づいていく。
「扇谷上杉朝定! 覚悟!」
氏康が近づきざまに、朝定が抜くより早く、抜刀する。
「……がっ」
朝定は肩口から袈裟懸けに斬られ、落馬する。
「おのれぇ……ここで予が敗れても……きっと……扇谷上杉は……」
朝定が呪いのようなうめき声をあげる。
「………」
氏康が馬から下りる。
……そして、氏康の次の言葉は、朝定の想像を超えていた。
「扇谷上杉朝定。『幕命』により、そなたを処断いたす」
伊勢新九郎の夢
……時代は少しさかのぼる。
場所は京。
東山。
八代将軍を務めた足利義政は、自身の畢生の夢と位置づけた、慈照寺(のちの銀閣寺)の完成を夢見ていた。
観音殿(のちの銀閣)はほぼできあがっている。
あとは、銀を手に入れれば。
銀を、銀箔にして、貼りさえすれば。
「富子は金銭を出さなかったが……見よ、あと少しよ」
義政の妻、日野富子は潤沢な資金を所有していたが、この義政の芸術に対して理解を示さず、それを多少なりとも出すことはなかった。
そして義政は、その観音殿にて、一人の来客を待たせていた。
「……貞宗、足労じゃの」
「恐悦至極に存じまする」
伊勢貞宗。
室町幕府政所執事。
応仁の乱により衰退の一途をたどる室町幕府を支えた名臣として知られる。
貞宗は、義政の依頼により、銀の調達に奔走し、出羽で採掘された銀の確保に成功し、あとは京に運ばれるのを待つのみ、という段階に入っていた。
「本日、臣・貞宗が参りましたのは、ほかでもございません。ご所望の銀についてでございまする」
「うむ。もしかして、もう届いたのか?」
「それが……その……」
貞宗は言葉を濁す。
しかし、義政の強い視線を受け、ついに口を開いた。
「その銀が、失せました」
「は?」
義政の顔が硬直する。
観音殿は、もうできあがるのだ。
あとは、銀箔を貼れば完成となる。
銀箔が無ければ、画竜点睛を欠く。
そんな。
そんなことが。
「許されると思っておるのかッ」
優柔不断であり、事なかれ主義であるとされる義政であるが、この時ばかりは激怒した。
義政は、政治はともかく、文化にかけては一流の人物である。それが、最高傑作として作り上げている作品を、叩き壊されたも同然の仕打ちに深い、深い怒りをおぼえた。
「何故じゃあ……何故ぇ……予の……銀を……」
「恐れ入ります」
ここで観音殿に、三人目の人物が入って来た。
その人物は利発そうな目鼻立ちをしており、見る者にさわやかな印象を与えた。
義政も一瞬、怒りを忘れたほどである。
「誰じゃ、おぬしは」
「伊勢新九郎と申します」
のちに、北条早雲として知られる人物である。
貞宗は、伊勢新九郎を義政に紹介する。
「この新九郎はわが従兄弟で、こたびの銀の調達に、諸国を駆け回ってくれた者でございます」
「何……それでは失くしたのは、お前か?」
義政の目に、力がこもる。
「それは誤解です」
新九郎は説明する。
出羽の銀山から関東まで銀は運ばれた。しかしそこで、扇谷上杉定正にその銀の所在を察知されてしまう。扇谷上杉の家宰・太田道灌は反対したが、定正はその銀を強奪してしまう。
定正は幕府の追及を恐れ、なんと仇敵である山内上杉を抱き込み、果ては古河公方、さらに堀越公方まで巻き込んで、つまりは山分けをして、銀を最初からなかったものとしてしまったのである。また、のちに、このことの真相を知る道灌が事態の『解決』に動き出したとき、定正は彼を暗殺することになるのである。
「何じゃと、そんな……兄まで……」
堀越公方・足利政知は義政の異母兄である。
「よくも……ようも……」
文化芸術にかけては、右に出る者がいないとひそかに自負していただけあって、それを虚仮にされたと感じ、義政の怒りは、ついに頂点に達した。
そしてその怒りは、貞宗と伊勢新九郎の思いもよらぬ方向へと深化していく。
「……滅ぼせい」
「は? なんと……?」
貞宗が問い返す。
「滅ぼせ、と言うたのじゃ。関東の奴ばらを……特に、扇谷上杉に山内上杉……それに、古河公方に堀越公方、とにかく、誰であろうと、予の銀を食った輩を」
「……し、しかし、かの応仁からの大乱にて、もはや幕府に兵は……」
「手段は問わん。いくら歳月を重ねようが、かまわん。とにかく、滅ぼすのじゃ……ようもやってくれたのう……絶対に許さぬ。予の怒りと絶望を、奴らに思い知らせてやれ」
常に、特に政治においては自らの意志をころころと変えては周囲を困らせている義政が、こればかりは強固な意志を感じさせる迫力があった。
貞宗としては、そう言われても、幕府としては採る手段が存在しないのだとしか言いようが無かった。応仁の乱にて、守護大名は軒並み力を失い、幕府の威光も、山城国くらいしか届かない。その山城にしてからが、山城国一揆が起こる中、伊勢家が守護を務めることにより、ようやく幕府の影響下に置くことができている、という有り様だった。
「…………」
貞宗がなんと答えてよいものか、と悩んでいると、横に控える伊勢新九郎が発言を求めた。
「恐れながら」
「……苦しゅうない、申せ」
義政としては、誰でもよいから、この怒りをかなえてほしい、という心境だった。
「それでは、拙者が東へ参りましょう。むろん、即、扇谷上杉と山内上杉を討ち果たす、ということはでき申さぬ。されど、拙者、今川家に伝手がございますゆえ、そこから徐々に……と参りたい所存」
伊勢新九郎の妹は今川家に嫁いでおり、彼女は今川家の嫡男を生んでいた。
「新九郎よ、それではあまりにも迂遠ではないか」
貞宗は、いわば徒手空拳の状態から、義政の願いをかなえると言っているに等しい、その伊勢新九郎の発言に難色を示した。
「……よかろう」
だが、義政の反応はちがった。義政とて、室町幕府のお寒い現状は理解している。その現状において、それでもやろうという、伊勢新九郎の心意気やよし、と判断したのだ。
「では、伊勢新九郎、汝に命ず。金銭や兵はやれぬ。じゃが、歳月はいくらかかろうとかまわぬ。かならず、関東の奴ばらを滅ぼせ……特に、扇谷上杉と山内上杉を」
「大命、かしこまってござる」
……観音殿を退出した貞宗は、境内を歩きながら、隣の伊勢新九郎に耳打ちした。
「まずは感謝する。おかげで義政さまの気が、少しは晴れた」
「本家の貞宗さまのお役に、少しは立てて嬉しゅうござる」
「……だが」
貞宗はそこで歩みを止める。伊勢新九郎も足を止めた。
「新九郎よ、あの大命、もしやるとしたら、幕府の仕業とは分からぬようにしてくれぬか」
「……なにゆえ?」
「政の複雑さよ……義政さまとて、ああは言っても、関東とのつながりを断たれては、幕府が立ちゆかぬことは分かっておるはずじゃ……」
伊勢新九郎は、貞宗の言わんとするところを理解し、こう表現した。
「そもそも、関東とのつながりなくば、出羽の銀山の銀を手に入れることができませなんだからなぁ」
「そのとおりじゃ……では、頼んだぞ、従弟どの」
「あい分かった……従兄どの」
……こうして、伊勢新九郎は駿河へと下向し、やがて伊豆の堀越公方を討ち、扇谷上杉の勢力下にあった相模を奪った。
その過程において、扇谷上杉は、これは幕府の手によるものではないか、と疑念を抱いた。
その頃、出家して伊勢宗瑞と名乗っていた伊勢新九郎は、そこで先手を打った。すなわち、「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という霊夢を見た、つまり、夢のお告げにより、両上杉を倒すのだ、ということにした、と……。
さらに、宗瑞の息子・『伊勢』氏綱は、執権・北条家の娘を娶ったことを機に、北条と改姓してしまい、伊勢家とのつながりを隠した。
*
「……おれ自身もそういう夢を見たらしいが、まあ、それはどうでもいい。とにかく、扇谷上杉朝定よ、『伊勢』新九郎氏康、幕命により、そなたを処断いたす」
「う……嘘だッ」
河越の城外、深夜にて。
扇谷上杉朝定は、ついに北条新九郎氏康に捕捉され、追いつめられていた。だがそれでも、室町幕府の名門として、足利尊氏の天下取りに貢献した上杉家の末裔としての誇りを持って、立ち上がったところである。
「……嘘ではない。ならば、何故わが祖父・伊勢宗瑞は堀越公方を討ったのにおとがめなしなのか? 何故わが父・北条氏綱は小弓公方を斃したのに問責されないのか?」
氏康の言葉を、朝定は信じなかった。
嘘に決まっている。
本当は、幕府は問責の使者を送っているはずだ。
それを揉み消しているだけだ……この目の前の男の一族が。
「伊勢の鼠賊が……」
「そう、その伊勢という名。それが幕府の政所執事の一族・伊勢家とつながりがあると、貴殿らが認めているようにも聞こえるが?」
「だ……黙れッ」
朝定は飽くまで認めようとしない。
たとえ、何代か前の扇谷上杉が、足利義政待望の銀を奪ったとしよう。
だとしても何故、朝定自身がその罪を問われなければならない。
大体、幕府から扇谷上杉に罪を糺すという話、聞いたことが無い。
そもそも、幕府は何も言ってこないではないか。
少なくとも、朝定が扇谷上杉の家督を継いでから、これまで。
『幕府は扇谷上杉に何の使者も書状も送ってこないではないか』。
「………あ」
そこまで考えて、朝定は、ひとつの可能性に気がついた。
氏康はその朝定の胸中を察したか察していないのか、ゆっくりと口を開く。
「もっと言おうか」
やめろ。
そこから先は、聞きたくない。
だがその朝定の願いもむなしく、氏康は言葉をつづける。
「なぜ今……『こうして扇谷上杉と山内上杉、そして古河公方と、当家が争っているにもかかわらず、京の幕府は何も言ってこないのか』」
やめろと言っているのに。
聞きたくない。
聞きたくない。
「それは、幕府が扇谷上杉と山内上杉、そして古河公方を」
氏康は敢えてまた繰り返す。
「やめろと言うておるんじゃッ」
「……見限っているという、証なのだ」
「や、やめろぉおおおおッ」
自棄になった朝定が抜刀し、氏康に斬りかかった。
清水小太郎が、風魔小太郎が、二曲輪猪助が。
氏康をかばおうと動く。
だが、氏康はそれを目で制した。
「……御免」
氏康の刀が、朝定より速く、そして鋭く走る。
「………う」
朝定のきらびやかな甲冑が、夜陰の中、月明りを浴びて、躍った。
そして、その狂った舞踊を舞い終えるように。
朝定は、泥濘の中に倒れた。
「な……ぜ……」
扇谷上杉朝定。
戦国の動乱の中、名門・扇谷上杉家に生まれながら、幼くして居城を追われ、若いながらも八万の軍勢を集め、河越へ攻め寄せ、扇谷上杉家の再興を果たそうとした。
だが、その二十二歳の短くも波乱に富んだ人生を、失意と自問の中で終えることになった。
*
「……ひとつの杉は倒した。だが、これで良かったのか……じい様、父上」
氏康は朝定の亡骸を前にして、瞑目した。
清水小太郎と白備えは扇谷上杉家の残党を掃討し、風魔小太郎は周囲に敵が近づいていないか警戒し、二曲輪猪助は河越城から来た霧隠から、城が守られたことを聞いてそれを報じてきた。
仲間たちは、まだ戦いから意識を離していない。
だというのに、自分だけ感傷に浸っていて、どうする。
「……よし」
氏康は頬をぴしゃりとたたき、気を引き締める。
「扇谷上杉朝定の首は取らぬ。ここに置いていく。それより……」
清水小太郎らが、氏康の元へ集まる。
氏康の視線が南に向く。
山内上杉家の本陣。
篝火が揺れている。
刀槍の交える音が響いてくる。
北条孫九郎綱成が、今、まさに戦っているのだ。
「……これより、山内上杉と戦っている、孫九郎を助けに向かう!」
「応!」
こうして、氏康の率いる一隊は、一路、山内上杉の本陣を目指すのであった。
*
……あとに残された、扇谷上杉朝定の遺骸に、ずるり、ずるりと足を引きずって近づく影があった。
「殿、殿ぉ……」
影の名は難波田善銀。朝定が幼少の頃から養育し、居城を失った朝定に、自身の居城・松山城を供し、そして朝定が長じてからは家宰として支え、八万の軍勢を集める立役者の一人となった老人である。
「殿……おお……」
善銀が朝定の遺骸に到達し、その顔を自らの両手で包むように触る。
「……おいたわしや……殿……」
善銀の目から、涙が滂沱としてこぼれる。
朝定は、善銀にとって息子、いやそれ以上の存在であった。
生涯をかけて支え、その扇谷上杉再興の夢を託し、かなえてくれるはずの存在であった。
「……奴らに殿の首は取らせん」
だがその朝定の体は冷たくなっており、善銀としては、最後の奉公を、と朝定の遺骸を背負った。
「殿……この善銀が共に参りまする……寂しゅうはございませんぞ……」
朝定の遺骸を背中に、善銀は、とぼとぼと歩き始めた。
「……こうしておると……殿が子供の頃を……思い出しますなぁ……」
歩む善銀の顔はなぜか笑顔であった。
それは、善銀自身の死が近づいてきて、見えた走馬灯のせいか、それとも、力いっぱい戦った朝定への思いのゆえか。
「殿……泉下で……また……見ましょうぞ……扇谷上杉再興の、夢を……」
……夜の戦場、月明りの下、その主従はどこまでも、どこまでも歩いていくのだった。
後日、北条新九郎氏康は朝定の遺骸を弔おうと捜索したが、見つかることはなかった。そして氏康は、何かを察したのか捜索を打ち切り、以後、朝定と善銀の行方は杳として知れなかった。
……こうして、扇谷上杉家は滅亡した。
伊勢新九郎の夢 了
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