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第三部 河越夜戦

40 夜戦の果て

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 天上影は変はらねど
 栄枯えいこは移る世の姿
 映さむとてか今も尚
 ああ荒城の夜半よはの月

 土井晩翠「荒城月」





 扇谷おうぎがやつ上杉朝定ともさだが討たれる前後、古河公方・足利晴氏の陣に動きがあった。
「……何事じゃ、騒々しい」
 晴氏は近侍から火急の件ということで、ほぼたたき起こされるというかたちで起こされ、かなり不機嫌であった。
「夜襲です、公方さま! 扇谷上杉と山内上杉が夜襲を受けておりまする!」
「何!」
 晴氏は急ぎ、甲冑を身に付けつつ、重臣筆頭である梁田高助を呼びつけた。高助はすでに甲冑を身に付けており、晴氏の御前に来ると、かしこまって、片膝をついた。
「高助、まかりこしました」
「おお高助、そなたを呼んだのは他でもない。なんと、北条が扇谷と山内の両上杉に夜襲をかけておるらしいのじゃ」
「存じております」
「……では、その格好は、出陣の支度ができたということじゃな」
「……は? これより、退き陣をいたすゆえ、その支度でござる」
「……は?」

 晴氏は、一瞬、高助が何を言っているか分からなかった。いや、分からないことにしたかった。
 だが高助は無情にも「ではこれで失礼いたす」と言って、早くも晴氏の前から退出しようとしていた。
「……今少し待て」
「待ちません。こうしている間にも北条が……」
「今少し待てと言うておるのじゃ、高助!」
 晴氏の激昂げっこうに、高助は恐れ入るどころか、至極迷惑そうな表情かおをして、手持ち無沙汰に佇んでいた。
がここまで出陣したのは、何のためだと思っておるのじゃ、高助」
「ええと、関東管領への義理立て。関東諸侯への顔向け……」
「左様なことではないッ。北条への……」
 このあたりで、とうとう高助の堪忍袋の緒が切れた。
「……だまらっしゃい!」
「……ひっ」
 これまで、太原雪斎の口車に酩酊していた晴氏が、一気にその酔いから醒めてしまうぐらい、迫力のある大喝であった。

「……そもそもそれがしが、今の御方様を、北条の先代・氏綱公から娘御を輿入れしてもろうたのは、何故だと思いまする?」
「そ、それは」
 梁田高助は、その娘を晴氏の正室として輿入れさせていた。そしてその娘が亡くなったところへ、敢えて北条氏綱の娘を継室に迎え入れさせていた。
「それは北条との結びつきを強め、かようなことになったときに、守ってもらうためでござる。いい加減に召され!」
「……うう」
 かつての岳父にここまで言われ、晴氏はもう、返す言葉がなくなっていた。

「……大体、こたびの出陣に、それがしも御方さまの反対でござった。であるのにここまで付き合ったのは、かような時に退く時を誤らないようにと、敢えて、でござる」
 そして高助は懐中から書状を取り出す。
「御方さまからのふみでござる」
「ふ、文じゃと……」
 晴氏は書状を高助から受け取り、それを開いて読んだ。
 そこには、晴氏の妻が輿入れの際、父・北条氏綱から、古河公方家に嫁ぐのならと、特別に教えられた、伊勢新九郎の『夢』の真実が記されていた。
「これは……」
「それがしは聞いたことがござる」
 梁田家は、古河公方家が、まだ鎌倉公方であった、はるか昔から仕えてきた家柄である。そして重臣筆頭であるので、足利義政の銀を強奪したことは、知っていて当然と言えた。

「な、なぜ黙っていたのじゃ、このようなことを」
「……知ってどうなさる? 今この時のように、関東管領・両上杉らと連れ立って北条を攻めなさるおつもりか?」
「…………」
 図星であるらしく、晴氏は沈黙する。
「なればこそ、北条家とのつながりを強めたかったのでござる。幸い、公方さまは御方さまをお気に入りになり、かようなことはならないかと思うておったのに」
 高助のその発言は、最後のあたりは愚痴というかひとり言のようになり、敬語を使わなかったが、晴氏はもう、それはどうでも良くなっていた。

 やんぬるかな。
 天下を見る夢は、終わった。
 それよりも今は、将軍家からの刺客であると判明した北条家と、どう向き合うかという現実が、晴氏に重くのしかかるのであった。






 夜戦の果て





 関東諸侯の面々もまた、この時に動き始めている。
 ただ、滝山の大石、おしの成田、天神山の藤田、秩父の上田といった大半の諸侯は逃げを打っていた。
 というのも、古河公方・足利晴氏からの使者と称する者が撤退せよと伝えてきたのを鵜呑みにしたからである。そしてこの「使者」たちは、風魔小太郎の手による者たちである。
 また、常陸の小田家は元から退去することを決めていたらしく、敢えて「騙された」かたちを取って、所領へと去っていった。しかし、これは例外中の例外である。
 それでもまだ帰らず、羽生の広田のように、抗戦の意志を示す諸侯もいたが、今度は真田家の草の者が暗躍し、周囲に陣する他の諸侯が「裏切った」と流言飛語を飛び交わした。そうすると、うかつに動くことはできず、やがて静々と退陣していくのであった。



 ……ついに、北条孫九郎綱成は、山内上杉憲政の本陣へと到達した。
 月光の中、ひるがえる竹に雀の旗印。
 綱成の目に、陣中の中央に位置する、憲政と太原雪斎の姿が見える。
 そして、山内上杉最後の守りである、本庄実忠さねただとその兵たちと……本庄藤三郎の姿も。
「……待っていたぜ、地黄八幡!」
 綱成の顔に笑みがこぼれる。こういう時だというのに、ついつい嬉しくなってしまう。困ったさがだ、と思いながら、綱成は返す。
「預けられた首、確かに持ってきたぞ。本庄……藤三郎!」
 藤三郎も嬉しげに笑い、皆朱の槍をかまえた。
 綱成も槍をかまえる。

「藤三郎、黄備えの相手は、わしに任せよ」
 藤三郎に綱成の相手をしてもらい、一方で実忠が兵の指揮を執る。
 実忠は、長野業正なりまさが出撃したあとに、太原雪斎に何か策はないのかと懇望した。
 さすがの雪斎も、最後の戦いに臨む実忠の気迫に、何もしないわけにはいかないと感じ、綱成を討ち取り、しかるのちに古河公方なり関東諸侯なりを糾合すれば、逆転とはいかないまでも、五分の戦いに持ち込めると語った。
「したが……黄備えは精強。打破は困難じゃ……」
「いえ、分かり申した、禅師。感謝いたす」
 北条綱成と黄備えを撃破すればよいというのなら、取るべき策はあると実忠は思った。
 それが、藤三郎と綱成の一騎打ちの隙に、実忠が、統率されない状態の黄備えを討つという作戦である。

け!」
 実忠が、自慢の本庄衆の兵に叫ぶ。
 手塩にかけて育て上げた兵だ。
 黄備え相手でも、遜色ない戦いができるはずだ。
「…………」
 藤三郎を前に、槍をかまえて沈黙していた綱成だが、その本庄衆の動きを見て、鋭く叫んだ。
「……かかれ!」
 そのひと言で、黄備えは綱成の意図を理解し、まるで綱成がもうひとりいるかのように、見事なまでに、実忠率いる本庄衆の相手をしていく。
「……そう簡単には勝たせてもらえぬか。だが、こうでなくてはの」
 実忠もまた、戦国に生きる、いくさ人である。北条軍最強とうたわれる黄備えを相手にして、心がおどった。

「……少しずるい気もするが、このままやらせてもらうぜ、地黄八幡!」
 藤三郎が実忠の動きを見て、槍を振りかぶる。
 綱成もまた、槍を振りかぶる。
「委細承知! それが……いくさというものだ!」
 藤三郎と綱成の槍が、轟音を立てて激突する。



「くっ……この……何故じゃ」
「どうした、上州の黄斑とら。その程度か」
 長野業正なりまさは、原虎胤の素槍を前に、苦戦を強いられていた。
 技倆うでまえ膂力りょりょくなら同等。
 だが、業正の背後には、嫡男・吉業《よしなり》がおり、それが「父上、父上」と言って負傷の痛みを訴えてくる。
 業正は、いまや吉業を疎ましく思い、足手まといだと感じていた。
「……やかましい! 吉業!」
「……ひい、父上ぇ」
「大体、お前のせいで、この鬼美濃の槍がけられないんじゃ! 邪魔立てするなら、容赦はせぬぞ!」
「そ、そんなぁ」
 吉業はすごすごと近くの木陰へと身を隠す。
 その様子を見た虎胤は歎息たんそくした。
「……上州の黄斑とらも老いたな。口ほどにもない」
「何い?」
 強がる業正を前に、ふん、と鼻息をする。
「……あの男、福島正成は、息子の北条孫九郎綱成を邪魔にしなかったぞ。それでも、わしと、よう戦った」

 むしろ息子の綱成を守るためにと、十二分の強さを発揮した正成だったが、わずかに虎胤の方が勝り、ついにたおれた。
 虎胤はその正成に、人とは、人の親とはかくあるべしと感銘を受けた。そして、この『人』である正成を討った自分を、『鬼』と思うことにした。かような出来た人物を殺すなど、自分は鬼に相違ない、と。そしてまた……。

「わしが『鬼』でなければ、強くなければ、福島正成が浮かばれぬ! そのためにもわしは負けられぬ!」
 貴様には特にな、と付けくわえて、虎胤は素槍をかまえた。
「うっ……」
 業正が恐怖する。

 気迫がちがう。
 覚悟がちがう。
 嫡男の手柄首欲しさに汲々きゅうきゅうとしてた自分などとは、格がちがう。
 こいつは。
 こいつは。

「お、鬼じゃ……」
「応。われこそは、鬼美濃。原美濃守虎胤なり」
「ひ……ひっ」
 業正は逃げた。

 面子など、どうでも良かった。
 今はただ、この鬼の手の届かぬどこか、遠くへ。

 算を乱して駆け出す業正を見て、吉業もまた、まろびつつ、また父上父上と言って、追いかけていくのであった。



 北条綱成と本庄藤三郎の死闘は、いつの間にか槍から刀によるものへと変わっていた。

 一方で、黄備えと本庄実忠率いる本庄衆も、血みどろの戦いを演じ、山内上杉憲政は恐怖のあまり腰を抜かしたほどである。
 太原雪斎が、その憲政を抱えて床几に座らせ、しっかとご覧下されと声をかけた。
「将としての務めでござる。ことここまで至った以上、最後まで見届け、そして決めなされ……『お覚悟』を」
「か、覚悟!?」
 くわくご、と発音したぐらい、憲政は動揺した。
「ぜ、禅師……覚悟とは……?」
 雪斎は合掌した。藤三郎と実忠には悪いと思っていたが、雪斎はその覚悟を決めていた。
「当然、自決の覚悟でござる。不肖、雪斎めも同行いたすゆえ、泉下あのよへ参る覚悟をお決め下され」
「…………」

 冗談ではない。
 憲政は今ですら生きた心地がしないというのに、これ以上、本当に生きていない状態になってたまるかと言いたかった。
 八万の兵で城を包囲して、勝利は約束されていたのではなかったのか。
 こんなことなら、古河公方の命を聞いて、さっさと城を総攻めしておけばよかった。それをあの長野業正めが、途中で上野こうずけから出てきて、差し出口をしおって……。

「……上野こうずけ?」
 そこまで考えて、憲政は、上野こうずけに帰るという選択肢があることに気がついた。
 そうだ。
 帰ってしまえばいい、上野こうずけに。
 今なら、誰もが戦いに夢中で、気づかれまい。

 ……憲政が、そっと床几から立ち上がり、忍び足で馬の方に歩いてくのを、誰も、隣にいた雪斎すらも感づかなかった。
 それだけ、戦いが伯仲していたのである。

「…………」
「…………」
 藤三郎も、綱成も、無言ながらも目で牽制けんせいし合ったかと思うと、次の瞬間には、切り結んでいた。
「……がっ」
「……くっ」
 剣の腕は双方互角。
 藤三郎は、剣の師である上泉信綱の稽古を思い出す。

 互角とはいえ、油断すな。
 今は互角でも、次の瞬間には、そうでなくなるやもしれぬ。
 だからこそ、今。

「……仕掛ける!」
 藤三郎の裂帛の気合に、誰もが、本庄衆が、実忠が、黄備えが動きを止める。
 唯一、綱成だけがその動きに反応した。
「……来い!」

 剣閃が舞う。飛ぶ。光る。
 その瞬間に、何度、刀が走ったか。
 何度、刃が光ったか。
 それは、藤三郎や綱成にも分からない。
 それぐらいの、忘我の一瞬。

「…………」
「…………」
 気がつくと、藤三郎と綱成の位置は入れ替わり、双方、互いに背を向けて、立っていた。
「……ぐっ」
 綱成が、ぐらり、と片膝をつく。
 黄備えの誰もが目を見開く。
 最前線に立ち、すでに肩に手傷を負った実忠が、その痛みを忘れるくらいに、喜びを感じた、その時。
「……ぐはっ」
 藤三郎が血を吐く。
 刀を持っていることができず取り落とし、回るように、踊るように。
 藤三郎は、地に伏した。

「藤三郎!」
 誰よりも先に駆けつけたのは、雪斎であった。
「……わ…るい……禅…師……不覚を……取った」
「何を言う!」
 雪斎は倒れた藤三郎をかかえる。
「見事じゃった……」

 実忠は本庄衆に留まるように命じ、藤三郎の元へ駆けつける。
 その頃、ようやく綱成は立ち上がり、硬直状態にある黄備えに無事を知らせた。そして黄備えに留まるように命じ、藤三郎の方へと、足を引きずっていった。
「すまねえ、親爺、負けちまった……」
 藤三郎は呼吸を荒くしながら、実忠に詫びる。
「なんの、お前はよう戦った……」
 藤三郎は力なく笑い、そして、ようやく近づいてきた綱成に向かって、言った。
「北条孫九郎綱成どの……」
「……なんだ」
 常の藤三郎の口調とちがい、かしこまっている。
 何か大事なことを伝える気だな、と綱成は前へ進み出る。実忠も察して、場を綱成に譲った。

「頼みがある……いいか?」
「……聞こう」
「そこな太原雪斎禅師……許してやってくれないか……命は……取らないで……欲し……」
 藤三郎はそこで気を失いそうになったが、意地を張って、とどまる。
「欲し……い……親の仇だというのは承知……けど……禅師は、ほんとうは今川に帰ることになっていたのに……おれが……お前と戦いたいのを知っていて……」
「…………」
「頼む。禅師は……無学なおれに、学を教えてくれた……おれの武を知って、今川公の近侍にまでと言ってくれた……死んで欲しくないんだ……」
「馬鹿者、藤三郎、お前、なんてことを!」
 これは雪斎の言である。雪斎は涙を流しながら、拙僧のことはいい、もっと家族のこととか無いのか、と愚痴を言った。

「……へへ、ありがとうよ、禅師。大体、禅師、あんた、今川公に天下を取らせるんだろ……この乱世を終わらせるんだろ……でっかい夢じゃねぇか……かなえて……くれよ……」
「藤三郎……」
 雪斎としては、藤三郎のために命を捨てる気だった。それが逆になってしまった。
「拙僧は……」
「もう良い、本庄藤三郎」
 綱成の力強い声が、場に響く。
 藤三郎をふくめ、誰もが綱成に注目する。
 当の綱成は、まっすぐに藤三郎を見すえ、言った。
「貴殿の頼みどおり、というか、もう……おれは、そこな禅師を殺すつもりはない」
「……おお」
 綱成はつづける。

 雪斎はその弁舌を振るっただけで、直接に父・福島正成を害したわけではない。その正成をたおした原虎胤にしてからが、綱成の武士としての手本として昇華されている。雪斎に対しては、多少の恨みはあるが、殺すまではいかない。弟の弁千代や、妹も同様であろう。
 綱成がこの戦いにおいて雪斎を討とうとしたのは、その采配を恐れたからである。
 ならば。

「もはや、戦いは終わった……なら、禅師を討つ理由はない」
 藤三郎の目に、安堵の色が浮かぶ。
 実忠は、本庄衆に刀を納めるよう目配せした。
 戦いは終わった……そう、藤三郎にも分かるようにと、実忠の心遣いであった。
「さあ、藤三郎、帰ろう……本庄へ」
 実忠はそう言って、雪斎から藤三郎を受け取ろうとした。

 が、がくりと。
 藤三郎の首が垂れ、体が落ちた。
「藤三郎? おい、藤三郎?」
 実忠は、本当は藤三郎がどうなっているかは察してしまった。けれど、それを信じられず、いや、信じたくないからこそ、藤三郎に声をかけつづけた。
 その実忠に、雪斎が首を振って、真実を伝えた。
「禅師……」
「見事な最期じゃ……褒めて……やって……」
 雪斎は身も世もなく泣きじゃくり、それ以上はしゃべれなかった。
 綱成は瞑目し、黄備えと本庄衆は、共に手を合わせた。
 実忠は、藤三郎の冷たくなっていく体を抱きしめた。
 きつく。
「とうさぶろぉおおお!」

 ……夜明け前の武蔵野に、実忠の慟哭が、どこまでも、どこまでも響き渡った。



 本庄藤三郎の遺骸を横たえ、本庄実忠は北条孫九郎綱成の許可を得て、撤兵の準備を始めた。
 そこで、実忠はふと気がついた。
「禅師」
「なんじゃ」
 太原雪斎は、藤三郎の前に座り込み、経を読もうとしたところだった。
「殿は……いずこへ?」
「いや……拙僧は、しかと見届けよと……」
 そこまで雪斎が話したところで、馬のいななきが聞こえた。
「こ、こら、こんな時に、いななく奴があるか!」

 その怒鳴り声。
 鈍重な身体。
 美々しく飾られた白い馬。
 その手綱を握って、泡を食っている男。

「……山内上杉憲政! いずこへ参るつもりか!」
 綱成が鋭く言う。
 憲政は、ひ、と小さく叫んだ。
「……さては、本庄どのに戦わせておいて、自身は逃げる気であったか」
 綱成の叱責しっせきに、さすがの実忠もいきどおりを感じた。
「殿……藤三郎は命を張って……」
「し、知るか! 主のために命を張るのが、家臣として当然の務めであろうが! 予は落ち延びる! 上野こうずけへ帰る!」
「……情けなや」
 実忠は泣いた。

 こんな主のために。
 藤三郎は勇敢に、あの地黄八幡に挑んだというのに。
 落ち延びるのなら、せめて戦う前にそうと言ってくれれば。

「…………」
 綱成は黙って、近くの黄備えの兵に向かって手を出す。その兵も察し、自らの弓と矢を差し出す。
 ゆっくりと、綱成はその弓に矢をつがえた。
「……山内上杉憲政」
 口調もゆっくりであったが、それは場を威圧する力を持ったひと言だった。
 憲政は口をぱくぱくと動かして、綱成の次の言葉を待った。
「貴様は今、家臣として当然の務め、と言うたな?」
「……い、言うた」
 憲政は首を前後に動かして、肯定した。
「……なら、貴様もまた、主君として当然の務めを、果たせ」
「つ、務め、とは?」
 憲政が、良く分からないという表情をする。
 雪斎と実忠は固唾をのんで、憲政と綱成の様子を見つめる。

「感状を出せ」
「か、感状?」
 感状とは、主君が臣下に与える、その働きを賞する書状のことであり、同時に所領や恩賞を与えることを認めるあかしでもあった。
 綱成は、藤三郎に対し感状を出し、主としての務めをまっとうしろ、と憲政に要求したのだ。
「出さなくば、射る」
「だ、出す。出すぞ。出すとも」
 憲政はそんなことで良いのかとばかりに大げさにうなずき、そしてさりげなく馬にまたがろうとした。
「…………」
 綱成は矢を射た。
 矢は、憲政の頬をかすめる。

「……っ、や、約束がちが……」
おぼえておけ、山内上杉憲政」
 綱成は二の矢をつがえる。
 きりきり、という音が、夜明け前の闇の中に響く。
 この男にまだ、これだけの気迫が残っていたのか、と実忠は目を見張った。
「今、貴様を生かすのは、本庄藤三郎の勇戦に免じてであることを。努々ゆめゆめ……忘るるな!」
「ひっ」
 綱成の二の矢が放たれる。その矢は、憲政の白馬の尻に軽く刺さり、白馬は暴れた。
「こ、こら、やめ、うわ……」
「分かったら、行け! この次会う時は、貴様の命はないものと思え!」
 綱成の怒号に恐怖したのか、白馬は走り始めた。
 中途半端に乗馬していた憲政を乗せて。
「わわ、うわ、こ、この……」
 憲政のそのあとの言葉は、彼が遠ざかっていってしまったため、誰も聞くことができなかったし、誰も聞くつもりはなかった。

「……礼を言う」
 実忠は綱成に頭を下げた。
 綱成は、それには及ばぬ、と答えかけ……ふらり、と、倒れかかった。
 ついに体力の限界が訪れた綱成を、黄備えの誰も、支えに行かなかった。
 実忠が、雪斎が、支えに行こうとしたが、やはり足を止めた。

「……遅くなった」
「……新九郎」

 北条新九郎氏康が、山内上杉本陣に至り、綱成の肩を支えたのであった。





夜戦の果て 了
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