柳生二蓋笠(やぎゅうにがいがさ) ~柳生宗矩と坂崎直盛、二十五年を越えた友誼(ゆうぎ)の証(あかし)~

四谷軒

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第三章 大坂の陣

20 密命の正体

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 抜け道を出ると、半刻は経っていなかったらしく、坂崎家の将兵はちゃんと残っていた。
「殿」
 家老が心配して直盛に駆け寄る。
「大事ない」
 直盛は家老に感謝しつつ、それでも馬に乗った。
 戦場は加速している。
 城に向かって。
 その奔流は渦巻き、誰もかれをも巻き込む。
 この時点で千姫が大坂城を脱したのは、大野治長が秀頼と茶々の助命の引き換えとしてであって、落城する前に逃がした、というわけではない。
 だからまだ戦闘は続行している。
 阿鼻叫喚が、洩れていた。
 人が獣と化して、より弱い者を襲っているのだろう。
 この時、ある町人の残した「見しかよの物かたり」には、
「男、女のへだてなく
 老ひたるも、みどりごも
 目の当たりにて刺し殺し
 あるいは親を失ひ子を捕られ
 夫婦の中も離ればなれに
 なりゆくことの哀れさ
 その数を知らず」
と、記されている。
「急ぐぞ。千姫さまを大御所さま、将軍さまのところへ」
 このままでは、何が起こるか、わかったものではない。
 かつて文禄の役、慶長の役で戦場を疾駆した直盛とその将兵には、その恐ろしさがわかる。
 千姫は、直盛のうしろに乗った。
 坂崎家の将兵は二人を囲むように陣形を組む。
「行くぞ!」
 宗矩と権右衛門は、家老が用意してくれた馬に乗って、先頭に立った。

 誰何すいかの声が上がる。
まかりとおる!」
 さすがに将軍家兵法指南役として知られている宗矩が吼えると、誰もが道を開けた。
 そうして宗矩と権右衛門、直盛と千姫たちが戦場をしばらく駆けていくと、三つ葉葵の紋が見えた。
「こっちじゃ!」
 三つ葉葵の紋の軍勢の戦闘に、見知った顔が。
「立花どの!」
 宗茂だ。
 かれは、大野治房に襲撃を退け、徳川秀忠を守り切った。
 だけでなく、そのまま逆襲に逸る秀忠を抑え、ただし自身は先頭に立って、さらなる敵襲にそなえ、かつ、宗矩らの到着を待っていた。
「やりおったな」
 宗茂が肩を叩いた。
 直盛にも笑いかける。
 一流のいくさ人、立花宗茂。
 その宗茂からの褒め言葉が、何よりの褒美に思えた。
「どうか、徳川どのに」
 権右衛門がそう言って、その感慨からましてくれた。
 そのため、宗矩だけまず、秀忠のいる本陣に復命し、家康の密命と、その結果として千姫を連れて来たことを言上する。
「そう、か」
 秀忠は落ち着かなげだった。
 かつての関ヶ原での遅参という失態があり、今は大坂方に攻めかかかられるという醜態を演じた。
 かれとしては、今すぐにでも大坂城に攻めかかり、これまでの汚名を返上したい、というところだった。
 だが、宗矩と直盛の働きは、他ならぬ家康からのもの。
 これをおろそかにはできない。
 そういう、落ち着かなさだった。
「今、坂崎出羽守が千姫さまを連れて参りますれば、どうかお会い下され」
 宗矩が深く頭を下げてから、千姫を呼びに行こうとすると、「ああ待て柳生」と呼び止められた。
「そこもとのこたびの働き、大儀。よって、わが子、竹千代(家光)の兵法指南役に任ずる」
「それは」
 家康、秀忠につづき、竹千代まで。
 これは、柳生の教えが、徳川の家の「御流儀」となったことを意味する。
 つまり、剣士として、これ以上ない栄誉だった。
「ありがとうございまする」
「うむ」
 宗矩は退出し、入れ替わりで、千姫と、かのじょに伴って、直盛が幔幕をくぐってきた。
 宗矩は権右衛門から話しかけられた。
 その背後、幔幕の向こうから。
「わが娘ながら、慮外者め!」
 という怒声が響いた。 
 どうやら、秀忠は、嫁した以上は豊臣家の人間であり、千姫は豊臣家と命運を共にすべきだと言いたいらしい。
 その隣から直盛がまあまあと秀忠をなだめる。
「落ち着いて下され、将軍さま」
 千姫は火中から逃げて来た。
 そういう娘――女性にょしょうに、その物言いはきついのではないか。
 顔に大やけどを負った直盛にそう言われると、秀忠も黙らざるを得ない。
 直盛は場をとりなすように、「それがし、言上したき儀がござりまする」と言った。
「何か」
「では申し上げます。この坂崎出羽守直盛、こたびの働きの褒美として……」
 そこまで聞こえたが、あとはわからなかった。
 この時は。
 というのも、権右衛門が、ぜひ秀頼と茶々の助命を、家康さまにもお願いしたいと言って来たからだ。
 宗矩は、それは難しかろうと思ったが、千姫を連れ出すのに協力してくれたのは事実。最低限、取り次ぎはしないと、不誠実だ。
 宗矩は宗茂に、家康の許へ向かうと告げ、権右衛門と共に馬に乗った。
 ……あとで思えば、この時、直盛の願いをちゃんと聞いておけばと、宗矩は悔やむことになる。



 家康は権右衛門に会ったが、助命は難しいと答えた。
 宗矩は肩を落とす権右衛門をなだめようとしたが、そこを家康に呼び止められた。
「将軍に伝えよ」
 今こそ城を攻めよ、秀頼・茶々を始末せよ、と。
「今こそ、とは」
 宗矩の反問に、家康はにたりと笑った。
「これで、人質はいなくなった」
 その言葉に、宗矩は、家康の千姫奪還の真の意図を悟った。
 豊臣家に人質として差し出した千姫。
 これを奪還しないと、徳川家としては、豊臣家に完全に勝利したといえない。
 千姫ごと豊臣家を始末してしまっては、徳川家は無謬むびゅうではない、というきずになる。
 家康は完璧を望んだ。
 だから、千姫を取り戻した。
 徳川の家のために。
 江戸の幕府のために。
 そのための奪還で、それは罪滅ぼしでも何でもなかった。
「大御所、さま……」
「安心せい、ちゃんと報いる」
 そのために、真の意図を明かしたではないか。
 そういう、笑いだった。

 大坂城は落城し、秀頼と茶々は自刃した。
 治長もまた自刃した。
 権右衛門は悄然として、立ち去ることを望んだ。
 というのも、治長自身も、秀頼と茶々の助命がうまくいくと思っていなかったらしく、権右衛門に娘の養育を頼んでいた。
 権右衛門はそれを果たすために、京へ向かうと言った。
 そこに治長の娘が隠れ住んでいたからである。
「行かせてやれ」
 家康は、秀頼と茶々と――治長は助けなかったが、その願いはかなえてやることにした。

 その後、戦後処理が始まり、宗矩も直盛も千姫も離れ離れになった。
 千姫は、家康のとりなしにより、秀忠から許され、ふたたび徳川の姫として遇されることになった。
 直盛は一万石の加増となった。
 宗矩は祝いに行こうとしたが、すでにやけどの治療のため、津和野に戻っているということで、結局会えずじまいに終わった。
「合わせる顔も無いしな」
 江戸に戻った宗矩は、妻女のおりんにそうこぼした。
 直盛は少なくとも、人の命を救うためと信じて戦った。
 であるのに救ったのは、命ではなく体面だった。
 徳川の。
 家康の。
直盛アイツはあんなやけどまで負ったのに」
 おりんが目配せする。
 これ以上はよせ、という合図だ。
 これ以上は幕府に対する不満のあらわれとなる。
 三千石の大身の旗本となって柳生家にとっては、それは取り潰しの危機につながる。
「わかっている」
 宗矩は歎息した。
 こうして、言いたいことも言えず、ひたすら保身に汲々とする。
 そんな、つまらない世の中になってしまった気がする。
「こんな世の中に、おのが意志を通すことなど、できるのだろうか」
 それは口に出してはいない。
 ただその分、それだけ、宗矩の心に残る、自問だった。
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