30 / 48
第0章(お試し版) 黒猫少女と仮面の師
23.建国祭、開幕
しおりを挟む
ぽん、ぽんっ、と空で白い花火が上がる。
それに混じり、風で舞い上げられた紙吹雪が空を彩り、時折色とりどりの風船が浮き上がる。
雲一つない晴天の下、ラルフィント共和国は祝い気分一色に染まっていた。
国民の殆どが外に飛び出し、開かれた出店や催しを目当てに街中を歩き回る。今日から数日間だけ仕事の事は忘れて、工場も最重要箇所を残して休業に入る。
たまの家族の労わりの為に、反対に夫への慰労の為に財布の紐を緩め、遊ぶ事だけを考える日に臨む。
それを、普段は店に引っ込んでいる料理屋や土産物屋が、稼ぎ時と出店で出迎える。
この日の為に、本来馬車や蒸気機関式自動車が通る為の通りは全て、飲食や土産物の出店の為に解放され、訪れた人々がのびのびと祭典を楽しめるようになっている。
訪れる客は、国内で働き続ける勤労者達だけではなく、国外から噂を聞きつけてやって来る他国の者達もいた。
数にして数千人。騎獣や馬車、最新鋭の車に乗って、年に一度、三日間だけ催される祭典を目指し、大枚を叩いて態々訪れているのだ。
普段は防衛の為に閉ざされている大門も、今日ばかりは無礼講とばかりに開き切っている。
完全開放された門には騎士団が勢揃いし、訪れた国外の観光客を一人一人を検査し、終われば笑顔で送り出す。
しかし、大人数が審査に投入されているというのに、門の外には長蛇の列ができていた。
早朝から並び、誰よりも先に入国したいと張り込む根性の持ち主が、例年以上に大勢いたからだ。
「はいはーい、押さないでねー。普通に並んでたらすぐ終わる検査だから、怪しい事して俺達の手を煩わせないようにー」
普段は門番をやっている男も審査に参加していたのだが、次から次へと絶え間なくやってくる観光客の相手で、徐々に口調が荒くなってくる。
やや苛立ちながら、あと数時間でやって来る交代の時間の為に、そしてその後に待っている自由時間の為に、我慢して相手を一人一人確かめていた。
そこへ、ガチャガチャと鎧を鳴らして駆け寄ってくる、騎士団長コンドウ。
この日の警備の一部を担っている彼は、長い付き合いである門番の耳元に口を寄せ、囁きかける。
「どうだ、調子は」
「今のところ異常なしっす。変なもん担ぎ込んで来てる妙な奴もいないっすし、平穏そのものっすね」
「そうか……それは何よりだが、一応気をつけておいてくれ」
特に変わった事はないと門番が応えると、コンドウはやや険しい顔で視線を横にやる。
長蛇の列をなす訪問客。その中にもし、建国祭中に問題を起こす危険な輩がいれば、即座に対処することが難しくなる。
その為の大々的な入門審査なのだが、入念な所為か、想定以上に時間がかかっているようだ。これで余計に人の把握が難しくなっている。
「ただ予想以上のお客が多くて、面子がちと足りてねぇかもしれねぇすけど」
「うむ……追加したいところだが、他も警備に回してるからな。都合がつくまでもう少しだけ我慢していてくれ」
「へ~い…」
現状維持という判断に、門番はげんなりと嫌そうに顔を歪める。
後何十、何百人相手をすればこの激務から解放されるのやら、と肩を落としながらも、とぼとぼと待たされている次の訪問客の元へ審査に向かう。
それに苦笑をこぼし、コンドウは左耳に嵌めた金属片に触れる。
「おう、こちらコンドウ。正門に異常はなしだそうだ。そっちはどうだ?」
『こちら、中心街二番通り。異常なし。特に怪しい人物は見当たらないですね』
『こちら工業地帯、観光客でごった返してます。危なそうな奴は特に確認できず』
魔術を施し、遠くにいる相手とも双方向で話ができるという触れ込みで、騎士団に大量に採用された道具を駆使し、国中に配置させた部下達に確認を取る。
化学製品とそう変わりない性能のそれに、コンドウは感心しつつ職務に集中する。
「いいか、今年で20回目になる祭だが、これまでに何度も騒ぎを起こす奴らが現れた。ただの酔っぱらいやチンピラならまだいいが、お祭り気分で浮かれた所に付け入る犯罪者も何人もいた! 油断するなよ、そういう輩を見つけ次第周囲の仲間に連絡し、複数で取り押さえろ!」
『了解』
『あいあいさー』
『合点承知でーす』
「……お前ら、ほんとにわかってんのか? まぁ、とにかく頼むぞ?」
気の抜けた返答を返す、部下にして元生徒達に呆れたため息をつき、コンドウは首を横に振って気分を入れ替える。
皆、毎年やっている事なのだから、今更注意しなくても大丈夫だろう。そう考え、異なる世界で現実にもまれ、頼もしく育った彼らを信頼するつもりで、街の方に足先を向ける。
「今年も何事もなく終わりますように……頼むぞ、どっかにいるかどうかもわからねぇ神様よ」
実在するかどうかも不明な、もしかしたら自分達をこの世界に呼び寄せたかもしれない張本人に向けて、意味のない祈りを口にする。
しかし口ではそう言いつつも、年に一度の催しに対する意欲は高く、コンドウの口には笑みが浮かぶ。
こんなめでたい日にわざわざ騒動を引き起こすような馬鹿な輩はいるまい。少しぐらい楽観的になってもいいだろうと、騎士団長は軽い足取りで街に向けて歩き出すのだった。
男も女も、老人も若者も、多種多様な人種が一堂に会し、楽しみ稼ぐ祝いの場。
誰しもが満面の笑顔で街を巡り、一年を無事に過ごせた事を神に感謝し、今日という日を全力で楽しんでいた。
―――のだが、中には全く積極的でない者もいた。
「……ねー師匠、行こうよ。こんなに晴れ晴れとした、お祭り日和だよ? 行かなきゃ絶対に損するでしょ」
「興味がないわ。行きたかったら行っておいで」
冒険者組合の玄関広間、その一角の椅子に腰かけ、気だるげに煙管を燻らせる黒衣の魔女だけは、騒がしい外に鬱陶しそうに顔を歪めていた。
彼女の衣服の裾を引っ張り、無言で促す黒猫の少女だが、魔女は全く動く気概を見せない。
唇を尖らせ、じとりと抗議の視線を向けていたシオンだったが、やがて渋々手を放し、師を睨んだ。
「師匠…こんな楽しそうな日に外に出ないとか、本気で言ってる? 祭だよ? 出店だよ?」
「煩いのは嫌いなのよ……お小遣いはあげるから、あんただけで行ってきなさい。一人が嫌なら、どっかで誰か誘いなさい」
「……師匠、私友達いないよ」
「知り合いでもいいでしょ……ヒミコでもイトウでも」
「そんなに仲がいいわけじゃないんだけど…」
どんなに誘っても、師は帽子で顔を隠し、椅子の背もたれに体を預けて寛いでいるだけ。ぐいぐいと身体を揺らすシオンに、見向きもしなかった。
「知り合いを誘えって言ったって……」
「お? どったのシオンちゃん、まだお祭に行かないの?」
どうしても師と共に行きたい、というか師以外と一緒に行動するのは気が引ける、と諦めきれないシオン。
そこへ、何やら上機嫌なイトウの声が響き、つられて振り向く。
そして―――見るからに金がかかっていそうな、上品な私服姿をした彼に、シオンは思わず険しい顔になる。
「……何、その格好」
「ん? あ、いや、ね? これから連れと出掛けるもんだからさ、身嗜みはしっかりしとかないとと思ってさ? 人付き合いってそういう気の遣い合いジャン? 他意はないよ、うん」
じとっとした目で問われ、上ずった声で聞いてもいない事を答えるイトウ。
胸元には薔薇の花が差され、微かに香水の匂いが漂ってくる。相当気合いを入れて装いを選んだ事がまるわかりで、シオンは何故かつい後退ってしまう。
イトウはかなり浮かれているようで、シオンが引いている事にも気づかず、倦怠ている魔女の前に移動し恭しく辞儀をしてみせる。
「失礼、先生。自分はこれから大事なようがありますんで、申し訳ないが本日はお仕事は休みになります。御用の際は本日出勤の従業員にどうぞ」
「はいはい……いいからさっさと行っちまいなさいな」
「では、これにて―――ひゃっほう! ギルマス最高! 異世界最高!」
道化のような気取った動作で首を垂れたかと思えば、兎のように軽々しく飛び跳ねていくイトウ。
そうそうお目にかかれないような浮かれ振りに、唖然としたまま固まっていたシオンが、恐る恐る訳を知っている様子の師に尋ねてみる。
「……何であんなご機嫌?」
「誘われたんだって、女に。一緒に回りませんか、って」
「うそぉ…」
信じられず、イトウが去っていった方をもう一度見やるシオン。
異性との出会いと縁遠いと噂の冒険者組合。その頭となれば忙しさはより上を行き、就き続ける毎に根気がみるみる遠ざかっていく印象を受ける仕事のはずなのに、と。
異性に誘われ、この世の春とばかりに燥いでいた彼の姿に、シオンの表情が引き攣っていく。
「……騙されたりとかしてない?」
「さぁ? そのへんはあの男の行動次第だし、どうでもいいわ……あんたも気にしない事よ」
「……師匠はやっぱり鬼だ」
深いため息とともに肩を落とし、シオンはやれやれと首を横に振る。
そのまま、力ない足取りでギルドの出入り口に向けて歩き出す。
「わかった……師匠が本気で行く気がないんなら、私だけ行ってる。その気になったら、追って来て」
「気にせず行ってきなさい。私はここに居るから……」
帽子を顔に被ったまま、ひらひらと手を振る師に、またため息がこぼれるシオン。
大きく息を吸った黒猫の少女は、ふっ!と強く吐き出して気分を切り替え、打って変わってしっかり地面を踏みしめて歩く。
「お昼に何か適当なもの買って来るから、待っててねー」
「……だから気にするなってのに」
師の呟きが届いたかどうかは定かではないが、シオンは組合所を出ると、小走りで喧騒が響いてくる方へ急ぐ。
軽やかな足音が聞こえなくなってから、魔女はのそりと体を起こし、帽子を深く被り直した。
「―――さて、あれらがはたして今日動くのか……面倒だが、あの小娘が変に首を突っ込んで騒ぎを大きくしてもかなわん。少し探りを入れおくとしようか」
そう呟いた瞬間―――師の足元に広がる影が、突如ぐにゃりと形を変える。
まるで無数の虫が蠢いているかのように、薄暗い組合内で広がる黒が広がり、分かれ、組合の外に向かってすばやく移動する。
正面玄関を這った影は、やがて無数の破片となって飛び散ったかと思うと、歩き回る人々や物陰、野良犬や野良猫の足元に潜み、消えていく。
「こちらとしては、さっさと尻尾wp出してくれた方がありがたいのだがな―――」
得体の知れない何かを街中に撒き散らせた師は、やがて瞼と顔を伏せ、椅子に座ったままぴくりとも動かなくなる。
呼吸の音さえ聞こえなくなった魔女に気付く者は組合内には一人もおらず、魔女は彫像のように身動ぎ一つせず、その時が来るまで沈黙し続けるのだった。
それに混じり、風で舞い上げられた紙吹雪が空を彩り、時折色とりどりの風船が浮き上がる。
雲一つない晴天の下、ラルフィント共和国は祝い気分一色に染まっていた。
国民の殆どが外に飛び出し、開かれた出店や催しを目当てに街中を歩き回る。今日から数日間だけ仕事の事は忘れて、工場も最重要箇所を残して休業に入る。
たまの家族の労わりの為に、反対に夫への慰労の為に財布の紐を緩め、遊ぶ事だけを考える日に臨む。
それを、普段は店に引っ込んでいる料理屋や土産物屋が、稼ぎ時と出店で出迎える。
この日の為に、本来馬車や蒸気機関式自動車が通る為の通りは全て、飲食や土産物の出店の為に解放され、訪れた人々がのびのびと祭典を楽しめるようになっている。
訪れる客は、国内で働き続ける勤労者達だけではなく、国外から噂を聞きつけてやって来る他国の者達もいた。
数にして数千人。騎獣や馬車、最新鋭の車に乗って、年に一度、三日間だけ催される祭典を目指し、大枚を叩いて態々訪れているのだ。
普段は防衛の為に閉ざされている大門も、今日ばかりは無礼講とばかりに開き切っている。
完全開放された門には騎士団が勢揃いし、訪れた国外の観光客を一人一人を検査し、終われば笑顔で送り出す。
しかし、大人数が審査に投入されているというのに、門の外には長蛇の列ができていた。
早朝から並び、誰よりも先に入国したいと張り込む根性の持ち主が、例年以上に大勢いたからだ。
「はいはーい、押さないでねー。普通に並んでたらすぐ終わる検査だから、怪しい事して俺達の手を煩わせないようにー」
普段は門番をやっている男も審査に参加していたのだが、次から次へと絶え間なくやってくる観光客の相手で、徐々に口調が荒くなってくる。
やや苛立ちながら、あと数時間でやって来る交代の時間の為に、そしてその後に待っている自由時間の為に、我慢して相手を一人一人確かめていた。
そこへ、ガチャガチャと鎧を鳴らして駆け寄ってくる、騎士団長コンドウ。
この日の警備の一部を担っている彼は、長い付き合いである門番の耳元に口を寄せ、囁きかける。
「どうだ、調子は」
「今のところ異常なしっす。変なもん担ぎ込んで来てる妙な奴もいないっすし、平穏そのものっすね」
「そうか……それは何よりだが、一応気をつけておいてくれ」
特に変わった事はないと門番が応えると、コンドウはやや険しい顔で視線を横にやる。
長蛇の列をなす訪問客。その中にもし、建国祭中に問題を起こす危険な輩がいれば、即座に対処することが難しくなる。
その為の大々的な入門審査なのだが、入念な所為か、想定以上に時間がかかっているようだ。これで余計に人の把握が難しくなっている。
「ただ予想以上のお客が多くて、面子がちと足りてねぇかもしれねぇすけど」
「うむ……追加したいところだが、他も警備に回してるからな。都合がつくまでもう少しだけ我慢していてくれ」
「へ~い…」
現状維持という判断に、門番はげんなりと嫌そうに顔を歪める。
後何十、何百人相手をすればこの激務から解放されるのやら、と肩を落としながらも、とぼとぼと待たされている次の訪問客の元へ審査に向かう。
それに苦笑をこぼし、コンドウは左耳に嵌めた金属片に触れる。
「おう、こちらコンドウ。正門に異常はなしだそうだ。そっちはどうだ?」
『こちら、中心街二番通り。異常なし。特に怪しい人物は見当たらないですね』
『こちら工業地帯、観光客でごった返してます。危なそうな奴は特に確認できず』
魔術を施し、遠くにいる相手とも双方向で話ができるという触れ込みで、騎士団に大量に採用された道具を駆使し、国中に配置させた部下達に確認を取る。
化学製品とそう変わりない性能のそれに、コンドウは感心しつつ職務に集中する。
「いいか、今年で20回目になる祭だが、これまでに何度も騒ぎを起こす奴らが現れた。ただの酔っぱらいやチンピラならまだいいが、お祭り気分で浮かれた所に付け入る犯罪者も何人もいた! 油断するなよ、そういう輩を見つけ次第周囲の仲間に連絡し、複数で取り押さえろ!」
『了解』
『あいあいさー』
『合点承知でーす』
「……お前ら、ほんとにわかってんのか? まぁ、とにかく頼むぞ?」
気の抜けた返答を返す、部下にして元生徒達に呆れたため息をつき、コンドウは首を横に振って気分を入れ替える。
皆、毎年やっている事なのだから、今更注意しなくても大丈夫だろう。そう考え、異なる世界で現実にもまれ、頼もしく育った彼らを信頼するつもりで、街の方に足先を向ける。
「今年も何事もなく終わりますように……頼むぞ、どっかにいるかどうかもわからねぇ神様よ」
実在するかどうかも不明な、もしかしたら自分達をこの世界に呼び寄せたかもしれない張本人に向けて、意味のない祈りを口にする。
しかし口ではそう言いつつも、年に一度の催しに対する意欲は高く、コンドウの口には笑みが浮かぶ。
こんなめでたい日にわざわざ騒動を引き起こすような馬鹿な輩はいるまい。少しぐらい楽観的になってもいいだろうと、騎士団長は軽い足取りで街に向けて歩き出すのだった。
男も女も、老人も若者も、多種多様な人種が一堂に会し、楽しみ稼ぐ祝いの場。
誰しもが満面の笑顔で街を巡り、一年を無事に過ごせた事を神に感謝し、今日という日を全力で楽しんでいた。
―――のだが、中には全く積極的でない者もいた。
「……ねー師匠、行こうよ。こんなに晴れ晴れとした、お祭り日和だよ? 行かなきゃ絶対に損するでしょ」
「興味がないわ。行きたかったら行っておいで」
冒険者組合の玄関広間、その一角の椅子に腰かけ、気だるげに煙管を燻らせる黒衣の魔女だけは、騒がしい外に鬱陶しそうに顔を歪めていた。
彼女の衣服の裾を引っ張り、無言で促す黒猫の少女だが、魔女は全く動く気概を見せない。
唇を尖らせ、じとりと抗議の視線を向けていたシオンだったが、やがて渋々手を放し、師を睨んだ。
「師匠…こんな楽しそうな日に外に出ないとか、本気で言ってる? 祭だよ? 出店だよ?」
「煩いのは嫌いなのよ……お小遣いはあげるから、あんただけで行ってきなさい。一人が嫌なら、どっかで誰か誘いなさい」
「……師匠、私友達いないよ」
「知り合いでもいいでしょ……ヒミコでもイトウでも」
「そんなに仲がいいわけじゃないんだけど…」
どんなに誘っても、師は帽子で顔を隠し、椅子の背もたれに体を預けて寛いでいるだけ。ぐいぐいと身体を揺らすシオンに、見向きもしなかった。
「知り合いを誘えって言ったって……」
「お? どったのシオンちゃん、まだお祭に行かないの?」
どうしても師と共に行きたい、というか師以外と一緒に行動するのは気が引ける、と諦めきれないシオン。
そこへ、何やら上機嫌なイトウの声が響き、つられて振り向く。
そして―――見るからに金がかかっていそうな、上品な私服姿をした彼に、シオンは思わず険しい顔になる。
「……何、その格好」
「ん? あ、いや、ね? これから連れと出掛けるもんだからさ、身嗜みはしっかりしとかないとと思ってさ? 人付き合いってそういう気の遣い合いジャン? 他意はないよ、うん」
じとっとした目で問われ、上ずった声で聞いてもいない事を答えるイトウ。
胸元には薔薇の花が差され、微かに香水の匂いが漂ってくる。相当気合いを入れて装いを選んだ事がまるわかりで、シオンは何故かつい後退ってしまう。
イトウはかなり浮かれているようで、シオンが引いている事にも気づかず、倦怠ている魔女の前に移動し恭しく辞儀をしてみせる。
「失礼、先生。自分はこれから大事なようがありますんで、申し訳ないが本日はお仕事は休みになります。御用の際は本日出勤の従業員にどうぞ」
「はいはい……いいからさっさと行っちまいなさいな」
「では、これにて―――ひゃっほう! ギルマス最高! 異世界最高!」
道化のような気取った動作で首を垂れたかと思えば、兎のように軽々しく飛び跳ねていくイトウ。
そうそうお目にかかれないような浮かれ振りに、唖然としたまま固まっていたシオンが、恐る恐る訳を知っている様子の師に尋ねてみる。
「……何であんなご機嫌?」
「誘われたんだって、女に。一緒に回りませんか、って」
「うそぉ…」
信じられず、イトウが去っていった方をもう一度見やるシオン。
異性との出会いと縁遠いと噂の冒険者組合。その頭となれば忙しさはより上を行き、就き続ける毎に根気がみるみる遠ざかっていく印象を受ける仕事のはずなのに、と。
異性に誘われ、この世の春とばかりに燥いでいた彼の姿に、シオンの表情が引き攣っていく。
「……騙されたりとかしてない?」
「さぁ? そのへんはあの男の行動次第だし、どうでもいいわ……あんたも気にしない事よ」
「……師匠はやっぱり鬼だ」
深いため息とともに肩を落とし、シオンはやれやれと首を横に振る。
そのまま、力ない足取りでギルドの出入り口に向けて歩き出す。
「わかった……師匠が本気で行く気がないんなら、私だけ行ってる。その気になったら、追って来て」
「気にせず行ってきなさい。私はここに居るから……」
帽子を顔に被ったまま、ひらひらと手を振る師に、またため息がこぼれるシオン。
大きく息を吸った黒猫の少女は、ふっ!と強く吐き出して気分を切り替え、打って変わってしっかり地面を踏みしめて歩く。
「お昼に何か適当なもの買って来るから、待っててねー」
「……だから気にするなってのに」
師の呟きが届いたかどうかは定かではないが、シオンは組合所を出ると、小走りで喧騒が響いてくる方へ急ぐ。
軽やかな足音が聞こえなくなってから、魔女はのそりと体を起こし、帽子を深く被り直した。
「―――さて、あれらがはたして今日動くのか……面倒だが、あの小娘が変に首を突っ込んで騒ぎを大きくしてもかなわん。少し探りを入れおくとしようか」
そう呟いた瞬間―――師の足元に広がる影が、突如ぐにゃりと形を変える。
まるで無数の虫が蠢いているかのように、薄暗い組合内で広がる黒が広がり、分かれ、組合の外に向かってすばやく移動する。
正面玄関を這った影は、やがて無数の破片となって飛び散ったかと思うと、歩き回る人々や物陰、野良犬や野良猫の足元に潜み、消えていく。
「こちらとしては、さっさと尻尾wp出してくれた方がありがたいのだがな―――」
得体の知れない何かを街中に撒き散らせた師は、やがて瞼と顔を伏せ、椅子に座ったままぴくりとも動かなくなる。
呼吸の音さえ聞こえなくなった魔女に気付く者は組合内には一人もおらず、魔女は彫像のように身動ぎ一つせず、その時が来るまで沈黙し続けるのだった。
0
あなたにおすすめの小説
おばさんは、ひっそり暮らしたい
波間柏
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
祝・定年退職!? 10歳からの異世界生活
空の雲
ファンタジー
中田 祐一郎(なかたゆういちろう)60歳。長年勤めた会社を退職。
最後の勤めを終え、通い慣れた電車で帰宅途中、突然の衝撃をうける。
――気付けば、幼い子供の姿で見覚えのない森の中に……
どうすればいいのか困惑する中、冒険者バルトジャンと出会う。
顔はいかついが気のいいバルトジャンは、行き場のない子供――中田祐一郎(ユーチ)の保護を申し出る。
魔法や魔物の存在する、この世界の知識がないユーチは、迷いながらもその言葉に甘えることにした。
こうして始まったユーチの異世界生活は、愛用の腕時計から、なぜか地球の道具が取り出せたり、彼の使う魔法が他人とちょっと違っていたりと、出会った人たちを驚かせつつ、ゆっくり動き出す――
※2月25日、書籍部分がレンタルになりました。
少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結】番である私の旦那様
桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族!
黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。
バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。
オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。
気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。
でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!)
大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです!
神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。
前半は転移する前の私生活から始まります。
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
ファンタジー
毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。
最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
連載時、HOT 1位ありがとうございました!
その他、多数投稿しています。
こちらもよろしくお願いします!
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる