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高校時代②
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鍵盤をすべる指が軽い。
数時間前の出来事が繰り返し思い起こされては、胸に気恥ずかしい喜びが波のように押し寄せて、次へと繋ぐ一音一音が感情に突き動かされてメロディーを構成する。
これでは練習にならないと冷静な自分が忠告するが、気持ちをもて余した指は止まらなかった。
会津と初めて遊んだ時間は、あまりの緊張で上手く思い出すことは出来ない。
だけれど、会津が俺の傍にいて、俺に笑顔を向けて、俺のために手ずからゲームを教授してくれた上に、上手くなったと誉めてくれた夢のような時間は、忘れようもないほど俺の中に深く刻み込まれた。
―――あれが幸せな時間と言わずしてなんという!
普段は世間話すらしない憧れの相手と親しみを込めたやりとりを交わすなんて、今もって信じられない。
そのせいか家に帰った後も高揚が収まらず、気を沈めようと触れた鍵盤も、舞い上がった指の言いなりで録に練習もできない有り様だ。
これではいけないと、再度落ち着くために深呼吸をして、曲を変えることにした。
譜面台に置きなおしたのは、ショパンのエチュードop.10だ。この曲を選んだのは、夏のコンクールの課題曲でもあり、普段から暗譜するほど弾き倒していても、集中が必要な曲だったから。
入りから急速なメロディーとオクターヴを織り交ぜたこの曲は、激しい指の動きと柔軟な手首使いを求められる。ただ強く早く弾くだけでは雑音のように響き、強弱や速度を間違えればその曲がもつ優美さを表現しきれない。
つい体に力が入りがちになる上、右の手指の持久力も試されるという、俺にとってはとても難易度の高い曲だ。
しばらくは夢中で弾いていた。そうして曲に意識を傾注していると、段々と冷静さを取り戻せてきた……かのように思えたが、指に馴染んだ曲を進めるほどに、余裕が出来た心の隙間からまたむくむくと幸福感が溢れだしてきてしまった。どうやら慣れが裏目に出てしまったようだ。
まずいと思い目をつぶれば瞼の裏に会津の笑顔が映り、演奏に集中しようと指を見つめればコントローラーを一緒に握った光景が脳裏に甦る。
焼き付いた一瞬一瞬が切り取られる度に、譜面通りだった音が次第に崩れだし、体が勝手に早さを増していってしまう。軌道修正しなければと思うが、自分のものであるはずの指をどうにも止められなかった。
そのうち強弱など気にしていられなくなって、アレンジを加えだし、今や曲の原型がわからないほどになってしまっている。
動けば動くほど止まらなくなった手が、気持ちを沈めるどころか駆り立てるようで堪らなかった。
―――また遊ぼうって、会津が言った……!
正直言って、遊んだとしてもこれきりになると思っていた。
俺の知らないところで3人で遊ぶ約束を取り付けていた羽柴は、放課後申し訳なさそうに会津の横に立って実は……と事の経緯を説明しだした。会津もゲーマーなのだと聞いたときはスポーツマンの彼しかしらない俺は心底驚いたけれど、それでやっと腑に落ちたところもあったのだ。
会津がなぜ一緒に遊ぼうなどと言って来たのか、なぜ羽柴に興味を抱いていたのか……全ては、羽柴とのきっかけを作りたかったのだろう、と。
俺は会津の眼中に無いようでがっかりしたが、そもそも一緒に遊ぶこと事態信じられない出来事なのだ。今回は素直に羽柴のお陰で得したなぁと最初で最後になるかもしれない貴重な時間をたっぷり味わおうとすら思っていたのに、次回の期待なんてしていなかったところの、これだ!次があるかもしれないなんて!
リップサービスかもしれないとは思っている。そもそも会津は部活があるし、俺もピアノの練習があるからそう毎日遊ぶことはできないだろう。
だけれど、希望があると言うだけで情けないほど心が沸き立つ。見つめる以上の進展を望んでいたわけじゃないけれど、こうなるともっと仲良くなってみたくなる。
今は羽柴と遊ぶついででも、いつか友人と思ってもらえるくらいには、仲を深めたい……そんな欲が生まれてきてしまった。
―――もう一度話をしたい。
―――もっと会津を知りたい。
―――またそばで笑いかけて欲しい。
……憧れが過ぎると自分でわかりつつも、会津を前にするとどうにも冷静でいられない。
こんなの、会津でしか覚えたことがない感情だった。
「今日はなかなか跳ねてるじゃない」
突然近くから声が聞こえて、俺はハッとして指を止めた。
「あんたの悪い癖ね。最近は歯列矯正並みにカチカチした音弾いてたのに、珍しい」
独特の表現を使うこの声の持ち主を知っている。声のした方を振り向くと、思った通り、バイオリンケースを抱えた姉がニヤニヤしながらこちらを見ていた。
いつの間に部屋に入ってきたのか。何やら思わせ振りに笑顔を湛える姉の姿に、身の内からじわじわと恥ずかしさが込み上げてきた。
「何の用だよ」
自分の世界に浸っていた姿を見られたばつの悪さから普段よりぶっきらぼうに返すと、姉は気の強そうな目元を笑みに細めた。
「練習しようと思って来たの、当然じゃない。ここ何処だと思ってんの」
高い位置で一つに束ねた焦げ茶の髪を揺らしながら、バイオリンケースをグイッと目の前に付き出された。
姉の言葉通り、ここは家の地下にある防音室で、家族の練習部屋だ。
「使用中の札かけてたろ」
家族兼用の練習部屋だからこそ、誰にも邪魔されたくない時は名前の書かれた札をかける決まりになっている。しかし、姉はそしらぬふりで俺の言い分を無視した。
「ここは私に譲って。ピアノはリビングにもあるでしょ?そっちで練習しなさいよ」
譲ってといいながら強引に追い出そうとしている言動の不一致に姉の傲慢さを思い知る。
姉ときたらいつもこうだ。思うがままに世の中が動くと本気で思っている節がある。
毎回の事ながら、俺はうんざりして言った。
「嫌だ。姉さんこそそっち使えよ。あそこも防音になってんだから」
「あそこ狭いじゃない。ここがいいの、広いところで練習するのが好きなの」
すると、突然俺が座っていたピアノ椅子に腰かけてきたかと思うと、ずりずりと体で俺を押して椅子から落とそうとしてくる。まるで子供のやることだ。
「危ねー!止めろ」
「怪我したくなかったら退きなさい」
椅子取りゲームで最後の椅子を取り合うようにお互い譲らないまま、俺は意地になってピアノにしがみついていると、姉はふと思い出したように「そうだ」と呟き動きを止めた。
「あんた良いことでもあった?」
俺と良く似た目鼻立ちの顔が探るように覗き込んでくる。
なんの脈絡もなく話を変えたかと思うと、突然そんなことを聞いてくる勘の良い姉に驚き、思わず言葉に詰まってしまった。
自信に裏付けされた姉の力強い瞳に迫られると、どこまでも見透かされているような気になって焦る。
「な、なんだよいきなり」
すると姉は、必死に答えた俺の言葉にふーんと面白げに頷いた。
「そうかそうか、良かったじゃない」
俺は返答らしい返答をしていないのだが、姉はこちらの反応だけで何かを悟ったようにそう言う。一体どんな答えにたどり着いたのか恐ろしくて聞けないが、依然ニヤニヤ笑う姉を見ると悪い予感がするので否定しておいた方が良い気がした。
しかし俺が口を開く前に、彼女は俺の肩に手をかけ、ぐっと体を寄せてきた。
「とうとう祐離れね!おめでとう!」
「はあ?どういう意味だよ」
思わぬ言葉に俺は思い切り顔をしかめて、姉の顔を見た。
「女の勘をなめないでよ?好きな子できたんでしょー。これであんたにべったりされてた祐もやっと解放されるわねって意味よ」
「心外だ」
俺の額に人差し指を当ててうふふと笑う。やっぱり悪い予感は的中していたようだ。
盛大に勘違いしている姉の体を離して、色々と言いたいことを飲み込みつつ、しっかり否定すべき点を矢継ぎ早に話す。
「羽柴にべったりなんてしてない」
眉間にシワを寄せて不快を伝えるが、不遜な姉には効き目がなく、彼女のよく動く口を更になめらかにしただけだった。
「よく言うわ。小さい頃からずっと祐にくっついて離れなかったくせに。今だって何かにつけ祐の話ししてるじゃない」
「そんなことは……」
家族に話すことなんてピアノか友人関係くらいしかないだけだ。そう口に出す前に姉に言葉を阻まれる。
「察するにあんた祐以外に友達いないんでしょ?いっつも相手させられて祐も大変だったと思うわよ?」
「っ……!」
姉の言葉が胸に刺さる。何か言い返してやりたかったが図星なだけに上手く言葉が出ず、それどころか姉の言葉に思い当たる節が有りすぎて、苦い記憶が次々に掘り起こされてしまった。走馬灯のように巡るそれに固まっていると、その隙を狙った姉がとんっと俺の肩を叩くと、あっけないほど簡単に椅子から落ちてしまった。
「っぃたい!」
「油断したな」
「怪我したらどーすんだ」
「してないから大丈夫」
姉は不遜な笑顔をみせつつ、ほらほらと手を叩いて俺に立つようにせかした。
「じゃあ私練習するから。じゃあね、初恋がんばりなさい」
恋なんて勘違いも甚だしい。それでも自信ありげに人のことを面白がって笑いながら、さっきまで俺が座っていた椅子に座りこんでひらひらと手を振ってくる姉に対し、これ以上言い合う気もなくなって呆れ半分で部屋を出た。
姉の傲慢な振る舞いは頭にくるが、こういう場合姉の方から折れることは絶対にないので、最近ではいちいち腹を立てていては時間の無駄と知り、早々に折れることにしている。
不本意ながらも1階のリビングへ行き、ガラス戸で仕切られた部屋に入る。その部屋の中央に陣取るピアノに腰掛けて鍵盤蓋を上げたところで手が止まった。
姉のお陰というのも違う気がするが、さっきまでのやり取りのせいで先ほどまでの妙な高ぶりもすっかり落ち着いていたが、今度は違う思いがぐるぐると渦巻いて頭を抱え込みたいような衝動に駆られている。
ひとつため息を吐いて、仕切り直しと開いた鍵盤蓋を再び閉め、俺はその上に肘をついた。
”―――祐くん取らないで”
記憶に残る少女の声が頭に響く。その声が聞こえるたび、俺は苦々しい気分になる。
羽柴との付き合いはかれこれ10年を過ぎる。5歳の頃じいちゃん達と同居するために家族でこの町に引っ越してきて、始めての公園デビュー時にその場にいたのが羽柴親子だった。
親同士の世間話の中で数十メートルほど離れた先に住んでいるご近所さんで、子供は男の子で同い年、しかも同じ幼稚園に通うということが分かって意気投合したらしい。
「この子引っ込み思案でなかなかお友達ができないの。祐君一緒に遊んでもらえるかしら?」
羽柴の母親に呼ばれて駆け寄ってきた同じ年の男の子に向かって、母は陰に隠れていた俺を無理やり押し出して紹介した。よろしくねと何とか振り絞って言った俺に向かって、羽柴が「俺に任せろ!」と当時人気だったヒーローキャラクターの台詞とポーズを決めて挨拶を交わしたのが初めての出会いだった。
奴の登場は5歳の俺にとってインパクトの塊だったから、今でも鮮明に覚えている。
……エネルギーに溢れてて、自分にないキラキラしたものを持つ羽柴は、当時こそ格好良く映ったものだ。
それからは気づけば傍にいて、羽柴に引っ張られるように遊んでは、一緒に過ごしていたように思う。
小学生に上がった頃もそれは変わらず、なかなか人に溶け込もうとしない俺に羽柴は根気よく付き合い、ひたすら俺に構っていた。ただ羽柴という男はそういうやつで、他人の喧嘩を仲裁したり、泣く子がいれば一目散に駆け寄っていく面倒見の良い人間だった。だからこそ、羽柴の俺への扱いが誰かにとって特別扱いに映り、不満を煽っているとは気づきもしなかった。
「祐くん取らないで」
ある時、数人の女子たちに囲まれそう言われた。
いつにない状況にビクビクしながらも、言われた内容にピンとこずそんなつもりはないと言えば、一人が俺が羽柴に迷惑を掛けていると言った。他の子たちも後に続けて羽柴は良い奴だから、独りでいる俺を放って置けないのだと言い、だから他の誰かと遊びたくてもできない、それをわかってわざとやっているのじゃないか等と口々に言い出したのだ。
彼女たちの言い分に俺ははっとした。今まで自分が羽柴の行動を縛っていたかもしれないと知って子供心に愕然としたのだ。
誤解だと言いたいところはままあったが、それでも自分が羽柴の好意に甘えている自覚はあった。ただ、お互い楽しくなければいつまでも一緒にいるとも思えなかったので、それまで深く考えようともしなかった。
―――そう、それで、一時羽柴と距離を置いたんだった。
ピアノの練習で忙しくなるからと嘘を吐いて遊ぶ頻度を少なくし、休み時間は一人で過ごしたいと突き放した。
それでもなぜか羽柴は寄ってきて、一人がいいから構わないでくれと言っても放課後には遊びに誘ってくるなどの行動を繰り返し、いい加減避けるのも馬鹿馬鹿しくなってやめたんだけれど。
あの時、暫く距離を置いていて気づいたことがある。
彼女たちの言っていたことはまるきり的外れではなかったということだ。
当時(まだ羽柴がゲーマーの扉を開く前まで)は、あいつは良い意味で目立つタイプだったらしく、俺が近寄らない間、羽柴の周りにはいつも沢山の男女が集まっていた。あれだけ面倒見が良く愛想もいい人間なのだから、当然と言えば当然で、そんな羽柴に俺みたいのがくっついているのを、あの女子たちは独り占めしているように思えたのだろう。
そのことが、会津の件とかぶってもやもやするのだ。
しかも今回は会津と羽柴のつながりを自分のわがままで一度切っているだけに尚更後味が悪い。
今日一緒に遊んでよく分かった。羽柴と会津は話がよく合う。俺はいつでも羽柴のゲーム話を聞いているだけだが、会津とは会話が弾んで話が膨らみ熱が増すのだ。その姿を見ていると、会津と仲良く話せる羨ましさ半分、羽柴が楽しそうにしているのを見て安心半分といった心境になる。
ゲームが上手くもない俺を厭わず遊びに誘ってくれるのは素直に嬉しかったが、反面、羽柴のゲームへの入れ込み様はすごかったから、もっと上手い奴と遊びたいだろうと思い続けていた。
あいつはこれからも会津と遊ぶなら俺を誘うだろう。二人でも十分気安く遊べるだろうに。
友情を思うなら、今こそ俺は羽柴と距離を取るべきなんだろう―――。
数時間前の出来事が繰り返し思い起こされては、胸に気恥ずかしい喜びが波のように押し寄せて、次へと繋ぐ一音一音が感情に突き動かされてメロディーを構成する。
これでは練習にならないと冷静な自分が忠告するが、気持ちをもて余した指は止まらなかった。
会津と初めて遊んだ時間は、あまりの緊張で上手く思い出すことは出来ない。
だけれど、会津が俺の傍にいて、俺に笑顔を向けて、俺のために手ずからゲームを教授してくれた上に、上手くなったと誉めてくれた夢のような時間は、忘れようもないほど俺の中に深く刻み込まれた。
―――あれが幸せな時間と言わずしてなんという!
普段は世間話すらしない憧れの相手と親しみを込めたやりとりを交わすなんて、今もって信じられない。
そのせいか家に帰った後も高揚が収まらず、気を沈めようと触れた鍵盤も、舞い上がった指の言いなりで録に練習もできない有り様だ。
これではいけないと、再度落ち着くために深呼吸をして、曲を変えることにした。
譜面台に置きなおしたのは、ショパンのエチュードop.10だ。この曲を選んだのは、夏のコンクールの課題曲でもあり、普段から暗譜するほど弾き倒していても、集中が必要な曲だったから。
入りから急速なメロディーとオクターヴを織り交ぜたこの曲は、激しい指の動きと柔軟な手首使いを求められる。ただ強く早く弾くだけでは雑音のように響き、強弱や速度を間違えればその曲がもつ優美さを表現しきれない。
つい体に力が入りがちになる上、右の手指の持久力も試されるという、俺にとってはとても難易度の高い曲だ。
しばらくは夢中で弾いていた。そうして曲に意識を傾注していると、段々と冷静さを取り戻せてきた……かのように思えたが、指に馴染んだ曲を進めるほどに、余裕が出来た心の隙間からまたむくむくと幸福感が溢れだしてきてしまった。どうやら慣れが裏目に出てしまったようだ。
まずいと思い目をつぶれば瞼の裏に会津の笑顔が映り、演奏に集中しようと指を見つめればコントローラーを一緒に握った光景が脳裏に甦る。
焼き付いた一瞬一瞬が切り取られる度に、譜面通りだった音が次第に崩れだし、体が勝手に早さを増していってしまう。軌道修正しなければと思うが、自分のものであるはずの指をどうにも止められなかった。
そのうち強弱など気にしていられなくなって、アレンジを加えだし、今や曲の原型がわからないほどになってしまっている。
動けば動くほど止まらなくなった手が、気持ちを沈めるどころか駆り立てるようで堪らなかった。
―――また遊ぼうって、会津が言った……!
正直言って、遊んだとしてもこれきりになると思っていた。
俺の知らないところで3人で遊ぶ約束を取り付けていた羽柴は、放課後申し訳なさそうに会津の横に立って実は……と事の経緯を説明しだした。会津もゲーマーなのだと聞いたときはスポーツマンの彼しかしらない俺は心底驚いたけれど、それでやっと腑に落ちたところもあったのだ。
会津がなぜ一緒に遊ぼうなどと言って来たのか、なぜ羽柴に興味を抱いていたのか……全ては、羽柴とのきっかけを作りたかったのだろう、と。
俺は会津の眼中に無いようでがっかりしたが、そもそも一緒に遊ぶこと事態信じられない出来事なのだ。今回は素直に羽柴のお陰で得したなぁと最初で最後になるかもしれない貴重な時間をたっぷり味わおうとすら思っていたのに、次回の期待なんてしていなかったところの、これだ!次があるかもしれないなんて!
リップサービスかもしれないとは思っている。そもそも会津は部活があるし、俺もピアノの練習があるからそう毎日遊ぶことはできないだろう。
だけれど、希望があると言うだけで情けないほど心が沸き立つ。見つめる以上の進展を望んでいたわけじゃないけれど、こうなるともっと仲良くなってみたくなる。
今は羽柴と遊ぶついででも、いつか友人と思ってもらえるくらいには、仲を深めたい……そんな欲が生まれてきてしまった。
―――もう一度話をしたい。
―――もっと会津を知りたい。
―――またそばで笑いかけて欲しい。
……憧れが過ぎると自分でわかりつつも、会津を前にするとどうにも冷静でいられない。
こんなの、会津でしか覚えたことがない感情だった。
「今日はなかなか跳ねてるじゃない」
突然近くから声が聞こえて、俺はハッとして指を止めた。
「あんたの悪い癖ね。最近は歯列矯正並みにカチカチした音弾いてたのに、珍しい」
独特の表現を使うこの声の持ち主を知っている。声のした方を振り向くと、思った通り、バイオリンケースを抱えた姉がニヤニヤしながらこちらを見ていた。
いつの間に部屋に入ってきたのか。何やら思わせ振りに笑顔を湛える姉の姿に、身の内からじわじわと恥ずかしさが込み上げてきた。
「何の用だよ」
自分の世界に浸っていた姿を見られたばつの悪さから普段よりぶっきらぼうに返すと、姉は気の強そうな目元を笑みに細めた。
「練習しようと思って来たの、当然じゃない。ここ何処だと思ってんの」
高い位置で一つに束ねた焦げ茶の髪を揺らしながら、バイオリンケースをグイッと目の前に付き出された。
姉の言葉通り、ここは家の地下にある防音室で、家族の練習部屋だ。
「使用中の札かけてたろ」
家族兼用の練習部屋だからこそ、誰にも邪魔されたくない時は名前の書かれた札をかける決まりになっている。しかし、姉はそしらぬふりで俺の言い分を無視した。
「ここは私に譲って。ピアノはリビングにもあるでしょ?そっちで練習しなさいよ」
譲ってといいながら強引に追い出そうとしている言動の不一致に姉の傲慢さを思い知る。
姉ときたらいつもこうだ。思うがままに世の中が動くと本気で思っている節がある。
毎回の事ながら、俺はうんざりして言った。
「嫌だ。姉さんこそそっち使えよ。あそこも防音になってんだから」
「あそこ狭いじゃない。ここがいいの、広いところで練習するのが好きなの」
すると、突然俺が座っていたピアノ椅子に腰かけてきたかと思うと、ずりずりと体で俺を押して椅子から落とそうとしてくる。まるで子供のやることだ。
「危ねー!止めろ」
「怪我したくなかったら退きなさい」
椅子取りゲームで最後の椅子を取り合うようにお互い譲らないまま、俺は意地になってピアノにしがみついていると、姉はふと思い出したように「そうだ」と呟き動きを止めた。
「あんた良いことでもあった?」
俺と良く似た目鼻立ちの顔が探るように覗き込んでくる。
なんの脈絡もなく話を変えたかと思うと、突然そんなことを聞いてくる勘の良い姉に驚き、思わず言葉に詰まってしまった。
自信に裏付けされた姉の力強い瞳に迫られると、どこまでも見透かされているような気になって焦る。
「な、なんだよいきなり」
すると姉は、必死に答えた俺の言葉にふーんと面白げに頷いた。
「そうかそうか、良かったじゃない」
俺は返答らしい返答をしていないのだが、姉はこちらの反応だけで何かを悟ったようにそう言う。一体どんな答えにたどり着いたのか恐ろしくて聞けないが、依然ニヤニヤ笑う姉を見ると悪い予感がするので否定しておいた方が良い気がした。
しかし俺が口を開く前に、彼女は俺の肩に手をかけ、ぐっと体を寄せてきた。
「とうとう祐離れね!おめでとう!」
「はあ?どういう意味だよ」
思わぬ言葉に俺は思い切り顔をしかめて、姉の顔を見た。
「女の勘をなめないでよ?好きな子できたんでしょー。これであんたにべったりされてた祐もやっと解放されるわねって意味よ」
「心外だ」
俺の額に人差し指を当ててうふふと笑う。やっぱり悪い予感は的中していたようだ。
盛大に勘違いしている姉の体を離して、色々と言いたいことを飲み込みつつ、しっかり否定すべき点を矢継ぎ早に話す。
「羽柴にべったりなんてしてない」
眉間にシワを寄せて不快を伝えるが、不遜な姉には効き目がなく、彼女のよく動く口を更になめらかにしただけだった。
「よく言うわ。小さい頃からずっと祐にくっついて離れなかったくせに。今だって何かにつけ祐の話ししてるじゃない」
「そんなことは……」
家族に話すことなんてピアノか友人関係くらいしかないだけだ。そう口に出す前に姉に言葉を阻まれる。
「察するにあんた祐以外に友達いないんでしょ?いっつも相手させられて祐も大変だったと思うわよ?」
「っ……!」
姉の言葉が胸に刺さる。何か言い返してやりたかったが図星なだけに上手く言葉が出ず、それどころか姉の言葉に思い当たる節が有りすぎて、苦い記憶が次々に掘り起こされてしまった。走馬灯のように巡るそれに固まっていると、その隙を狙った姉がとんっと俺の肩を叩くと、あっけないほど簡単に椅子から落ちてしまった。
「っぃたい!」
「油断したな」
「怪我したらどーすんだ」
「してないから大丈夫」
姉は不遜な笑顔をみせつつ、ほらほらと手を叩いて俺に立つようにせかした。
「じゃあ私練習するから。じゃあね、初恋がんばりなさい」
恋なんて勘違いも甚だしい。それでも自信ありげに人のことを面白がって笑いながら、さっきまで俺が座っていた椅子に座りこんでひらひらと手を振ってくる姉に対し、これ以上言い合う気もなくなって呆れ半分で部屋を出た。
姉の傲慢な振る舞いは頭にくるが、こういう場合姉の方から折れることは絶対にないので、最近ではいちいち腹を立てていては時間の無駄と知り、早々に折れることにしている。
不本意ながらも1階のリビングへ行き、ガラス戸で仕切られた部屋に入る。その部屋の中央に陣取るピアノに腰掛けて鍵盤蓋を上げたところで手が止まった。
姉のお陰というのも違う気がするが、さっきまでのやり取りのせいで先ほどまでの妙な高ぶりもすっかり落ち着いていたが、今度は違う思いがぐるぐると渦巻いて頭を抱え込みたいような衝動に駆られている。
ひとつため息を吐いて、仕切り直しと開いた鍵盤蓋を再び閉め、俺はその上に肘をついた。
”―――祐くん取らないで”
記憶に残る少女の声が頭に響く。その声が聞こえるたび、俺は苦々しい気分になる。
羽柴との付き合いはかれこれ10年を過ぎる。5歳の頃じいちゃん達と同居するために家族でこの町に引っ越してきて、始めての公園デビュー時にその場にいたのが羽柴親子だった。
親同士の世間話の中で数十メートルほど離れた先に住んでいるご近所さんで、子供は男の子で同い年、しかも同じ幼稚園に通うということが分かって意気投合したらしい。
「この子引っ込み思案でなかなかお友達ができないの。祐君一緒に遊んでもらえるかしら?」
羽柴の母親に呼ばれて駆け寄ってきた同じ年の男の子に向かって、母は陰に隠れていた俺を無理やり押し出して紹介した。よろしくねと何とか振り絞って言った俺に向かって、羽柴が「俺に任せろ!」と当時人気だったヒーローキャラクターの台詞とポーズを決めて挨拶を交わしたのが初めての出会いだった。
奴の登場は5歳の俺にとってインパクトの塊だったから、今でも鮮明に覚えている。
……エネルギーに溢れてて、自分にないキラキラしたものを持つ羽柴は、当時こそ格好良く映ったものだ。
それからは気づけば傍にいて、羽柴に引っ張られるように遊んでは、一緒に過ごしていたように思う。
小学生に上がった頃もそれは変わらず、なかなか人に溶け込もうとしない俺に羽柴は根気よく付き合い、ひたすら俺に構っていた。ただ羽柴という男はそういうやつで、他人の喧嘩を仲裁したり、泣く子がいれば一目散に駆け寄っていく面倒見の良い人間だった。だからこそ、羽柴の俺への扱いが誰かにとって特別扱いに映り、不満を煽っているとは気づきもしなかった。
「祐くん取らないで」
ある時、数人の女子たちに囲まれそう言われた。
いつにない状況にビクビクしながらも、言われた内容にピンとこずそんなつもりはないと言えば、一人が俺が羽柴に迷惑を掛けていると言った。他の子たちも後に続けて羽柴は良い奴だから、独りでいる俺を放って置けないのだと言い、だから他の誰かと遊びたくてもできない、それをわかってわざとやっているのじゃないか等と口々に言い出したのだ。
彼女たちの言い分に俺ははっとした。今まで自分が羽柴の行動を縛っていたかもしれないと知って子供心に愕然としたのだ。
誤解だと言いたいところはままあったが、それでも自分が羽柴の好意に甘えている自覚はあった。ただ、お互い楽しくなければいつまでも一緒にいるとも思えなかったので、それまで深く考えようともしなかった。
―――そう、それで、一時羽柴と距離を置いたんだった。
ピアノの練習で忙しくなるからと嘘を吐いて遊ぶ頻度を少なくし、休み時間は一人で過ごしたいと突き放した。
それでもなぜか羽柴は寄ってきて、一人がいいから構わないでくれと言っても放課後には遊びに誘ってくるなどの行動を繰り返し、いい加減避けるのも馬鹿馬鹿しくなってやめたんだけれど。
あの時、暫く距離を置いていて気づいたことがある。
彼女たちの言っていたことはまるきり的外れではなかったということだ。
当時(まだ羽柴がゲーマーの扉を開く前まで)は、あいつは良い意味で目立つタイプだったらしく、俺が近寄らない間、羽柴の周りにはいつも沢山の男女が集まっていた。あれだけ面倒見が良く愛想もいい人間なのだから、当然と言えば当然で、そんな羽柴に俺みたいのがくっついているのを、あの女子たちは独り占めしているように思えたのだろう。
そのことが、会津の件とかぶってもやもやするのだ。
しかも今回は会津と羽柴のつながりを自分のわがままで一度切っているだけに尚更後味が悪い。
今日一緒に遊んでよく分かった。羽柴と会津は話がよく合う。俺はいつでも羽柴のゲーム話を聞いているだけだが、会津とは会話が弾んで話が膨らみ熱が増すのだ。その姿を見ていると、会津と仲良く話せる羨ましさ半分、羽柴が楽しそうにしているのを見て安心半分といった心境になる。
ゲームが上手くもない俺を厭わず遊びに誘ってくれるのは素直に嬉しかったが、反面、羽柴のゲームへの入れ込み様はすごかったから、もっと上手い奴と遊びたいだろうと思い続けていた。
あいつはこれからも会津と遊ぶなら俺を誘うだろう。二人でも十分気安く遊べるだろうに。
友情を思うなら、今こそ俺は羽柴と距離を取るべきなんだろう―――。
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「もう、おればっかりが好きなんやろか?」
馴ればっかりの関係に、寂しさを覚えるつむぎ。
そのうえ、渉は二人の通う高校にやってきた美貌の転校生・沙也にかまってばかりで。他のオメガには、優しく甘く接する恋人にもやもやしてしまう。
嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き……
「そっちがその気なら、もういい!」
堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……?
倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡
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