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第六章/耐えられないようです。
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体育館を訪れると、ちょうど若嶋誠哉が年季の入ったサンドバッグを倉庫から運び出しているところだった。
俺を見ると、若嶋は目を丸くして驚く。
「あれ? 吉野森くん。来てくれたんだ」
「うっかり早起きしちゃったんだ。せっかくだし、たまには朝練も手伝おうかな、って」
「たまに、じゃなくて、初めてだと思うよ。でもありがとう、助かる」
倉築学園のボクシング部は長いこと、部員不足に悩まされていた。現在も正式な部員は、俺と同学年の若嶋ひとりしかいない。俺をはじめとする帰宅部や、他の部に所属する友人が幽霊部員として登録して、何とか命脈を保っている状態だった。
部員が実質ひとりなので、正式な部室はない。体育館の倉庫に置いてあるスタンド付きのサンドバッグやパンチングボールを、その時々で他の部活の邪魔にならないところへ移動して、ひとり黙々とトレーニングをしている。
こんな零細部に所属してるくらいだから、若嶋も試合で大した成績は出していない。けれど、純粋にボクシングが好きらしく、毎日の練習を欠かさなかった。俺含め、幽霊部員は、日頃ほったらかしにしている罪滅ぼしも兼ねて、ときどき顔を出しては、機材の準備やトレーニングを手伝ったりしている。ただ、朝に来るのは確かに初めてかも知れない。
今朝は他の部活があまり利用していないので、体育館の片隅に機材を置いた。ストレッチに付き合いながら、俺は若嶋にちょっとお願いをしてみる。
「今日は、俺にも少しサンドバッグ、打たせてくれないか?」
「いいけど、急にどうしたの? ボクシング、やる気になった?」
「悪いけど違う。……ちょっと、身体を動かしたいだけだよ」
まずは若嶋のルーティンに付き合って、合間に助言を受けながらサンドバッグを叩いた。グローブも着けさせてもらったから、拳の負担はなかったけれど、サンドバッグの感触が想像以上に重かった。コンビネーションの真似事を何回かやっただけで、あっという間に汗だくになってしまう。
「吉野森くん、脚がふらついてるよ。今日はもうやめたら?」
「あー……そうする……」
俺が床に座りこむと、若嶋も横に腰を下ろした。
「若嶋も、これで終わりか?」
「そうだねー……寝不足のせいで、集中が続かないみたい……」
「ああ……俺も正直、きつい……動いたらもうちょっと目が冴えるかと思ったけど……」
「普段トレーニングしてないのに、急に動いたらしんどいよ、それは」
「若嶋は、なんで寝不足なんだ?」
「うちの隣に、一回生の娘が住んでるんだけど……その娘が、アイドルのオーディションに合格したんだって。来月から、BLOOMのメンバーになるみたい」
「え……若嶋の隣、って、愛乃ちゃんのことだよな――マジで?!」
「うん。連絡が来たとき、たまたま近所のひとが隣に来てて……大騒ぎになって、気がついたら、なぜか僕んちでお祝いパーティーが始まっちゃったんだ」
「なんで愛乃ちゃんのお祝いを、お前の家で……?」
「お隣の石嶺さん、去年再婚したばっかりで……うちのお母さんが、隣の新しい奥さんに気を遣って、折角の機会だから、ってご近所に声をかけちゃったらしくて……」
「……お隣さん、ずいぶん波瀾万丈な生活してるな」
「あははは……」
話題に出ている《愛乃ちゃん》は、演劇部に所属していて、泉澄とも仲が良い。確かにすれ違いざまにも目を惹かれる華やかさのある女の子だけど、アイドル志望とまでは知らなかった。
「それで? 吉野森くんはなんで寝不足なの?」
「ん? ああ、俺は……」
――妹の体臭が残る部屋で寝られなくて、リビングで悶々としてた。
と、嘘偽りのない事実をさらっと口にしたら、どんな反応が返ってくるか、少しだけ興味が湧く。でも結局は、母さんにしたのと同じように応えた。
「……リビングで配信の映画観てたら遅くなって、気がついたら、変な格好して寝てたんだ」
「あははは……あるね~、そういうこと」
若嶋はボクサーとは思えない、和やかな笑い声を漏らす。
そのあとは、若嶋の忠告に従い、トレーニングと片付けの手伝いに留めたけれど、ツケは授業中にやって来た。
どうしようもなく、眠い。よりによって一時限目が日本史で、指されることがないから気が緩み、なおさら眠気が募ってしまった。
それでも気張ること約四時間、昼休みを迎えたところで、眠気は極致に達した。
――これはもう駄目だ。寝ないと死ぬ。
体調が悪いので、午後の最初の授業は保健室で休む旨、隣の女子に伝言をお願いして、教室を出る。
チャイムが鳴り始めた頃に、やっと保健室に辿り着いた。
「すみません……頭痛いんで、寝させてください~……」
転がり込んだ俺に、養護教諭の三橋志保は目を細め、淡々と、そして矢継ぎ早に質問を投げつけてくる。
「頭? 痛いのは奥のほう、それとも皮膚に近いところ? ズキズキと局所的に刺激されてる感じ、それとも全体が痺れてるみたいな感じ?」
……うっかり忘れてた。うちの養護教諭には、下手な演技は通用しない。「…………すみません、ただの寝不足です……」
「だったら先にそう言いなさい。それなら医師の診察は必要ないわね?」
「はい。一眠りしたら、落ち着くと思います……」
「寝ててもいいけど、私、午後は来客の予定があって、保健室にいられないの。もし誰か来たら、内線で応接室か、職員室に連絡して。大した用件じゃなかったら、君が適当に対処して」
完全に留守番を押しつけられたけど、立場上、イヤとは言えなかった。
「……寝ててもいいんですね?」
「教室に帰したって居眠りするでしょ、おんなじよ。いびきでもかいて、他の学生の邪魔をされるよりマシだわ」
捌けているのか、怠慢なのか、この先生はよく解らない。
三橋先生は宣言通り、俺を保健室に置いて行ってしまった。
――まあ、授業中になってから駆け込んでくる奴はそんなに多くないだろ。
高を括り、シャツのボタンを外して、ベッドに横たわり布団を被る。
その途端に、ドアをノックする音がした。
「失礼いたす」
その妙な言い回しで、誰だか解ってしまう。ひどくうんざりした気分で、訊ねた。
「……いったい何しに来たんだ? 惟花」
俺を見ると、若嶋は目を丸くして驚く。
「あれ? 吉野森くん。来てくれたんだ」
「うっかり早起きしちゃったんだ。せっかくだし、たまには朝練も手伝おうかな、って」
「たまに、じゃなくて、初めてだと思うよ。でもありがとう、助かる」
倉築学園のボクシング部は長いこと、部員不足に悩まされていた。現在も正式な部員は、俺と同学年の若嶋ひとりしかいない。俺をはじめとする帰宅部や、他の部に所属する友人が幽霊部員として登録して、何とか命脈を保っている状態だった。
部員が実質ひとりなので、正式な部室はない。体育館の倉庫に置いてあるスタンド付きのサンドバッグやパンチングボールを、その時々で他の部活の邪魔にならないところへ移動して、ひとり黙々とトレーニングをしている。
こんな零細部に所属してるくらいだから、若嶋も試合で大した成績は出していない。けれど、純粋にボクシングが好きらしく、毎日の練習を欠かさなかった。俺含め、幽霊部員は、日頃ほったらかしにしている罪滅ぼしも兼ねて、ときどき顔を出しては、機材の準備やトレーニングを手伝ったりしている。ただ、朝に来るのは確かに初めてかも知れない。
今朝は他の部活があまり利用していないので、体育館の片隅に機材を置いた。ストレッチに付き合いながら、俺は若嶋にちょっとお願いをしてみる。
「今日は、俺にも少しサンドバッグ、打たせてくれないか?」
「いいけど、急にどうしたの? ボクシング、やる気になった?」
「悪いけど違う。……ちょっと、身体を動かしたいだけだよ」
まずは若嶋のルーティンに付き合って、合間に助言を受けながらサンドバッグを叩いた。グローブも着けさせてもらったから、拳の負担はなかったけれど、サンドバッグの感触が想像以上に重かった。コンビネーションの真似事を何回かやっただけで、あっという間に汗だくになってしまう。
「吉野森くん、脚がふらついてるよ。今日はもうやめたら?」
「あー……そうする……」
俺が床に座りこむと、若嶋も横に腰を下ろした。
「若嶋も、これで終わりか?」
「そうだねー……寝不足のせいで、集中が続かないみたい……」
「ああ……俺も正直、きつい……動いたらもうちょっと目が冴えるかと思ったけど……」
「普段トレーニングしてないのに、急に動いたらしんどいよ、それは」
「若嶋は、なんで寝不足なんだ?」
「うちの隣に、一回生の娘が住んでるんだけど……その娘が、アイドルのオーディションに合格したんだって。来月から、BLOOMのメンバーになるみたい」
「え……若嶋の隣、って、愛乃ちゃんのことだよな――マジで?!」
「うん。連絡が来たとき、たまたま近所のひとが隣に来てて……大騒ぎになって、気がついたら、なぜか僕んちでお祝いパーティーが始まっちゃったんだ」
「なんで愛乃ちゃんのお祝いを、お前の家で……?」
「お隣の石嶺さん、去年再婚したばっかりで……うちのお母さんが、隣の新しい奥さんに気を遣って、折角の機会だから、ってご近所に声をかけちゃったらしくて……」
「……お隣さん、ずいぶん波瀾万丈な生活してるな」
「あははは……」
話題に出ている《愛乃ちゃん》は、演劇部に所属していて、泉澄とも仲が良い。確かにすれ違いざまにも目を惹かれる華やかさのある女の子だけど、アイドル志望とまでは知らなかった。
「それで? 吉野森くんはなんで寝不足なの?」
「ん? ああ、俺は……」
――妹の体臭が残る部屋で寝られなくて、リビングで悶々としてた。
と、嘘偽りのない事実をさらっと口にしたら、どんな反応が返ってくるか、少しだけ興味が湧く。でも結局は、母さんにしたのと同じように応えた。
「……リビングで配信の映画観てたら遅くなって、気がついたら、変な格好して寝てたんだ」
「あははは……あるね~、そういうこと」
若嶋はボクサーとは思えない、和やかな笑い声を漏らす。
そのあとは、若嶋の忠告に従い、トレーニングと片付けの手伝いに留めたけれど、ツケは授業中にやって来た。
どうしようもなく、眠い。よりによって一時限目が日本史で、指されることがないから気が緩み、なおさら眠気が募ってしまった。
それでも気張ること約四時間、昼休みを迎えたところで、眠気は極致に達した。
――これはもう駄目だ。寝ないと死ぬ。
体調が悪いので、午後の最初の授業は保健室で休む旨、隣の女子に伝言をお願いして、教室を出る。
チャイムが鳴り始めた頃に、やっと保健室に辿り着いた。
「すみません……頭痛いんで、寝させてください~……」
転がり込んだ俺に、養護教諭の三橋志保は目を細め、淡々と、そして矢継ぎ早に質問を投げつけてくる。
「頭? 痛いのは奥のほう、それとも皮膚に近いところ? ズキズキと局所的に刺激されてる感じ、それとも全体が痺れてるみたいな感じ?」
……うっかり忘れてた。うちの養護教諭には、下手な演技は通用しない。「…………すみません、ただの寝不足です……」
「だったら先にそう言いなさい。それなら医師の診察は必要ないわね?」
「はい。一眠りしたら、落ち着くと思います……」
「寝ててもいいけど、私、午後は来客の予定があって、保健室にいられないの。もし誰か来たら、内線で応接室か、職員室に連絡して。大した用件じゃなかったら、君が適当に対処して」
完全に留守番を押しつけられたけど、立場上、イヤとは言えなかった。
「……寝ててもいいんですね?」
「教室に帰したって居眠りするでしょ、おんなじよ。いびきでもかいて、他の学生の邪魔をされるよりマシだわ」
捌けているのか、怠慢なのか、この先生はよく解らない。
三橋先生は宣言通り、俺を保健室に置いて行ってしまった。
――まあ、授業中になってから駆け込んでくる奴はそんなに多くないだろ。
高を括り、シャツのボタンを外して、ベッドに横たわり布団を被る。
その途端に、ドアをノックする音がした。
「失礼いたす」
その妙な言い回しで、誰だか解ってしまう。ひどくうんざりした気分で、訊ねた。
「……いったい何しに来たんだ? 惟花」
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