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櫻井の災難
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佐々木の家に向かう途中、櫻井は余計な懸念が頭の中を駆け回った。
『事件を起こしたのはあの佐々木である。絶対、尋常ではない。もしかしたら、本当に殺人?』
一学期三件の生徒指導上の問題があったが、その一つが佐々木をめぐる事件だった。城南高校には車椅子の生徒も多い。そのためにエレベーターが設置されていた。日常、健常者は使用禁止だった。佐々木は高齢者とはいえ中身も見た目も日本人の女性を超越していたので勿論使用できなかった。にもかかわらず、荷物の重さに耐えかねてエレベーターに乗った。運が悪かったのは、帽子をはすに被って肩をいからせてエレベーターに乗ってきたツッパリだった。一人はタバコを吸っていた。
佐々木は自分の道義心に反することに対しては感情をコントロールできなかった。手が出た。足技も飛んだ。女子柔道の黎明期に活躍したと佐々木が自慢していたのを櫻井は聞いたことがあった。
「あんたたち、エレベーター使っちゃいけないだよ。だいたいタバコを学校の中で吸うとは許しがたいね。」
「ばばぁがなんか言ってんぜ。」
佐々木の前にいるあと少しで生け贄になる二人は顔を合わせて笑った。突っ張りの片方がエレベーターの床でタバコを踏み消した。
エレベーターが開くと、佐々木に後ろから二人とも蹴飛ばされ廊下に転がった。
「何すんだ、このババー。」
この悪態がまた良くなかった。佐々木を激昂させた。二人は佐々木の得意技小外刈りで今度は仰向けになって倒された。受け身など練習したことのないツッパリは後頭部を強打した。
「痛いよ。」
このやり取りは被害者が供述したものだ。職員会議の資料に記載されていた。
あっという間に野次馬が囲っていた。その中の通報者が職員室に駆け込んだ。この件で緊急の職員会議が開かれ、結局、佐々木は三週間の謹慎処分になった。
「城南高校で謹慎処分を受けた最高齢だ。」
校長に諭され、随分恐縮していたということを後で生徒指導部長から櫻井は聞かされた。
*
佐々木の家は閑静な住宅街の一角にあった。佐々木の生徒カードの地図は略図ではなく国土地理院の2万5千分の一の地図ともう一つ自宅周辺の観光マップのようなものまで添付してあり、誰でも迷子になることはない完璧なものだった。
櫻井は大仰しい鉄の門のブザーを鳴らし、十段ほど続く白い階段上にある玄関のドアが開くのを待った。しかし、何度押しても一向にドアは開かなかった。
「佐々木さん!佐々木さん!いらっしゃいますか!」
埒があかないので櫻井は大声で呼んだ。
「佐々木さん!佐々木さん!いらっしゃいますか!」
櫻井は道路に下がり、近所に助けを求めるかのように両隣の家に向かって大声を張り上げもしたが、重厚な玄関の扉から誰一人出てこなかった。木枯らしがスーと走り抜け、白い階段の両側に聳える大きな木が風に靡くと、何事もなかったように空気はもとに戻っていってしまった。
意を決して、櫻井は門を飛び越え、白い階段を上がった。玄関の扉を渾身の力で叩いたが応答はなかった。試しにドアのノブを回すと開いた。鍵はかけられてなかった。
「佐々木さん。いますか。」
半分、身体を玄関の中に入れ、先ほどと違う柔らかい声で辺りを伺った。その時、玄関の先の部屋で倒れている嫁であろう足が見えた。黒い網タイツを履いていた。
「佐々木さん!」
櫻井は拡声器を使ったような声で容疑者が投降するのを命じた。
「佐々木さん!」「佐々木さん!」
しかし、呼んでいくうちに声はだんだん角が取れ、弱まった。玄関で靴を脱ぎ、脱いだ靴を揃えた。
「佐々木さん。」
櫻井は自分がこそ泥に入ったのかと思うぐらい人の気配をさぐるような小さな声になっていった。
佐々木が嫁の倒れている部屋から突然、顔を出した時には驚いたというより慌てた。佐々木が飛んできて、櫻井に抱きつき、太い声で泣き出した時には逃げたくなった。
「どうしたんですか。泣いていてもわからないです。」
沈着冷静な振りをして、櫻井は佐々木を自分の体から離した。佐々木の鼻と口から出てきたジェル状のヌルヌルしたものを首のあたりに感じ、事件の本質から気持ちは遠ざかろうとしていた。
「あ、あ、あれが。」
佐々木は嫁を指した。
「どうしたんですか?」
櫻井はヌルヌル感をお首にも出さないようにと佐々木の指の先を見た。
よく現場を見えるようにと櫻井は自然と体を反らしたが動かない黒い網タイツの足しか見えなかった。
「佐々木さん。何したんですか?」
櫻井は問いつめるというよりは事情を聴こうとしているのに、佐々木はまた縋り付いて泣き顔を櫻井の胸に埋めようとした。
「とにかく、救急車を呼びましょう。」
櫻井は佐々木をはねつけ、電話するにも被害者の状態を把握しなくてはいけないと思い、恐る恐る現場に近づいた。被害者である嫁は気絶し、鼻から血を流していた。被害者の背中に血の海が広がっていたり、血塗られた包丁があったらどうしようと恐れたが殺人現場ではなかった。櫻井はふっと息をはいた。
*
神聖会病院のロビーは外来の患者で混雑していた。
「先生どうしたの?お腹の調子が悪いの?」
「いや。そんなことないです。大丈夫です。」
「なかなかトイレから出てこないから心配したわよ。」
佐々木は自分のしでかした事など、もう遠い過去のように忘れていたようだった。
「人のことより自分の心配をしてくださいよ。」
櫻井は佐々木を咎めようしたが、まやかし半分の言葉になると思い、言葉を飲み込んだ。トイレで首についていたネットリしたものを洗っていたことも当然であった。
「襟の所、濡れているわよ。」
「・・・」
背の高い男が処置室の方から肩を落とし、歩いてきた。
「どうだった?」
佐々木の眼が急に優しくなったので、櫻井はこの大男が佐々木の息子であること知った。
「ぐっすり寝ているよ。」
息子は佐々木から櫻井のことは電話で知らされていたのだろう。
「母がいつもお世話になっています。」
丁寧に頭を下げた。櫻井より二〇cmは背の高い大男が腰を折ると櫻井の方が恐縮した。
「脳波はどうでしたか?」
櫻井は息子を見上げた。
「異常はなかったようです。」
低い太い声が上から降りてきた。櫻井は音楽の先生に聞いたことがあった。
『声の高い低いは、原則的には背丈による。背の低い人は高い声で背の高い人は低い声だ。』
櫻井は今更ながら音楽の先生の知識に感心した。
「よかったですね。」
櫻井は安堵の気持ちを表した。
「でも、先生がすぐ来てくれて、救急車を呼んでくれて助かりました。母だけではパニックってて、手当が遅くなっていて・・・。それにまた何かひどいことをしたかもしれません。」
息子は母の方には眼を向けず、唇がびくびくするのを隠すように口を強く結んだ。
「何言ってんだ。私は殺人鬼じゃないんだよ。倒れている嫁に何をするっていうんだい。」
佐々木は息子の右腕を掴んだ。
「母さん、もういいよ。」
高いところから、涙が一滴、落ちた。
「よくない。だいたい、誰が原因でこうなったのか、お前には、ちゃんとわかってんだろ。」
佐々木はさらに息子の左腕も握った。
「母さん、もういいから。脳波に異常はなかったから、二・三日すればよくなるから。」
息子は母の手を両腕から離した。
「先生がほんと来てくれて助かった。もし、来てくれなかったら、明仁が言うように殺しちゃっていたかもしれない。あー恐ろしい。」
佐々木は形勢が不利になるのを回避するように櫻井に感謝した。
「どうもすいません。」
息子は母を無視するように、また櫻井に頭を下げた。
「先生が家に着いたときは、どういう状態でしたか?」
息子は、母親に大きな背中を向けて、母親の存在すら煙たがっているようだった。
「はあ。奥様は倒れていて、鼻血は出されていましたが、外傷はなかったようです。」
「や~だ先生。第一発見者が警察から取り調べ受けているみたい。」
佐々木は横やりを入れてきた。
「どこで倒れていました?」
無視を決め込んだ息子は少し語気を強めた。
「お宅の間取りはわかりませんが、玄関を入ってすぐの部屋でした。たしか、ピアノが置いてあったと思います。」
「そうですか。妻はいつも二階にいて、下には降りてこないのにな。びっくりなさったでしょね。すいませんでした。」
「いえ。すぐによくなる・・・」
櫻井は何気ない返事をすると口ごもった。気まずいというか、少し、後ろめたい気持ちが沸いてきた。被害者のスカートが捲れて、白い下着が黒い網タイツから透けて見えていたことを思い出しのだ。この人の奥さんの他人に見られるはずのないもの見てしまったという、つまらない真面目さから罪悪感だった。しかし、一方的な気まずさも佐々木の一言によって消えた。
「先生、内の息子、やっぱり、先生にそっくりでしょう。」
佐々木は息子と櫻井の顔を見比べ笑った。
「僕は佐々木さんのように体格はよくないです。私は。」
櫻井は息子に媚びるように言った。
「そうじゃなくて。雰囲気が。」
佐々木は念押しをするように言うと、口を押さえて笑った。
「母さん、今、どういう状況か、わかってるの。」
息子は声を荒げた。自分の声が思った以上に大きくなったと思ったのか、周りを見回した。
「悪かったよ。私が悪かったよ。」
「殴ることはないだろ。殴ることは。いくら、仲が悪いからっていったって。・・・・。医者に何が原因か聞かれて、ばつが悪くて、穴があったら入りたかったよ。看護婦さんはクスクス笑っているし。」
櫻井は親子の会話に立ち入らないように、ロビーの大型テレビで放映されているワイドショーを見るふりをしていた。
「拳固でやったから、よくなかったね。」
櫻井は拳固で右フックする真似をした佐々木にはさすがに呆れ、その拳を上から抑えた。息子はうなだれた。
「あ、そうそう。こうやって病院の待合室にいると、明仁のちっちゃい頃を思い出すね。先生、聞いてくれる。」
形勢不利を、今度は情に訴えて一掃しようとする魂胆に違いないと櫻井は思った。案の定、佐々木は悲しい顔つきで昔話を始めた。
「先生、明仁がまだ三歳くらいかな。そんな時、私、腸ねん転になって、救急車で病院まで運ばれたことがあるの。そしたら、この子、『母ちゃん、いやママと離れるのは嫌だ。嫌だ。僕も一緒に行く。』って、もう、私に抱きついて離れないの。しょうがないから、消防署の人に頼んで、救急車に乗っけてもらって、行ったのよ。病院に着いたら、この子、ちっちゃい手で、私の手を握ってさ・・・。私はさ、『母ちゃん、いやママ大丈夫だからね。僕、ママの病気がよくなるまでよい子になるね。』なんて殊勝なことを言うかなって、思わず胸にこみ上げるものがあったのに、この子ったら『この町には蝉は何匹いるかな?』だってさ。痛さが倍増したよ。まったく、その後、三つ子の魂は百までで、生物の先生になったけど。」
佐々木は、何もなかったようにケラケラ笑った。情に訴える悲しい話がいつの間にか笑い話になっていた。
「でもさ、この子には私と喧嘩したらどうなるのか、小さい頃から教えていたつもりなんだけどね。一度ね、先生。内の亭主と喧嘩になってさ、私が指矩で頭を殴ったら、坊主頭が切れてね。血がブアッと出ちゃってさ。そしたら、丁度そこに明仁が学校から帰ってきてさ。どうしたと思う先生。」
櫻井は想定外の質問に答えに窮した。
「そうしたら、この子、平気な顔で、ランドセル置いて、『友達と遊んでくる。』って出でいっちゃたの。この状況には係わっては駄目だって思ったんだろうね。でも、母ちゃんに逆らったら男でもやられるって悟ったんだと思ったね私。」
佐々木は自分が法であることを櫻井にも知らしめようとした。
『事件を起こしたのはあの佐々木である。絶対、尋常ではない。もしかしたら、本当に殺人?』
一学期三件の生徒指導上の問題があったが、その一つが佐々木をめぐる事件だった。城南高校には車椅子の生徒も多い。そのためにエレベーターが設置されていた。日常、健常者は使用禁止だった。佐々木は高齢者とはいえ中身も見た目も日本人の女性を超越していたので勿論使用できなかった。にもかかわらず、荷物の重さに耐えかねてエレベーターに乗った。運が悪かったのは、帽子をはすに被って肩をいからせてエレベーターに乗ってきたツッパリだった。一人はタバコを吸っていた。
佐々木は自分の道義心に反することに対しては感情をコントロールできなかった。手が出た。足技も飛んだ。女子柔道の黎明期に活躍したと佐々木が自慢していたのを櫻井は聞いたことがあった。
「あんたたち、エレベーター使っちゃいけないだよ。だいたいタバコを学校の中で吸うとは許しがたいね。」
「ばばぁがなんか言ってんぜ。」
佐々木の前にいるあと少しで生け贄になる二人は顔を合わせて笑った。突っ張りの片方がエレベーターの床でタバコを踏み消した。
エレベーターが開くと、佐々木に後ろから二人とも蹴飛ばされ廊下に転がった。
「何すんだ、このババー。」
この悪態がまた良くなかった。佐々木を激昂させた。二人は佐々木の得意技小外刈りで今度は仰向けになって倒された。受け身など練習したことのないツッパリは後頭部を強打した。
「痛いよ。」
このやり取りは被害者が供述したものだ。職員会議の資料に記載されていた。
あっという間に野次馬が囲っていた。その中の通報者が職員室に駆け込んだ。この件で緊急の職員会議が開かれ、結局、佐々木は三週間の謹慎処分になった。
「城南高校で謹慎処分を受けた最高齢だ。」
校長に諭され、随分恐縮していたということを後で生徒指導部長から櫻井は聞かされた。
*
佐々木の家は閑静な住宅街の一角にあった。佐々木の生徒カードの地図は略図ではなく国土地理院の2万5千分の一の地図ともう一つ自宅周辺の観光マップのようなものまで添付してあり、誰でも迷子になることはない完璧なものだった。
櫻井は大仰しい鉄の門のブザーを鳴らし、十段ほど続く白い階段上にある玄関のドアが開くのを待った。しかし、何度押しても一向にドアは開かなかった。
「佐々木さん!佐々木さん!いらっしゃいますか!」
埒があかないので櫻井は大声で呼んだ。
「佐々木さん!佐々木さん!いらっしゃいますか!」
櫻井は道路に下がり、近所に助けを求めるかのように両隣の家に向かって大声を張り上げもしたが、重厚な玄関の扉から誰一人出てこなかった。木枯らしがスーと走り抜け、白い階段の両側に聳える大きな木が風に靡くと、何事もなかったように空気はもとに戻っていってしまった。
意を決して、櫻井は門を飛び越え、白い階段を上がった。玄関の扉を渾身の力で叩いたが応答はなかった。試しにドアのノブを回すと開いた。鍵はかけられてなかった。
「佐々木さん。いますか。」
半分、身体を玄関の中に入れ、先ほどと違う柔らかい声で辺りを伺った。その時、玄関の先の部屋で倒れている嫁であろう足が見えた。黒い網タイツを履いていた。
「佐々木さん!」
櫻井は拡声器を使ったような声で容疑者が投降するのを命じた。
「佐々木さん!」「佐々木さん!」
しかし、呼んでいくうちに声はだんだん角が取れ、弱まった。玄関で靴を脱ぎ、脱いだ靴を揃えた。
「佐々木さん。」
櫻井は自分がこそ泥に入ったのかと思うぐらい人の気配をさぐるような小さな声になっていった。
佐々木が嫁の倒れている部屋から突然、顔を出した時には驚いたというより慌てた。佐々木が飛んできて、櫻井に抱きつき、太い声で泣き出した時には逃げたくなった。
「どうしたんですか。泣いていてもわからないです。」
沈着冷静な振りをして、櫻井は佐々木を自分の体から離した。佐々木の鼻と口から出てきたジェル状のヌルヌルしたものを首のあたりに感じ、事件の本質から気持ちは遠ざかろうとしていた。
「あ、あ、あれが。」
佐々木は嫁を指した。
「どうしたんですか?」
櫻井はヌルヌル感をお首にも出さないようにと佐々木の指の先を見た。
よく現場を見えるようにと櫻井は自然と体を反らしたが動かない黒い網タイツの足しか見えなかった。
「佐々木さん。何したんですか?」
櫻井は問いつめるというよりは事情を聴こうとしているのに、佐々木はまた縋り付いて泣き顔を櫻井の胸に埋めようとした。
「とにかく、救急車を呼びましょう。」
櫻井は佐々木をはねつけ、電話するにも被害者の状態を把握しなくてはいけないと思い、恐る恐る現場に近づいた。被害者である嫁は気絶し、鼻から血を流していた。被害者の背中に血の海が広がっていたり、血塗られた包丁があったらどうしようと恐れたが殺人現場ではなかった。櫻井はふっと息をはいた。
*
神聖会病院のロビーは外来の患者で混雑していた。
「先生どうしたの?お腹の調子が悪いの?」
「いや。そんなことないです。大丈夫です。」
「なかなかトイレから出てこないから心配したわよ。」
佐々木は自分のしでかした事など、もう遠い過去のように忘れていたようだった。
「人のことより自分の心配をしてくださいよ。」
櫻井は佐々木を咎めようしたが、まやかし半分の言葉になると思い、言葉を飲み込んだ。トイレで首についていたネットリしたものを洗っていたことも当然であった。
「襟の所、濡れているわよ。」
「・・・」
背の高い男が処置室の方から肩を落とし、歩いてきた。
「どうだった?」
佐々木の眼が急に優しくなったので、櫻井はこの大男が佐々木の息子であること知った。
「ぐっすり寝ているよ。」
息子は佐々木から櫻井のことは電話で知らされていたのだろう。
「母がいつもお世話になっています。」
丁寧に頭を下げた。櫻井より二〇cmは背の高い大男が腰を折ると櫻井の方が恐縮した。
「脳波はどうでしたか?」
櫻井は息子を見上げた。
「異常はなかったようです。」
低い太い声が上から降りてきた。櫻井は音楽の先生に聞いたことがあった。
『声の高い低いは、原則的には背丈による。背の低い人は高い声で背の高い人は低い声だ。』
櫻井は今更ながら音楽の先生の知識に感心した。
「よかったですね。」
櫻井は安堵の気持ちを表した。
「でも、先生がすぐ来てくれて、救急車を呼んでくれて助かりました。母だけではパニックってて、手当が遅くなっていて・・・。それにまた何かひどいことをしたかもしれません。」
息子は母の方には眼を向けず、唇がびくびくするのを隠すように口を強く結んだ。
「何言ってんだ。私は殺人鬼じゃないんだよ。倒れている嫁に何をするっていうんだい。」
佐々木は息子の右腕を掴んだ。
「母さん、もういいよ。」
高いところから、涙が一滴、落ちた。
「よくない。だいたい、誰が原因でこうなったのか、お前には、ちゃんとわかってんだろ。」
佐々木はさらに息子の左腕も握った。
「母さん、もういいから。脳波に異常はなかったから、二・三日すればよくなるから。」
息子は母の手を両腕から離した。
「先生がほんと来てくれて助かった。もし、来てくれなかったら、明仁が言うように殺しちゃっていたかもしれない。あー恐ろしい。」
佐々木は形勢が不利になるのを回避するように櫻井に感謝した。
「どうもすいません。」
息子は母を無視するように、また櫻井に頭を下げた。
「先生が家に着いたときは、どういう状態でしたか?」
息子は、母親に大きな背中を向けて、母親の存在すら煙たがっているようだった。
「はあ。奥様は倒れていて、鼻血は出されていましたが、外傷はなかったようです。」
「や~だ先生。第一発見者が警察から取り調べ受けているみたい。」
佐々木は横やりを入れてきた。
「どこで倒れていました?」
無視を決め込んだ息子は少し語気を強めた。
「お宅の間取りはわかりませんが、玄関を入ってすぐの部屋でした。たしか、ピアノが置いてあったと思います。」
「そうですか。妻はいつも二階にいて、下には降りてこないのにな。びっくりなさったでしょね。すいませんでした。」
「いえ。すぐによくなる・・・」
櫻井は何気ない返事をすると口ごもった。気まずいというか、少し、後ろめたい気持ちが沸いてきた。被害者のスカートが捲れて、白い下着が黒い網タイツから透けて見えていたことを思い出しのだ。この人の奥さんの他人に見られるはずのないもの見てしまったという、つまらない真面目さから罪悪感だった。しかし、一方的な気まずさも佐々木の一言によって消えた。
「先生、内の息子、やっぱり、先生にそっくりでしょう。」
佐々木は息子と櫻井の顔を見比べ笑った。
「僕は佐々木さんのように体格はよくないです。私は。」
櫻井は息子に媚びるように言った。
「そうじゃなくて。雰囲気が。」
佐々木は念押しをするように言うと、口を押さえて笑った。
「母さん、今、どういう状況か、わかってるの。」
息子は声を荒げた。自分の声が思った以上に大きくなったと思ったのか、周りを見回した。
「悪かったよ。私が悪かったよ。」
「殴ることはないだろ。殴ることは。いくら、仲が悪いからっていったって。・・・・。医者に何が原因か聞かれて、ばつが悪くて、穴があったら入りたかったよ。看護婦さんはクスクス笑っているし。」
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「拳固でやったから、よくなかったね。」
櫻井は拳固で右フックする真似をした佐々木にはさすがに呆れ、その拳を上から抑えた。息子はうなだれた。
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形勢不利を、今度は情に訴えて一掃しようとする魂胆に違いないと櫻井は思った。案の定、佐々木は悲しい顔つきで昔話を始めた。
「先生、明仁がまだ三歳くらいかな。そんな時、私、腸ねん転になって、救急車で病院まで運ばれたことがあるの。そしたら、この子、『母ちゃん、いやママと離れるのは嫌だ。嫌だ。僕も一緒に行く。』って、もう、私に抱きついて離れないの。しょうがないから、消防署の人に頼んで、救急車に乗っけてもらって、行ったのよ。病院に着いたら、この子、ちっちゃい手で、私の手を握ってさ・・・。私はさ、『母ちゃん、いやママ大丈夫だからね。僕、ママの病気がよくなるまでよい子になるね。』なんて殊勝なことを言うかなって、思わず胸にこみ上げるものがあったのに、この子ったら『この町には蝉は何匹いるかな?』だってさ。痛さが倍増したよ。まったく、その後、三つ子の魂は百までで、生物の先生になったけど。」
佐々木は、何もなかったようにケラケラ笑った。情に訴える悲しい話がいつの間にか笑い話になっていた。
「でもさ、この子には私と喧嘩したらどうなるのか、小さい頃から教えていたつもりなんだけどね。一度ね、先生。内の亭主と喧嘩になってさ、私が指矩で頭を殴ったら、坊主頭が切れてね。血がブアッと出ちゃってさ。そしたら、丁度そこに明仁が学校から帰ってきてさ。どうしたと思う先生。」
櫻井は想定外の質問に答えに窮した。
「そうしたら、この子、平気な顔で、ランドセル置いて、『友達と遊んでくる。』って出でいっちゃたの。この状況には係わっては駄目だって思ったんだろうね。でも、母ちゃんに逆らったら男でもやられるって悟ったんだと思ったね私。」
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