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美樹との再会
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美樹のムーミンの時計は午後4時を指していた。部屋は遮光カーテンがおろされていたが、外から忍ぶ込むように一筋の光線が刺していた。大きなポスターのロック歌手のはだけた胸と床のカーペットに転がった化粧品の小瓶とこぼれた白い液体が暗闇で発光していた。ドアの前にしゃがみこんでしまった母親にドアの中から反応はなかった。それでも母親はドアを叩いた。
「美樹ちゃん、起きてる。ここ開けて!」
母親はだんだん口が渇き、胸の動悸が高まるのを感じた。
「いい加減に起きなさい。何時だと思っているの。もう夕方よ。起きて話し合いましょう。」
母親は声を荒げ、さらに強く、ドアをドンドンと叩いた。
「何なのよ。何時だっていいじゃない。起きたってなんにもすることないんだし。放っておいてよ。」
「何もすることがないって、することはたくさんあるでしょう。まず、起きて話し合いましょう。」
「話したって分かってもらえないだし、話したくない。」
「どうでもいいから早くドアを開けなさい。開けないなら鍵を壊してでも入るからね。」
母親はノブを無理矢理、回そうとした。
「そんな事するなら死んでやる。」
「死ねるものなら死んでごらん。」
「あんたが私を産んだんだからいけないんじゃないの。どうして産んだのよ。生まれてこなければこんな嫌な目にあわなくてすんだのに。」
部屋の中で妙な物音と小さな叫び声が聞こえた。母親は口の中の唾液が粘り着いて糸を張っているように感じた。声が出なかった。立ち上がった母親はドアに身体と気力をぶつけて開けた。美樹が倒れていた。傍らにカッターが落ちていて、左手首からカーペットに血が滴っていた。
救急車の中で母親は放心状態で震えていた。救急車の黒い窓から歩道を楽しそうに歩く二人の女子高校生が見えた。帰宅途中であろう普通の女子高校生。母親が視線を送ると一人の子と眼があったように感じた。
『何で何で?私の娘だけ何で他の子と違うの?』
母親はもう五年間も同じ言葉を繰り返してきた。相談所にも行った。病院にもかかった。神社仏閣を見かけたら、どんなに小さい所でも、お祈りすることを欠かしたことなどなかった。
『私の育て方が間違っていた。』
自問自答しても結論はこれしかなかった。いつもこの答えで自暴自棄になって諦めてきた。
神聖会病院の廊下を移動ベッドが看護婦を伴走に従え走っていった。看護婦の速度で横たわっている病人の容態が急を要するか否かが判断できた。点滴が激しく左右に揺れ、病人の息づかいに合わせているようだった。
「大丈夫!」
看護婦が意識を確認した。
「自分の体だから、自分の好きなようにしていいでしょう。」
美樹は呻きながら自分の意志をぶつけた。
「しゃべらないで!」
看護婦は『馬鹿野郎!』と言いたかった。
*
病院のロビーにスーツ姿の櫻井が花束を持って立っていた。櫻井が手をあげると佐々木はスキップでもしそうな軽快な足取りで近づいてきた。
「先生、今日はオシャレ!水玉のネクタイよく、似合ってるじゃないの。」
佐々木はネクタイを上着から引っ張り出した。
「これ、奥さんの趣味?」
佐々木は三十年間、年をとると言うことを忘れているだろうと櫻井はいつも思っていた。
「自分で買いました。」
櫻井は少しムッとした。
「え?これ、私に?にゃん。」
櫻井の手に花束があるのに気づいた佐々木はわけのわからない赤ちゃん言葉を使った。
「そんなことないでしょ。ちゃんと謝ってくださいね。」
櫻井は佐々木に花束を突き出した。
「ちぇっ。」
佐々木は足で蹴るまねをした。
「佐々木さん、真面目にやりましょう。頼みますよ。」
「はい、はい。先生、今日は一緒についてきてくれてありがとう。まあ、先生から電話もらわなければ、全然、お見舞いなんて、気が付かなかったのに。でも、先生、今日は嫁がいなくて朝から調子がいいの。」
「そんなこといわないで。心の底から謝罪してください。そうすれば、許してくれますから。」
「はいはい。」
「頼みますよ。」
櫻井はいつものように呆れた。
「佐々木さん、お嫁さんの病室は何号室だか、わかりますか?」
「そんこと、知っているわけないでしょう。」
「そうですよね。」
櫻井は受付のカウンターに行き、揃いのユニフォームを着た女性の中から暇そうな人を探した。
「すいません。お見舞いに来たんですけど。」
横には会計の窓口があった。数人が並んでいる先頭に腰の曲がった老婆が巾着から、がま口を出して中をのぞき込んでいた。
「おばあちゃん、513円だから、13円ないですか。」
折りたたまれた千円札がもうカウンターの上に置かれていたのに、受付の女性はおつりを出しやすくするために小銭を要求していた。
「13円ないの?」
今 度は意地悪そうな声で言うと、がま口の中をのぞき込んだ。老婆は反射的に隠そうとしたその拍子にがま口は落ちた。小銭が散らばり、はじけ飛んだ。
何をやってんだといわんばかりの顔で受付嬢はカウンターによじ登るようにして、反対側で起こっている間抜けな図を覗こうとした。
「おい。お前。年寄りを馬鹿にしてるのか。」
佐々木は咄嗟に受付嬢の首に巻かれたオレンジ色のリボンをぞうきんの水を切るように絞り上げた。
「ウッ。ウゥ」
受付嬢は首を締め上げられ、もがいた。
「お前、年寄りが出した札、受け取れねぇっていいうかい。ありがたく頂戴するのが道理だろ。それが・・・ばか 者!」
佐々木はその手をゆるめない。櫻井は老婆が小銭を拾うのを手伝っていたが、周囲のざわつきによって、佐々木の狼藉に気がついた。無理矢理に佐々木の手を離そうとするが、気持ちが入ったときの佐々木の腕力は驚くほど怪力だった。
「佐々木さん、止めてください。」
櫻井の精一杯の懇願が効いたのか佐々木はリボンから手を離した。受付嬢はタコのように顔を赤らめ、額から湧き出た大量の汗が眼に入りそうであった。
「私、こ・ろ・さ・れ・る!」
汗をかいて熱いはずなのに受付嬢の歯は恐怖のあまりガタガタ音を立てていた。
「すいません。ゆるしてください。」
櫻井は今度は受付嬢に懇願した。
「すいませんね、すいませんね。」
老婆も繰り返していた。
櫻井には老婆の謝罪の意味が『私のせいであなたに苦痛を与えて許してください。』というのではなく『仕返しをしてくれて、佐々木さんありがとう。』という佐々木に対する感謝の意味に思えた。
椅子の下の小銭をコンタクトレンズでも探すように拾っていた佐々木はその老婆の思いを知ってか知らずか、受付嬢を睨みつけた。
「お前も手伝え!」
佐々木は一喝した。
*
嫁の病室の前でしり込みして入らない佐々木を櫻井が手を引っ張って入れた。窓際のベッドに嫁がいた。八人部屋で、しきりのカーテンがまちまちに開いていた。それぞれの患者の病気の症状がその閉まり方に出ているように櫻井は感じた。櫻井は病人一人一人を労るように頭を下げて歩いた。イヤホーンを耳に入れ、くつろいでテレビを見ている女性。あんパンを口に頬張ろうとした所にちょうど櫻井と目が合った太った女性。みんな薹の立った女性であった。しかし、廊下から三列目のベッドに頭を下げた時だった。櫻井は思いがけない若い女性の寝顔に一瞬、足を止めた。『人違い。』と自分に言い聞かせながら、櫻井は佐々木の嫁のベッドの横に立った。
「・・・・」
櫻井は首をかしげた。
「先生、先生。」
「はあ。」
櫻井は気のない返事を佐々木に返した。
「ほら、気持ちよさそうに寝てる。」
佐々木は嫁の顔を覗き込みながら、ちょっと憐憫の情をだしたようだった。
「可愛い顔してるのに、口を開くと鬼なんだから。」
違った。佐々木は手のひらを返したように毒づいた。
嫁は雑音に目を覚ましたようだった。眼がゆっくりと開いた一瞬だった。
「あ!」
目映い光の中に思ってもいなかった人間が視界に入ったためであろう、鳩が豆鉄砲を食らったように驚いた。そして、そっぽを向いた。
「どうだい、具合は。これ。」
佐々木は嫁から一歩さがると、花束を差し出した。
「・・・・・」
嫁は無視した。
「悪かったね。痛かったろう。後生だから、許してな。」
櫻井には演技しているということが手に取るように分かった。誰が聞いても棒読みだった。
「・・・・・」
嫁は姑を無視しながらも、櫻井を気にした。
「あ、こちらの人。先生。母さんが、行ってる学校の先生」
櫻井は軽く会釈した。
「果物でも食べる。そこのりんご剥くかい。」
ぎこちない佐々木の演技に櫻井は少し笑ってしまった。
「・・・・・」
嫁は天井を見つめ、無視した。
「先生、帰ろうか。」
「ええ。」
櫻井は隣のベットが気になって首を傾げて返事をした。
「先生、帰ろう。葉子さん、また来るから。・・・。許してな。」
最後の一言は気持ちがこもっていたと櫻井は思った。
「・・・・・」
嫁は窓の外を見て、無視を貫いた。
廊下へ出ると、櫻井が急に立ち止まった。
「ちょっと、いいですか。」櫻井は廊下側の壁にある患者名が書かれたプレートを見た。『田中美樹』という名前だった。
「やっぱり。」
「知り合い?」
「たぶん、そうだと思います。」
櫻井はもう一度、病室に入り、美樹のベッドに近づいた。
「すいません。いいですか。」という問いに
「はい!」とカーテン越しに返事が返ってきた。美樹の声に間違いがなかった。
「やっぱり、君か。田中さんだよね。」
「先生」
美樹は起き上がろうとした。
「いいよ。いいよ。無理するなよ。」
美樹は、ベッドの上に人形のように正座した。スヌーピーのパジャマを着ていた。櫻井は田中の左手の包帯が気になったが、視線をすぐさけた。いろいろな所に眼を泳がし、結局は田中の眼に行き着いた。憔悴していた。見られているのを感じたのだろうか田中は左手を後ろに回し隠した。
「・・・・」
お互い無言になるしかなかった。
佐々木がカーテンをこっそり開け、中を窺ってきた。佐々木は丁寧にお辞儀をした。美樹はそれに答え、ベッドの上で茶道の稽古のようにお辞儀をした。櫻井は会話をどうやって続けて、気まずさをどう消したらよいのかわからなかったが、佐々木が重い空気をはらすために真骨頂を発揮してくれた。
「先生のお知り合い?」
今まで聞いたことのないような上品な小声で櫻井を覗いた。
「うちの学校の生徒です。」
「そう。じゃ私と同じじゃない。よろしく。」
すぐに余所行きの声は元に戻った。
「どうしたの。」
美樹は下を向いた。
櫻井はその時『先生、好奇心で生徒の家庭へ首をつっこむのは、どうでしょうか。』という教頭の声がたばこ臭い息と一緒に思い出された。確かにここで美樹から事の顛末を聞いたところで、それは自分の好奇心を満足させるだけであり、この病院から自分が出してあげることなどできるはずはなかった。
「佐々木さん。帰りましょう。」
櫻井は自分に言い聞かすように言った。
「でもね。もう少し話しがしたいよね。」
佐々木は美樹に同意を求めるように言った。
「病気、早く治ると良いね。誰か、付き添いは。お母さん来てるんでしょ。」
佐々木の質問に美樹は首を横に振って答えた。
「そうか。・・・。佐々木さん、帰りましょう。急に、入ってきて、すみませんでした。じゃあ、元気で。」
櫻井は教頭の訓示が頭から離れず、本意でない言葉が出た。
「先生!」
「何ですか?」
「先生と話がしたいのよね。」
佐々木が優しく言うと、美樹はうなずいた。
「ほら。生徒が入院してるのに。冷たいじゃないの。1分もいないで、じゃ、さようならは。入院してると、寂しいもんなんだから。ね。」
自分の好奇心を満足するためには櫻井をダシに使ってしまえという魂胆があからさまであったが、櫻井は佐々木の心配りであると解釈した。
「先生、入院したことないでしょう。病人の気持ちがわからないのよ。ホント、可愛い生徒が入院しているっていうのに。もっと、同情してあげなさいよ。痛くないのとか。夜眠れるの。とか。何か食べたいものあるとか。」
佐々木の言葉は説得力を帯び大きくなっていった。
「ゴホン。ゴホン。」
隣のベッドの嫁が咳をして不愉快さを伝えた。それでも我関せずの佐々木が無理矢理、櫻井をパイプ椅子に座らせようとして、畳んだ椅子を組み立てると、嫁は業を煮やして病室に響くような声で怒鳴った。
「私の方こそ同情してもらいたいわね!」
佐々木は急に血相を変えて、嫁の方を指さしながら言った。
「馬鹿ね。可愛い子には同情できるけど、ブスのオバタリアンにはね。出来る分けないでしょう。」
佐々木は首を傾げて薄ら笑いをしながら外国人がする『ワカリマセン。』の両手を広げるポーズをした。
「佐々木さん。いいかげんにしてください。」
櫻井が佐々木を叱責した。
美樹は困った顔をして櫻井を見た。
「あの声、あのカラスのような声。私の。嫁なの。ちび、デブ、ブス。」
佐々木が今度は小声で美樹の耳元で囁いたので、美樹が笑った。
「佐々木さん。いい加減にしてください。」
櫻井はまた、叱責したが美樹に釣られて笑ってしまったので、迫力がなかった。
「ハイハイ。」
佐々木はまた美樹を笑わせようと民謡の囃子手のように答えた。
「先生、外で話そうよ。あなた、歩ける。」
もう主導権を握った佐々木は美樹をその気にさせていた。
「はい。」
美樹は素直にベットから立ち上がり、ぬいぐるみの足のようなボアのサンダルに小さな足を入れた。
病院の中庭は、ハーブ園であった。古木を組んでアーチが作られ、小さな紫色の花が鏤められた草が中華鍋ほどの植木鉢に入り、つる下げられていた。アーチをくぐると背の低い植物が畳一畳ぐらいのまとまりで、種類ごとに群生していた。師走も近いこの季節なので花園とはほど遠い地味なものであった。しかし、一角のビニールハウスの中ではパンジーが春を呼びこむように踊っていた。棚にプランターがたくさん並び、老人達がパンジーを移し替えていた。棚は腰を屈まなくてよいように高さが調整され、老人達は花の配置に気を使って、後ろにさがって見たり、腕組みをしたり、作業というよりは創作しているようであった。スコップがうまく握れず落としてしまったり、如雨露の水が震えて飛び散ったりする老人を介護者が世話していた。園芸セラピーであった。お節介の佐々木も車椅子から立ち上がろうとしていた老人を補助していた。
「先生、ごめんなさい。つきあわせて。」
日だまりの中のベンチに座った美樹が眩しそうに櫻井を見上げた。
「ハーブの香りがするね。」
「ほんと。」
美樹はハーブ畑に目を落とした。
「その手、どうしたの。」
何となく聞いてしまった。
「・・・・・。」
「いいんだ。」
櫻井は、他人の人生に首を突っ込もうとしていることを自戒した。
冷たい風が美樹の髪の毛をそっとはらった。
「先生。私、悪い、どうしようもない子なの。」
「・・・・・。寒くなってきたな。入ろうか。」
櫻井は返す言葉がなかった。
「大丈夫。・・・・。先生、野球、してますか。」
「うん。」
「うらやましいな。」
美樹が深呼吸したように櫻井は感じた。
「何で。」
「いっぱい、楽しいことあって。楽しい人がたくさんいて。」
二人は佐々木の方を振り向いた。佐々木は車椅子に乗り、患者に押してもらって歓声をあげていた。
「学校はこの前の日曜日、運動会だったよ。うちの運動会はどっかの自治会の運動会みたいで、競争というより、お楽しみ会みたいだけど。」
櫻井はわざとらしく笑って話題の的を変えた。
「それが、雨でグランドが泥だらけだから体育館でやったんだ。生徒が連れてきた子供たちが走り回っちゃって幼稚園の運動会みたいだったよ。メインイベントは大縄跳びをみんなでやったんだ。」
「そうですか。でも私、大縄跳び、嫌いです。ひっかるとみんなから注目されるから。」
美樹は櫻井が開けようとした窓をぴしゃりと閉めた。櫻井がこんな時頼れる人間は佐々木だけだが、佐々木は櫻井の思惑通り、大ボケをかましてくれ、美樹の窓が少しだけ開いた。
佐々木を乗せた車いすが何かに躓いたのか横転しハーブ畑に突っ込んだ。それを見ていた老人たちが腹を抱えた。仰向けになった佐々木は痛さよりスリルに満足したのか豪快に笑っていた。佐々木の嫁の窓際にはカラスが一羽、付着し、左右に跳ねていた。カラスにもウケていた。しかし、B級の笑いの後の沈黙は空虚さが際だった。
「でも、君だって、レポートの質問で学校へ来るぐらいだから、一生懸命、勉強して、高校の資格取って、将来何かやってみようと思ってるんでしょ。」
櫻井はしらけた空気を拭うような適当な言葉が思いつかず、ありきたりの言葉で美樹の窓をまた開けようとした
「そんなことないんです。何で勉強するのか、今は分かりません。頭の悪い自分のことは大嫌いだけど。だからといって自分のために一生懸命勉強しようなんてことも全然思わないんです。・・・・・。親のためかな。・・・・。レポートやっている時、考えるんです。こうやってレポートをやってるけど、それが無くなったら私はただのひきこもりの何の目標もない中卒人間だ。それも二十四歳の。それではヤダ、何でもいいから今は何かにしがみつきたい。こうやって高校生やってる内は親も私がレポートやってる姿を見れば喜んでくれているし、今は兎に角こうして高校生のかたがきをもってレポートをのらりくらりとやっていこうって。」
美樹は櫻井のありきたりの言葉に真情を吐露した精一杯の言葉を返した。
「じゃ、家にずっといるの。バイトは。」
櫻井はまた薄っぺらな質問をした。
田中は頭を振った。
「かっこいいスポーツカーは。友達とどこかへ行ったりしないの。」
櫻井は教師として、病人を癒す言霊のようなものが浮かばないのかと情けなくなった。
すると美樹の眼に涙が溢れてきた。櫻井はたぶんそうなるだろうということが起きたので冷静に美樹の涙を見ていた。美樹は動揺しない櫻井に感情で訴えても埒が明かないと思ったのかしゃくり上げるのをやめ落ち着いた低い声になった。
「友達なんてたくさんできればできるほど寂しくなるものでしょ。先生はわかんないけど。友達の中にはたくさんのルールがあって言葉には出せないけど、みんなそのルール一生懸命守って、その輪の中から追い出されまいと必死なんです。」
美樹はそう言うと、顔を上げ空を見た。
「寂しくないですか。辛くないですか。その方が。」
美樹は顔が紅潮し櫻井に訴えた。
櫻井はやぶ蛇だった。視線を落としてしまった。落ち込んだ人間を楽にするスキルのなさを落胆した。
「いいんです。深刻にならないでください。先生の寂しい顔、見たくないです。」
「うん。」
櫻井は生徒に圧倒された。
「ほら。」
美樹は櫻井のブレザーの裾をつかみ、櫻井に笑顔を投げかけた。櫻井も笑顔で応えた。
佐々木が花束を持って櫻井と美樹に近寄ってきた。
「あそこの年寄り、私に惚れたね。これどうぞって。」
花束の香りを嗅ぎながら自慢げに言った。
一人の老人がこちらを笑顔で見ていた。特徴のない小柄の患者だったが笑顔には歯が一本もなかった。頭をゆっくり下げた。櫻井たちもつられて下げた。
「やだねぇ。こんな所でナンパされるなんて。それもあんな年寄りに。先生ぐらい年が近ければね。何とか考えようもあるけど。」
佐々木は櫻井の太ももをつねった。
『全然、あのお爺さんの方があなたに年は近いでしょう。』
櫻井は言い返せるはずもなくひきつった笑いをした。田中がクスクスと笑った。佐々木の嫁もつられたのかケタケタ笑う声が上の方から聞こえてきた。
「ハアー」
佐々木は咄嗟にとサルのように嫁に向かって歯を剥いた。嫁は怖気づいて窓を閉めた。佐々木は止めを刺すように、小石を拾って投げつける格好をした。櫻井が勝ち誇る佐々木を一瞥し、軽蔑の表情を見せると、佐々木の顔から赤みがひいて、人間の顔に変わり、爪も閉まった。
「佐々木さん、反省がたりないようですね。」
佐々木は一瞬、しゅんとしたが、美樹の方を見て、猿ぐつわをつける手まねをした。上下の唇を口の中にしまい、両手を摺り合わせ、ぴょこぴょこおじぎをした。
「反省猿!」
田中はパジャマの袖で顔を覆って笑いをこらえた。
「佐々木さん、そろそろ帰りましょう。」
「それじゃ、駅のそばで、先生一杯、やりましょうか。」
「佐々木さん、いい加減にしてください。」
「じゃ、田中さん。お大事に。いいかい。・・・」
櫻井は田中の腕を見ると言葉によどんだ。田中がそっと腕を後ろに回し隠した。
「自分の体と相談しながら、来られたら、学校に来て下さい。ホント無理するなよ。まだ、十分取り返しがつくから、安心して。な。」
最後の最後で、自分の口から優しい言葉が出たと櫻井は思った。
病院の玄関から美樹は二人を見送った。人の往来が多く、二人の姿を途中見失いかけたが、2階に駆け上がって、外来の待合室の窓から、バス停に立っている二人を見つけた。櫻井はしつこく腕を組もうとしてくる佐々木を拒否していた。美樹はふっと息をはいた。久しぶりに人とのつながりを感じた。
「美樹ちゃん、起きてる。ここ開けて!」
母親はだんだん口が渇き、胸の動悸が高まるのを感じた。
「いい加減に起きなさい。何時だと思っているの。もう夕方よ。起きて話し合いましょう。」
母親は声を荒げ、さらに強く、ドアをドンドンと叩いた。
「何なのよ。何時だっていいじゃない。起きたってなんにもすることないんだし。放っておいてよ。」
「何もすることがないって、することはたくさんあるでしょう。まず、起きて話し合いましょう。」
「話したって分かってもらえないだし、話したくない。」
「どうでもいいから早くドアを開けなさい。開けないなら鍵を壊してでも入るからね。」
母親はノブを無理矢理、回そうとした。
「そんな事するなら死んでやる。」
「死ねるものなら死んでごらん。」
「あんたが私を産んだんだからいけないんじゃないの。どうして産んだのよ。生まれてこなければこんな嫌な目にあわなくてすんだのに。」
部屋の中で妙な物音と小さな叫び声が聞こえた。母親は口の中の唾液が粘り着いて糸を張っているように感じた。声が出なかった。立ち上がった母親はドアに身体と気力をぶつけて開けた。美樹が倒れていた。傍らにカッターが落ちていて、左手首からカーペットに血が滴っていた。
救急車の中で母親は放心状態で震えていた。救急車の黒い窓から歩道を楽しそうに歩く二人の女子高校生が見えた。帰宅途中であろう普通の女子高校生。母親が視線を送ると一人の子と眼があったように感じた。
『何で何で?私の娘だけ何で他の子と違うの?』
母親はもう五年間も同じ言葉を繰り返してきた。相談所にも行った。病院にもかかった。神社仏閣を見かけたら、どんなに小さい所でも、お祈りすることを欠かしたことなどなかった。
『私の育て方が間違っていた。』
自問自答しても結論はこれしかなかった。いつもこの答えで自暴自棄になって諦めてきた。
神聖会病院の廊下を移動ベッドが看護婦を伴走に従え走っていった。看護婦の速度で横たわっている病人の容態が急を要するか否かが判断できた。点滴が激しく左右に揺れ、病人の息づかいに合わせているようだった。
「大丈夫!」
看護婦が意識を確認した。
「自分の体だから、自分の好きなようにしていいでしょう。」
美樹は呻きながら自分の意志をぶつけた。
「しゃべらないで!」
看護婦は『馬鹿野郎!』と言いたかった。
*
病院のロビーにスーツ姿の櫻井が花束を持って立っていた。櫻井が手をあげると佐々木はスキップでもしそうな軽快な足取りで近づいてきた。
「先生、今日はオシャレ!水玉のネクタイよく、似合ってるじゃないの。」
佐々木はネクタイを上着から引っ張り出した。
「これ、奥さんの趣味?」
佐々木は三十年間、年をとると言うことを忘れているだろうと櫻井はいつも思っていた。
「自分で買いました。」
櫻井は少しムッとした。
「え?これ、私に?にゃん。」
櫻井の手に花束があるのに気づいた佐々木はわけのわからない赤ちゃん言葉を使った。
「そんなことないでしょ。ちゃんと謝ってくださいね。」
櫻井は佐々木に花束を突き出した。
「ちぇっ。」
佐々木は足で蹴るまねをした。
「佐々木さん、真面目にやりましょう。頼みますよ。」
「はい、はい。先生、今日は一緒についてきてくれてありがとう。まあ、先生から電話もらわなければ、全然、お見舞いなんて、気が付かなかったのに。でも、先生、今日は嫁がいなくて朝から調子がいいの。」
「そんなこといわないで。心の底から謝罪してください。そうすれば、許してくれますから。」
「はいはい。」
「頼みますよ。」
櫻井はいつものように呆れた。
「佐々木さん、お嫁さんの病室は何号室だか、わかりますか?」
「そんこと、知っているわけないでしょう。」
「そうですよね。」
櫻井は受付のカウンターに行き、揃いのユニフォームを着た女性の中から暇そうな人を探した。
「すいません。お見舞いに来たんですけど。」
横には会計の窓口があった。数人が並んでいる先頭に腰の曲がった老婆が巾着から、がま口を出して中をのぞき込んでいた。
「おばあちゃん、513円だから、13円ないですか。」
折りたたまれた千円札がもうカウンターの上に置かれていたのに、受付の女性はおつりを出しやすくするために小銭を要求していた。
「13円ないの?」
今 度は意地悪そうな声で言うと、がま口の中をのぞき込んだ。老婆は反射的に隠そうとしたその拍子にがま口は落ちた。小銭が散らばり、はじけ飛んだ。
何をやってんだといわんばかりの顔で受付嬢はカウンターによじ登るようにして、反対側で起こっている間抜けな図を覗こうとした。
「おい。お前。年寄りを馬鹿にしてるのか。」
佐々木は咄嗟に受付嬢の首に巻かれたオレンジ色のリボンをぞうきんの水を切るように絞り上げた。
「ウッ。ウゥ」
受付嬢は首を締め上げられ、もがいた。
「お前、年寄りが出した札、受け取れねぇっていいうかい。ありがたく頂戴するのが道理だろ。それが・・・ばか 者!」
佐々木はその手をゆるめない。櫻井は老婆が小銭を拾うのを手伝っていたが、周囲のざわつきによって、佐々木の狼藉に気がついた。無理矢理に佐々木の手を離そうとするが、気持ちが入ったときの佐々木の腕力は驚くほど怪力だった。
「佐々木さん、止めてください。」
櫻井の精一杯の懇願が効いたのか佐々木はリボンから手を離した。受付嬢はタコのように顔を赤らめ、額から湧き出た大量の汗が眼に入りそうであった。
「私、こ・ろ・さ・れ・る!」
汗をかいて熱いはずなのに受付嬢の歯は恐怖のあまりガタガタ音を立てていた。
「すいません。ゆるしてください。」
櫻井は今度は受付嬢に懇願した。
「すいませんね、すいませんね。」
老婆も繰り返していた。
櫻井には老婆の謝罪の意味が『私のせいであなたに苦痛を与えて許してください。』というのではなく『仕返しをしてくれて、佐々木さんありがとう。』という佐々木に対する感謝の意味に思えた。
椅子の下の小銭をコンタクトレンズでも探すように拾っていた佐々木はその老婆の思いを知ってか知らずか、受付嬢を睨みつけた。
「お前も手伝え!」
佐々木は一喝した。
*
嫁の病室の前でしり込みして入らない佐々木を櫻井が手を引っ張って入れた。窓際のベッドに嫁がいた。八人部屋で、しきりのカーテンがまちまちに開いていた。それぞれの患者の病気の症状がその閉まり方に出ているように櫻井は感じた。櫻井は病人一人一人を労るように頭を下げて歩いた。イヤホーンを耳に入れ、くつろいでテレビを見ている女性。あんパンを口に頬張ろうとした所にちょうど櫻井と目が合った太った女性。みんな薹の立った女性であった。しかし、廊下から三列目のベッドに頭を下げた時だった。櫻井は思いがけない若い女性の寝顔に一瞬、足を止めた。『人違い。』と自分に言い聞かせながら、櫻井は佐々木の嫁のベッドの横に立った。
「・・・・」
櫻井は首をかしげた。
「先生、先生。」
「はあ。」
櫻井は気のない返事を佐々木に返した。
「ほら、気持ちよさそうに寝てる。」
佐々木は嫁の顔を覗き込みながら、ちょっと憐憫の情をだしたようだった。
「可愛い顔してるのに、口を開くと鬼なんだから。」
違った。佐々木は手のひらを返したように毒づいた。
嫁は雑音に目を覚ましたようだった。眼がゆっくりと開いた一瞬だった。
「あ!」
目映い光の中に思ってもいなかった人間が視界に入ったためであろう、鳩が豆鉄砲を食らったように驚いた。そして、そっぽを向いた。
「どうだい、具合は。これ。」
佐々木は嫁から一歩さがると、花束を差し出した。
「・・・・・」
嫁は無視した。
「悪かったね。痛かったろう。後生だから、許してな。」
櫻井には演技しているということが手に取るように分かった。誰が聞いても棒読みだった。
「・・・・・」
嫁は姑を無視しながらも、櫻井を気にした。
「あ、こちらの人。先生。母さんが、行ってる学校の先生」
櫻井は軽く会釈した。
「果物でも食べる。そこのりんご剥くかい。」
ぎこちない佐々木の演技に櫻井は少し笑ってしまった。
「・・・・・」
嫁は天井を見つめ、無視した。
「先生、帰ろうか。」
「ええ。」
櫻井は隣のベットが気になって首を傾げて返事をした。
「先生、帰ろう。葉子さん、また来るから。・・・。許してな。」
最後の一言は気持ちがこもっていたと櫻井は思った。
「・・・・・」
嫁は窓の外を見て、無視を貫いた。
廊下へ出ると、櫻井が急に立ち止まった。
「ちょっと、いいですか。」櫻井は廊下側の壁にある患者名が書かれたプレートを見た。『田中美樹』という名前だった。
「やっぱり。」
「知り合い?」
「たぶん、そうだと思います。」
櫻井はもう一度、病室に入り、美樹のベッドに近づいた。
「すいません。いいですか。」という問いに
「はい!」とカーテン越しに返事が返ってきた。美樹の声に間違いがなかった。
「やっぱり、君か。田中さんだよね。」
「先生」
美樹は起き上がろうとした。
「いいよ。いいよ。無理するなよ。」
美樹は、ベッドの上に人形のように正座した。スヌーピーのパジャマを着ていた。櫻井は田中の左手の包帯が気になったが、視線をすぐさけた。いろいろな所に眼を泳がし、結局は田中の眼に行き着いた。憔悴していた。見られているのを感じたのだろうか田中は左手を後ろに回し隠した。
「・・・・」
お互い無言になるしかなかった。
佐々木がカーテンをこっそり開け、中を窺ってきた。佐々木は丁寧にお辞儀をした。美樹はそれに答え、ベッドの上で茶道の稽古のようにお辞儀をした。櫻井は会話をどうやって続けて、気まずさをどう消したらよいのかわからなかったが、佐々木が重い空気をはらすために真骨頂を発揮してくれた。
「先生のお知り合い?」
今まで聞いたことのないような上品な小声で櫻井を覗いた。
「うちの学校の生徒です。」
「そう。じゃ私と同じじゃない。よろしく。」
すぐに余所行きの声は元に戻った。
「どうしたの。」
美樹は下を向いた。
櫻井はその時『先生、好奇心で生徒の家庭へ首をつっこむのは、どうでしょうか。』という教頭の声がたばこ臭い息と一緒に思い出された。確かにここで美樹から事の顛末を聞いたところで、それは自分の好奇心を満足させるだけであり、この病院から自分が出してあげることなどできるはずはなかった。
「佐々木さん。帰りましょう。」
櫻井は自分に言い聞かすように言った。
「でもね。もう少し話しがしたいよね。」
佐々木は美樹に同意を求めるように言った。
「病気、早く治ると良いね。誰か、付き添いは。お母さん来てるんでしょ。」
佐々木の質問に美樹は首を横に振って答えた。
「そうか。・・・。佐々木さん、帰りましょう。急に、入ってきて、すみませんでした。じゃあ、元気で。」
櫻井は教頭の訓示が頭から離れず、本意でない言葉が出た。
「先生!」
「何ですか?」
「先生と話がしたいのよね。」
佐々木が優しく言うと、美樹はうなずいた。
「ほら。生徒が入院してるのに。冷たいじゃないの。1分もいないで、じゃ、さようならは。入院してると、寂しいもんなんだから。ね。」
自分の好奇心を満足するためには櫻井をダシに使ってしまえという魂胆があからさまであったが、櫻井は佐々木の心配りであると解釈した。
「先生、入院したことないでしょう。病人の気持ちがわからないのよ。ホント、可愛い生徒が入院しているっていうのに。もっと、同情してあげなさいよ。痛くないのとか。夜眠れるの。とか。何か食べたいものあるとか。」
佐々木の言葉は説得力を帯び大きくなっていった。
「ゴホン。ゴホン。」
隣のベッドの嫁が咳をして不愉快さを伝えた。それでも我関せずの佐々木が無理矢理、櫻井をパイプ椅子に座らせようとして、畳んだ椅子を組み立てると、嫁は業を煮やして病室に響くような声で怒鳴った。
「私の方こそ同情してもらいたいわね!」
佐々木は急に血相を変えて、嫁の方を指さしながら言った。
「馬鹿ね。可愛い子には同情できるけど、ブスのオバタリアンにはね。出来る分けないでしょう。」
佐々木は首を傾げて薄ら笑いをしながら外国人がする『ワカリマセン。』の両手を広げるポーズをした。
「佐々木さん。いいかげんにしてください。」
櫻井が佐々木を叱責した。
美樹は困った顔をして櫻井を見た。
「あの声、あのカラスのような声。私の。嫁なの。ちび、デブ、ブス。」
佐々木が今度は小声で美樹の耳元で囁いたので、美樹が笑った。
「佐々木さん。いい加減にしてください。」
櫻井はまた、叱責したが美樹に釣られて笑ってしまったので、迫力がなかった。
「ハイハイ。」
佐々木はまた美樹を笑わせようと民謡の囃子手のように答えた。
「先生、外で話そうよ。あなた、歩ける。」
もう主導権を握った佐々木は美樹をその気にさせていた。
「はい。」
美樹は素直にベットから立ち上がり、ぬいぐるみの足のようなボアのサンダルに小さな足を入れた。
病院の中庭は、ハーブ園であった。古木を組んでアーチが作られ、小さな紫色の花が鏤められた草が中華鍋ほどの植木鉢に入り、つる下げられていた。アーチをくぐると背の低い植物が畳一畳ぐらいのまとまりで、種類ごとに群生していた。師走も近いこの季節なので花園とはほど遠い地味なものであった。しかし、一角のビニールハウスの中ではパンジーが春を呼びこむように踊っていた。棚にプランターがたくさん並び、老人達がパンジーを移し替えていた。棚は腰を屈まなくてよいように高さが調整され、老人達は花の配置に気を使って、後ろにさがって見たり、腕組みをしたり、作業というよりは創作しているようであった。スコップがうまく握れず落としてしまったり、如雨露の水が震えて飛び散ったりする老人を介護者が世話していた。園芸セラピーであった。お節介の佐々木も車椅子から立ち上がろうとしていた老人を補助していた。
「先生、ごめんなさい。つきあわせて。」
日だまりの中のベンチに座った美樹が眩しそうに櫻井を見上げた。
「ハーブの香りがするね。」
「ほんと。」
美樹はハーブ畑に目を落とした。
「その手、どうしたの。」
何となく聞いてしまった。
「・・・・・。」
「いいんだ。」
櫻井は、他人の人生に首を突っ込もうとしていることを自戒した。
冷たい風が美樹の髪の毛をそっとはらった。
「先生。私、悪い、どうしようもない子なの。」
「・・・・・。寒くなってきたな。入ろうか。」
櫻井は返す言葉がなかった。
「大丈夫。・・・・。先生、野球、してますか。」
「うん。」
「うらやましいな。」
美樹が深呼吸したように櫻井は感じた。
「何で。」
「いっぱい、楽しいことあって。楽しい人がたくさんいて。」
二人は佐々木の方を振り向いた。佐々木は車椅子に乗り、患者に押してもらって歓声をあげていた。
「学校はこの前の日曜日、運動会だったよ。うちの運動会はどっかの自治会の運動会みたいで、競争というより、お楽しみ会みたいだけど。」
櫻井はわざとらしく笑って話題の的を変えた。
「それが、雨でグランドが泥だらけだから体育館でやったんだ。生徒が連れてきた子供たちが走り回っちゃって幼稚園の運動会みたいだったよ。メインイベントは大縄跳びをみんなでやったんだ。」
「そうですか。でも私、大縄跳び、嫌いです。ひっかるとみんなから注目されるから。」
美樹は櫻井が開けようとした窓をぴしゃりと閉めた。櫻井がこんな時頼れる人間は佐々木だけだが、佐々木は櫻井の思惑通り、大ボケをかましてくれ、美樹の窓が少しだけ開いた。
佐々木を乗せた車いすが何かに躓いたのか横転しハーブ畑に突っ込んだ。それを見ていた老人たちが腹を抱えた。仰向けになった佐々木は痛さよりスリルに満足したのか豪快に笑っていた。佐々木の嫁の窓際にはカラスが一羽、付着し、左右に跳ねていた。カラスにもウケていた。しかし、B級の笑いの後の沈黙は空虚さが際だった。
「でも、君だって、レポートの質問で学校へ来るぐらいだから、一生懸命、勉強して、高校の資格取って、将来何かやってみようと思ってるんでしょ。」
櫻井はしらけた空気を拭うような適当な言葉が思いつかず、ありきたりの言葉で美樹の窓をまた開けようとした
「そんなことないんです。何で勉強するのか、今は分かりません。頭の悪い自分のことは大嫌いだけど。だからといって自分のために一生懸命勉強しようなんてことも全然思わないんです。・・・・・。親のためかな。・・・・。レポートやっている時、考えるんです。こうやってレポートをやってるけど、それが無くなったら私はただのひきこもりの何の目標もない中卒人間だ。それも二十四歳の。それではヤダ、何でもいいから今は何かにしがみつきたい。こうやって高校生やってる内は親も私がレポートやってる姿を見れば喜んでくれているし、今は兎に角こうして高校生のかたがきをもってレポートをのらりくらりとやっていこうって。」
美樹は櫻井のありきたりの言葉に真情を吐露した精一杯の言葉を返した。
「じゃ、家にずっといるの。バイトは。」
櫻井はまた薄っぺらな質問をした。
田中は頭を振った。
「かっこいいスポーツカーは。友達とどこかへ行ったりしないの。」
櫻井は教師として、病人を癒す言霊のようなものが浮かばないのかと情けなくなった。
すると美樹の眼に涙が溢れてきた。櫻井はたぶんそうなるだろうということが起きたので冷静に美樹の涙を見ていた。美樹は動揺しない櫻井に感情で訴えても埒が明かないと思ったのかしゃくり上げるのをやめ落ち着いた低い声になった。
「友達なんてたくさんできればできるほど寂しくなるものでしょ。先生はわかんないけど。友達の中にはたくさんのルールがあって言葉には出せないけど、みんなそのルール一生懸命守って、その輪の中から追い出されまいと必死なんです。」
美樹はそう言うと、顔を上げ空を見た。
「寂しくないですか。辛くないですか。その方が。」
美樹は顔が紅潮し櫻井に訴えた。
櫻井はやぶ蛇だった。視線を落としてしまった。落ち込んだ人間を楽にするスキルのなさを落胆した。
「いいんです。深刻にならないでください。先生の寂しい顔、見たくないです。」
「うん。」
櫻井は生徒に圧倒された。
「ほら。」
美樹は櫻井のブレザーの裾をつかみ、櫻井に笑顔を投げかけた。櫻井も笑顔で応えた。
佐々木が花束を持って櫻井と美樹に近寄ってきた。
「あそこの年寄り、私に惚れたね。これどうぞって。」
花束の香りを嗅ぎながら自慢げに言った。
一人の老人がこちらを笑顔で見ていた。特徴のない小柄の患者だったが笑顔には歯が一本もなかった。頭をゆっくり下げた。櫻井たちもつられて下げた。
「やだねぇ。こんな所でナンパされるなんて。それもあんな年寄りに。先生ぐらい年が近ければね。何とか考えようもあるけど。」
佐々木は櫻井の太ももをつねった。
『全然、あのお爺さんの方があなたに年は近いでしょう。』
櫻井は言い返せるはずもなくひきつった笑いをした。田中がクスクスと笑った。佐々木の嫁もつられたのかケタケタ笑う声が上の方から聞こえてきた。
「ハアー」
佐々木は咄嗟にとサルのように嫁に向かって歯を剥いた。嫁は怖気づいて窓を閉めた。佐々木は止めを刺すように、小石を拾って投げつける格好をした。櫻井が勝ち誇る佐々木を一瞥し、軽蔑の表情を見せると、佐々木の顔から赤みがひいて、人間の顔に変わり、爪も閉まった。
「佐々木さん、反省がたりないようですね。」
佐々木は一瞬、しゅんとしたが、美樹の方を見て、猿ぐつわをつける手まねをした。上下の唇を口の中にしまい、両手を摺り合わせ、ぴょこぴょこおじぎをした。
「反省猿!」
田中はパジャマの袖で顔を覆って笑いをこらえた。
「佐々木さん、そろそろ帰りましょう。」
「それじゃ、駅のそばで、先生一杯、やりましょうか。」
「佐々木さん、いい加減にしてください。」
「じゃ、田中さん。お大事に。いいかい。・・・」
櫻井は田中の腕を見ると言葉によどんだ。田中がそっと腕を後ろに回し隠した。
「自分の体と相談しながら、来られたら、学校に来て下さい。ホント無理するなよ。まだ、十分取り返しがつくから、安心して。な。」
最後の最後で、自分の口から優しい言葉が出たと櫻井は思った。
病院の玄関から美樹は二人を見送った。人の往来が多く、二人の姿を途中見失いかけたが、2階に駆け上がって、外来の待合室の窓から、バス停に立っている二人を見つけた。櫻井はしつこく腕を組もうとしてくる佐々木を拒否していた。美樹はふっと息をはいた。久しぶりに人とのつながりを感じた。
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