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野球部の問題
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田中の母親が頬杖をつきながら、台所で新聞を見ていた。壁の時計に眼を上げた。十二時を過ぎていた。玄関が開く音とともに靴を脱ぎすてる音がした。
「ただいま。」
美樹は、階段を駆け上がった。
「遅かったのね。」
小言と心配の混ざったような声が下から美樹を追いかけた。
「ごめん。」
階段の途中で立ち止まって、美樹は母親とは反対に声を弾ませた。
「お父さんから、電話があったのよ。来月は日本に帰れるって。」
母親は娘からの好反応を期待したにも関わらず、美樹の部屋のドアが閉まる音が聞こえただけだった。
美樹はベッドに飛び込み、仰向けになると溜息をついた。何時間も前の興奮が覚めきれなかった。美樹はあんなに全速でダッシュしたのは小学校以来なかった。酒が入っていたとはいえ、秋本とタイム差なしで待避所に走り着いたことが信じられなかった。
枕元にあるぬいぐるみを手で探り寄せ、抱えながら、天上をぼんやり見た。帰りの電車の中で佐々木と話したことがフラッシュバックしてきた。
「美樹ちゃん、先生のこと好きでしょ。」
「え!考えたこと、ありません。」
「美樹ちゃん、正直に言ってごらんなさい。本当は櫻井君の事どう思ってるの。これくらい好きでしょ。」
佐々木は自分で自分をギューと抱きしめる格好をした。
「もしかしたら、これくらい好きかな。」
何の意味だか理解できず、ぼうっとしている美樹を見て佐々木は自分の両腕の中にいる透明人間に『チュチュ』とキスをした。
乗客の視線を佐々木は全く感じないのか。呆れるやら恥ずかしいやらの美樹であったが照れ笑いはなかった。
「佐々木さん、ハンケチ落とし知ってますか?」
美樹は真剣な表情になり佐々木に質問を投げかけた。
「あれでしょ。人を騙す遊びでしょ。ハンカチあるよあるよと思わせといて、後ろを見るとお菓子が置いてあったり、タオルが置いてあったり。ハンカチじゃないもんね。バーカ。間違って、ハンカチあるよっていって後ろにテッィシュが置いてあった人が鬼になるってやつだよね。鬼になった人をみんなでしっぺするやつでしょ。」
美樹は場所により、ゲームのやり方が違うのだと思った。気持ちを切り替えて佐々木にずっと考えていた自分の恋愛観を吐露した。
「私、ハンカチ落としみたいに、知らん顔してハンカチを相手の後ろにおいていくの。でも好きな人は多分一度も気づいてくれない。それでも、いいの。自分で合図を送ることができたんだから、それだけで満足なの。」
*
学校のグランドは、カラカラに乾き、突風が吹くと土埃が舞いあがっていた。帽子が飛ばされるのもかまわずに黙々と一人、ベースランニングをする走る櫻井がいた。ダイアモンドを三周し、二塁を回るところで、足がもつれ転んだ。だが、こんなにうまくできるものかと感心するほどの前転をして、すくっと立った。
「先生無理しないでください。」
櫻井は砂埃の中に堀井を見つけた。堀井はバットケースを佐々木小次郎のように背中に担いでいた。こいつは学校の勉強以外のものだったら、難なく切って切って切りまくることのできるような、剣術の技を持っているに違いない。威風堂々とした堀井の姿勢に櫻井は感心ひとしおだった。
砂塵の中からはい出てきた櫻井は泥まみれであった。
「おう。」
櫻井が声を部員にかけると、堀井以外は笑って応えた。
「先生、子供みてぇ。泥だらけじゃないの。」
西山が櫻井の背中に付いた泥を払った。
「ありがとう。」
櫻井は堀井以外には気を使ってもらったことがなかったので、予想外のことに喜んだ。
弱小、通信制城南高校野球部には部室がないので、体育館の軒下のコンクリートの階段で着替えた。春夏秋冬、雨風にも灼熱地獄にも寒風にも負けず、部員はここで部活の準備をし、ここで飯を食い、ここでサボった。ここが野球部のアジトである。部員はまず登校すると、ここに陣取る。
体育の先生からは『どうにかしてください。』と櫻井は常にクレームを言われていたが、『部室がないもので、グランドにも近いし、雨風も凌げるし、ゴミは片付けるように言いますし、騒音も出さないように注意しますから、すいません。』と謙っていた。
コンクリートの4つの階段は何かの力学で昔の牢獄のように場所が決まっているようだ。櫻井が配置を頼まれたら、上段に堀井を置くが、謙虚さの塊である堀井は一段目を使っていた。もちろん最上段は鮫島であった。
「ブーン!ブーン!ブーン!」
エンジンを空吹かしする音が駐車場から聞こえた。噂をすれば鮫島であった。櫻井はニヤッと笑ったが、厭わしい緊張感も芽生えた。鮫島がトラックで学校に来るということも櫻井には頭の痛い問題であった。
『運送の仕事をしていまして、仕事場からスクーリングに間に合うように来るには、そのままトラックで来るしかないと言っていまして、すいません。』
これまた櫻井は生徒指導の先生と教頭に謙っていた。
「おう。ティチャー。ノックうまくなったか?」
相変わらず横柄な態度であった。
「鮫島、久し振りだな。」
「ああ。貧乏暇なしってな。な。な。」
部員を指で突っついた。
「ワ ラ エ ヨ。」
部員のリアクションが弱いと恫喝した。
堀井以外の部員たちが愛想笑いをすると気が済んだようだった。櫻井は、いつもこいつは2・3歳時のように自分を全能だと思い込んでいるのに違いないと常に思っていた。
「鮫島さん。この間のこと先生に言ってくださいよ。」
堀井が鮫島を促した。
「ああ。ああ、そうだったな。・・・ティチャー、ノックの練習してるんだってな。堀井から聞いたよ。今度、サインの練習するか。堀井と相談したんだけど。やっぱり、監督がサイン出さないとな。俺が、サインの出し方、教えてやるからよ。」
鮫島は無暗やたらに、体のあちらこちらを触った。最後にはピースサインを出し、おどけた。
「そうか、サインか。こんなことやるのか。」
櫻井は鮫島のように無暗やたらに体のあちらを叩いて、最後に手締めをした。
「先生、真面目にやれよ。」
「こうか。」
また、櫻井は体のあちこちを叩いて、最後に柏手を打った。
「先生よ。素人だと思って黙ってみてりゃ。真面目にやれよ。サインはね。まず、キーを決めるの。例えば、帽子を触って、胸を触るとエンドランとか。その場合キーは帽子ね。」
鮫島が真剣に物事に取り組む姿を櫻井は初めて見た。部員は着替えながら笑っていた。もうすでにグランドに出ていた堀井はスパイクの紐を結びながら鮫島を呼んだ。
「ありがとう。鮫島さんから言えば、みんな先生のサインで動いてくれるから。」
「ホントにいいのか。堀井。ティチャーは度素人だぜ。」
鮫島にとって堀井の謝辞は最大のご褒美であった。鮫島は満面の笑みであった。
「ま、いいか。ティチャーもがんばってるしな。」
鮫島は櫻井に指鉄砲をつくって狙った。
「バーン。」
櫻井はそれもサインと思い、同じように指鉄砲をつくって鮫島を狙った。
「鮫島さん、先生をからかうのは止めてくだいよ。」
堀井が顔を紅くし咎めた。
「先生、今のはサインとは関係ありませんから。」
堀井は大声で鮫島の悪戯を打ち消した。
通信制城南高校野球部の問題は鮫島だけではなかった。櫻井は一筋縄でいかない難題と戦わなくてはならなかった。
グランドの最悪なコンディションであった。これだけ、天候の変化に敏感なグランドは他にないと櫻井は確信する。春一番や、木枯らしの頃は、グランドは砂漠に変化し、砂嵐が吹き荒れ、夏には竜巻も練習中に観測できた。雨の後は田植えができるほどぬかるみ、その後、粘土質のグランドの土はでこぼこに固まった。春から夏にかけては油断すると、雑草が幅を利かせた。グランドキーパーの役割も担う櫻井が、一本一本抜いていくと、その後はモグラが出てきたような穴になった。真冬日にはグランドは一面小さな氷の柱が浮き上がった。櫻井は小学生の頃を思い出し、霜柱を踏んでグランドを平した。ちょっとした日本の原風景のように情緒的であった。
もう一つはやはり部活動をする環境にあった。バックネットはあるが、それはソフトボール用であり、ホームベースより後ろに飛ぶファウルボールは8割方、バックネットを越えた。ピッチャーが投げた暴投も3割方、バックネットではカバーできなかった。拡散したボールを拾い集めるのはマネージャーも兼ねる櫻井の仕事であったが、兎に角、辟易したのはグランドに隣接する市道に出た時であった。ホームベースから三塁ベースの延長線上の白線と平行に市道が走り、人や車の往来もそれなりにあった。フェンスはあるが、その上には防球ネットも張られておらず、打撃練習中、正確にミートしない打球は無情にフェンスを越えた。
「ドン!」
「先生、ヤバイ!」
選手が一斉に市道の方向を向くと、大抵は鬼のような形相で車を降りてくる被害者がいた。櫻井はその不幸な確率に遭遇すると、フェンスを乗り越え、自動車保険の社員のように対応にあたった。
「すいません。」
「すいませんじゃねえだろう。こら。ここに当たったろ。」
被害者は軟式ボールのディンプルの跡を鬼の首をとったように指した。
櫻井はポケットからタオルを出し、丁寧にその痕跡を拭きとった。、
「お車には傷もへこみもできてないようです。あ、よかった。」
櫻井は笑顔をつくった。
「だいたい、グランド沿いに道があるのに、なんでネットを張らないんだよ。ここ学校だろう。危険防止は当たり前のことだろう。」
「学校です。おっしゃる通り学校でございます。当たり前のことができない学校で申し訳ございません。」
「子供にでも、当たったら、大怪我するぞ。」
「ごもっともです。もし、お時間が御有りでしたら、玄関に回っていただいて、本校の教頭に、この件についてご要望をおっしゃっていただきたいと思います。是非、私どもからもお願いします。『この学校は安全対策が不十分であるぞ。無辜の県民を傷つけるのか!』と。」
櫻井は教頭の困った顔を想像しながら被害者に愛想笑いをした。
これが苦情処理対応マニュアルだった。
左バッターの西山が打ったボールにスライスがかかると、市道を越えて隣の中学校のグランドに飛んでいくこともあった。こんな時、ボールは決まった軌道を描いて女子バレーボール部の練習している土のコートに落下していった。大きなボールに引力があるのか、軟式の小さなゴムボールはバレーボールのケースに吸い込まれていった。
「危ないな!注意して打ってくださいよ。生徒に当たったらどうするんですか!」
バレー部顧問の先生のドスの利いた声が市道とフェンスを越えてこだましてきた。
櫻井は練習している鮫島がその威圧感の声に反応して、フェンスを2回飛び越え、その顧問といざこざになるのは想定内なので、ダッシュでフェンスに駆け寄り、深々と顧問に頭を下げた。
「申し訳ございません。どなたかに御怪我はありませんでしたか?」
櫻井は平身低頭に謝った。
「まったく、へたくそだからな。いつ、ボールが飛んでくるか分からないから、こっちもおちおち練習もしていられませんよ。」
顧問はバレーボール部の生徒に同意を求めた。
「お前たちもそうだろ。」
「そうです!」
顧問に対するお世辞笑いなのか全員がスマイルに変わった。
生徒が大人の対応をしているのに身体のデカい顧問は生徒の笑顔を馴れ馴れしいと感じ、語気を荒げた。
「だいたい、お前たち、隣の学校になんか絶対に入るな。いいか。」
顧問は生徒を睨みつけた。
「はい!」
20人ぐらいの部員は全員で声を揃えた。固い服従の意志が示されたのを聞いて、顧問は櫻井の方を見て高笑いをした。
母校への侮辱を聞いて、帽子を叩きつけ、櫻井の背後にいつの間にかいた鮫島には目を背けた。
「ただいま。」
美樹は、階段を駆け上がった。
「遅かったのね。」
小言と心配の混ざったような声が下から美樹を追いかけた。
「ごめん。」
階段の途中で立ち止まって、美樹は母親とは反対に声を弾ませた。
「お父さんから、電話があったのよ。来月は日本に帰れるって。」
母親は娘からの好反応を期待したにも関わらず、美樹の部屋のドアが閉まる音が聞こえただけだった。
美樹はベッドに飛び込み、仰向けになると溜息をついた。何時間も前の興奮が覚めきれなかった。美樹はあんなに全速でダッシュしたのは小学校以来なかった。酒が入っていたとはいえ、秋本とタイム差なしで待避所に走り着いたことが信じられなかった。
枕元にあるぬいぐるみを手で探り寄せ、抱えながら、天上をぼんやり見た。帰りの電車の中で佐々木と話したことがフラッシュバックしてきた。
「美樹ちゃん、先生のこと好きでしょ。」
「え!考えたこと、ありません。」
「美樹ちゃん、正直に言ってごらんなさい。本当は櫻井君の事どう思ってるの。これくらい好きでしょ。」
佐々木は自分で自分をギューと抱きしめる格好をした。
「もしかしたら、これくらい好きかな。」
何の意味だか理解できず、ぼうっとしている美樹を見て佐々木は自分の両腕の中にいる透明人間に『チュチュ』とキスをした。
乗客の視線を佐々木は全く感じないのか。呆れるやら恥ずかしいやらの美樹であったが照れ笑いはなかった。
「佐々木さん、ハンケチ落とし知ってますか?」
美樹は真剣な表情になり佐々木に質問を投げかけた。
「あれでしょ。人を騙す遊びでしょ。ハンカチあるよあるよと思わせといて、後ろを見るとお菓子が置いてあったり、タオルが置いてあったり。ハンカチじゃないもんね。バーカ。間違って、ハンカチあるよっていって後ろにテッィシュが置いてあった人が鬼になるってやつだよね。鬼になった人をみんなでしっぺするやつでしょ。」
美樹は場所により、ゲームのやり方が違うのだと思った。気持ちを切り替えて佐々木にずっと考えていた自分の恋愛観を吐露した。
「私、ハンカチ落としみたいに、知らん顔してハンカチを相手の後ろにおいていくの。でも好きな人は多分一度も気づいてくれない。それでも、いいの。自分で合図を送ることができたんだから、それだけで満足なの。」
*
学校のグランドは、カラカラに乾き、突風が吹くと土埃が舞いあがっていた。帽子が飛ばされるのもかまわずに黙々と一人、ベースランニングをする走る櫻井がいた。ダイアモンドを三周し、二塁を回るところで、足がもつれ転んだ。だが、こんなにうまくできるものかと感心するほどの前転をして、すくっと立った。
「先生無理しないでください。」
櫻井は砂埃の中に堀井を見つけた。堀井はバットケースを佐々木小次郎のように背中に担いでいた。こいつは学校の勉強以外のものだったら、難なく切って切って切りまくることのできるような、剣術の技を持っているに違いない。威風堂々とした堀井の姿勢に櫻井は感心ひとしおだった。
砂塵の中からはい出てきた櫻井は泥まみれであった。
「おう。」
櫻井が声を部員にかけると、堀井以外は笑って応えた。
「先生、子供みてぇ。泥だらけじゃないの。」
西山が櫻井の背中に付いた泥を払った。
「ありがとう。」
櫻井は堀井以外には気を使ってもらったことがなかったので、予想外のことに喜んだ。
弱小、通信制城南高校野球部には部室がないので、体育館の軒下のコンクリートの階段で着替えた。春夏秋冬、雨風にも灼熱地獄にも寒風にも負けず、部員はここで部活の準備をし、ここで飯を食い、ここでサボった。ここが野球部のアジトである。部員はまず登校すると、ここに陣取る。
体育の先生からは『どうにかしてください。』と櫻井は常にクレームを言われていたが、『部室がないもので、グランドにも近いし、雨風も凌げるし、ゴミは片付けるように言いますし、騒音も出さないように注意しますから、すいません。』と謙っていた。
コンクリートの4つの階段は何かの力学で昔の牢獄のように場所が決まっているようだ。櫻井が配置を頼まれたら、上段に堀井を置くが、謙虚さの塊である堀井は一段目を使っていた。もちろん最上段は鮫島であった。
「ブーン!ブーン!ブーン!」
エンジンを空吹かしする音が駐車場から聞こえた。噂をすれば鮫島であった。櫻井はニヤッと笑ったが、厭わしい緊張感も芽生えた。鮫島がトラックで学校に来るということも櫻井には頭の痛い問題であった。
『運送の仕事をしていまして、仕事場からスクーリングに間に合うように来るには、そのままトラックで来るしかないと言っていまして、すいません。』
これまた櫻井は生徒指導の先生と教頭に謙っていた。
「おう。ティチャー。ノックうまくなったか?」
相変わらず横柄な態度であった。
「鮫島、久し振りだな。」
「ああ。貧乏暇なしってな。な。な。」
部員を指で突っついた。
「ワ ラ エ ヨ。」
部員のリアクションが弱いと恫喝した。
堀井以外の部員たちが愛想笑いをすると気が済んだようだった。櫻井は、いつもこいつは2・3歳時のように自分を全能だと思い込んでいるのに違いないと常に思っていた。
「鮫島さん。この間のこと先生に言ってくださいよ。」
堀井が鮫島を促した。
「ああ。ああ、そうだったな。・・・ティチャー、ノックの練習してるんだってな。堀井から聞いたよ。今度、サインの練習するか。堀井と相談したんだけど。やっぱり、監督がサイン出さないとな。俺が、サインの出し方、教えてやるからよ。」
鮫島は無暗やたらに、体のあちらこちらを触った。最後にはピースサインを出し、おどけた。
「そうか、サインか。こんなことやるのか。」
櫻井は鮫島のように無暗やたらに体のあちらを叩いて、最後に手締めをした。
「先生、真面目にやれよ。」
「こうか。」
また、櫻井は体のあちこちを叩いて、最後に柏手を打った。
「先生よ。素人だと思って黙ってみてりゃ。真面目にやれよ。サインはね。まず、キーを決めるの。例えば、帽子を触って、胸を触るとエンドランとか。その場合キーは帽子ね。」
鮫島が真剣に物事に取り組む姿を櫻井は初めて見た。部員は着替えながら笑っていた。もうすでにグランドに出ていた堀井はスパイクの紐を結びながら鮫島を呼んだ。
「ありがとう。鮫島さんから言えば、みんな先生のサインで動いてくれるから。」
「ホントにいいのか。堀井。ティチャーは度素人だぜ。」
鮫島にとって堀井の謝辞は最大のご褒美であった。鮫島は満面の笑みであった。
「ま、いいか。ティチャーもがんばってるしな。」
鮫島は櫻井に指鉄砲をつくって狙った。
「バーン。」
櫻井はそれもサインと思い、同じように指鉄砲をつくって鮫島を狙った。
「鮫島さん、先生をからかうのは止めてくだいよ。」
堀井が顔を紅くし咎めた。
「先生、今のはサインとは関係ありませんから。」
堀井は大声で鮫島の悪戯を打ち消した。
通信制城南高校野球部の問題は鮫島だけではなかった。櫻井は一筋縄でいかない難題と戦わなくてはならなかった。
グランドの最悪なコンディションであった。これだけ、天候の変化に敏感なグランドは他にないと櫻井は確信する。春一番や、木枯らしの頃は、グランドは砂漠に変化し、砂嵐が吹き荒れ、夏には竜巻も練習中に観測できた。雨の後は田植えができるほどぬかるみ、その後、粘土質のグランドの土はでこぼこに固まった。春から夏にかけては油断すると、雑草が幅を利かせた。グランドキーパーの役割も担う櫻井が、一本一本抜いていくと、その後はモグラが出てきたような穴になった。真冬日にはグランドは一面小さな氷の柱が浮き上がった。櫻井は小学生の頃を思い出し、霜柱を踏んでグランドを平した。ちょっとした日本の原風景のように情緒的であった。
もう一つはやはり部活動をする環境にあった。バックネットはあるが、それはソフトボール用であり、ホームベースより後ろに飛ぶファウルボールは8割方、バックネットを越えた。ピッチャーが投げた暴投も3割方、バックネットではカバーできなかった。拡散したボールを拾い集めるのはマネージャーも兼ねる櫻井の仕事であったが、兎に角、辟易したのはグランドに隣接する市道に出た時であった。ホームベースから三塁ベースの延長線上の白線と平行に市道が走り、人や車の往来もそれなりにあった。フェンスはあるが、その上には防球ネットも張られておらず、打撃練習中、正確にミートしない打球は無情にフェンスを越えた。
「ドン!」
「先生、ヤバイ!」
選手が一斉に市道の方向を向くと、大抵は鬼のような形相で車を降りてくる被害者がいた。櫻井はその不幸な確率に遭遇すると、フェンスを乗り越え、自動車保険の社員のように対応にあたった。
「すいません。」
「すいませんじゃねえだろう。こら。ここに当たったろ。」
被害者は軟式ボールのディンプルの跡を鬼の首をとったように指した。
櫻井はポケットからタオルを出し、丁寧にその痕跡を拭きとった。、
「お車には傷もへこみもできてないようです。あ、よかった。」
櫻井は笑顔をつくった。
「だいたい、グランド沿いに道があるのに、なんでネットを張らないんだよ。ここ学校だろう。危険防止は当たり前のことだろう。」
「学校です。おっしゃる通り学校でございます。当たり前のことができない学校で申し訳ございません。」
「子供にでも、当たったら、大怪我するぞ。」
「ごもっともです。もし、お時間が御有りでしたら、玄関に回っていただいて、本校の教頭に、この件についてご要望をおっしゃっていただきたいと思います。是非、私どもからもお願いします。『この学校は安全対策が不十分であるぞ。無辜の県民を傷つけるのか!』と。」
櫻井は教頭の困った顔を想像しながら被害者に愛想笑いをした。
これが苦情処理対応マニュアルだった。
左バッターの西山が打ったボールにスライスがかかると、市道を越えて隣の中学校のグランドに飛んでいくこともあった。こんな時、ボールは決まった軌道を描いて女子バレーボール部の練習している土のコートに落下していった。大きなボールに引力があるのか、軟式の小さなゴムボールはバレーボールのケースに吸い込まれていった。
「危ないな!注意して打ってくださいよ。生徒に当たったらどうするんですか!」
バレー部顧問の先生のドスの利いた声が市道とフェンスを越えてこだましてきた。
櫻井は練習している鮫島がその威圧感の声に反応して、フェンスを2回飛び越え、その顧問といざこざになるのは想定内なので、ダッシュでフェンスに駆け寄り、深々と顧問に頭を下げた。
「申し訳ございません。どなたかに御怪我はありませんでしたか?」
櫻井は平身低頭に謝った。
「まったく、へたくそだからな。いつ、ボールが飛んでくるか分からないから、こっちもおちおち練習もしていられませんよ。」
顧問はバレーボール部の生徒に同意を求めた。
「お前たちもそうだろ。」
「そうです!」
顧問に対するお世辞笑いなのか全員がスマイルに変わった。
生徒が大人の対応をしているのに身体のデカい顧問は生徒の笑顔を馴れ馴れしいと感じ、語気を荒げた。
「だいたい、お前たち、隣の学校になんか絶対に入るな。いいか。」
顧問は生徒を睨みつけた。
「はい!」
20人ぐらいの部員は全員で声を揃えた。固い服従の意志が示されたのを聞いて、顧問は櫻井の方を見て高笑いをした。
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