『セカンドスクール 』 ガングロが生存していた頃のある通信制高校野球部の軌跡

ボブこばやし

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美樹が櫻井の後ろにハンカチを置いた

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 夜の8時ごろ、自宅マンション近くの公園の脇を櫻井は前かがみに歩いていた。尻のあたりには、最近購入した四角いエナメル製のバッグがぶら下がっていた。頭が坊主であれば、部活帰りのまさに高校球児を髣髴するようであった。玄関に続く階段を登っていくと、携帯の着信音がその部活のバッグから鳴った。大リーグの『野球場へ行こう』のメロディだった。
「もしもし。」
 美樹だった。
「・・・・・。」
 櫻井が念のため携帯電話の小窓を覗くと『田中美樹』の字が流れていた。
「もしもし。もしもし。田中さん。」
「どうしよう。」
 しゃくりあげる声の中からそれだけが聞き取れた。背後のアナウンスの声、けたたましい金属音から、そこは駅であると櫻井は推測した。
「どうした?」
「先生、SOS  。先生。聞こえる。助けて。」
 プラットホームで携帯電話を手にして腰を抜かしたようにしゃがみこんでいる美樹の姿が櫻井の脳裏に浮かんだ。
「どうした!」
 さらに、美樹が滑り込んできた電車とともにプラットホームから消える光景も頭をよぎった。
「ホームから飛びこめって言う声が聞こえる。どんどん、大きくなってくる。」
 胸に虫の塊が巣くっているような苦しさと、熱っぽさで櫻井の額に汗が浮いていった。
「田中さん。落ち着いて。田中さん!」
 櫻井には携帯電話に向かって叫ぶしかできなかった。
「どうしたらいいの。」
「とにかく、待て。耳をふさげ!」
 携帯電話に唾を飛ばしながら、櫻井は叫んだ。
「先生、来るよね。助けに来るよね。」
 田中は何かの経典を唱えるように言った。
 櫻井はマンションの4階にある自宅の明かりを見上げた。今日、アメリカから帰国した妻が待っているはずであった。1ヶ月間、見慣れた明かりが消えている我が家と違って、別の家のように暖かい光が煌々と外に漏れていた。櫻井は感じた。
『階段を登れば小さな幸福が待っているかもしれない。』
 その思いは田中の呪いのような言葉に乗っ取られた。
「先生、来るよね。助けに来るよね。」
 櫻井は来た道を引き返し、駅に走った。途中、エナメルのバックを家に置いてくればと後悔したが、何故また駅に戻るのか、その弁明を妻にすることを考えればできるわけもなかった。尻をリズミカルに打つバックは櫻井の責任感で、後ろから『放っておけるわけないだろ!』と押しているようだった。
 櫻井は電車に乗り込むと、田中が待つ駅までの時間を計算してみた。三〇分くらいはかかる。何もできない時間であった。上り電車は空いていたが、座席には座らずドアに寄りかかった。櫻井はいつも自分には宙に浮いてバタバタすることもできないような白抜きの時間が多すぎるように感じた。
 しかし、美樹に会ったらその空白も何色かは分からないが何色かに塗るのだろうと思った。何気なく反対のホームを見ると子供が発車する櫻井の乗っている電車に無表情で小さい手を振っていた。電車を見たら手を振るということが条件反射になっているのか、腰のあたりで小さい右手を振り続けていた。
 遠い先で人身事故があったら、この電車も止まるだろう。止まっていないということは最悪の結果にはなってはいないということだ。櫻井は闇で鏡になったドアの窓に映る自分の顔も直視できなかった。時々、時計を気にした。
「田中さん!田中さん。」
 美樹がいるはずの駅に着くと、ホームの先端にいる塊のような田中に駆け寄った。車内の何人かの乗客はその行方を追っていた。
「田中さん。」
 櫻井は息切れした声でため息をついた。向かいのホームから興味本位の視線を感じた櫻井は、そっと田中の片腕を持ち上げ、立たせた。田中はその手助けを待っていたようにすっと膝を伸ばした。
「先生。大丈夫だよ。」
 ホームを通過する急行電車の音にかき消されたが、櫻井にはそう聞き取れた。
「大丈夫ってことないだろう。」
 櫻井はホームのベンチに田中を誘導した。
「大丈夫。大丈夫だって。・・・。もうこんなことしないから、だから、美樹のお願い聞いて。」
 美樹は後ろの壁にゆっくりと目を移した。そこには少し後ずさりをしないとわからないほどの巨大なポスターが貼り付けてあった。シンデレラ城を満開の花火が覆っていた。
 夜の舞浜の駅の改札を急ぎ足で出る櫻井と美樹がいた。帰宅する人々で混雑する駅。改札から出るのは二人だけであった。俯瞰できたら、自分たちは正常な流れを邪魔する異物のような存在だろうと櫻井は思った。逆走する異端児の二人は隙間を見つけながら急いだ。ルートを探す櫻井にぶつかり軽く頭を下げる人。お土産の袋をぶら下げて帰っていく数人の客が迷惑そうに二人を見た。人混みの中を漕ぎながら櫻井のエナメルのバックにしがみつく美樹がいた。人混みの波に翻弄されている美樹にとっては救助のために投げ込まれた浮き輪のようなものであった。高波のように大柄の外国人の集団が迫ってきた。美樹はビニールのバッグでは心許ないと思ったのか櫻井の腕を掴んだ。櫻井がその手を見ると、手首に傷跡があった。
「先生。まだ間に合うかな?」
 ベビーカーに繋いでいた風船が解けて星空にすいすい上っていった。呆気にとられるように立ち止まった夫婦は風船の行方を追っていったが、また人の流れに乗っていった。
「とにかく、行ってみよう。」
「ごめんね。」
 美樹の存在が腕から消えると、美樹は座り込んで、声をあげて泣き崩れた。二人を注目しながら人混みが離れていった。美樹と櫻井を中心として、空間がドーナツの穴のように空いた。
「よし。行ってみようよ。」
 櫻井のエールにしゃがんで泣いていた美樹が顔を上げた。今、号泣していたとは思えないようなしっかりとした眼光だった。立ち上がった美樹は今まで以上に櫻井の腕を強く握るった。
「行ってみようか。」
 美樹は人格が入れ替わったように自分が主体になった。
 雑踏の中にできたドーナツの穴もふさがった。
「最近、不安なことがある時先生のことを思うの。すると、不安が消えていくの。先生、私の神様かな?」
「神様はないな。」
 ディズニーランドは閉園していた。
 行方を失ったさっきの風船のように二人はふわふわしながら徘徊していた。いつの間にか東京湾岸のどん尻にある防波堤にたどり着いた。ビュービューと鳴く風の音に躊躇しながら、櫻井は少年のように1メートルほどの防波堤を駆け上った。コンクリートの台に立つと、突風でエナメルのバッグが櫻井の体から遊離していった。海面を駈ける風が櫻井の口の中に襲撃してくる。ほっぺたが膨らみすぎて。呼吸ができないほどであった。しかし、そこには息を呑む景色があった。魔界のような黒い海にベイサイドの高層ビル群から無数の光が滴り落ち東京湾を盛大にライトアップしていた。櫻井は風に邪魔されながら誰もいない自分だけに用意された景色を見つけたような満足感に浸った。
「上がって来ないか?」
 櫻井はコンクリートに両膝をつけて、両腕を伸ばした。美樹は救助のロープをたぐるように櫻井の腕を掴んだ。櫻井は一瞬、美樹の弱々しい軽量を感じた。
「ありがとう。」
 美樹は上に上がった瞬間、突風に美樹の体が持って行かれそうになった。美樹は咄嗟に杭になった櫻井にしがみついた。
「ごめんね。」
 美樹が突風によろけて下を見ると、テトラポットが統一感なく重なった先に黒々とした海が迫っていた。
「怖い。」
 恐怖で密着した美樹の髪が櫻井の顔を撫でた。
「ぷ。」
 美樹のしかめ面が笑顔に豹変した。美樹の長い髪が櫻井の顔に引っ付き、櫻井の眉毛がつながり、鼻の下にヒゲが生えたように見えた。
「何?」
「何でもないです。」
 美樹は櫻井の顔に絡みついている髪の毛を払うと、櫻井の胸に顔を埋めた。
「ごめんね。」
 櫻井は風上に向かって、口を広げ、息を思い切り吸い込んでいる。そして、大きくハアーとはきだしていた。
「何で。それより、風が冷たいよな。」
 櫻井は自分のコートを脱いだ。一瞬で空飛ぶ絨毯のように広がった。櫻井は美樹の後ろに回って着せた。
「ありがとう。先生は大丈夫?」
 小刻みに飛び跳ねる櫻井を見て、美樹はまた笑顔になった。
「大丈夫。大丈夫。でも暖かいもの飲みたいね。」
「うん。」
「あそこの自動販売機で買ってくるから、待ってて。」
 50m先にある自動販売機の照明がひときは明るかった。防波堤を降り、走り出そうとする櫻井だったが思い直したように踵を返した。
「田中さん。風で飛ばされると大変だから。そのポールにつかまってて。」
 櫻井はポールを抱きしめる格好をした。また、走り出した櫻井だが途中で、振り返った。美樹は街灯のポールをだっこしていた。美樹の体をコートが覆い何かの蛹が付いているようだった。
「いいよ。そのまま!。」
 櫻井はビュービューとなく風音に負けない大声を出した。
 美樹が缶の紅茶を両手で握り、頬に付けた。
「あったかい。」
「こんな風に両腕を伸ばしたら、翼が生えてきて飛べそうだな。」
 櫻井は海上から吹きみ上げる風に乗っかるように身を傾けた。
「先生、これ持ってて。」
 美樹は紅茶の缶を櫻井に渡すと、同じことをした。櫻井のコートは見事に翼に変わって、揚力が発生したのか美樹の体が少し浮いたように櫻井には見えた。
「飛んでちゃうよ。」
 櫻井は慌てて翼を掴んだ。手に持っていた紅茶の缶が櫻井の手から落ち、テトラポットに弾みながら、真っ黒な海に消えていった。
 天上を轟音とともにジェット機が低空飛行していった。その向こうに星が輝いている。美樹は夜空の星座で自分の運命を占うように空を見上げた。
「帰ってきたのかな。それとも、これからどこかへ行くのかな。」
 櫻井は美樹を現実世界に戻すように、声を強めた。
「ひとりでどこかへ行きたいってよく考えたことあります。引きこもりで、ずーといたのに変でしょ。外に出られない人がそんなこと考えるの。でも、地理のレポートなんかやってると、地図帳を使うでしょう。聞いたことない地名なんか見つけると、ここにはどんな人がいるのかな。優しい人かなって考えるの。」
「すごいな。こんな都会でもあんなに星が見えるんだ。」
 櫻井は同調しなかった。櫻井は次の美樹の言葉が自分を混乱させると予想したからだ。
「先生・・・・。今さ。私。一人じゃなよね。」
 櫻井は、美樹の言葉に混乱した。美樹の顔を見られずに、遠くの対岸を見るしかなかった。炎を吐く煙突と配管がむき出しになった巨大な工場群が煌々と輝いていた。煙突の先で点滅している光の信号を読み取ったように、櫻井は無言になった。
「先生と一緒に、遠くに行けたらいいな。」
 美樹は自分の呟きに驚いた。
「ごめんね。変なこと言って。」
 櫻井は無言を貫いた。
「先生、何にも答えなくてもいいから。でも、先生はきっと私のこと心配で心配で。一緒に行ってもいいよ。って言いたいんだと思う。ごめん。分かるの。」
 ジェット機が轟音とともに上昇しながら右に旋回していった。飛行機の腹が無防備のように見え、生き物のように感じた。                *
 鮫島のトラックの中ではラップがカーステレオから流れていた。鮫島の隣でタコのように鮫島の彼女が密着していた。鮫島の手を吸盤のように握って離さなかった。
「お前、運転しづらいからこの手。」
 鮫島は、彼女の手から自分の手を無理矢理抜いたが。また、彼女は握り返した。
「直くんが遅いからいけないのよ。もう、閉まっちゃたんだから。ゆい。楽しみにしてたんだから。」
 彼女は櫻井の頭に頭突きをかました。
「痛てぇな。あのな。俺は仕事だったの。お前だって、わかるだろ。一日中一緒にいたいっていうからこうして、トラックに乗っけてやって、千葉の山の中まで連れてったじゃねいか。」
「わかんない。」
 彼女が鮫島に抱きついた。その拍子にハンドルを取られ、トラックが斜行した。センターラインを越えてしまい、危うく対向車に衝突しそうになった。
「やべぇ。いい加減にしろよ。」
「キャ。すき、すき、すき。」
 彼女は『すき、すき、すき』と同じリズムで鮫島の顔にキスをした。
「あのな。頼むよ。俺は。な。仕事に命賭けてんの。男は女より仕事なの。ゴミ屋がいなければ、地球はどうなる。ディズニーランドもゴミだらけ。お台場だって、ゴミだらけ。地球の環境は俺が守ってるの。わかるか。」
「ディズニーランドはいつも掃除してるからゴミないもん。」
 彼女は口を尖らして反論した。
「そのゴミをかたしているのが俺なの。」
 鮫島が彼女の腕を払った時、左側の歩道を歩く櫻井に気づいた。大きな樹木が均等に植えられた歩道に櫻井のエナメルのバッグを見つけた。バックミラーで確認すると櫻井に間違いなかった。
「あれ。先生か。先生だ。」
 鮫島は呟いた刹那、ブレーキをかけた。
 櫻井の横に大型のトラックがプシューと息をついたように停車した。鮫島はクラクションを鳴らした。
『テラリィラテラリィラテラリィラ』の音に振り返った櫻井だが、関わってはいけない音だと思い、気づかぬ素振りで、また歩き出した。
「やっぱ。先生だ。何してんだこんな所で。」
 トラックから滑り降りた鮫島は走って櫻井に追いつき櫻井の前に出た。
「おう。」
 息を切らせながら、鮫島は笑った。
 暴漢に前を塞がれたかと思い、ハッとした櫻井と美樹は一歩2歩、後退りをした。
「先生、俺だよ。」
 鮫島は両手をポケットに突っ込み、肩を揺すりながら顎を突き出し笑った。櫻井は作業服というか防寒着を着た鮫島を見るのは初めてだったので咄嗟には分からなかったが、そのいつもの態度で鮫島と分かった。グランドでは決して会いたくもない人間だが、旧知の知人に会ったようなホッとした気持ちになった。
「どうした。こんな所で。」
「こっちが言いたい台詞だよ。どうしたんだよ。こんなとこで。」
「ああ。」
 櫻井は言い淀んだ。
 鮫島は身体を折って、隣の美樹の顔を覗いた。櫻井のダブダブなコートを羽織った美樹は必死で俯いた。
「ここは駐車禁止です。早く移動しなさい。」
 パトカーの赤色灯が急に現れたのと同時に、人気のない道路にマイクの音が響いた。
「ここは駐車禁止です。早く移動しなさい。」
 パトカーにしつこく叱責されると、その声に背中を押された三人はトラックに乗り込んだ。
 鮫島のトラックの座席は乗客3人になり身を寄せ合っている窮屈な状態であった。しかし、お互いに牽制しあい、無言の車内であった。3人とも眼を合わせようとはしなかった。
 櫻井はまっすぐ前を美樹は虚ろに左側の窓から流れる車外の景色を見ていた。ラップの音が支配している中で鮫島の彼女はタコのように鮫島に密着していた。もちろん鮫島だけを凝視していた。
「あのさ。」
 櫻井と鮫島は同時にこの沈黙を破ろうとして言葉が重なった。
「何だよ。どうぞ。」
 グランドでは見せない礼節で鮫島は櫻井に質問を譲った。
「ちょっと、うるさいんだけど。」
 カーステレオを指さしながら櫻井は言った。
「はいよ。うるせいか。」
 鮫島はステレオのスイッチをオフにした。
「お前、運転しづらいからこの手。」
 鮫島は彼女の手から自分の左手を無理矢理抜いた。しかし、彼女はまた、握り返した。
「あのさ、どういう関係?」
「うん。」
「訳ありなんだ。」
「違うんだ。」
 櫻井はフロントガラスに唾が飛んだかもしれないように強い口調で打ち消した。
「援交?」
「そんなんじゃ。ありません。」
 今度は美樹は強い口調で否定すると、わっと、泣き出した。
 ビクッと驚いた鮫島の彼女は鮫島の手を揺すり、哀願するように鮫島に自分の存在を訴えた。鮫島は泣き声を無視するかのように憮然としてハンドルに集中していた。櫻井も思い詰めた表情で、まっすぐ前を見つめていた。トンネルに入るとダッシュボードの上にアニメーションを見るように光と影が一コマずつ映写され続けた。これからのストーリーが投影されるわけではないが、櫻井はそれをじっと見ていた。
 無機質な都会のビルの谷間を錆びた鉄の塊が疾走していった。トラックの胴体には青いペンキで『地球は、ボクらが守ります!』とブルーのペンキで書かれていた。
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