貴き花の行方

KAORU

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 翌朝、リュシエンヌは鏡の前で静かに髪を結い上げた。

 あの夜、クラヴィスの腕の中で流した涙は、過去と現在の狭間に沈み、乾いたはずだった。

 けれど、心はまだ迷っていた。
 あの人の言葉は、優しすぎた。
 優しい言葉は、人を立ち止まらせる。

 「……このまま、何もかもなかったふりをするの?」

 扉の向こうでは、侍女が式典用のドレスを整えていた。今日は、アルヴァロ家による新領地視察の帰還報告の祝宴がある。婚約者として、彼女も出席せねばならない。
 そして、ロジオンと彼女が並ぶ姿も目にしなければならない。

 リュシエンヌは目を伏せた。過去に縛られたまま、乾いた未来を選ぶ。
 それはリュシエンヌの中で、覆せない決定事項だ。



 祝宴の広間は煌びやかだった。水晶のシャンデリアが天井から降り注ぎ、貴族たちの笑い声が交錯している。
 その中で、ロジオンはいつも通り冷ややかに立っていた。

 リュシエンヌが姿を現すと、視線がわずかに動いた。

 「おかえりなさいませ、ロジオン様」

 「……無事に戻ったことを、喜んでくれるのか」

 「ええ。貴方が無事であることは、私にとっても喜ばしいことですもの」

 言葉は美しく整えられているが、そこに心があるかは分からない。
 ロジオンは少しだけ目を伏せて、低く呟いた。

 「……婚約の話だが」

 リュシエンヌは一瞬、息を呑む。しかし、表情は変えないまま、ロジオンを見つめた。

 「アルヴァロ家としては、この縁談を破棄しても構わないと判断している。君の家に不利益がないよう、補償は手配する」

 「……どうして、そのようなことを」

 「私には、想いを寄せている人がいる。今回の視察にも同行してもらったのだ。その折、互いの気持ちを確認した。
 だが、それ以上に――君が私と共に歩いても、決して幸せにはなれないと気づいた」

 ロジオンは少しだけ、表情を崩した。それは彼にしては、珍しいほどの穏やかさだった。

 「……君にも、別の人がいるのではないか?」

 「……どうして、そう思われたのですか」

 「君は、私に向けたことのない眼差しを、ふと誰かに向けていた。気づかぬふりをしていたが、今はもう、誤魔化せない」

 リュシエンヌは小さく首を振った。
 悟られるなどあってはならないことだった。ロジオンには悟られていないつもりだった。

 「それでも、私は貴方の妻となる覚悟をしていました」

 「それが、優しさであろうと、責任であろうと……それは、愛ではない」

 その瞬間、彼女の中で、何かがほどけた。
 ロジオンが愛を追う男だとは思っていなかった。その冷徹な姿からは、愛よりは利益を取るだろうと。
 リュシエンヌは、自身もロジオンを知ろうとはしていなかったのだと理解した。
 リュシエンヌとの愛のない利益を取った婚姻より、シェリルとの愛を取るのだ。彼はそういう人だった。

 そして、ロジオンはリュシエンヌの気持ちにも気付いて、手を放してくれるのだ。
 
 もしかしたら、リュシエンヌも諦めなくていいのかもしれない。あの男の優しい眼差しに映ることを。



 宴のあと、夜の回廊を歩くリュシエンヌの前に、クラヴィスが姿を現した。

 彼は、何も言わなかった。ただ、彼女の顔をじっと見つめていた。

 「婚約は……解消されました」

 「……そうか」

 それだけの言葉に、彼の胸の内がすべて詰まっていた。

 「でも、すぐに貴方の元へ行くことはできません。わたくしはまだ、わたくし自身を取り戻さなければならないの。家の看板も、仮面もすべて脱ぎ捨てて……ただの“リュシエンヌ”になれる日まで、もう少しだけ時間が必要なのです」

 「待つよ。何年だって、待つ」

 彼は静かに微笑んだ。二年前、初めて彼女が恋をした夜と、まったく同じ微笑みで。


 

 そして季節は巡る。

 あの後、ロジオンは国王陛下にリュシエンヌとの婚約白紙を申し出た。
 理由は明かされなかった。元から婚約などなかったことにしたのだ。
 すぐにシェリルとの婚約が成されるかと思われたが、未だに発表はされていない。
 
 数か月後、王都を離れたリュシエンヌは、貴族のしがらみから離れた静かな領地で、子どもたちに読み聞かせをする日々を送っていた。
 今回の婚約を破談にしたことで、両親には除籍されることを覚悟していたが、そうはならなかった。
 むしろ、常に完璧であろうと張り詰めていた娘の心を慮れなかったことを謝られ、しばらくはゆっくりするようにと送り出された。
 宮廷一の薔薇と呼ばれたリュシエンヌはここにはいない。
 子供たちとともに、心のままに笑い、時には彼らとともに燥いだりもする。
 そんな穏やかな生活はリュシエンヌの孤独に疲弊した心を少しずつ癒やしていった。

 暖炉のそばで本を閉じ、ふと窓の外を見ると、一人の男が馬を引いて立っていた。

 「……クラヴィス」

 彼女が扉を開けると、彼は言った。

 「迎えに来た。リュシエンヌ、君の名前を呼ぶのは、この日と決めていた」

 彼女は笑った。心の底から、穏やかに。
 あれからクラヴィスとは、手紙のやり取りだけを続けてきた。王都から離れたリュシエンヌは、自身の心が決まるまで、クラヴィスとは会わないと決めていた。
 
 今日は、リュシエンヌが婚約を解消してからちょうど一年。
 クラヴィスは、一年の間一度も顔は見せなかった。
 

 「随分、待たせてしまいましたわね」

 「いいや。ようやく、穏やかな顔のあなたに会えた」

 彼女は、その言葉を胸に刻んで、クラヴィスの手を取った。

 ――それは、選ばれなかった未来に別れを告げた、選び取った愛の始まりだった。


(完)


_____________________

この後、番外編を二つ更新します。
クラヴィス視点と、ロジオン&シェリルの小話です。
もう少しお付き合いください
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