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第三章:現代編
第七話:青灯の下で
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ジュッと油が跳ね、続けざまにパチパチと爆ぜる。
鉄鍋の音と香ばしい匂いが、狭い店内を包み込む。
「ありがとうございました。」
夜の営業は比較的落ち着いており、常連の客が一杯ひっかけて帰っていく。
テーブル三席、カウンター十五席の小さな町の中華屋。
創業五十年になる店内は、清潔にしていても至る所に時を止めたような古さが目立つ。
従業員は俺だけで、ランチタイムは目が回るほどの忙しさだ。
「瑛人、これ出したらあがっていいぞ。」
厨房から七十になる白髪頭の店長が、むすっとした顔で話しかけてきた。
「うっす。」
ここ『中華料理屋 清水』の名物ともいえる、拳ほどの大きな唐揚げとレバニラ炒めをトレーに乗せて、本日最後の客へ運ぶ。
頭の中でやり残した仕事がないか、確認する。
洗い物も厨房の掃除も、ゴミ出しも終わった。
厨房裏で前掛けを取り、コックコートをクリーニング籠へ入れると、急いで上着を羽織る。
「お疲れ様です。」
「ああ、お疲れ。明日から炒め物、教えるから。」
目線は新聞紙の競馬欄のまま、ぶっきら棒に呟く。
頑固で不愛想な店長が、孫の成長を見守るように少しだけ口角を上げていた。
「ありがとうございます。」
信頼して仕事を任せてくれることが嬉しくて、感謝しかなくて、頭が下がる。
「おう、頑張れよ!」
こんな俺でもまだ、受け入れて支えてくれる人がいる。
その存在に、いつか報える自分でいたいと今も必死に藻掻いている。
直哉と国枝さんの紹介で、この店で働き始めた。
料理なんて全くしてこなかった俺だから、始めの三か月は辛かった。
その頃、直哉と離れて一人暮らしを始めたばかりで、折れそうな時もあった。
でも、毎日欠かさず通話やメッセージで彼は励ましてくれた。
与えられた最後のチャンスだと思って、歯を喰いしばる。
そうして、その努力は少しずつ実を結んでいった。
常連客とは、世間話するぐらいには顔見知りになったし、料理の仕込みも手伝わせてもらえるようになった。
働くことが、今は楽しいと思える。
「直哉、帰ろう。」
カウンターの一番奥の席は、夜の直哉の指定席だ。
始めは店の外で、俺が終わるのを待っていたのだが、気を使った店長が店内で待たせてくれることになった。
今夜も文庫本を開いて、時間を潰している。
「もう、いいのかい。」
「ああ、今日はあがっていいって。」
時間はまだ八時だが、外は雪がチラチラしている。
店長はこれ以上客が来ないと踏んだのだろう。
ふっと嬉しそうに直哉が微笑む。
その笑顔を見ただけで、今日も頑張ってよかったと思える。
雪交じりの北風の中、二人で手を繋いで歩く。
直哉は恥ずかしがるけど、日が沈んだ通りには滅多に人はいない。
人がいたとしても、案外他人のことは見てないもんだ。
繋いだ手を俺のダウンのポケットに入れると、手袋をするよりも温かい。
「今日夕方、店開いてすぐに静華ママが来てたぜ。俺がここにいるって、教えただろ?」
店に入って来るなり泣き出して、俺が仕込んだスープのラーメンを出せば、泣きながら鼻水と一緒に啜ってた。
本当に他の客がいない時で良かった。
ママが安心できるような、俺を見せられて良かった。
店長が若干引いてたけどな。
「ふふふっ。こっちにも美味しかったって、写真付きでメッセージ来てたよ。」
直哉はスマホのメッセージ画面をずいと差し出す。
何の変哲もない、昔ながらの醤油ラーメンのアップが、ハート乱用のメッセージと共に送られてきていた。
「よっぽど嬉しかったんだよ。ほら、SNSにも載せて『清水』の宣伝してる。」
いつもはネイルやバッグ、アクセサリーなどお洒落な投稿をしているのに、今日だけトーンが異なる。
そんなママの投稿には、好意的な「行ってみたい。」「美味しそう」のメッセージが溢れていた。
「ああ、これ以上ランチの客が増えるのは、ごめんなのに。」
嬉しい悲鳴を上げる俺を、優しい瞳が見つめていた。
「ずっと鶴華のこと、心配していたんだよ。」
出所日を言わずに音信不通になったことは、実は後悔していない。
あの時のままの俺だったら、きっとまた迷惑を掛けた。
また、静華ママを泣かせていた。
今、直哉がママに居場所を教えたことには、きっと意味がある。
少しうつむいた直哉の横顔を見ながら、ふと、あの日のことを思い出す。
──倉庫の夜から一年。
俺達は少しずつ、自分の足で立てるようになってきた。
* * * * * *
あの日、倉庫からの帰り道。
俺は、ひとつの疑問を口にした。
「どうして、あの場所がわかったのか?」
運転席の直哉は、何も言わずにスマホを俺に差し出した。
「GPSで鶴華の位置がわかるようにしてある。」
地図上の赤い丸は、この車のナビと寸分違わず、同じ動きをしていた。
「随分落ち着いていたが、中で何が起きているか知っていたのか?」
直哉はスマホを取り返し、見慣れないアプリを起動する。
次の瞬間、画面には俺のスマホのインカメからの映像が映し出された。
「へーすごいな、そんなことも出来るんだ。」
プライバシーとか、そんな問題よりも驚きと感嘆しかなかった。
世の中は、思った以上に進んでいるんだな。
「……あの時、音声だけは聞こえていたから、状況は察していた。」
わかっていて、それでも来てくれたんだ。
一人であの倉庫へ入るには、どれほどの覚悟だったのだろう。
その時の直哉の気持ちを思うと、胸が押しつぶされそうになる。
「ごめん……。インターネットの閲覧履歴もメッセージの内容も全部見れる……。」
「マジか……。」
純粋に求人情報だけを必死に見といてよかった。
変なサイト見てなくて、本当によかった。
「僕が倒れるもっと前に、アイツに会ったんだろ。ポケットに名刺が入ってた。だから、心配で……本当に、ごめん。」
何もかもお見通しで、驚くしかない。
ああ、あの金髪男が言ったことは正しい。
お勉強のできる直哉の頭脳を、こっち方向へ使われたら俺は太刀打ちできない。
* * * * * *
いつの間にか風は止み、大粒の雪がしんしんと降り始めていた。
街灯の明かりを反射して、幻想的な光景を作る。
直哉の手が、ポケットの中でそっと握り返された。
「……あの日のこと、思い出してた。」
そう言うと、直哉は少し恥ずかしそうに微笑む。
その笑顔を見た瞬間、心の奥までじんわりと温かくなった。
「ねぇ、鶴華。」
寒さのためか、彼の頬が少し赤い。
「気づいてる。もう、鶴華のこと、“鶴華”って呼ぶのは、世界で僕だけなんだ。」
その声は、どこか寂しそうでありながら、愛おしそうに大切に鶴華と呼んだ。
確かに、もうキャストでない俺を静華ママは瑛人と呼んでいた。
夜の街に染まって、彼を傷つけたその名前を、今でも宝物のように口にする。
「ずっと、呼んでいい?」
俺の最低な面も全部含めて愛してくれる、二人だけの証のようで、俺は頷いた。
「ああ、直哉だけだぞ。」
「うん、鶴華。」
彼の手のひらが、そっと頬を包む。
冷たくなった指先が、雪明かりに照らされて震えていた。
それでも、その瞳は迷いなく俺を見ている。
「……もう、大丈夫だよ。」
直哉の言葉と共に、温かな唇が触れた。
それは欲望ではなく、約束のようなキスだった。
凍てついた時間を溶かすように、ゆっくりと息を分け合う。
互いに壊れないために、ようやくここまでたどり着けた。
雪の舞う夜、彼の体温が確かに胸の奥まで沁みていく。
俺は、その全てを抱きしめ返した。
もう、手を上げることも、怯えることもない。
この、穏やかさを守りながら、生きていける気がする。
* * * * * *
部屋に着くころには、雪は音もなく降り積もり、世界の輪郭をすべて白く包み隠していた。
言葉にできない胸の高鳴りが、胸の奥で燻っている。
繋いだ手が、妙に熱を帯びて汗ばんだが、強く握り合っていた。
玄関を閉めた瞬間、静寂が戻る。
冷え切った空気の中、彼の吐息が近くて、心臓が跳ねた。
「寒かったね。」
頬も鼻先も赤くして、屈託なく微笑む表情に、思わず息を呑む。
こんなふうに無防備な直哉を見るのは、いつ以来だろう。
嬉しくて、愛おしくて、気づけば腕が動いていた。
強く抱き寄せた拍子に、彼の髪から雪がふわりと落ちる。
「……キス、してもいい?」
息が触れそうな距離で尋ねると、彼は驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくり頷いた。
その仕草だけで、胸の奥が熱くなる。
ずっと触れたかった。
でも、かつての俺は愛を確かめる術を”暴力”としか知らなかった。
だからこそ、今確かめたい。
唇を重ねた瞬間、過去のざらついた痛みが溶けていく。
俺の恐れを宥めるように、優しく背中を撫でられる。
吐息を分け合った直哉の表情には、怯えの色はなかった。
そこには、恥ずかしがりながらも身を任せてくれる恋人の顔があった。
シーツの擦れる音が、ゆるやかに夜を満たしていく。
互いの鼓動が混ざるほど近くで、何も言わずに抱き合った。
頭が焼き切れるほどの衝動は確かに存在するのに、穏やかな時間だった。
「直哉。」
ゆっくりと存在を確かめるように、互いの輪郭を指でなぞった。
優しい直哉の匂いに抱かれ、言い表せないほどの幸せに胸が満たされる。
首筋に唇を寄せた彼が、甘えたように鼻を擦りつける仕草が愛おしくて、思わず抱きしめた。
「苦しいって。」
笑い声交じりに、見上げてくる彼の鼓動が腕に伝わって来る。
そう言いながらも、そっと背中に腕をまわし、俺を抱き留めると溶け合う体温を感じるようにうっとりと瞳を閉じる。
何だか子犬同士が戯れるように、笑みを零しながら初めて触れる互いを確かめ、探り合った。
愛おしくて、幸せで、思わず笑みがこぼれる。
分かち合うような、こんな優しい行為があるなんて、俺は知らなかった。
愛は支配するもの。
そんな愛しか知らない俺が変われるまで、支えてくれた人。
抱き合う背中は俺より小さいけれど、しなやかに強いことを知っている。
その耳元で、彼がそっと囁く。
「今の鶴華なら、怖くないよ。」
その一言が、胸の奥を突き抜けた。
心臓の奥がぎゅっと掴まれて、息が詰まる。
ああ、彼は本当に俺を信じてくれている──その想いに、ようやく報われた気がした。
どちらからしたかわからない、啄むような口づけは、いつの間にか深いものへ変わっていく。
唇から熱が溶けあい、息が上がる。
直哉は酔ったような、とろんとした無防備な表情を浮かべていた。
自分の中の何かが、焼き切れるのが手に取るようにわかる。
普段理性的で真面目なぶん、破壊力がすごい。
そんな顔まで、俺に見せてくれる。
そのすべてが、何よりの赦しだった。
「……抱いても、いい?」
問いかける声が、自分でも驚くほど優しかった。
耳まで赤く染めて、彼はこくりと頷く。
どうしてこの行為を、「直哉を穢すこと」だと思ったのだろう。
直哉の手に指を絡ませると、彼が感じている快楽を伝えるように握り返された。
汗で額に髪が張り付き、目尻には朱が差す。
そんな煽情的な彼だが、俺を写す瞳には愛おしさが浮かんでいた。
身体が熱くて、直哉と繋がる部分から溶け出していきそうだ。
そんな熱を二人で分かち合う。
「鶴華。」
甘さを含んだ掠れた声が、俺を呼ぶ。
返事をするように、何度もその柔らかい髪を梳き、口づけを落とす。
この時が過ぎ去ってしまうのがもったいなくて、ゆっくりと熱を分け合う。
翻弄されるように、何度もシーツを蹴る彼が愛おしい。
「直哉」
俺を見上げる彼は、変わらず綺麗だ。
抱っこをせがむように腕が伸ばされ、身体を寄せれば首に回される。
一ミリの隙も許さないように、互いに抱き合った。
熱に浮かされたように、互いの名を何度も呼び合った。
”鶴華”と呼んでくれる、たった一人の愛しい人。
視界が白みがかり、世界が光に包まれるその時も、決して離さないと固く抱いていた。
どれくらいそうしていただろう。
互いの鼓動が重なり、やがて呼吸のリズムが穏やかに溶け合っていく。
直哉の身体が小さく震え、次の瞬間、力が抜けるように俺の胸の中で眠りに付いた。
静かな寝息が、まるで祝福のように耳に優しい。
頬を寄せると、かすかに彼の髪からシャンプーの匂いがした。
その匂いが、今を生きている証みたいで、胸の奥が温かくなる。
そっと腕を回して抱きしめる。
この手で守るだけじゃない。
信頼して、背中を預ける。
俺が倒れかけた時は、きっと彼が支えてくれる。
どちらか一方じゃなく、互いに支え合いながら歩いていく。
「大丈夫だよ、直哉。」
小さく呟くと、眠る彼の指が微かに動いた。
まるで、「わかってる」と言うように、優しく握り返してくる。
カーテンの隙間から、青いネオンの光が差し込んでいた。
その光は、過去を塗り替えるためのものじゃない。
これからの俺たちの道を、静かに照らすためのものだ。
どんな夜も、立ってみせる。
どんな嵐も、支えてみせる。
二人なら、何度でも立ち上がれる。
俺は、彼の髪を梳くように撫でながら、小さく笑った。
──青い光の下で、俺たちはようやく”同じ未来”を見ている。
鉄鍋の音と香ばしい匂いが、狭い店内を包み込む。
「ありがとうございました。」
夜の営業は比較的落ち着いており、常連の客が一杯ひっかけて帰っていく。
テーブル三席、カウンター十五席の小さな町の中華屋。
創業五十年になる店内は、清潔にしていても至る所に時を止めたような古さが目立つ。
従業員は俺だけで、ランチタイムは目が回るほどの忙しさだ。
「瑛人、これ出したらあがっていいぞ。」
厨房から七十になる白髪頭の店長が、むすっとした顔で話しかけてきた。
「うっす。」
ここ『中華料理屋 清水』の名物ともいえる、拳ほどの大きな唐揚げとレバニラ炒めをトレーに乗せて、本日最後の客へ運ぶ。
頭の中でやり残した仕事がないか、確認する。
洗い物も厨房の掃除も、ゴミ出しも終わった。
厨房裏で前掛けを取り、コックコートをクリーニング籠へ入れると、急いで上着を羽織る。
「お疲れ様です。」
「ああ、お疲れ。明日から炒め物、教えるから。」
目線は新聞紙の競馬欄のまま、ぶっきら棒に呟く。
頑固で不愛想な店長が、孫の成長を見守るように少しだけ口角を上げていた。
「ありがとうございます。」
信頼して仕事を任せてくれることが嬉しくて、感謝しかなくて、頭が下がる。
「おう、頑張れよ!」
こんな俺でもまだ、受け入れて支えてくれる人がいる。
その存在に、いつか報える自分でいたいと今も必死に藻掻いている。
直哉と国枝さんの紹介で、この店で働き始めた。
料理なんて全くしてこなかった俺だから、始めの三か月は辛かった。
その頃、直哉と離れて一人暮らしを始めたばかりで、折れそうな時もあった。
でも、毎日欠かさず通話やメッセージで彼は励ましてくれた。
与えられた最後のチャンスだと思って、歯を喰いしばる。
そうして、その努力は少しずつ実を結んでいった。
常連客とは、世間話するぐらいには顔見知りになったし、料理の仕込みも手伝わせてもらえるようになった。
働くことが、今は楽しいと思える。
「直哉、帰ろう。」
カウンターの一番奥の席は、夜の直哉の指定席だ。
始めは店の外で、俺が終わるのを待っていたのだが、気を使った店長が店内で待たせてくれることになった。
今夜も文庫本を開いて、時間を潰している。
「もう、いいのかい。」
「ああ、今日はあがっていいって。」
時間はまだ八時だが、外は雪がチラチラしている。
店長はこれ以上客が来ないと踏んだのだろう。
ふっと嬉しそうに直哉が微笑む。
その笑顔を見ただけで、今日も頑張ってよかったと思える。
雪交じりの北風の中、二人で手を繋いで歩く。
直哉は恥ずかしがるけど、日が沈んだ通りには滅多に人はいない。
人がいたとしても、案外他人のことは見てないもんだ。
繋いだ手を俺のダウンのポケットに入れると、手袋をするよりも温かい。
「今日夕方、店開いてすぐに静華ママが来てたぜ。俺がここにいるって、教えただろ?」
店に入って来るなり泣き出して、俺が仕込んだスープのラーメンを出せば、泣きながら鼻水と一緒に啜ってた。
本当に他の客がいない時で良かった。
ママが安心できるような、俺を見せられて良かった。
店長が若干引いてたけどな。
「ふふふっ。こっちにも美味しかったって、写真付きでメッセージ来てたよ。」
直哉はスマホのメッセージ画面をずいと差し出す。
何の変哲もない、昔ながらの醤油ラーメンのアップが、ハート乱用のメッセージと共に送られてきていた。
「よっぽど嬉しかったんだよ。ほら、SNSにも載せて『清水』の宣伝してる。」
いつもはネイルやバッグ、アクセサリーなどお洒落な投稿をしているのに、今日だけトーンが異なる。
そんなママの投稿には、好意的な「行ってみたい。」「美味しそう」のメッセージが溢れていた。
「ああ、これ以上ランチの客が増えるのは、ごめんなのに。」
嬉しい悲鳴を上げる俺を、優しい瞳が見つめていた。
「ずっと鶴華のこと、心配していたんだよ。」
出所日を言わずに音信不通になったことは、実は後悔していない。
あの時のままの俺だったら、きっとまた迷惑を掛けた。
また、静華ママを泣かせていた。
今、直哉がママに居場所を教えたことには、きっと意味がある。
少しうつむいた直哉の横顔を見ながら、ふと、あの日のことを思い出す。
──倉庫の夜から一年。
俺達は少しずつ、自分の足で立てるようになってきた。
* * * * * *
あの日、倉庫からの帰り道。
俺は、ひとつの疑問を口にした。
「どうして、あの場所がわかったのか?」
運転席の直哉は、何も言わずにスマホを俺に差し出した。
「GPSで鶴華の位置がわかるようにしてある。」
地図上の赤い丸は、この車のナビと寸分違わず、同じ動きをしていた。
「随分落ち着いていたが、中で何が起きているか知っていたのか?」
直哉はスマホを取り返し、見慣れないアプリを起動する。
次の瞬間、画面には俺のスマホのインカメからの映像が映し出された。
「へーすごいな、そんなことも出来るんだ。」
プライバシーとか、そんな問題よりも驚きと感嘆しかなかった。
世の中は、思った以上に進んでいるんだな。
「……あの時、音声だけは聞こえていたから、状況は察していた。」
わかっていて、それでも来てくれたんだ。
一人であの倉庫へ入るには、どれほどの覚悟だったのだろう。
その時の直哉の気持ちを思うと、胸が押しつぶされそうになる。
「ごめん……。インターネットの閲覧履歴もメッセージの内容も全部見れる……。」
「マジか……。」
純粋に求人情報だけを必死に見といてよかった。
変なサイト見てなくて、本当によかった。
「僕が倒れるもっと前に、アイツに会ったんだろ。ポケットに名刺が入ってた。だから、心配で……本当に、ごめん。」
何もかもお見通しで、驚くしかない。
ああ、あの金髪男が言ったことは正しい。
お勉強のできる直哉の頭脳を、こっち方向へ使われたら俺は太刀打ちできない。
* * * * * *
いつの間にか風は止み、大粒の雪がしんしんと降り始めていた。
街灯の明かりを反射して、幻想的な光景を作る。
直哉の手が、ポケットの中でそっと握り返された。
「……あの日のこと、思い出してた。」
そう言うと、直哉は少し恥ずかしそうに微笑む。
その笑顔を見た瞬間、心の奥までじんわりと温かくなった。
「ねぇ、鶴華。」
寒さのためか、彼の頬が少し赤い。
「気づいてる。もう、鶴華のこと、“鶴華”って呼ぶのは、世界で僕だけなんだ。」
その声は、どこか寂しそうでありながら、愛おしそうに大切に鶴華と呼んだ。
確かに、もうキャストでない俺を静華ママは瑛人と呼んでいた。
夜の街に染まって、彼を傷つけたその名前を、今でも宝物のように口にする。
「ずっと、呼んでいい?」
俺の最低な面も全部含めて愛してくれる、二人だけの証のようで、俺は頷いた。
「ああ、直哉だけだぞ。」
「うん、鶴華。」
彼の手のひらが、そっと頬を包む。
冷たくなった指先が、雪明かりに照らされて震えていた。
それでも、その瞳は迷いなく俺を見ている。
「……もう、大丈夫だよ。」
直哉の言葉と共に、温かな唇が触れた。
それは欲望ではなく、約束のようなキスだった。
凍てついた時間を溶かすように、ゆっくりと息を分け合う。
互いに壊れないために、ようやくここまでたどり着けた。
雪の舞う夜、彼の体温が確かに胸の奥まで沁みていく。
俺は、その全てを抱きしめ返した。
もう、手を上げることも、怯えることもない。
この、穏やかさを守りながら、生きていける気がする。
* * * * * *
部屋に着くころには、雪は音もなく降り積もり、世界の輪郭をすべて白く包み隠していた。
言葉にできない胸の高鳴りが、胸の奥で燻っている。
繋いだ手が、妙に熱を帯びて汗ばんだが、強く握り合っていた。
玄関を閉めた瞬間、静寂が戻る。
冷え切った空気の中、彼の吐息が近くて、心臓が跳ねた。
「寒かったね。」
頬も鼻先も赤くして、屈託なく微笑む表情に、思わず息を呑む。
こんなふうに無防備な直哉を見るのは、いつ以来だろう。
嬉しくて、愛おしくて、気づけば腕が動いていた。
強く抱き寄せた拍子に、彼の髪から雪がふわりと落ちる。
「……キス、してもいい?」
息が触れそうな距離で尋ねると、彼は驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくり頷いた。
その仕草だけで、胸の奥が熱くなる。
ずっと触れたかった。
でも、かつての俺は愛を確かめる術を”暴力”としか知らなかった。
だからこそ、今確かめたい。
唇を重ねた瞬間、過去のざらついた痛みが溶けていく。
俺の恐れを宥めるように、優しく背中を撫でられる。
吐息を分け合った直哉の表情には、怯えの色はなかった。
そこには、恥ずかしがりながらも身を任せてくれる恋人の顔があった。
シーツの擦れる音が、ゆるやかに夜を満たしていく。
互いの鼓動が混ざるほど近くで、何も言わずに抱き合った。
頭が焼き切れるほどの衝動は確かに存在するのに、穏やかな時間だった。
「直哉。」
ゆっくりと存在を確かめるように、互いの輪郭を指でなぞった。
優しい直哉の匂いに抱かれ、言い表せないほどの幸せに胸が満たされる。
首筋に唇を寄せた彼が、甘えたように鼻を擦りつける仕草が愛おしくて、思わず抱きしめた。
「苦しいって。」
笑い声交じりに、見上げてくる彼の鼓動が腕に伝わって来る。
そう言いながらも、そっと背中に腕をまわし、俺を抱き留めると溶け合う体温を感じるようにうっとりと瞳を閉じる。
何だか子犬同士が戯れるように、笑みを零しながら初めて触れる互いを確かめ、探り合った。
愛おしくて、幸せで、思わず笑みがこぼれる。
分かち合うような、こんな優しい行為があるなんて、俺は知らなかった。
愛は支配するもの。
そんな愛しか知らない俺が変われるまで、支えてくれた人。
抱き合う背中は俺より小さいけれど、しなやかに強いことを知っている。
その耳元で、彼がそっと囁く。
「今の鶴華なら、怖くないよ。」
その一言が、胸の奥を突き抜けた。
心臓の奥がぎゅっと掴まれて、息が詰まる。
ああ、彼は本当に俺を信じてくれている──その想いに、ようやく報われた気がした。
どちらからしたかわからない、啄むような口づけは、いつの間にか深いものへ変わっていく。
唇から熱が溶けあい、息が上がる。
直哉は酔ったような、とろんとした無防備な表情を浮かべていた。
自分の中の何かが、焼き切れるのが手に取るようにわかる。
普段理性的で真面目なぶん、破壊力がすごい。
そんな顔まで、俺に見せてくれる。
そのすべてが、何よりの赦しだった。
「……抱いても、いい?」
問いかける声が、自分でも驚くほど優しかった。
耳まで赤く染めて、彼はこくりと頷く。
どうしてこの行為を、「直哉を穢すこと」だと思ったのだろう。
直哉の手に指を絡ませると、彼が感じている快楽を伝えるように握り返された。
汗で額に髪が張り付き、目尻には朱が差す。
そんな煽情的な彼だが、俺を写す瞳には愛おしさが浮かんでいた。
身体が熱くて、直哉と繋がる部分から溶け出していきそうだ。
そんな熱を二人で分かち合う。
「鶴華。」
甘さを含んだ掠れた声が、俺を呼ぶ。
返事をするように、何度もその柔らかい髪を梳き、口づけを落とす。
この時が過ぎ去ってしまうのがもったいなくて、ゆっくりと熱を分け合う。
翻弄されるように、何度もシーツを蹴る彼が愛おしい。
「直哉」
俺を見上げる彼は、変わらず綺麗だ。
抱っこをせがむように腕が伸ばされ、身体を寄せれば首に回される。
一ミリの隙も許さないように、互いに抱き合った。
熱に浮かされたように、互いの名を何度も呼び合った。
”鶴華”と呼んでくれる、たった一人の愛しい人。
視界が白みがかり、世界が光に包まれるその時も、決して離さないと固く抱いていた。
どれくらいそうしていただろう。
互いの鼓動が重なり、やがて呼吸のリズムが穏やかに溶け合っていく。
直哉の身体が小さく震え、次の瞬間、力が抜けるように俺の胸の中で眠りに付いた。
静かな寝息が、まるで祝福のように耳に優しい。
頬を寄せると、かすかに彼の髪からシャンプーの匂いがした。
その匂いが、今を生きている証みたいで、胸の奥が温かくなる。
そっと腕を回して抱きしめる。
この手で守るだけじゃない。
信頼して、背中を預ける。
俺が倒れかけた時は、きっと彼が支えてくれる。
どちらか一方じゃなく、互いに支え合いながら歩いていく。
「大丈夫だよ、直哉。」
小さく呟くと、眠る彼の指が微かに動いた。
まるで、「わかってる」と言うように、優しく握り返してくる。
カーテンの隙間から、青いネオンの光が差し込んでいた。
その光は、過去を塗り替えるためのものじゃない。
これからの俺たちの道を、静かに照らすためのものだ。
どんな夜も、立ってみせる。
どんな嵐も、支えてみせる。
二人なら、何度でも立ち上がれる。
俺は、彼の髪を梳くように撫でながら、小さく笑った。
──青い光の下で、俺たちはようやく”同じ未来”を見ている。
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BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
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