37 / 47
第37話 写真集発売イベント
しおりを挟む
写真集発売記念イベントの朝。
東京の大型書店の裏に設けられた控え室には、化粧品の匂いと緊張した空気が漂っていた。
鏡の前に立つミキは、ゆっくりと深呼吸をした。
ラバースーツの艶やかな光沢が照明を受けてきらめく。
写真集と同じ衣装――あの雪の日を再現するためのもの。
「ミキさん、チャック閉めますね」
スタッフの若い女性が丁寧に背中を支えながら、衣装を整えていく。
ミキは鏡越しにその姿を見つめながら、小さくうなずいた。
体にぴたりと密着する素材が、呼吸のたびにわずかに伸び縮みする。
――大丈夫。まだ誰にも気づかれてない。
そう言い聞かせながら、胸の奥に手を当てた。
「最後にラバーコルセットを巻いたら完成です!」
スタッフが明るい声で言った瞬間、ミキの表情が凍った。
「ダメ!」
思わず強い声が出て、部屋の空気が一瞬止まった。
スタッフが目を丸くして、手を引っ込める。
「えっ……す、すみません! 何か……失礼なことを……?」
ミキはハッと我に返り、すぐに優しい笑みを作った。
「……ごめんなさい。ちょっと息苦しくて。コルセットは無しでお願い」
スタッフは安堵の表情を浮かべて、うなずいた。
「かしこまりました。すぐ調整しますね」
扉の外からは、すでにイベントのざわめきが聞こえてくる。
記者の声、ファンの呼びかけ、フラッシュの準備――いつもの風景。
だが、今のミキの胸の内は、かつてとは違っていた。
衣装の下で、ほんの少しだけ膨らみ始めたお腹に、そっと手を添える。
――ごめんね。でも、ママ、がんばるから。
ラバー越しに伝わる温もりに、ミキは静かに微笑んだ。
それは誰にも気づかれない、強くて優しい母の表情だった。
大型書店のイベントスペース。
サインと握手を求めて長蛇の列ができ、ファンたちの歓声とカメラのシャッター音が絶え間なく響いていた。
ミキは、プロの笑顔を崩さずに一人ひとりに丁寧に対応していた。
「ありがとう」「応援してます」――そうした言葉に頷きながら、疲れを見せずに微笑む。
そのとき。
次に並んでいた一人の女性が、ゆっくりと前に進み出た。
黒い帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠している。
しかし、その目だけは異様な光を放っていた。
「こんにちは」
ミキは変わらぬ笑顔で右手を差し出す。
だが――その瞬間。
女性の手が震え、かすれた声が漏れた。
「……あんたが……!」
その声は次第に強くなり、怒りと涙が入り混じった叫びへと変わる。
「私のケンジを……よくも汚してくれたなぁ!!」
ミキが目を見開くより早く、女性が腕を振り上げた。
手に光る金属の刃――反射的にミキは身をひねり、両腕でお腹をかばうように背を向けた。
鈍い衝撃。
次の瞬間、どっと人の波がざわめいた。
「危ない!!」「やめろっ!」
警備員たちがすぐさま飛びかかり、女性を床に押さえつける。
客席から悲鳴が上がり、スマホを持つ手が震える。
ミキは、息を詰めたまま立ち尽くしていた。
背中の腰あたりに熱い痛みと、じわりとした湿り気を感じる。
――お腹じゃない……守れた……。
そのわずかな安堵が、すぐに霞んでいく。
周囲の声が遠くなり、視界がゆらぐ。
「救急車! 誰か救急車を!」
スタッフの叫びが会場に響き、会場のざわめきが一斉にミキの方へと集まる。
警備員に取り押さえられた女は泣き叫んでいた。
「ケンジは私のものなのよ! 偽物が! 嘘つきが!」
その声を、ミキはもうはっきりとは聞いていなかった。
誰かが肩を支え、彼女の体を抱きかかえる。
照明が滲む。
ファンたちのざわめきが遠ざかる。
そして――
ミキは小さくお腹に触れながら、意識を手放した。
ーーーーー
夜のロッジ。
薪ストーブの炎が静かに揺れていた。
「……え? 一朗、これ……」
真白の震える声が、リビングに流れるニュースの音にかき消される。
〈速報です。人気モデル・ミキさんが本日午後、都内の大型書店で行われた写真集発売記念イベント中に、ファンの女性に襲撃され負傷しました。〉
テレビ画面には、騒然としたイベント会場の映像が映し出されていた。
報道カメラが捕らえたのは、倒れ込むミキの姿、駆け寄るスタッフ、取り押さえられる女。
モザイク越しでも、その場の混乱が伝わってくる。
真白は口元を押さえ、涙をこらえるように目を伏せた。
「ミキさん……嘘……」
一朗は、固く拳を握りしめたまま、画面から目を離せなかった。
〈幸い命に別状はなく、現在都内の病院で治療を受けています〉
アナウンサーの淡々とした声が続く。
「……よかった……」
真白が小さく息を漏らす。
しかし、一朗の胸の奥は別の思いで満たされていた。
息が詰まるような焦燥と、胸の奥を掻きむしられるような衝動。
テレビでは事件の続報が繰り返し流れている。
「ミキさんは現在、都内の病院で治療中です。命に別状はないとのことです」
そうアナウンサーが言うたびに、ほんの少しだけ心が安堵する。
けれど――それでも落ち着くことができなかった。
一朗はソファから立ち上がった。
「……やっぱり、連絡しよう」
真白が驚いたように顔を上げる。
「え……でも、ミキさん、今きっと……」
「いいんだ。……どうしても、声を聞きたい」
震える指でスマホを取り出し、連絡先一覧を開く。
そこに表示された「陽子」という名前。
ほんの数秒ためらった後、一朗は通話ボタンを押した。
コール音が静まり返った部屋に響く。
――プルルル……プルルル……
何度鳴っても、応答はない。
テレビの音さえ遠のいていくように感じる。
「出ろよ……陽子……お願いだから出てくれ……」
やがて通話が切れた。
冷たい無音だけが残る。
一朗はそのまま画面を見つめたまま、ゆっくりと唇を噛みしめた。
今度はSNSを開く。
メッセージの入力欄に、指先が震えながら文字を打ち込んでいく。
――陽子!どこだ!どこにいる!
――今すぐ陽子のところに行きたい!
――教えてくれ!お願いだ!
送信ボタンを押すと、青い吹き出しが画面の右側に並んだ。
既読のマークはつかない。
ただ時間だけが、無情に流れていく。
「……出ないの?」
真白の声が背後から小さく響く。
一朗は、深く息を吐いてスマホを握り締めた。
「……あいつ、昔からいつもそうなんだ。大事な時ほど、何も言わない」
窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。
ロッジの灯りの中、一朗のスマホの画面だけが、静かに、虚しく光り続けていた。
東京の大型書店の裏に設けられた控え室には、化粧品の匂いと緊張した空気が漂っていた。
鏡の前に立つミキは、ゆっくりと深呼吸をした。
ラバースーツの艶やかな光沢が照明を受けてきらめく。
写真集と同じ衣装――あの雪の日を再現するためのもの。
「ミキさん、チャック閉めますね」
スタッフの若い女性が丁寧に背中を支えながら、衣装を整えていく。
ミキは鏡越しにその姿を見つめながら、小さくうなずいた。
体にぴたりと密着する素材が、呼吸のたびにわずかに伸び縮みする。
――大丈夫。まだ誰にも気づかれてない。
そう言い聞かせながら、胸の奥に手を当てた。
「最後にラバーコルセットを巻いたら完成です!」
スタッフが明るい声で言った瞬間、ミキの表情が凍った。
「ダメ!」
思わず強い声が出て、部屋の空気が一瞬止まった。
スタッフが目を丸くして、手を引っ込める。
「えっ……す、すみません! 何か……失礼なことを……?」
ミキはハッと我に返り、すぐに優しい笑みを作った。
「……ごめんなさい。ちょっと息苦しくて。コルセットは無しでお願い」
スタッフは安堵の表情を浮かべて、うなずいた。
「かしこまりました。すぐ調整しますね」
扉の外からは、すでにイベントのざわめきが聞こえてくる。
記者の声、ファンの呼びかけ、フラッシュの準備――いつもの風景。
だが、今のミキの胸の内は、かつてとは違っていた。
衣装の下で、ほんの少しだけ膨らみ始めたお腹に、そっと手を添える。
――ごめんね。でも、ママ、がんばるから。
ラバー越しに伝わる温もりに、ミキは静かに微笑んだ。
それは誰にも気づかれない、強くて優しい母の表情だった。
大型書店のイベントスペース。
サインと握手を求めて長蛇の列ができ、ファンたちの歓声とカメラのシャッター音が絶え間なく響いていた。
ミキは、プロの笑顔を崩さずに一人ひとりに丁寧に対応していた。
「ありがとう」「応援してます」――そうした言葉に頷きながら、疲れを見せずに微笑む。
そのとき。
次に並んでいた一人の女性が、ゆっくりと前に進み出た。
黒い帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠している。
しかし、その目だけは異様な光を放っていた。
「こんにちは」
ミキは変わらぬ笑顔で右手を差し出す。
だが――その瞬間。
女性の手が震え、かすれた声が漏れた。
「……あんたが……!」
その声は次第に強くなり、怒りと涙が入り混じった叫びへと変わる。
「私のケンジを……よくも汚してくれたなぁ!!」
ミキが目を見開くより早く、女性が腕を振り上げた。
手に光る金属の刃――反射的にミキは身をひねり、両腕でお腹をかばうように背を向けた。
鈍い衝撃。
次の瞬間、どっと人の波がざわめいた。
「危ない!!」「やめろっ!」
警備員たちがすぐさま飛びかかり、女性を床に押さえつける。
客席から悲鳴が上がり、スマホを持つ手が震える。
ミキは、息を詰めたまま立ち尽くしていた。
背中の腰あたりに熱い痛みと、じわりとした湿り気を感じる。
――お腹じゃない……守れた……。
そのわずかな安堵が、すぐに霞んでいく。
周囲の声が遠くなり、視界がゆらぐ。
「救急車! 誰か救急車を!」
スタッフの叫びが会場に響き、会場のざわめきが一斉にミキの方へと集まる。
警備員に取り押さえられた女は泣き叫んでいた。
「ケンジは私のものなのよ! 偽物が! 嘘つきが!」
その声を、ミキはもうはっきりとは聞いていなかった。
誰かが肩を支え、彼女の体を抱きかかえる。
照明が滲む。
ファンたちのざわめきが遠ざかる。
そして――
ミキは小さくお腹に触れながら、意識を手放した。
ーーーーー
夜のロッジ。
薪ストーブの炎が静かに揺れていた。
「……え? 一朗、これ……」
真白の震える声が、リビングに流れるニュースの音にかき消される。
〈速報です。人気モデル・ミキさんが本日午後、都内の大型書店で行われた写真集発売記念イベント中に、ファンの女性に襲撃され負傷しました。〉
テレビ画面には、騒然としたイベント会場の映像が映し出されていた。
報道カメラが捕らえたのは、倒れ込むミキの姿、駆け寄るスタッフ、取り押さえられる女。
モザイク越しでも、その場の混乱が伝わってくる。
真白は口元を押さえ、涙をこらえるように目を伏せた。
「ミキさん……嘘……」
一朗は、固く拳を握りしめたまま、画面から目を離せなかった。
〈幸い命に別状はなく、現在都内の病院で治療を受けています〉
アナウンサーの淡々とした声が続く。
「……よかった……」
真白が小さく息を漏らす。
しかし、一朗の胸の奥は別の思いで満たされていた。
息が詰まるような焦燥と、胸の奥を掻きむしられるような衝動。
テレビでは事件の続報が繰り返し流れている。
「ミキさんは現在、都内の病院で治療中です。命に別状はないとのことです」
そうアナウンサーが言うたびに、ほんの少しだけ心が安堵する。
けれど――それでも落ち着くことができなかった。
一朗はソファから立ち上がった。
「……やっぱり、連絡しよう」
真白が驚いたように顔を上げる。
「え……でも、ミキさん、今きっと……」
「いいんだ。……どうしても、声を聞きたい」
震える指でスマホを取り出し、連絡先一覧を開く。
そこに表示された「陽子」という名前。
ほんの数秒ためらった後、一朗は通話ボタンを押した。
コール音が静まり返った部屋に響く。
――プルルル……プルルル……
何度鳴っても、応答はない。
テレビの音さえ遠のいていくように感じる。
「出ろよ……陽子……お願いだから出てくれ……」
やがて通話が切れた。
冷たい無音だけが残る。
一朗はそのまま画面を見つめたまま、ゆっくりと唇を噛みしめた。
今度はSNSを開く。
メッセージの入力欄に、指先が震えながら文字を打ち込んでいく。
――陽子!どこだ!どこにいる!
――今すぐ陽子のところに行きたい!
――教えてくれ!お願いだ!
送信ボタンを押すと、青い吹き出しが画面の右側に並んだ。
既読のマークはつかない。
ただ時間だけが、無情に流れていく。
「……出ないの?」
真白の声が背後から小さく響く。
一朗は、深く息を吐いてスマホを握り締めた。
「……あいつ、昔からいつもそうなんだ。大事な時ほど、何も言わない」
窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。
ロッジの灯りの中、一朗のスマホの画面だけが、静かに、虚しく光り続けていた。
1
あなたにおすすめの小説
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
放課後の約束と秘密 ~温もり重ねる二人の時間~
楠富 つかさ
恋愛
中学二年生の佑奈は、母子家庭で家事をこなしながら日々を過ごしていた。友達はいるが、特別に誰かと深く関わることはなく、学校と家を行き来するだけの平凡な毎日。そんな佑奈に、同じクラスの大波多佳子が積極的に距離を縮めてくる。
佳子は華やかで、成績も良く、家は裕福。けれど両親は海外赴任中で、一人暮らしをしている。人懐っこい笑顔の裏で、彼女が抱えているのは、誰にも言えない「寂しさ」だった。
「ねぇ、明日から私の部屋で勉強しない?」
放課後、二人は図書室ではなく、佳子の部屋で過ごすようになる。最初は勉強のためだったはずが、いつの間にか、それはただ一緒にいる時間になり、互いにとってかけがえのないものになっていく。
――けれど、佑奈は思う。
「私なんかが、佳子ちゃんの隣にいていいの?」
特別になりたい。でも、特別になるのが怖い。
放課後、少しずつ距離を縮める二人の、静かであたたかな日々の物語。
4/6以降、8/31の完結まで毎週日曜日更新です。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
