もしも北欧神話のワルキューレが、男子高校生の担任の先生になったら。

歩く、歩く。

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23話 揺れ動く物語

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 天木結衣の気配が消え、ラーズグリーズは胸をなでおろした。
 無事、浩二と話ができたようだ。これで彼が、少しでも立ち直るきっかけになってくれればいいのだが。
 ラーズグリーズが教師としてできる最大限だ。以降は、彼が自分で乗り越える必要がある。きっとすぐには乗り越えられないだろう。だから、彼の傍に居て、支えてやらなければ。彼の行く道を、静かに見守ってやらなければ。
 次は、戦士として出来る最大限を、彼にしなければならない。
 ラーズグリーズは槍を出し、ある一点に突き出した。

「そこに居るのはわかっている。出て来い、ヘル」

 穂先に魔力を集め、弾丸として発射した。弾丸は虚空に当たり、確かな手ごたえがあった。

「……マーキングが外せないのは、やはり面倒だな」

 ヘルのうっとうしそうな声が聞こえた。声には、確かな力がみなぎっている。
 ラーズグリースは指を鳴らして、ヘルの姿を引きずりだした。
 昨日までの、霧のような姿ではなかった。黒髪の、冷徹な印象を与える面立ちの女が浮かび上がった。露出の多い軽装な鎧の上に、漆黒のマントを羽織っている。上半身だけ見れば美麗な女であるが、下半身は腐り、死体のようだった。
 これが、ヘルの正体だ。生身ではなく、体を魔力で具現化しているだけだが、ヘルは自身の体を取り戻しつつある。力量は、ラーズグリーズとそう変わらないまでに戻っているはずだ。

「私の術を払えぬのなら、まだ万全ではなさそうだな」
「なら今叩いておくと?」
「当然だ」

 逃がすわけがない。ラーズグリーズは槍を振り上げ、ヘルに走った。
 ヘルも炎の剣を生み出し、ラーズグリーズと正面からぶつかった。両者の覇気がぶつかり合い、わずかだが、空間に皹が入る。
 互角に見えるが、ラーズグリーズが圧していた。よろけるヘルに、ラーズグリーズはたずねた。

「すまないが、答えてもらおうか、なぜ浩二を狙う? 彼はただの人間だろう?」

 問答術を仕掛け、ヘルに問いただした。するとヘルは、薄く笑った。

「ただの人間、そう見えるか?」

 ヘルはラーズグリーズを突き飛ばし、距離をとった。

「奴は特別な人間だ。この世界で唯一の、特異点と呼ばれる存在なのだよ」
「特異点? なんの? すまないが、話してくれ」
「……便利だな、「すまない」という言葉は」

 ヘルは舌打ちし、髪の毛をちぎった。

「……十五年前、この交じり合った世界が出来る瞬間、奴は偶然接地点に居た。そしてある物と触れた事で、奴はこの世界で唯一、ある力を持つようになったのさ。
 それこそが、吾が奴を欲する理由だ。奴さえ手に入れれば、吾はあれを使えるようになる。貴様らが欲してやまない、あの槍をな」
「槍? あの槍……まさか! 悪いが答えてもらおうか!」

 ラーズグリーズは気づき、ヘルに肉薄した。

「貴様、あの槍の在り処を知っているな!」
「知るも何も、吾の手の内だ。だがまだ使えぬ。奴が槍を使うための鍵なのだよ。そして槍を手に入れた時、吾は元の力を取り戻すことが出来る。長らく待ち続けた、待望の瞬間だ」
「そしてその力で主様に復讐をするつもりか」
「それは後でもできる。吾はそれよりも、やらねばならん事があるのだ」

 ヘルは拳を握りこんだ。

「肉体を取り戻さねばならん。血肉の通った、生身の体を。もうこんな、具象しただけの体なんぞ真っ平ごめんだ」
「その程度の事で、浩二を狙うのか」

 ヘルの口元がひくついた。

「……その程度、だと?」

 ヘルはわななき、激情をあらわにした。

「その程度だと? その程度だと! その程度だと!? 貴様にはわからんのか、この屈辱が! 神にとって肉体とは何よりの宝物! 血肉の通う体こそ神の誇りだ! それを全て奪われ、下等生物のごとき姿で這いずり回る屈辱が、貴様にわかるものか!
 肉体を取り戻すためならば、どのような苦労も挫折も厭わん! 失われた吾が肉を取り戻せるのならば、人間ごとき何人死のうが関係ないわ!」

 ヘルから異常な執着を感じる。狂気にも等しい剣幕に、ラーズグリーズは気圧された。

「ようやく吾が望みが叶う間際だったのに……貴様、よくもあのような事をしてくれたな」
「何の事だ」
「天木結衣を奴に会わせた事だ! 見ろ! 奴の憎しみが、一気に失われているではないか! 体を取り戻すためにどれだけの苦悩をしてきたか貴様にはわかるまい……そのために奴の、室井浩二の憎しみを熟成してきたのだ! それを貴様……全て無にするような真似をしやがって! 全部台無しだ、全部台無しだ!」
「……それはどういう事だ?」

 浩二の憎しみを熟成してきた? この言葉が意味するのは。

「貴様……まさか天木結衣を手に掛けたのか!」
「だとしたらどうするつもりだ?」

 ヘルはラーズグリーズを振り払い、距離をとった。

「己の欲のために、他者の人生を滅茶苦茶にしていいとでも思っているのか!」
「当たり前だ。人間なんぞ所詮家畜も同然、吾らのために利用されてようやく価値が生まれる程度の生物よ。むしろ光栄に思うべきだろう、吾が望みの礎になるのだからな」

 ヘルはにやついて語っていた。
 ヘルの物言いに、ラーズグリーズはかつての己を重ねた。
 以前のラーズグリーズは人間を下等な生き物と位置づけ、見下していた。けど今は違う。ラーズグリーズにとってもう、人は自身と対等な、ともに歩むべき存在へと変わっている。
 親愛なる人間を、それも生徒の人生を狂わせたのならば……こいつは絶対に許さない!

「ここで倒す! 貴様は捨て置くわけにはいかん!」
「では吾は逃げるとしようか。まだ貴様と戦えるほどの魔力は戻ってきておらん」

 ラーズグリーズに向け、ヘルは髪の毛を吹き付けた。
 宙を舞う髪はヘルの分身となり、ラーズグリーズに襲い掛かった。十数体の分身を盾にされ、ヘルに近づけない。

「さらばだ、弱きヴァルキュリアよ」
「ぐぅう!」

 すべての分身をなぎ倒し、ラーズグリーズはヘルに切っ先を向けた。
 一歩遅く、ヘルの姿は消え、槍は空を切った。気配は消え、完全に見失ってしまった。

「くそ……」

 ラーズグリーズは悪態をついた。だが、決して無収穫で終わったわけではない。多くの情報が得られただけでも、十分だ。
 必ず守り、取り戻してみせる。浩二の命は、この身に代えても守ってみせる。そして……。

「取り返す……主様の槍」

 ヴァルハラ最大の秘宝、グングニルを!
 ラーズグリーズの瞳に、力強い光が宿った。
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