もしも北欧神話のワルキューレが、男子高校生の担任の先生になったら。

歩く、歩く。

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29話 くたばれ、くそ女!

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 まさか自分から死にに来るとは。ヘルはそう思った。室井浩二が飛び出した瞬間に放った虚無の黒針は、奴から心臓を抉り出し、床に刺さった。
 心臓を失った浩二は呆けた顔をしたまま倒れ、屍と成り果てた。あの表情ならば、苦しまずに死んだのだろう。冥府の覇者からの、せめてもの情けだ。

「ぁ……ぁぁ……」

 ラーズグリーズは茫然自失となり、声すら上げられていない。水橋琴音に至っては顔を伏せ、ラーズグリーズに寄り添って肩を振るわせるだけだった。
 ヘルは微笑を浮かべ、室井浩二の心臓に歩み寄った。
 念願の瞬間だった。ようやく、グングニルが我が物となる。ヘルの胸は喜びに満ち溢れ、歓喜で打ち震えていた。

「ふふ……やっと、やっとだ。吾が悲願が、やっと叶う」

 オーディンとの戦いで失われた、自分の肉体を取り戻す事ができる。奪われた栄華が、ようやく己が手に戻るのだ。
 すべてを取り戻したら、次はオーディンだ。こんな仕打ちを施した、あの愚か者に復讐をしてくれる。自身の槍で倒されるのは、一体どんな気分だろうか。そしてその後は、この世界を手中に収める。グングニルがあればそれは適う、望み続けた野望が、今適おうとしていた。

 室井浩二の死体を踏み、ヘルは一度ラーズグリーズに目をやった。生徒の死体を踏んでいるにもかかわらず、ラーズグリーズは呆然として動かない。

「弱いな、貴様は」

 ヘルは嘲笑を浮かべ、浩二の遺体をさらに踏みつけた。

「人間の強さがなんだ? それを身に着けたところで、吾に勝てるとでも本気で思っていたのか? 結果はどうだ」

 人なんかに固執するから、心を踏みにじられる。なまじ人なんかと馴れ合うから、こうなる。
ラーズグリーズは教師となった事で、二流の戦士と成り下がったのだ。
 決めた。グングニルを手にしたら、証として奴を亡き者にしてやろう。ヴァルキュリアは不死だが、グングニルならば殺す事が出来る。グングニルは神の理すら覆すのだ。

 さぁ、手に入れようぞ。

 ヘルは室井浩二の心臓に手をかけた。この世の全てが今、吾が手中に収まった!
 特異点の心臓を掲げ、ヘルは滴る血を舐め取った。下等な人間の血が、甘露のように甘く感じた。
 さぁ奉げよう、贄の臓を。己が望みを成すために、今こそ聖槍の封を解くのだ。
 ヘルの口元に大きな笑みが浮かぶ。ところが、その口元が突如崩れた。

「あ?」

 ヘルは目を疑った。何度も瞬きして、目を皿のようにして、心臓を見ていた。
 いきなり、心臓が消え始めたのだ。輪郭が薄ぼけていき、ヘルの手中から蒸発していく。腕に滴っていた血すらなくなり、ヘルの前から、鍵が無くなろうとしていた。

「な、なんだ……なんだこれは……!」

 動揺し、ヘルはうろたえた。自分の知らない所で、何が起こっているというのだ!
 狼狽するヘルの前を、影が通り過ぎた。ほんのわずかな隙を突き、影は、グングニルへと到達する。
 ヘルは目を見開いた。信じがたい光景が、まさにヘルの眼前に広がっていたのだ。

 なぜだ……なぜだ! なぜ貴様が……貴様が生きている!

「お前の……」

 驚愕したヘルを無視し、特異点が、槍を振りかぶった。
 死んだはずの室井浩二が、グングニルを引き抜き、ヘルに飛び掛ってきた!

「負けだぁっ!」

 室井浩二の、至近距離での槍投げが、ヘルに迫る。動揺から立ち直れず、人間ごときの動きにヘルは対応できなかった。
 なぜ? どうして? 数多の言葉が脳裏を駆ける。しかしそれよりも、人間に出し抜かれた事実が、ヘルのプライドを逆撫でた。

「人間が……!」

 逆撫でられたプライドが、かろうじて思考を取り戻した。

「人間ごときがぁ!」

 間一髪の所で動き、ヘルはグングニルの回避に成功した。
 危うき瞬間の回避に、ヘルから緊張が抜けた。原理はわからないが、室井浩二をもう一度殺してしまえばいいだけの事!

「吾はヘル、地獄の覇者! 氷獄を統べる神なるぞ! 人間ごときゴミクズ風情が! 吾に! 触れるでなぁぁぁい!」

 ヘルは炎の剣を浩二に向けた。浩二は静かな眼差しでヘルを見据えている。

「ゴミはお前だ、根暗女。自分の欲のために、関係ない奴を巻き込む奴が、神様なわけないだろ。本物の神様は、そんな事をしない。本物の神様ってのは……弱い者のために全身全霊をかけて立ち向かう奴の事を言うんだ」

 炎の切っ先が、浩二を捉えた。それでも、浩二は続けた。

「思い知れ、馬鹿。守るべき存在を手に入れた神の力を。教師として、人の強さを学んだ神様の強さを。お前が弱いと罵った、人の強さを手に入れたワルキューレの力を!」

 浩二の目と鼻の先で、刃が止まった。それどころか、ヘルは体が何かに引っ張られるのを感じていた。
 なんだこれは、全く抗えない! 炎の剣は消え、ヘルは後ずさった。四つん這いになり、無様な姿で床にかじりつく。吾を引き寄せるのは、一体なんだというのだ。

「終わりだ、ヘル」

 ラーズグリーズが、そう告げてきた。

「もう二度と、私の生徒の前に姿を出すな」

 ヘルは、血走った眼で振り返った。
 そこに居たラーズグリーズは、琴音と共に、一冊の本を掲げて構えていた。本からは黒い腕が伸び、ヘルの体に絡み付いてくる。その腕はあまりにも熱く、骨まで焼けてしまいそうだった。

「その本は……!」

 焦熱地獄、ムスペルヘイムへの封印書! なぜオーディンしか使えないはずの本を、眷属の奴が使えるというのだ!?

「あ……」

 驚愕したヘルは、ラーズグリーズの足元に落ちているグングニルに気付いた。
 それですべて理解した。浩二はヘルを狙ったのではなく、ラーズグリーズを狙ってグングニルを投げていたのだ。奴が持っていた封印書にグングニルを当て、使えるようにしたのだ。
 ヘルは地獄の支配者。だが、地獄は地獄でも極寒地獄ニブルヘイムの覇者、灼熱地獄は管轄外だ。ムスペルヘイムに引きずり込まれたら……地を這い回る、哀れな囚人に成り下がる!

「そ、んな……馬鹿な!」

 こんな、馬鹿な事があるものか。吾は地獄の覇者、それがこんな、木っ端ごときの集まりにやられるはずが!

「わ、私は、神だ……それが、それがこのような……道端の雑魚のようなやられ方など! 屈辱だ、屈辱だ! おんのれぇぇぇぇぇ!」
「……お前みたいな奴は、そのやられ方がお似合いだ」

 浩二は拳を握り、ヘルに歩み寄った。
 天木が受けた苦痛、自分が抱いてきた憎しみ。その全てを、一撃に込める。

「地獄の炎で焼かれて苦しめ、そして天木に仕出かした罪を償え! この、くそ女ぁ!」

 浩二の渾身の右拳が、ヘルの頬に突き刺さった。
 ヘルが飛ばされ、本へと吸い込まれていく。邪神の醜い断末魔が、書庫に響き渡る。

「やだ……いやだ……いやだ! おのれ……むろいこうじぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 ヘルは本の中に吸い込まれ、やがて消えていった。

  ◇◇◇

 ヘルが封じ込められるのと同時に本を閉じ、ラーズグリーズは封印をかけた。
 これで二度とヘルが出てくる事はない。奴は焦熱地獄に落ちた、そこでなら、奴であろうとただの獄囚でしかない。奴は、しかるべき報いを受けるべきだ。
 突然めまいがして、ラーズグリーズはたたらを踏んだ。倒れそうになった所で、浩二と琴音が支えてくれた。

「すまんな……少し、疲れた」
「……お疲れ様、ばるきりーさん」

 琴音はラーズグリーズに擦り寄った。琴音が浩二の考えを伝えてくれたおかげで、彼に合わせられた。恐かっただろうに、彼女の勇気には感服するしかない。
 琴音を撫で、本を転移させてから、ラーズグリーズはグングニルを握った。
 主様の槍、ようやく見つけられた。オーディンの僕として、最高の仕事を成す事ができた。

「君に、助けられたな。浩二」
「借りを返しただけだ、気にしないでくれ」

 浩二はそっぽを向き、頬を掻いた。
 しかし、彼の胆力にも驚かされる。まさか、あのようにしてヘルを出し抜くとは。
 ラーズグリーズがグロッティを使って出してもらった物、それは、蘇生の粉だ。これを服用しておけば、一度だけなら、死んでも蘇られるようになる。万一ヘルが襲って来た時の保険として用意してもらったのだ。
 浩二はそれを利用した。自分を囮にしてグングニルを使い、ムスペルヘイムにヘルを封印する。ヘル相手に、捨て身の策を講じたのだ。

「琴音から作戦を聞いた時は、驚かされたよ。よく、思いついたものだ」

 ただし、それは戦士としての講評。教師として講評するのならば。

「だが、もうあんな危険な事はするな」

 生徒が危険な真似をしたのだから、叱らねばならない。

「私がグロッティで蘇生薬を作らせたのは、万が一のための保険だ。先ほどのような一発勝負のために用意した物ではない。そしてたとえ蘇るとしても、命を粗末にしてはならん。そのような真似をして、天木結衣を悲しませたらどうする」
「……ごめん」
「私に謝っても仕方なかろう」

 浩二は肩を落とした。

「忘れるなよ、自分の原点を。君の根底には常に、天木結衣が生きている。これから君が生きていく上で、守らねばならない不文律だ。君がどうして、何をもってここにいるのか。常々、自覚するように」
「……わかった」

 浩二は頷き、顔を上げた。
 彼の目から、迷いが消えている。憎しみもなくなっていた。胸の中に抱え込んでいた感情を昇華させ、浩二は大きく前進していた。

 生徒の成長にラーズグリーズは目を細めた。そしてこれからも彼の成長を見れると思うと、胸が高鳴る。
 彼はこれから、どこまで伸びていくのだろう。見届けよう、彼の進む人生を。支えていこう、彼が苦悩した時は、必ず手を差し伸べていよう。

 教師としてようやく、ラーズグリーズは一つの仕事を成し遂げたのだ。
 二人の肩を叩き、ラーズグリーズは顔を上げた。
 あとはちゃんと、生徒を送り届けねば。

「さぁ、帰ろう。下校の時間だ」
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