その掌にこいねがう

月灯

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番外編

同棲ではない、まだ

「おはようございます」
「……おはよう」

 寝起きにきらきらした笑顔が眩しい。遥が瞬くと、七時半ですよと肩を叩かれた。しちじはん、と遥は口の中で繰り返す。しちじはん。
 普段なら遅刻確定の時間だ。会社に詫びの電話を入れて、朝食も取らず慌てて準備するところである。
 ――が。

「おきる」
「はい。ご飯できてますよ」

 言われてみれば、なにやらいい匂いがする。すんすんと鼻を鳴らしながら遥は起き上がった。味噌と出汁の匂いだ。あと炊き上がったご飯の匂い。手探りで眼鏡を探してかけ、祐に手を引かれてベッドから下りる。足裏の冷えた感触に少しだけ頭が目覚めた気がした。
 そうして時計を見れば、確かに七時半をやや過ぎている。でも焦らなくていい。
 なぜなら、ここは祐の部屋だから。会社から約十分。余裕で間に合う。満員電車に揺られる必要も、駅から十五分歩く必要だってない。
 ふわぁと欠伸が漏れる。その瞬間背後で吹き出す音がして、振り返った。祐が誤魔化すように口許を引き結んでいる。

「……なにわらってるの」

 気まずさでつい素っ気なくなるも、祐の機嫌はすこぶるいい。

「いえ、その……遥さんがお泊まりしてくれたのが嬉しくて」
「いつもしてるでしょ」
「休日だけです」

 すかさず返された言葉に、確かにそうだと遥は頷いた。
 いままで祐の部屋から出勤したことはない。週末は泊まるが、日曜には自宅に戻って出勤していた。それは単純に遥の心持ちというか、そこまでお世話になるのも申し訳ないという理由である。いくら勤める会社から近いとはいえ、なにからなにまで甘えるのも変な話だろう。恋人の同棲ならまだしも、そうでないならある程度の線引きは必要だ。
 ……と付き合う前に言っていたのだが、この前思い出したように「もう恋人なので同棲できますね」とイイ笑顔で詰め寄られた。それをなんとかお試しお泊りにまで落ち着かせて今朝に至る、のだが。




「すごい」
「ありがとうございます」

 ローテーブルの上に並んだ食事に、遥は感嘆の息を漏らした。つやつや炊き上がった白米、豆腐とワカメと麩の入った味噌汁、焼いたハムと目玉焼き、切ったトマト。茶碗の横にそっと添えられているのは味のりで、はたしてここは旅館だったかと混乱する。完璧すぎる。

「……すごいね」

 寝ぼけた頭ではろくな褒め言葉が出てこない。それでも祐は嬉しそうに後ろから抱きついてきた。料理している間に染み付いたのだろう出汁の香りが鼻をくすぐる。

「嬉しくて、張り切ってしまいました」

 これを毎日作るのは無理ですけど。祐の正直な告白に遥は頷いた。逆に毎日これが出てくるほうがびっくりする。

「……こんなちゃんとしたご飯久しぶり」
「普段なに食べてるんです?」
「コンビニのサンドイッチとかおにぎりとか、まぁ食べないときもそこそこ」
「へぇ」

 低くなった声に、慌てて「毎日じゃないから」と弁明する。毎日ではない。週に二、三回くらいあるだけで。
 だが祐はにっこりした笑顔で見返すばかりだ。

「これからは一緒に朝ごはん食べましょうね」
「え」
「遥さんには健康に長生きしてもらわないといけないので」
「え?」

 これからも一緒? 今日はただのお試しで、明日からは普通に自宅から通勤するつもりなのだが。その言い方じゃまるで同棲が決まったみたいな、

「祐、今日は普通に家に帰るつもりで――んむっ」
「その話は後にしましょう」

 唇を塞がれ、口内を舐められた。昨夜までの官能を思い出させるような触れ方に腰が震えた瞬間、祐はさっと離れて遥をローテーブルの前に座らせる。

「食べましょうか」
「あ、え、うん」

 時間ぎりぎりになっちゃいますよ、と言われて箸を取る。なんだかうまいこと誤魔化されたような気がしてならないが、仕事に遅れると困るのは事実だ。
 祐が向かいに座るのを待ち、二人ぶんの朝食を前に手を合わせる。

「いただきます」
「いただき、ます」

 ……毎日、一緒にって。
 目の前の食事は申し分ないのに、さっきの発言が頭の中をぐるぐる回っているせいでいまいち集中できない。なによりそんな遥を愉しげに眺める祐が小憎らしい。
 落ち着かない気持ちのまま箸を伸ばしたところで、「あ、そうです」と祐が呟いた。

「いってきますのキス、しましょうね」
「え!?」
「同棲したら絶対してもらおうと思ってて。夢なんです」
「……同棲って」

 これはただのお泊りで。
 はくはくと口を開け閉めする遥へ、祐は知らぬ顔で味噌汁を啜る。

「まだ同棲じゃない……」
「そうですね」

 でも、と祐は目玉焼きを食んだ。遥も白米を口に運ぶ。ふと祐が眉を上げて、手を伸ばした。頬を指先が滑る。

「もう同棲みたいなものじゃないですか」
「……まだ、違う」
「そうですね、まだ」

 遥の口許の米粒を取った指先が、祐の口に吸い込まれる。唇の間からチロリと赤い舌が見えて視線のやり場に困った。行儀わるい、と咎めるが「すみません」とあっさり流される。

「でも遠からずそうなりますよね」

 そう言い切る祐の口調は自信たっぷりだ。なるほど確かにそうなるだろう。別に遥だって同棲したくないわけじゃない。
 ないのだが。

「楽しみですね。朝起きたら横に遥さんがいて、一緒にご飯を食べて、帰ったら遥さんといちゃいちゃしてプレイして同じベッドで寝られるなんて、最高です」
「……」

 それが! 恥ずかしいんだって!
 無理だ。やっぱり無理だ。週末のお泊りだけならともかく、あの甘さが毎日続くなんてダメ人間になる予感しかしない。いまの時点で食事や諸々の世話を受けているのに、これ以上となったら。

「遥さん」
「……もう少し、待って」
「はい」

 おちつけ、と念じながら椀を取って味噌汁を啜った。
 とはいえ、そんな内心もすべてバレバレで、大人しく遥の腹が決まるまで待ってもらっているだけに過ぎない。お互い一緒に住まないという選択肢はない。
 ……でも、まだ、同棲じゃないから。
 まだ。うん、まだ。
 ちょうど来年はアパートの契約更新だから、そのときくらいに考えれば――

「まぁ、あまりおあずけされるとこっちも我慢が持たないんですけども」
「え?」
「待たせるならそのぶん覚悟してくださいね」

 ……なにを?
 と、訊く勇気はなく、遥は頬を引きつらせながらひたすら白米を頬張った。


 なお、いってきますのキスと称して腰が抜けるほどのキスをされたので、決意はさらに薄らいだ。
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