わからないから、教えて ―恋知らずの天才魔術師は秀才教師に執着中

月灯

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番外編

くろねこ、ごろごろ、こいびと①

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 授業後、準備室に戻ると一匹の黒猫がいた。
 つやつやの豊かな毛並みに黄水晶のような透き通った眸。黒猫はアーサーの姿を見ると待ちかねたとでも言いたげに身を起こし、低くひと鳴きした。億劫そうにかぎに曲がった尻尾が揺れる。
 ふむ、とアーサーは顎に手を当てた。
 鍵がかかっていたはずの準備室に、いつ迷い込んだか不明の猫が一匹。そしてその色合いと態度には妙に覚えがある。

「返事が肯定だったら、左手で床を二度叩いてほしい。もしかして君はジルベルトか?」

 黒猫は左手で床を二度叩いた。



 いわく。
 これは実験の一環であり、とくに命に別状はなく、しばらくすれば戻るだろうとのことだった。この事実がわかるまで、黒猫ジルベルトは二十回ほど床を叩くことになった。
 じゃあ戻るのを待つしかないか。そう結論づけたアーサーは落ちていたジルベルトの服を回収し、茶の準備を始めた。この魔術師と暮らす上で、割り切りと諦めは必要スキルである。正直いろいろ尋ねたいことはあるが、猫相手の尋問は非常に効率が悪いとこの十分で思い知った。

「あ、こら」

 お湯でたっぷりのポットを持ち上げたところで、それまでソファで丸まっていた黒猫が突然動いた。足音もさせず着地し、カップに茶を注ぐアーサーの足元をうろちょろと歩き回り始める。なぜか足の間を往復し始めた毛玉に、アーサーは仕方なくポットを置いた。

「こーら、危ないだろう」

 しゃがみ、黒い毛に手を埋めた。猫の種類には詳しくないが、長毛種らしく手触りはふかふかとして柔らかい。アーサーは感心した。魔術で姿を変えているはずだが、知らなければ本物だと思ってしまうだろう。
 中身はあのジルベルトとはいえ、どうしても見た目に引きずられて声音が甘くなる。いまの君は小さいんだぞ、うっかり踏まれたくないだろう。そう言い含めると、黒猫はギッと鳴いた。不服そうである。そんなへまはしない、といったところか。そうしながらも腕に額を擦りつけてくるのが憎めない。意外と動物側の習性に引きずられるのだろうか、アーサーが撫でると自ら耳や首筋に当たるように身じろぎをする。ここを撫でろ、と指定されているのだ。
 これは仕方ない、とアーサーは観念した。なにせもともと猫は好きなのである。

「ほら、ジルベルト、ソファに行こう。そうしたら思う存分撫でてあげる」

 ね、と笑いかけると、黒猫はヒゲをぴくりと揺らした。





「あ、すごい。ちゃんとザラザラしてる」

 思わず呟くと、手を舐めていた黒猫がぴたりと動きを止めた。こてんと首を傾げた猫に、アーサーは「痛くないよ」と答えてやる。おずおず、というていで黒猫は再び手を舐め始めた。口元を覗き込めば、その舌は猫特有のそれである。

「舌までちゃんと再現されているのか」

 すごいね、と指先で顎の下を撫でてやると、黒猫が目を細める。そのままかぷりと手を噛まれて、アーサーは声を上げた。

「ジルベルト、それは痛い」

 こら、と窘めると黒猫は少し慌てたように身をすりつけてきた。抱え直してやると、ごろごろと喉を鳴らす音が響く。

「本当に、どこからどう見ても猫だなぁ」
 
 猫と触れ合うのは久々だった。祖母の飼っていた猫――ミス・リリィ以来である。
 彼女はほぐした鶏肉が好物で、ネズミ捕りが大の得意だった。狩ったネズミをベッドの上に置いていくので、そのたび祖母や妹が悲鳴を上げていたものである。家の各所にネズミよけの魔術をかけていたのに、それでもどこからともなく捕まえてくるのがこども心に不思議だった。
 そんな彼女はアーサーよりも年上で、幼いアーサーを庇護対象だと思っていたらしい。人懐っこく近寄ってきては、こうして舐められたものだった。
 目の前の黒猫の動きは、そんな彼女を彷彿とさせる。とはいえ猫と違うと思う部分もないわけではなかった。

「ジルベルト、触られたら嫌な場所とかないの?」

 これである。猫なら触られたくない、撫でられたくない場所も多いだろう。例えばミス・リリィなら絶対にお腹を触らせてくれなかった。が、ジルベルトはなぜかどこでも触らせてくれる。耳の付け根や顎の下、背、尻、尻尾や腹まで。いいのかな、これ。
 触らせてくれるのはもちろん嬉しい。普通の猫ならこうはいかない。が、ついここは嫌かもしれないと避けると、むしろ不満そうに鳴かれるのでさっきから手を休める暇がないのだった。膝の上でごろ寝している黒猫はくったりと脱力していて、普段の頑なさが嘘のような無防備さである。かぎしっぽも上機嫌に揺れていた。確かに思う存分に撫でてあげるとは言ったけれども、さすがにこのままだと手が疲れそうだ。
 だが、これならば。アーサーは、さっきから気になっていたことを試してみることにした。

「あのさジルベルト、嫌だったら遠慮なく断って欲しいんだけどね」

 そわそわ尋ねると、なんだと言わんばかりに黄玉の眸が瞬く。

「その……吸ってみてもいいかな」

 猫は首を傾げた。

「吸うっていうのは、こう、君のお腹や背中に顔を埋めて……」

 アーサーは不意に恥ずかしくなって説明を止めた。いまでこそかわいらしい猫の姿だが中身は大のおとな、しかも恋人ときた。そう考えると、なにやらいかがわしいことを頼んでいるような気持ちになってくる。恋人の腹を吸わせてもらう、という字面は妙にフェティッシュだ。
 ごめん、やっぱりいまのなし。そう言いかけたところで、しかし目の前の猫は左手でソファを二度叩いた。構わないらしい。その態度には嫌がるふうも照れたふうもなく、意識しているのが自分ばかりと思えばますます恥ずかしくなる。

「……ええと、ありがとう。嫌だったらすぐ逃げてね」

 羞恥と好奇心を天秤にかければ、好奇心があっさり勝つ。ジルベルトの厚意をむげにするのも違うし、と都合のいい言い訳も背を押した。
 意を決してソファを下り、しゃがみ込む。そうして、ソファに寝そべる腹に顔を埋めた。すう、とゆっくり息を吸い込めば、慣れない感触に驚いたのかびくりとジルベルトが身を震わせる。

「あ、ごめん!」

 慌てて顔を上げると、黒猫は低く唸って頬を舐めてきた。いいの? と尋ねると鳴き声が返る。ならばもう一度、とアーサーは再びその腹に顔を埋めた。ふかく、息を吸い込んで。

「……ぁー……」

 これは。アーサーは恍惚を漏らした。
 温かい。ふわふわしている。それはそう、当然ではあるのだが、手で撫でるのとはまったく話が違ってくる。しかもほんのりジルベルトの体臭が香るのも堪らなかった。泥のように疲れた日に倒れ込むベッドも、干したてほかほかでお日さまの匂いがする毛布も、きっとこの至福には勝てないだろう、
 確かにこれは癖になる。アーサーは猫飼いの知人たちに強く共感した。
 猫吸い、というものはずっと気になってはいたのだ。だがミス・リリィは絶対に吸わせてくれなかったし、強要することでもない。とはいえ、猫を飼っている学友や生徒に猫を吸うのはいいと力説されるたび、羨ましいと思っていたのも事実。
 アーサーはジルベルトの腹に頬ずりしながら、掌でも毛並みを堪能した。呼吸にあわせて毛並みが揺れ、肌を柔らかくくすぐっていく。しあわせ。
 その頃にはジルベルトが妙にもぞもぞ身じろぐのも、もはや気にならなくなっていた。

 ――そのとき、ぽん、と軽い音がした。

「わっ」

 ふかふかの毛皮はさらりとした肌に変わり、増した体積に頬を押し上げられる。そこには衣ひとつまとわぬ魔術師がいた。彼はまず己の身体を見下ろし、次いではからずも下腹に顔を埋めるかたちになったアーサーをじっと見つめる。一瞬呆けたアーサーだったが、あわてて顔を上げた。そうだ、猫になったときに全部服が脱げているのだ。傍目には全裸の恋人に抱きつく不審者である。

「も、戻ったね」
「うん」
「ええと、あ、服取ってくるよ」

 早口で告げて立ち上がるが、不意に腕を掴まれた。振り返ると、あいかわらず表情の読みにくい顔で――全裸なのだからもう少し恥じらってもいいのではないか――ジルベルトがアーサーの顔をじっと見つめていた。
 そこでふと、アーサーはジルベルトの下腹が膨らんでいることに気づいた。なぜ、と問うには心当たりがありすぎる。

「え、と」
「……アーサーのせいだ」
「そっ」

 そうだろうけども。
 アーサーが何事か言い返す前に景色が歪む。直後、ぐるりと視界が回り、ベッドの上に着地した。もはや見慣れたジルベルトの部屋だ。すかさず伸びた手が、アーサーの服を剥きにかかる。

「あの、ジルベルト」
「うん」
「するの?」
「うん」

 返事は明瞭、こうなったら止まらない。アーサーは苦笑してその頭を抱き寄せる。猫の姿も愛らしかったが、触れ合うならやはりもとの姿が一番だ。
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