ハイロイン

ハイロインofficial

文字の大きさ
31 / 111
第四章

2

しおりを挟む
 昼休みに家に戻ると、洗面器の水はすでに黄色く変わっていた。だが真ん中に黄色いシミがはっきりと浮き上がり、綺麗に落とすのは難しそうだった。
 洗濯はいつも父親がやっていた。白漢旗バイ・ハンチーが不在のときだけ自分で洗うか祖父母に洗ってもらうのだが、たいてい綺麗にはならない。
 白洛因バイ・ロインは小さい洗濯板を持ってきたものの腰かけも小さく、彼のように百八十センチを超える体格では膝を曲げても座りづらかったが、無理やり腰かける。どうせ少しの間だけだ。
 だが、白洛因のあては外れた。
 このシミはそう簡単に落とせるものではなかった。普通の洗剤だけでなくおばさんの言う硫黄石鹸を使ってもシミは色が薄くなるだけで完全に落とすことはできず、白洛因はしばらくすると疲れてしまった。それは運動の疲れとはまったく違う種類のものだった。
 運動なら体は疲れても気持ちはリラックスできる。だが今は体ばかりか気持ちまで疲れて苛立ち、いっそランニングを捨てたくなった。しかし四十元もするので捨てることはできない。
「白さん、白さん」
 ゾウおばさんの優しい声が白洛因の耳に聞こえてきた。
 白洛因が立ち上がると額の汗が日の光を浴びキラキラ輝く。白洛因はそれを腕で拭い、鄒おばさんに笑顔を向けた。
「おばさん、こんにちは」
 鄒おばさんは大きなエプロンをかけ長い髪を適当に頭の後ろでまとめていた。彼女はまるく艶々した顔に温厚な笑みを浮かべる。
「餃子を持ってきたの。作り立てよ。中身は豚肉とウイキョウ」
 白洛因は物干し竿にかけてあった布巾で手を拭いて皿を受け取り、賛美の声を上げる。
「美味しそうだね!」
「お父さんの料理に比べたら誰の料理でも美味しく感じるわよ」
 声を聞きつけ、白漢旗がようやく台所から出てきた。そして餃子の皿を見るとすぐさま申し訳なさそうな顔になる。いかにもわざとらしい表情だ。
「うちでごちそうしようと思ったのに、まったく、自分から料理を持ってきちまうんだから」
 白洛因は父親を呆れたように一瞥し、彼の面子を潰す。
「父さんにおばさんをもてなせるレパートリーがあるのか?」
「あるだろう。この間作った茄子の炒め物、美味かっただろう?」
 よりによってあの茄子か。白洛因は怒った。彼は茄子が好きで、白ばあちゃんの作った茄子の炒め物は好物だったが、あの日は白漢旗がどうしても自分で作ると言い張り、しかも丸茄子を切ってから水に晒さなかった。おかげで出来上がった料理は真っ黒でまるで漬物のようだった。それもたいしたことではない。白洛因が本当に腹を立てたのは、見た目だけではなく味も漬物のように塩辛かったことだ。白漢旗は塩を二回も入れ、さらにたまり醤油も入れたのだ。口に入れた瞬間、白洛因は言葉もなく悶絶した。
 鄒おばさんは洗面器に浸けてあるランニングに気づく。
「誰が洗ったの?」
「ああ、俺が洗ったんだ!」
 鄒おばさんは驚いて声を上げた。
「お父さんはなんであなたにやらせてるの?」
「俺にだってできるよ」
 白洛因は笑ってみせる。
 鄒おばさんは洗い桶の側に行くと、何も言わずに座って洗い始めた。
「あなたはそもそも勉強向きの子なんだから。こういうことは私たちみたいなもんに任せておけばいいのよ」
 白洛因は鄒おばさんを止めようと思ったが、彼女がせっせと働いている姿に、手出しができなくなった。鄒おばさんは普通のお母さんで白洛因のほうが力もあるのに、彼女の洗濯技は効果てきめんだった。さっきまであったシミが、彼女の手にかかると不思議なことにあっという間に消えてしまったのだ。どんな領域にもプロと素人は存在するらしい。
 鄒おばさんは汚れた水を捨て、新しい水に変えて服を中に入れる。それを三回繰り返すと、見るも無残だったランニングが見違えるほど白くなった。もちろん新品には叶わないが、血の痕はきれいさっぱりなくなった。
 物干し竿にかけられた白いランニングを見て、白洛因の気分も瞬時に晴れ渡った。
 


 翌朝早く、顧海グー・ハイは自転車で白洛因の家の周りを長いことうろついた。やがて立ち込める朝靄の中からようやく白洛因の姿が現れる。顧海は口元に笑みを浮かべ、長い脚で地面を蹴り、ペダルをこいで朝露を蹴散らした。
 バカみたいに重い自転車がすごいスピードで白洛因の脇を通りすぎたので、白洛因はつられて前に傾く。
 こんなアホなことをする奴はひとりしかいない。
 顧海は平らな場所でさっと曲がりながらブレーキを踏み、地面に綺麗な弧を描いた。白洛因を振り返って浮かべた笑顔にやわらかい朝陽が差すと、腹の底が読めず野性味あふれた男も少しはやさしく見える。
 顧海のバカな行動に呆れつつ、白洛因は何事もなかったかのようにその脇をすり抜け、冷ややかに告げた。
「中古のボロ自転車でもドリフトはできるんだな!」
 顧海は自転車をこいだり歩いたりしながら白洛因に付いて行く。
「なんで中古だってわかった?」
「このあたりでは自転車の盗難は日常茶飯事だからな。もし新車ならとっくになくなってる」
「早く言えよ!」
 顧海は悔しそうな様子だった。
「自転車が盗めるって知ってたら、わざわざ金を払って買うことはなかったのに!」
「お前、このあたりの人間じゃないのか? そんなことも知らないのか?」
 その一言で顧海はむせ返る。
「鄒おばさん、豆腐脳をふたつ、ハムを挟んだお焼きを五つ、糖油餅をふたつね」
 顧海も叫ぶ。
「俺にも白洛因と同じのを同じだけ」
 白洛因は顧海をものいいたげに見つめた。
「どうしたんだ?」
「別に」
 実は白洛因の注文には顧海の分も含まれていたが、少しためらい、黙っていることにした。
 二人の卓上には隙間なく朝食が並んだ。実際白洛因はひとりで二人分くらい平気で食べられる。せいぜい昼食を少なめにすればいいだけだ。ただ顧海が食べ物を無駄にするのが心配だった。鄒おばさんの料理はボリューム満点で、中身もぎっしり詰まっている。だからこそ白洛因はこの店で食べ残しをする客が嫌いだった。
 顧海は糖油餅を一口齧る。外はサクサクで中はもっちり、格別に美味い。
「久しぶりに本場の糖油餅を食ったよ」
 前に食べたのは幼稚園の頃だと言いそうになり、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。しっかり自分の口を閉じておかないと、いつかボロが出たらおしまいだ。
「じゃあいつもはどこで朝飯を買ってるんだ?」
 白洛因はさらりと尋ねる。
「……いつもは適当に街角で買って食ってる」
 白洛因はそれ以上聞かず、自分の分を黙々と口に運ぶ。彼はお焼きの皮と中身を分けて食べる癖があった。まず中身を片付け、それから皮に取り掛かる。だから五つ分のハムだけを食べ、脇には分厚い皮が積み上がった。
 それを見た顧海は、白洛因は皮が嫌いなのだと勘違いをしたらしい。自分のお焼きからハムを全部取り出して白洛因の皿に乗せ、積み上がった皮を全部自分のところに持っていく。
 白洛因は驚いて固まり、顔を上げて顧海をじっと見る。彼は大きな口でパクパクと味のしないお焼きの皮を食べ続けていた。嫌がっている様子は微塵もない。
 顧海は動きを止めて白洛因を見た。
「俺が食うのを見てるだけで腹が膨れるのか?」
「腹が膨れるかどうかはともかく、食欲がなくなるのは間違いないな」
 そう憎まれ口を叩いたものの、白洛因の顧海に対する印象はすでに少しずつ改善し始めていた。最初のうちは嫌悪していたが、その後は彼を受け入れ、今ではほんの少し好感を持っている。白洛因のように第一印象で相手を判断する人間からすれば、顧海のイメージが良くなったのは奇跡に近い出来事だった。



「ごちそうさま。行くぞ!」
 空っぽの皿と碗が白洛因の懸念を吹き飛ばす。彼は初めて食い気で張り合えるライバルを見つけた。やはり顧海の立派な体はトレーニングだけではなく、しっかりとした食事によって作られているのだ。
 顧海は今日も自転車に白洛因を乗せて学校に向かった。
 尤其ヨウ・チーは二人が一緒に教室に入って来るのがこれで二度目だと気づいて訝しみ、我慢できずに後ろを振り向く。
「なんであいつと一緒に来たんだ?」
「途中でばったり会ったんだよ」
 尤其はまだ質問を続けようとしたが、白洛因は後ろを向いてしまう。
 顧海の胸元に一枚の服が押し込まれた。
 顧海はランニングを広げ、しばらく眺めてから白洛因に尋ねる。
「誰のだ?」
「誰のだって? 俺のをお前にやるもんか」
「俺のか?」
 顧海は本当にすっかり忘れていた。彼がこの学校に来るとき、伯母は彼に何着も予備の制服を持たせてくれたので、あの一枚が無くなってもまったく気にせず、白洛因が捨ててしまったのだと思っていた。
「お前がケンカした日に着ていたやつだ」
 白洛因はそれだけ言うと前を向き机に俯せて眠ろうとする。
 だが顧海は逆に落ち着かなくなり、そわそわした。彼はペンチのような両手で白洛因を掴んで引き起こし、ゆっくり尋ねる。
「この服は、お前が俺のために洗ってくれたのか?」
「いや、違う」
「嘘つくなよ」
 顧海は含み笑いを浮かべた。
「お前が家族にこの服を見せるわけがないだろう」
「わかってるなら聞くな!」
 白洛因は取り合おうとしない。
 顧海の笑顔はいつまでも長く顔に留まり、その眼はカーテンレールの上を滑るように飽きることなく白洛因を眺め続けた。
 白洛因が俺のために洗濯してくれたのか?
 顧海はその光景を想像し、晴れ晴れとした気分になった。ハンサムな青年が一着の服を一生懸命手洗いしたのだ。それもなかなか汚れが落ちずに苛立ったことだろう。彼はきっとこう思ったに違いない。
『なんであいつの服を洗わなきゃならないんだ? いっそ捨ててやろうか!』
 だが結局彼は捨てるのが忍びなかったらしい。眉間に寄った皺は汚れが落ち切ってからようやく消えたのだろう。
 人は石鹸の香りでうっとり酔うことがあると、顧海は初めて知ったのだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

バスケ部のイケメン先輩に誘惑されています!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 他にも書きたいのがいっぱいある。

先輩たちの心の声に翻弄されています!

七瀬
BL
人と関わるのが少し苦手な高校1年生・綾瀬遙真(あやせとうま)。 ある日、食堂へ向かう人混みの中で先輩にぶつかった瞬間──彼は「触れた相手の心の声」が聞こえるようになった。 最初に声を拾ってしまったのは、対照的な二人の先輩。 乱暴そうな俺様ヤンキー・不破春樹(ふわはるき)と、爽やかで優しい王子様・橘司(たちばなつかさ)。 見せる顔と心の声の落差に戸惑う遙真。けれど、彼らはなぜか遙真に強い関心を示しはじめる。 **** 三作目の投稿になります。三角関係の学園BLですが、なるべくみんなを幸せにして終わりますのでご安心ください。 ご感想・ご指摘など気軽にコメントいただけると嬉しいです‼️

劣等アルファは最強王子から逃げられない

BL
リュシアン・ティレルはアルファだが、オメガのフェロモンに気持ち悪くなる欠陥品のアルファ。そのことを周囲に隠しながら生活しているため、異母弟のオメガであるライモントに手ひどい態度をとってしまい、世間からの評判は悪い。 ある日、気分の悪さに逃げ込んだ先で、ひとりの王子につかまる・・・という話です。

兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?

perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。 その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。 彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。 ……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。 口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。 ――「光希、俺はお前が好きだ。」 次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。

アイドルくん、俺の前では生活能力ゼロの甘えん坊でした。~俺の住み込みバイト先は後輩の高校生アイドルくんでした。

天音ねる(旧:えんとっぷ)
BL
家計を助けるため、住み込み家政婦バイトを始めた高校生・桜井智也。豪邸の家主は、寝癖頭によれよれTシャツの青年…と思いきや、その正体は学校の後輩でキラキラ王子様アイドル・橘圭吾だった!? 学校では完璧、家では生活能力ゼロ。そんな圭吾のギャップに振り回されながらも、世話を焼く日々にやりがいを感じる智也。 ステージの上では完璧な王子様なのに、家ではカップ麺すら作れない究極のポンコツ男子。 智也の作る温かい手料理に胃袋を掴まれた圭吾は、次第に心を許し、子犬のように懐いてくる。 「先輩、お腹すいた」「どこにも行かないで」 無防備な素顔と時折見せる寂しげな表情に、智也の心は絆されていく。 住む世界が違うはずの二人。秘密の契約から始まる、甘くて美味しい青春ラブストーリー!

地味な俺は、メイクしてくるあいつから逃げたい!!

むいあ
BL
___「メイクするなー!帰らせろー!!」___ 俺、七瀬唯斗はお父さんとお母さん、先生の推薦によって風上高校に入ることになった高校一年生だ。 風上高校には普通科もあるが、珍しいことに、芸能科とマネージメント科、そしてスタイリスト科もあった。 俺は絶対目立ちたくないため、もちろん普通科だ。 そして入学式、俺の隣は早川茜というスタイ履修科の生徒だった。 まあ、あまり関わらないだろうと思っていた。 しかし、この学校は科が交わる「交流会」があって、早川茜のモデルに選ばれてしまって!? メイクのことになると少し強引な執着攻め(美形)×トラウマ持ちの逃げたい受け(地味な格好してる美形)

【完結】俺とあの人の青い春

月城雪華
BL
 高校一年の夏、龍冴(りょうが)は二つ上の先輩である椰一(やいち)と付き合った。  けれど、告白してくれたにしては制限があまりに多過ぎると思っていた。  ぼんやりとした不信感を抱いていたある日、見知らぬ相手と椰一がキスをしている場面を目撃してしまう。  けれど友人らと話しているうちに、心のどこかで『椰一はずっと前から裏切っていた』と理解していた。  それでも悲しさで熱い雫が溢れてきて、ひと気のない物陰に座り込んで泣いていると、ふと目の前に影が差す。 「大丈夫か?」  涙に濡れた瞳で見上げると、月曜日の朝──その数日前にも件の二人を見掛け、書籍を落としたのだがわざわざ教室まで届けてくれたのだ──にも会った、一学年上の大和(やまと)という男だった。

俺以外美形なバンドメンバー、なぜか全員俺のことが好き

toki
BL
美形揃いのバンドメンバーの中で唯一平凡な主人公・神崎。しかし突然メンバー全員から告白されてしまった! ※美形×平凡、総受けものです。激重美形バンドマン3人に平凡くんが愛されまくるお話。 pixiv/ムーンライトノベルズでも同タイトルで投稿しています。 もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿ 感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_ Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109 素敵な表紙お借りしました! https://www.pixiv.net/artworks/100148872

処理中です...