ハイロイン

ハイロインofficial

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第四章

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 昼休みに家に戻ると、洗面器の水はすでに黄色く変わっていた。だが真ん中に黄色いシミがはっきりと浮き上がり、綺麗に落とすのは難しそうだった。
 洗濯はいつも父親がやっていた。白漢旗バイ・ハンチーが不在のときだけ自分で洗うか祖父母に洗ってもらうのだが、たいてい綺麗にはならない。
 白洛因バイ・ロインは小さい洗濯板を持ってきたものの腰かけも小さく、彼のように百八十センチを超える体格では膝を曲げても座りづらかったが、無理やり腰かける。どうせ少しの間だけだ。
 だが、白洛因のあては外れた。
 このシミはそう簡単に落とせるものではなかった。普通の洗剤だけでなくおばさんの言う硫黄石鹸を使ってもシミは色が薄くなるだけで完全に落とすことはできず、白洛因はしばらくすると疲れてしまった。それは運動の疲れとはまったく違う種類のものだった。
 運動なら体は疲れても気持ちはリラックスできる。だが今は体ばかりか気持ちまで疲れて苛立ち、いっそランニングを捨てたくなった。しかし四十元もするので捨てることはできない。
「白さん、白さん」
 ゾウおばさんの優しい声が白洛因の耳に聞こえてきた。
 白洛因が立ち上がると額の汗が日の光を浴びキラキラ輝く。白洛因はそれを腕で拭い、鄒おばさんに笑顔を向けた。
「おばさん、こんにちは」
 鄒おばさんは大きなエプロンをかけ長い髪を適当に頭の後ろでまとめていた。彼女はまるく艶々した顔に温厚な笑みを浮かべる。
「餃子を持ってきたの。作り立てよ。中身は豚肉とウイキョウ」
 白洛因は物干し竿にかけてあった布巾で手を拭いて皿を受け取り、賛美の声を上げる。
「美味しそうだね!」
「お父さんの料理に比べたら誰の料理でも美味しく感じるわよ」
 声を聞きつけ、白漢旗がようやく台所から出てきた。そして餃子の皿を見るとすぐさま申し訳なさそうな顔になる。いかにもわざとらしい表情だ。
「うちでごちそうしようと思ったのに、まったく、自分から料理を持ってきちまうんだから」
 白洛因は父親を呆れたように一瞥し、彼の面子を潰す。
「父さんにおばさんをもてなせるレパートリーがあるのか?」
「あるだろう。この間作った茄子の炒め物、美味かっただろう?」
 よりによってあの茄子か。白洛因は怒った。彼は茄子が好きで、白ばあちゃんの作った茄子の炒め物は好物だったが、あの日は白漢旗がどうしても自分で作ると言い張り、しかも丸茄子を切ってから水に晒さなかった。おかげで出来上がった料理は真っ黒でまるで漬物のようだった。それもたいしたことではない。白洛因が本当に腹を立てたのは、見た目だけではなく味も漬物のように塩辛かったことだ。白漢旗は塩を二回も入れ、さらにたまり醤油も入れたのだ。口に入れた瞬間、白洛因は言葉もなく悶絶した。
 鄒おばさんは洗面器に浸けてあるランニングに気づく。
「誰が洗ったの?」
「ああ、俺が洗ったんだ!」
 鄒おばさんは驚いて声を上げた。
「お父さんはなんであなたにやらせてるの?」
「俺にだってできるよ」
 白洛因は笑ってみせる。
 鄒おばさんは洗い桶の側に行くと、何も言わずに座って洗い始めた。
「あなたはそもそも勉強向きの子なんだから。こういうことは私たちみたいなもんに任せておけばいいのよ」
 白洛因は鄒おばさんを止めようと思ったが、彼女がせっせと働いている姿に、手出しができなくなった。鄒おばさんは普通のお母さんで白洛因のほうが力もあるのに、彼女の洗濯技は効果てきめんだった。さっきまであったシミが、彼女の手にかかると不思議なことにあっという間に消えてしまったのだ。どんな領域にもプロと素人は存在するらしい。
 鄒おばさんは汚れた水を捨て、新しい水に変えて服を中に入れる。それを三回繰り返すと、見るも無残だったランニングが見違えるほど白くなった。もちろん新品には叶わないが、血の痕はきれいさっぱりなくなった。
 物干し竿にかけられた白いランニングを見て、白洛因の気分も瞬時に晴れ渡った。
 


 翌朝早く、顧海グー・ハイは自転車で白洛因の家の周りを長いことうろついた。やがて立ち込める朝靄の中からようやく白洛因の姿が現れる。顧海は口元に笑みを浮かべ、長い脚で地面を蹴り、ペダルをこいで朝露を蹴散らした。
 バカみたいに重い自転車がすごいスピードで白洛因の脇を通りすぎたので、白洛因はつられて前に傾く。
 こんなアホなことをする奴はひとりしかいない。
 顧海は平らな場所でさっと曲がりながらブレーキを踏み、地面に綺麗な弧を描いた。白洛因を振り返って浮かべた笑顔にやわらかい朝陽が差すと、腹の底が読めず野性味あふれた男も少しはやさしく見える。
 顧海のバカな行動に呆れつつ、白洛因は何事もなかったかのようにその脇をすり抜け、冷ややかに告げた。
「中古のボロ自転車でもドリフトはできるんだな!」
 顧海は自転車をこいだり歩いたりしながら白洛因に付いて行く。
「なんで中古だってわかった?」
「このあたりでは自転車の盗難は日常茶飯事だからな。もし新車ならとっくになくなってる」
「早く言えよ!」
 顧海は悔しそうな様子だった。
「自転車が盗めるって知ってたら、わざわざ金を払って買うことはなかったのに!」
「お前、このあたりの人間じゃないのか? そんなことも知らないのか?」
 その一言で顧海はむせ返る。
「鄒おばさん、豆腐脳をふたつ、ハムを挟んだお焼きを五つ、糖油餅をふたつね」
 顧海も叫ぶ。
「俺にも白洛因と同じのを同じだけ」
 白洛因は顧海をものいいたげに見つめた。
「どうしたんだ?」
「別に」
 実は白洛因の注文には顧海の分も含まれていたが、少しためらい、黙っていることにした。
 二人の卓上には隙間なく朝食が並んだ。実際白洛因はひとりで二人分くらい平気で食べられる。せいぜい昼食を少なめにすればいいだけだ。ただ顧海が食べ物を無駄にするのが心配だった。鄒おばさんの料理はボリューム満点で、中身もぎっしり詰まっている。だからこそ白洛因はこの店で食べ残しをする客が嫌いだった。
 顧海は糖油餅を一口齧る。外はサクサクで中はもっちり、格別に美味い。
「久しぶりに本場の糖油餅を食ったよ」
 前に食べたのは幼稚園の頃だと言いそうになり、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。しっかり自分の口を閉じておかないと、いつかボロが出たらおしまいだ。
「じゃあいつもはどこで朝飯を買ってるんだ?」
 白洛因はさらりと尋ねる。
「……いつもは適当に街角で買って食ってる」
 白洛因はそれ以上聞かず、自分の分を黙々と口に運ぶ。彼はお焼きの皮と中身を分けて食べる癖があった。まず中身を片付け、それから皮に取り掛かる。だから五つ分のハムだけを食べ、脇には分厚い皮が積み上がった。
 それを見た顧海は、白洛因は皮が嫌いなのだと勘違いをしたらしい。自分のお焼きからハムを全部取り出して白洛因の皿に乗せ、積み上がった皮を全部自分のところに持っていく。
 白洛因は驚いて固まり、顔を上げて顧海をじっと見る。彼は大きな口でパクパクと味のしないお焼きの皮を食べ続けていた。嫌がっている様子は微塵もない。
 顧海は動きを止めて白洛因を見た。
「俺が食うのを見てるだけで腹が膨れるのか?」
「腹が膨れるかどうかはともかく、食欲がなくなるのは間違いないな」
 そう憎まれ口を叩いたものの、白洛因の顧海に対する印象はすでに少しずつ改善し始めていた。最初のうちは嫌悪していたが、その後は彼を受け入れ、今ではほんの少し好感を持っている。白洛因のように第一印象で相手を判断する人間からすれば、顧海のイメージが良くなったのは奇跡に近い出来事だった。



「ごちそうさま。行くぞ!」
 空っぽの皿と碗が白洛因の懸念を吹き飛ばす。彼は初めて食い気で張り合えるライバルを見つけた。やはり顧海の立派な体はトレーニングだけではなく、しっかりとした食事によって作られているのだ。
 顧海は今日も自転車に白洛因を乗せて学校に向かった。
 尤其ヨウ・チーは二人が一緒に教室に入って来るのがこれで二度目だと気づいて訝しみ、我慢できずに後ろを振り向く。
「なんであいつと一緒に来たんだ?」
「途中でばったり会ったんだよ」
 尤其はまだ質問を続けようとしたが、白洛因は後ろを向いてしまう。
 顧海の胸元に一枚の服が押し込まれた。
 顧海はランニングを広げ、しばらく眺めてから白洛因に尋ねる。
「誰のだ?」
「誰のだって? 俺のをお前にやるもんか」
「俺のか?」
 顧海は本当にすっかり忘れていた。彼がこの学校に来るとき、伯母は彼に何着も予備の制服を持たせてくれたので、あの一枚が無くなってもまったく気にせず、白洛因が捨ててしまったのだと思っていた。
「お前がケンカした日に着ていたやつだ」
 白洛因はそれだけ言うと前を向き机に俯せて眠ろうとする。
 だが顧海は逆に落ち着かなくなり、そわそわした。彼はペンチのような両手で白洛因を掴んで引き起こし、ゆっくり尋ねる。
「この服は、お前が俺のために洗ってくれたのか?」
「いや、違う」
「嘘つくなよ」
 顧海は含み笑いを浮かべた。
「お前が家族にこの服を見せるわけがないだろう」
「わかってるなら聞くな!」
 白洛因は取り合おうとしない。
 顧海の笑顔はいつまでも長く顔に留まり、その眼はカーテンレールの上を滑るように飽きることなく白洛因を眺め続けた。
 白洛因が俺のために洗濯してくれたのか?
 顧海はその光景を想像し、晴れ晴れとした気分になった。ハンサムな青年が一着の服を一生懸命手洗いしたのだ。それもなかなか汚れが落ちずに苛立ったことだろう。彼はきっとこう思ったに違いない。
『なんであいつの服を洗わなきゃならないんだ? いっそ捨ててやろうか!』
 だが結局彼は捨てるのが忍びなかったらしい。眉間に寄った皺は汚れが落ち切ってからようやく消えたのだろう。
 人は石鹸の香りでうっとり酔うことがあると、顧海は初めて知ったのだった。
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