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第八章
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「奥様。私をお呼びになったのは朝食売りの件についてですか?」
姜圓は比較的優しい様子で陳長浩に座るよう促した。
「そうよ。一体誰がこっそり余計な手出しをしたのか調べはついたの?」
陳長浩はためらいつつ答える。
「奥様、わかりませんでした」
「わからない?」
姜圓は疑惑の色を浮かべた。
「あんなどこにでもいる朝食売りの女になんで局長自ら賠償して謝罪しなきゃならないの? 手助けするのは白漢旗だけだろうけど、あの人にそんな人脈はないわ! もし本当にコネがあるならあんなうだつが上がらないわけないもの。絶対おかしい。一体誰が私の邪魔をしてるの?」
陳長浩の視線はずっと宙をさまよい、姜圓の顔を正面から見ることはなかった。
姜圓はため息をつく。
「白漢旗はいったい何を考えてるのかしら。毎日私の息子にあんな不潔なものを食べさせて。せっかく人に頼んで彼女の屋台を壊してやったのに、驚いたわ。局長の親戚がやってる店を奪って、まだあんなろくでもないものを売り続けてるなんて。かわいそうに、私の息子はずっとあんなものを食べてるのよ。せっかくのいい環境を享受できないなんて、母親として見過ごせないわ」
「でも実際、あの食べ物はいいと思います。ケンタッキーやマクドナルドよりはマシでしょう」
「いいですって?」
姜圓は皮肉な笑みを浮かべた。
「最近の屋台売りがどれだけ腹黒いか知ってる? 食べてすぐに死ぬようなもの以外なら、なんだって入れるのよ。息子がたまに食べるくらいならまだ許容できるけど、毎日食べていれば蓄積し、体にどんな悪い影響が出るかわからないわ」
陳長浩は軽く笑う。
「奥様、この屋台を壊しても彼は他の屋台に行くかもしれないですよ。そしてその屋台がこの店より不潔だったら、いたちごっこじゃないですか」
「私は白漢旗に思い知らせたいのよ!」
姜圓は怒りを見せた。
「あいつはあの女にいい顔をして自分の息子をないがしろにしてるんだわ」
陳長浩は返す言葉を失う。姜圓はしばらく黙りこみ、もう一度尋ねた。
「本当にわからないの?」
陳長浩は「はい」と答える。
「ごまかさなくていいわ。わかってるんだから」
姜圓の瞳に抜け目ない光が浮かぶ。
「白状しなさい。それで何が起きてもあなたの責任にはならないようにしてあげるから」
「いや、奥様……問題はその人は……ちょっと特殊でして」
「特殊?」
姜圓は軽蔑したような表情を浮かべた。
「いったい誰なのよ。何が特殊なの?」
「それは……首長の息子さんです」
顧海?
姜圓はサッと顔色を変える。顧海がなぜこの件に関わってるの?
「それは確かなの?」
陳長浩は頷いた。姜圓は考え込む。顧海はなんで縁もゆかりもないあの女を助けるの? どうやってこのことを知ったの? もしかしたら私を見張らせていて、やることなすこと邪魔をするつもり?
「あの店は今日開店するようですよ」
張長浩の一言に姜圓は顔色を変え、その場を立ち去った。
白洛因は眠さの限界を越え、ドアの框に頭をぶつけそうになった。顧海が軽く白洛因を押すと、彼は無防備に顧海のほうへ倒れ込む。顧海は大股で一歩踏み出し、自分の腕に彼を抱きとめた。白洛因はなんとか瞼を持ち上げて顧海を見る。
「テーブルの番号はちゃんと貼り終えたか?」
「とっくにできてるから上でちょっと寝て来いよ」
白洛因は顧海を押しやって腰を伸ばした。
「やることを終わらせてから寝るよ!」
「ここには都市管理官が五人もいるだろう? 心配するなよ」
「彼らは外で客引きの演目を披露してるじゃないか」
顧海は管理官らがなりふり構わず身をくねらせている姿を見て胸がスカッとした。
「おい、こっちに来て父さんの代わりにテーブルを持って行ってくれよ」
顧海は白漢旗のほうへうきうきしながら駆け上がって行く。
白洛因は新鮮な空気を吸おうと外に出たが、すぐ近くに見慣れた車が止まっているのが目に入った。車から女性が下りて来る。
これまでとは違い、白洛因は避けることなく自分から彼女に近づいて行った。姜圓はこの店めがけてやってきたのに違いない。彼は姜圓にいつまで嫌がらせを続けるのか問い質すつもりだった。
顧海はテーブルを一階に運び下ろし、白洛因がいないことに気づいて従業員に尋ねる。
「白洛因はどこだ?」
「え? ついさっきまでここにいましたよ」
「そういえば」
もう一人の従業員が口を挟む。
「戸口から出て行きましたよ。誰かが訪ねてきたみたいです。ほら、あそこじゃないですか?」
顧海は従業員の示す方向に目を向けた。
「何をしに来たんだ?」
白洛因はいつものように冷淡に告げる。姜圓は気持ちが動転した。
「あのね、ママはね……」
「騒ぎを起こしに来たならどうぞお帰りください。今日は絶対店を荒らさせたりさせません」
白洛因は姜圓の言葉を遮る。姜圓の顔には激しい驚きと痛みが浮かんだ。まさか白洛因が「荒らす」という言葉で自分を形容するとは思わなかった。当時自分に非はあったかもしれないが、それでも母親なのだ。実の息子にここまで罵られ、それを堪えるには人並外れた忍耐力が必要だった。
「どうしておばさんの屋台を人に襲わせた?」
姜圓はバッグのベルトを強く握りしめる。
「洛因、ママの話を聞いてちょうだい。あの人の真心は偽物よ。あなたはまだ幼いから人の心がどれだけ複雑なのかわかってないの。彼女の親切には裏がある。私は同じ女としてよくわかるわ。目的がなければすべてを捧げることなんてできないのよ」
「じゃあ彼女の目的はなんだ? うちの金か? 金なんてあるか? うちの権力か? そんなものあるか? 目的が父さんだけなら、俺は喜んで彼女を受け入れるよ」
姜圓は深く息を吸い込む。
「あなたがお父さんの再婚を受け入れるなら、どうして私はダメなの? 私には幸せを求める権利もないの? 女の幸せはみんな彼女のように限定的なものなの?」
「受け入れないとは言ってないよ」
白洛因は冷たく笑う。
「いつ受け入れられないって言った?」
「じゃあどうしていつもママにそんな態度なの?」
「俺たちは価値観が違う人間だから」
姜圓の胸は激しく痛み、悪かった顔色はさらに土気色に変わり、顧海がすぐ近くに来ていることにも気づかないほどだった。
「なんであんたが来るんだ?」
別の声が聞こえてきた。白洛因はハッとして気持ちを切り替えたが、顧海の言葉の意味がわからない。顧海はまっすぐ姜圓の前にやってくると冷たい視線を彼女に向ける。
「ここに何しに来たんだ?」
顧海は姜圓が彼を困らせるために白洛因に手を下そうとしたのだとしか考えなかった。
白洛因は顧海に驚愕の目を向けた。
「お前……この人を知ってるのか?」
「ああ」
顧海は白洛因の肩を抱き、口を耳元に寄せる。内緒話をしているようで、街行く人みんなに聞こえる声だった。
「この人は俺の父さんの新しい連れ合いで、派手な服を着た低俗な女だ。俺が言うことを聞かないから脇から攻めようとしてるんだ。ほうっておけ。行こうぜ」
顧海が力を込めて押したが、白洛因は動かない。姜圓は泣けばいいのか笑えばいいのかわからなかった。
「あなたたち……二人とも……知り合いだったの?」
白洛因はすべてを理解したが、顧海はキツネにつままれたようだった。
姜圓は彼らの手を取り感激しきりだった。
「知り合いなら良かったわ。あなたたちの気が合うかどうか心配していたのよ。皆で食卓を囲みたかったんだけど、でもあなたたちがいがみ合って顔を見たらケンカになるかもしれないって気を揉んでたの。良かったわ。本当に良かった……」
顧海は姜圓の話はでたらめだと思ったが、少しだけ引っかかった。姜圓はまだぽかんとしている顧海の手を強く掴み、声に喜びを滲ませる。
「バカな子ね。まだわからないの? この子がずっとあなたに話してた私の息子よ。あなたによく似てるから気が合うわよって言っていたでしょう? ほら、言った通りじゃない?」
「……」
青天の霹靂、耳を震わせる雷鳴の如し。天地を怨む慟哭、断腸の悲しみ。酸いも甘いも苦さも辛さも、入り乱れて心潮が逆巻く……!
顧海のあらゆる感情がぐちゃぐちゃになり、混乱する。
どうして彼なんだ? 何があろうと彼であるべきじゃない。
白洛因は姜圓の手を振り払い、大股で鄒おばさんの店に戻ると、一声も発せず二階に上がって自分の荷物を掴み、外に出た。
「おい、どうした?」
白漢旗は息子の沈んだ面持ちを見てあわてて追って来る。
白洛因は立ち止まり、白漢旗を暗く空虚な目で見つめた。
「父さん、俺は大丈夫だよ。ちょっと出かけてくる」
白漢旗は心配そうな顔になる。
「どこに行くんだ? おばさんの店はすぐに開店するぞ」
「ちょっと家に戻って忘れ物を持ってくるだけだ。すぐに戻る」
白洛因はそれ以上質問を受け付けず、大股で駆け去った。
顧海はその場で固まっていたが、白洛因の姿に胸騒ぎがして後を追いかける。
「因子!」
顧海は後ろから叫んだ。白洛因は何の反応も見せない。その背中には抑えきれない憤怒と悔しさが浮かんでいた。彼は現実が受け止めきれなかった。顧海の家がどんなに上流階級だろうとかまわない。父親が総書記でも受け入れる。だが何故よりによって顧威霆の息子なんだ?
彼が一番軽蔑する家庭の一員がどうして顧海なんだ?
「白洛因!」
顧海は後ろから大声で叫んだ。白洛因はそれでも振り返らずに前に進む。
顧海は大股で追いつき、白洛因の腕を掴んだ。
「俺が呼ぶ声が聞こえなかったのか?」
二人は誰もいない街角に立ち、初めて浮かべる表情でお互いを見た。
「聞こえたよ」
「じゃあなんで無視するんだ」
白洛因は話すことは何もないと感じ、踵を返して立ち去ろうとしたが、顧海に阻まれる。
「失せろ!」
白洛因は吠えた。何度も口にした言葉だが、これまでとはまったく違う感情が迸る。顧海の心はその言葉を聞いて麻花(揚げたねじり菓子)のように捻れた。
「なんで俺を追い払う? どんな理由で俺を追い払うんだ?」
顧海は白洛因の肩を掴んで揺さぶる。白洛因は顧海の襟元を強く掴んだ。
「俺を騙しやがって!」
「俺がいつお前を騙した?」
顧海はいきり立つ。
「くそったれ、俺だってたったいま知ったんだ。姜圓の口ぶりを聞いたか? 俺はあの人がお前の母親だなんて知らなかった。騙すもんか」
お前こそ俺の心を誑かしたんだ……。
顧海は息を荒げ、目を赤くして白洛因を睨みつける。彼の心の中にはひとつだけ完全無欠の場所があり、白洛因にしか明け渡していない。だがいまやそこは崩壊寸前だった。
白洛因はまたも歩き出す。顧海は追いかけ続け、二人は家の門に辿り着いた。白洛因は門を開けて中に入った後、すぐに閉めようとしたが、顧海は蹴り開ける。その大きな音に隣に生えている棗の木が揺れるほどだった。
「白洛因、何を考えてるんだ?」
顧海は白洛因を中庭の壁に押し付け、ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせる。
「俺がお前に何をした? つらいのは自分だけだと思うのか? 言っておくがお前の母親と俺の父親は何年も不倫を続けていて、俺の母さんの死因もはっきりしていないんだ! お前を嫌うのは俺で、失せろと言うのは俺のはずだ!」
白洛因は額に青筋を立て、顧海に掴まれた首は悲痛と憤懣で深紅色に変わっていった。
「そうだよ……お前の言うとおりだ。じゃあなんで出て行かない? お前が出ていけば俺たちはすっきり片がつく!」
「なんで出て行かないかって?」
顧海はしゃがれ声を出す。
「離れられるもんならお前を困らせずにとっくにいなくなってる。お前の母親にどんなに恨みがあっても、お前への気持ちの千分の一にもならない。白洛因、どんなに俺の父親を憎んでもかまわないが、俺まで巻き添えにするな。そんなの残酷すぎると思わないか?」
白洛因は顧海の手を掴み、少しずつ自分の体から引き離した。
「顧海、お前にもお前の家族にも恨みはない。ただ俺はお前やお前の家族を受け入れられない。俺には家族がいて、お前の家族は俺の家族にとっては痛みで、それを避けて通れないからだ。お前の父親は俺の母親の過去を気にしないかもしれないが、それは傷ついていないからだ。でも、俺の父さんはダメだ……」
顧海の心は少しずつ闇に落ちていく。
「つまり、俺はどうしてもここにいられないってことか?」
白洛因は背中を向ける。
「荷物をまとめるのを手伝うよ」
「白洛因、お前は残酷な奴だ」
白洛因はかつて門から部屋までの距離をこんなに長く感じたことはなかった。
顧海は腹が立つほど平静な声を出す。
「まとめる必要はない。全部いらないよ。鄒おばさんに開業おめでとうと伝えてくれ!」
足音が遠ざかる。白洛因はこれまでの暮らしがほぼ台無しになってしまったように感じた。
顧海は馴染んだ道を歩きながら自転車の車輪で焼き付けた記憶をひとつずつ辿り、胸を切り裂かれるような気持ちになる。昨日金璐璐と別れたときにもこんな感情は起きなかった。むき出しの痛みが心から徐々に広がって全身に伝わり、毛穴まで痛みに叫び声を上げる。
白洛因が部屋から出てくると、白ばあちゃんが腰を曲げてお湯を注ごうとしていた。
「夜はギョウチュウを食べるよ!」
白ばあちゃんは興奮して声を上げる。白じいちゃんは隣で爆笑のあまり咳き込んだ。
白洛因はまったく表情を変えなかった。白ばあちゃんはお湯を入れ終わると、不自由な体を動かして白洛因の前に立ち、興奮しながらしゃべる。
「私とあんたのじいちゃんがギョウチュウ(餃子)をたっぷり包んだから、夜はギョウチュウを茹でて食べよう。大海が一番大好きなやつだよ!」
顧海が白ばあちゃんの通訳になってからというもの、白ばあちゃんが彼を呼び間違えることはなくなっていた。
姜圓は比較的優しい様子で陳長浩に座るよう促した。
「そうよ。一体誰がこっそり余計な手出しをしたのか調べはついたの?」
陳長浩はためらいつつ答える。
「奥様、わかりませんでした」
「わからない?」
姜圓は疑惑の色を浮かべた。
「あんなどこにでもいる朝食売りの女になんで局長自ら賠償して謝罪しなきゃならないの? 手助けするのは白漢旗だけだろうけど、あの人にそんな人脈はないわ! もし本当にコネがあるならあんなうだつが上がらないわけないもの。絶対おかしい。一体誰が私の邪魔をしてるの?」
陳長浩の視線はずっと宙をさまよい、姜圓の顔を正面から見ることはなかった。
姜圓はため息をつく。
「白漢旗はいったい何を考えてるのかしら。毎日私の息子にあんな不潔なものを食べさせて。せっかく人に頼んで彼女の屋台を壊してやったのに、驚いたわ。局長の親戚がやってる店を奪って、まだあんなろくでもないものを売り続けてるなんて。かわいそうに、私の息子はずっとあんなものを食べてるのよ。せっかくのいい環境を享受できないなんて、母親として見過ごせないわ」
「でも実際、あの食べ物はいいと思います。ケンタッキーやマクドナルドよりはマシでしょう」
「いいですって?」
姜圓は皮肉な笑みを浮かべた。
「最近の屋台売りがどれだけ腹黒いか知ってる? 食べてすぐに死ぬようなもの以外なら、なんだって入れるのよ。息子がたまに食べるくらいならまだ許容できるけど、毎日食べていれば蓄積し、体にどんな悪い影響が出るかわからないわ」
陳長浩は軽く笑う。
「奥様、この屋台を壊しても彼は他の屋台に行くかもしれないですよ。そしてその屋台がこの店より不潔だったら、いたちごっこじゃないですか」
「私は白漢旗に思い知らせたいのよ!」
姜圓は怒りを見せた。
「あいつはあの女にいい顔をして自分の息子をないがしろにしてるんだわ」
陳長浩は返す言葉を失う。姜圓はしばらく黙りこみ、もう一度尋ねた。
「本当にわからないの?」
陳長浩は「はい」と答える。
「ごまかさなくていいわ。わかってるんだから」
姜圓の瞳に抜け目ない光が浮かぶ。
「白状しなさい。それで何が起きてもあなたの責任にはならないようにしてあげるから」
「いや、奥様……問題はその人は……ちょっと特殊でして」
「特殊?」
姜圓は軽蔑したような表情を浮かべた。
「いったい誰なのよ。何が特殊なの?」
「それは……首長の息子さんです」
顧海?
姜圓はサッと顔色を変える。顧海がなぜこの件に関わってるの?
「それは確かなの?」
陳長浩は頷いた。姜圓は考え込む。顧海はなんで縁もゆかりもないあの女を助けるの? どうやってこのことを知ったの? もしかしたら私を見張らせていて、やることなすこと邪魔をするつもり?
「あの店は今日開店するようですよ」
張長浩の一言に姜圓は顔色を変え、その場を立ち去った。
白洛因は眠さの限界を越え、ドアの框に頭をぶつけそうになった。顧海が軽く白洛因を押すと、彼は無防備に顧海のほうへ倒れ込む。顧海は大股で一歩踏み出し、自分の腕に彼を抱きとめた。白洛因はなんとか瞼を持ち上げて顧海を見る。
「テーブルの番号はちゃんと貼り終えたか?」
「とっくにできてるから上でちょっと寝て来いよ」
白洛因は顧海を押しやって腰を伸ばした。
「やることを終わらせてから寝るよ!」
「ここには都市管理官が五人もいるだろう? 心配するなよ」
「彼らは外で客引きの演目を披露してるじゃないか」
顧海は管理官らがなりふり構わず身をくねらせている姿を見て胸がスカッとした。
「おい、こっちに来て父さんの代わりにテーブルを持って行ってくれよ」
顧海は白漢旗のほうへうきうきしながら駆け上がって行く。
白洛因は新鮮な空気を吸おうと外に出たが、すぐ近くに見慣れた車が止まっているのが目に入った。車から女性が下りて来る。
これまでとは違い、白洛因は避けることなく自分から彼女に近づいて行った。姜圓はこの店めがけてやってきたのに違いない。彼は姜圓にいつまで嫌がらせを続けるのか問い質すつもりだった。
顧海はテーブルを一階に運び下ろし、白洛因がいないことに気づいて従業員に尋ねる。
「白洛因はどこだ?」
「え? ついさっきまでここにいましたよ」
「そういえば」
もう一人の従業員が口を挟む。
「戸口から出て行きましたよ。誰かが訪ねてきたみたいです。ほら、あそこじゃないですか?」
顧海は従業員の示す方向に目を向けた。
「何をしに来たんだ?」
白洛因はいつものように冷淡に告げる。姜圓は気持ちが動転した。
「あのね、ママはね……」
「騒ぎを起こしに来たならどうぞお帰りください。今日は絶対店を荒らさせたりさせません」
白洛因は姜圓の言葉を遮る。姜圓の顔には激しい驚きと痛みが浮かんだ。まさか白洛因が「荒らす」という言葉で自分を形容するとは思わなかった。当時自分に非はあったかもしれないが、それでも母親なのだ。実の息子にここまで罵られ、それを堪えるには人並外れた忍耐力が必要だった。
「どうしておばさんの屋台を人に襲わせた?」
姜圓はバッグのベルトを強く握りしめる。
「洛因、ママの話を聞いてちょうだい。あの人の真心は偽物よ。あなたはまだ幼いから人の心がどれだけ複雑なのかわかってないの。彼女の親切には裏がある。私は同じ女としてよくわかるわ。目的がなければすべてを捧げることなんてできないのよ」
「じゃあ彼女の目的はなんだ? うちの金か? 金なんてあるか? うちの権力か? そんなものあるか? 目的が父さんだけなら、俺は喜んで彼女を受け入れるよ」
姜圓は深く息を吸い込む。
「あなたがお父さんの再婚を受け入れるなら、どうして私はダメなの? 私には幸せを求める権利もないの? 女の幸せはみんな彼女のように限定的なものなの?」
「受け入れないとは言ってないよ」
白洛因は冷たく笑う。
「いつ受け入れられないって言った?」
「じゃあどうしていつもママにそんな態度なの?」
「俺たちは価値観が違う人間だから」
姜圓の胸は激しく痛み、悪かった顔色はさらに土気色に変わり、顧海がすぐ近くに来ていることにも気づかないほどだった。
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別の声が聞こえてきた。白洛因はハッとして気持ちを切り替えたが、顧海の言葉の意味がわからない。顧海はまっすぐ姜圓の前にやってくると冷たい視線を彼女に向ける。
「ここに何しに来たんだ?」
顧海は姜圓が彼を困らせるために白洛因に手を下そうとしたのだとしか考えなかった。
白洛因は顧海に驚愕の目を向けた。
「お前……この人を知ってるのか?」
「ああ」
顧海は白洛因の肩を抱き、口を耳元に寄せる。内緒話をしているようで、街行く人みんなに聞こえる声だった。
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姜圓は彼らの手を取り感激しきりだった。
「知り合いなら良かったわ。あなたたちの気が合うかどうか心配していたのよ。皆で食卓を囲みたかったんだけど、でもあなたたちがいがみ合って顔を見たらケンカになるかもしれないって気を揉んでたの。良かったわ。本当に良かった……」
顧海は姜圓の話はでたらめだと思ったが、少しだけ引っかかった。姜圓はまだぽかんとしている顧海の手を強く掴み、声に喜びを滲ませる。
「バカな子ね。まだわからないの? この子がずっとあなたに話してた私の息子よ。あなたによく似てるから気が合うわよって言っていたでしょう? ほら、言った通りじゃない?」
「……」
青天の霹靂、耳を震わせる雷鳴の如し。天地を怨む慟哭、断腸の悲しみ。酸いも甘いも苦さも辛さも、入り乱れて心潮が逆巻く……!
顧海のあらゆる感情がぐちゃぐちゃになり、混乱する。
どうして彼なんだ? 何があろうと彼であるべきじゃない。
白洛因は姜圓の手を振り払い、大股で鄒おばさんの店に戻ると、一声も発せず二階に上がって自分の荷物を掴み、外に出た。
「おい、どうした?」
白漢旗は息子の沈んだ面持ちを見てあわてて追って来る。
白洛因は立ち止まり、白漢旗を暗く空虚な目で見つめた。
「父さん、俺は大丈夫だよ。ちょっと出かけてくる」
白漢旗は心配そうな顔になる。
「どこに行くんだ? おばさんの店はすぐに開店するぞ」
「ちょっと家に戻って忘れ物を持ってくるだけだ。すぐに戻る」
白洛因はそれ以上質問を受け付けず、大股で駆け去った。
顧海はその場で固まっていたが、白洛因の姿に胸騒ぎがして後を追いかける。
「因子!」
顧海は後ろから叫んだ。白洛因は何の反応も見せない。その背中には抑えきれない憤怒と悔しさが浮かんでいた。彼は現実が受け止めきれなかった。顧海の家がどんなに上流階級だろうとかまわない。父親が総書記でも受け入れる。だが何故よりによって顧威霆の息子なんだ?
彼が一番軽蔑する家庭の一員がどうして顧海なんだ?
「白洛因!」
顧海は後ろから大声で叫んだ。白洛因はそれでも振り返らずに前に進む。
顧海は大股で追いつき、白洛因の腕を掴んだ。
「俺が呼ぶ声が聞こえなかったのか?」
二人は誰もいない街角に立ち、初めて浮かべる表情でお互いを見た。
「聞こえたよ」
「じゃあなんで無視するんだ」
白洛因は話すことは何もないと感じ、踵を返して立ち去ろうとしたが、顧海に阻まれる。
「失せろ!」
白洛因は吠えた。何度も口にした言葉だが、これまでとはまったく違う感情が迸る。顧海の心はその言葉を聞いて麻花(揚げたねじり菓子)のように捻れた。
「なんで俺を追い払う? どんな理由で俺を追い払うんだ?」
顧海は白洛因の肩を掴んで揺さぶる。白洛因は顧海の襟元を強く掴んだ。
「俺を騙しやがって!」
「俺がいつお前を騙した?」
顧海はいきり立つ。
「くそったれ、俺だってたったいま知ったんだ。姜圓の口ぶりを聞いたか? 俺はあの人がお前の母親だなんて知らなかった。騙すもんか」
お前こそ俺の心を誑かしたんだ……。
顧海は息を荒げ、目を赤くして白洛因を睨みつける。彼の心の中にはひとつだけ完全無欠の場所があり、白洛因にしか明け渡していない。だがいまやそこは崩壊寸前だった。
白洛因はまたも歩き出す。顧海は追いかけ続け、二人は家の門に辿り着いた。白洛因は門を開けて中に入った後、すぐに閉めようとしたが、顧海は蹴り開ける。その大きな音に隣に生えている棗の木が揺れるほどだった。
「白洛因、何を考えてるんだ?」
顧海は白洛因を中庭の壁に押し付け、ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせる。
「俺がお前に何をした? つらいのは自分だけだと思うのか? 言っておくがお前の母親と俺の父親は何年も不倫を続けていて、俺の母さんの死因もはっきりしていないんだ! お前を嫌うのは俺で、失せろと言うのは俺のはずだ!」
白洛因は額に青筋を立て、顧海に掴まれた首は悲痛と憤懣で深紅色に変わっていった。
「そうだよ……お前の言うとおりだ。じゃあなんで出て行かない? お前が出ていけば俺たちはすっきり片がつく!」
「なんで出て行かないかって?」
顧海はしゃがれ声を出す。
「離れられるもんならお前を困らせずにとっくにいなくなってる。お前の母親にどんなに恨みがあっても、お前への気持ちの千分の一にもならない。白洛因、どんなに俺の父親を憎んでもかまわないが、俺まで巻き添えにするな。そんなの残酷すぎると思わないか?」
白洛因は顧海の手を掴み、少しずつ自分の体から引き離した。
「顧海、お前にもお前の家族にも恨みはない。ただ俺はお前やお前の家族を受け入れられない。俺には家族がいて、お前の家族は俺の家族にとっては痛みで、それを避けて通れないからだ。お前の父親は俺の母親の過去を気にしないかもしれないが、それは傷ついていないからだ。でも、俺の父さんはダメだ……」
顧海の心は少しずつ闇に落ちていく。
「つまり、俺はどうしてもここにいられないってことか?」
白洛因は背中を向ける。
「荷物をまとめるのを手伝うよ」
「白洛因、お前は残酷な奴だ」
白洛因はかつて門から部屋までの距離をこんなに長く感じたことはなかった。
顧海は腹が立つほど平静な声を出す。
「まとめる必要はない。全部いらないよ。鄒おばさんに開業おめでとうと伝えてくれ!」
足音が遠ざかる。白洛因はこれまでの暮らしがほぼ台無しになってしまったように感じた。
顧海は馴染んだ道を歩きながら自転車の車輪で焼き付けた記憶をひとつずつ辿り、胸を切り裂かれるような気持ちになる。昨日金璐璐と別れたときにもこんな感情は起きなかった。むき出しの痛みが心から徐々に広がって全身に伝わり、毛穴まで痛みに叫び声を上げる。
白洛因が部屋から出てくると、白ばあちゃんが腰を曲げてお湯を注ごうとしていた。
「夜はギョウチュウを食べるよ!」
白ばあちゃんは興奮して声を上げる。白じいちゃんは隣で爆笑のあまり咳き込んだ。
白洛因はまったく表情を変えなかった。白ばあちゃんはお湯を入れ終わると、不自由な体を動かして白洛因の前に立ち、興奮しながらしゃべる。
「私とあんたのじいちゃんがギョウチュウ(餃子)をたっぷり包んだから、夜はギョウチュウを茹でて食べよう。大海が一番大好きなやつだよ!」
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しかし、この学校は科が交わる「交流会」があって、早川茜のモデルに選ばれてしまって!?
メイクのことになると少し強引な執着攻め(美形)×トラウマ持ちの逃げたい受け(地味な格好してる美形)
溺愛極道と逃げたがりのウサギ
イワキヒロチカ
BL
完全会員制クラブでキャストとして働く湊には、忘れられない人がいた。
想い合いながら、…想っているからこそ逃げ出すしかなかった初恋の相手が。
悲しい別れから五年経ち、少しずつ悲しみも癒えてきていたある日、オーナーが客人としてクラブに連れてきた男はまさかの初恋の相手、松平竜次郎その人で……。
※本編完結済。アフター&サイドストーリー更新中。
二人のその後の話は【極道とウサギの甘いその後+ナンバリング】、サイドストーリー的なものは【タイトル(メインになるキャラ)】で表記しています。
【完結】俺とあの人の青い春
月城雪華
BL
高校一年の夏、龍冴(りょうが)は二つ上の先輩である椰一(やいち)と付き合った。
けれど、告白してくれたにしては制限があまりに多過ぎると思っていた。
ぼんやりとした不信感を抱いていたある日、見知らぬ相手と椰一がキスをしている場面を目撃してしまう。
けれど友人らと話しているうちに、心のどこかで『椰一はずっと前から裏切っていた』と理解していた。
それでも悲しさで熱い雫が溢れてきて、ひと気のない物陰に座り込んで泣いていると、ふと目の前に影が差す。
「大丈夫か?」
涙に濡れた瞳で見上げると、月曜日の朝──その数日前にも件の二人を見掛け、書籍を落としたのだがわざわざ教室まで届けてくれたのだ──にも会った、一学年上の大和(やまと)という男だった。
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