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第九章
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「父さん、出かけてくるよ」
「こんなに遅くにどこに行くんだ?」
白漢旗が追いかけてくる。
「飯は食わないのか?」
白洛因はすでに自転車に乗って路地の角を曲がっていた。
顧海が住んでいるのは北京で一番華やかなエリアだ。白洛因が住んでいるあたりとはまったく雰囲気が違う。一方は古くからある北京の街並みで、もう一方は現代的な商業エリアだ。自転車で広い通りを走ると、目に飛び込んでくるのはすべて高級車、エリート、美女、成功者たちだった。
インターホンを鳴らすと、端正な中年女性が扉を開ける。
「すみません、こちらに顧海は住んでいますか?」
中年女性は白洛因をじろじろ眺め、疑いながら観察しているようだった。
「どちら様ですか?」
「俺は彼の同級生です」
白洛因の年齢は若く、顔にはあどけなさも残っている。嘘をついている可能性は低いだろうと判断したのか、中年女性は階下のプライベートラウンジへ連れて行ってくれた。
顧海はベッドに横たわり、マッサージ師に施術されているところだった。彼のいまの生活は恵まれてはいるが味気ない。毎日午前中はジムのスパに浸かり、午後はプライベートラウンジに篭り、夜はマッサージを受け、たまに心理カウンセラーのカウンセリングを受け、気持ちを整えていた。
「顧様、あなたにお客様です。同級生ということですが、お通ししますか?」
顧海はマッサージベッドに俯せた姿勢で目も開けず、声もけだるげだった。
「入ってもらえ」
その二分後、白洛因は中年女性に連れられて中へ入った。七日ぶりに顧海の顔を見て、改めて二人を隔てる距離を感じる。
長い沈黙の後、顧海はわずかに目を開き、熟知しているようで見知らぬ横顔を見た。その瞬間、ほんの少しだけ癒えた心の傷が裂け、カウンセラーのアドバイスもどこかへ吹き飛び、気持ちがいいはずのマッサージも痛みに変わった。
「何の用だ」
顧海の語気はひんやりしている。白洛因は大きく息を吸い込み、少しでも自分の語気が冷静に聞こえるように努めた。
「届け物があって来た」
顧海は白洛因を見下げるように傲慢な眼差しを向ける。
「あそこに置いて来たボロがいまの俺に必要だと思うのか?」
この態度は疑いなく白洛因の心を傷つけるだろう。
顧海は目を開かずとも白洛因の表情がわかる。それを思うと胸は痛んだが、同時に喜びも感じた。
「必要かどうかはお前が決めろ。俺はただ先生に頼まれたものを持ってきただけだ。いらなければ捨てればいい」
顧海は何も答えない。
「ここに置いておく。じゃあな」
顧海は一歩一歩遠ざかる足音を聞きながら、胸の肉がどんどん削がれていくような気分になる。
ドアの音が聞こえると、顧海は突然身を起こして叫ぶ。
「白洛因!」
白洛因の足が止まった。
「この野郎、戻ってこい!」
白洛因は耳を貸さず、再度ドアノブに手を伸ばす。顧海は猛然とベッドから飛び降りて大股でドアに向かい、白洛因の服を掴んで引き戻す。マッサージ師はお辞儀をして立ち去った。
顧海は息を荒げ、鋭い眼差しで白洛因を睨みつける。
「もう俺にはそんな態度しか取れないのか」
白洛因は服を直し、冷たい目線を向けた。
「俺にどんな態度を取れっていうんだ」
俺はすべてのプライドを捨ててお前に会いに来たんだ。この白洛因が初めて自分の決めたことに背き、お前が心配で、どうしているか知りたくて来たんだ。それがどうだ。お前は正面から俺を見ようともしない。お前に俺の態度をあれこれ言う資格があるのか?
「俺はどこか変わったか?」
顧海は小声で問いかける。白洛因は奥歯を噛みしめ沈黙を選んだ。顧海は吠える。
「白洛因! 俺をよく見ろ! いまの俺はこれまでと何が違うんだ?」
白洛因はさらに力を籠め、無理に顔を強張らせる。
「素性のせいで俺を死刑にするのか? 素性のせいで、俺はお前に優しい人間じゃなくなるのか?」
顧海の冷たく厳しい顔に刀で切り付けられたような苦痛が浮かぶ。彼はもはや自分の感情を隠すことができなくなり、手を伸ばして白洛因を抱き寄せ強く硬く抱きしめた。
この一週間の思いをすべて絞り出し、涙がぽろぽろと意気地なく零れ落ちる。
「白洛因、俺は母さんが死んだとき以外、誰かのために泣いたことはないんだ」
嗚咽混じりの言葉を白洛因は胸が抉られる思いで聞いた。
顧海が自分によくしてくれたことはよくわかっている。幼い頃から白洛因は父と共にままならない暮らしをしてきた。人生で初めて自分の靴紐を結んでくれたのは顧海だった。毎晩何度も布団をかけ直してくれたのも彼だ。ラーメンの中に二切れしかない肉をくれたのも顧海だ。彼は無節操に白洛因を甘やかし、譲り、彼に決して卑屈な思いをさせない。それは一週間離れただけで世界中の愛を失ってしまったと思わせるほどだった。
空気さえ流れを止める中、顧海の呼吸は徐々に平静に戻っていく。
「行けよ」
白洛因はその場を動けずにいたが、顧海に外へ追い出される。
「出ていけ!」
街角の美容院からテレサ・テンの懐かしい『時の流れに身をまかせ』が聞こえてくる。
白洛因の目頭は突然赤くなる。あの晩顧海が歌っていたときは、バカにしてからかった。いまこの時、彼は顧海がもう一度歌うのをとても、とても聞きたかった……。
「こんなに遅くにどこに行くんだ?」
白漢旗が追いかけてくる。
「飯は食わないのか?」
白洛因はすでに自転車に乗って路地の角を曲がっていた。
顧海が住んでいるのは北京で一番華やかなエリアだ。白洛因が住んでいるあたりとはまったく雰囲気が違う。一方は古くからある北京の街並みで、もう一方は現代的な商業エリアだ。自転車で広い通りを走ると、目に飛び込んでくるのはすべて高級車、エリート、美女、成功者たちだった。
インターホンを鳴らすと、端正な中年女性が扉を開ける。
「すみません、こちらに顧海は住んでいますか?」
中年女性は白洛因をじろじろ眺め、疑いながら観察しているようだった。
「どちら様ですか?」
「俺は彼の同級生です」
白洛因の年齢は若く、顔にはあどけなさも残っている。嘘をついている可能性は低いだろうと判断したのか、中年女性は階下のプライベートラウンジへ連れて行ってくれた。
顧海はベッドに横たわり、マッサージ師に施術されているところだった。彼のいまの生活は恵まれてはいるが味気ない。毎日午前中はジムのスパに浸かり、午後はプライベートラウンジに篭り、夜はマッサージを受け、たまに心理カウンセラーのカウンセリングを受け、気持ちを整えていた。
「顧様、あなたにお客様です。同級生ということですが、お通ししますか?」
顧海はマッサージベッドに俯せた姿勢で目も開けず、声もけだるげだった。
「入ってもらえ」
その二分後、白洛因は中年女性に連れられて中へ入った。七日ぶりに顧海の顔を見て、改めて二人を隔てる距離を感じる。
長い沈黙の後、顧海はわずかに目を開き、熟知しているようで見知らぬ横顔を見た。その瞬間、ほんの少しだけ癒えた心の傷が裂け、カウンセラーのアドバイスもどこかへ吹き飛び、気持ちがいいはずのマッサージも痛みに変わった。
「何の用だ」
顧海の語気はひんやりしている。白洛因は大きく息を吸い込み、少しでも自分の語気が冷静に聞こえるように努めた。
「届け物があって来た」
顧海は白洛因を見下げるように傲慢な眼差しを向ける。
「あそこに置いて来たボロがいまの俺に必要だと思うのか?」
この態度は疑いなく白洛因の心を傷つけるだろう。
顧海は目を開かずとも白洛因の表情がわかる。それを思うと胸は痛んだが、同時に喜びも感じた。
「必要かどうかはお前が決めろ。俺はただ先生に頼まれたものを持ってきただけだ。いらなければ捨てればいい」
顧海は何も答えない。
「ここに置いておく。じゃあな」
顧海は一歩一歩遠ざかる足音を聞きながら、胸の肉がどんどん削がれていくような気分になる。
ドアの音が聞こえると、顧海は突然身を起こして叫ぶ。
「白洛因!」
白洛因の足が止まった。
「この野郎、戻ってこい!」
白洛因は耳を貸さず、再度ドアノブに手を伸ばす。顧海は猛然とベッドから飛び降りて大股でドアに向かい、白洛因の服を掴んで引き戻す。マッサージ師はお辞儀をして立ち去った。
顧海は息を荒げ、鋭い眼差しで白洛因を睨みつける。
「もう俺にはそんな態度しか取れないのか」
白洛因は服を直し、冷たい目線を向けた。
「俺にどんな態度を取れっていうんだ」
俺はすべてのプライドを捨ててお前に会いに来たんだ。この白洛因が初めて自分の決めたことに背き、お前が心配で、どうしているか知りたくて来たんだ。それがどうだ。お前は正面から俺を見ようともしない。お前に俺の態度をあれこれ言う資格があるのか?
「俺はどこか変わったか?」
顧海は小声で問いかける。白洛因は奥歯を噛みしめ沈黙を選んだ。顧海は吠える。
「白洛因! 俺をよく見ろ! いまの俺はこれまでと何が違うんだ?」
白洛因はさらに力を籠め、無理に顔を強張らせる。
「素性のせいで俺を死刑にするのか? 素性のせいで、俺はお前に優しい人間じゃなくなるのか?」
顧海の冷たく厳しい顔に刀で切り付けられたような苦痛が浮かぶ。彼はもはや自分の感情を隠すことができなくなり、手を伸ばして白洛因を抱き寄せ強く硬く抱きしめた。
この一週間の思いをすべて絞り出し、涙がぽろぽろと意気地なく零れ落ちる。
「白洛因、俺は母さんが死んだとき以外、誰かのために泣いたことはないんだ」
嗚咽混じりの言葉を白洛因は胸が抉られる思いで聞いた。
顧海が自分によくしてくれたことはよくわかっている。幼い頃から白洛因は父と共にままならない暮らしをしてきた。人生で初めて自分の靴紐を結んでくれたのは顧海だった。毎晩何度も布団をかけ直してくれたのも彼だ。ラーメンの中に二切れしかない肉をくれたのも顧海だ。彼は無節操に白洛因を甘やかし、譲り、彼に決して卑屈な思いをさせない。それは一週間離れただけで世界中の愛を失ってしまったと思わせるほどだった。
空気さえ流れを止める中、顧海の呼吸は徐々に平静に戻っていく。
「行けよ」
白洛因はその場を動けずにいたが、顧海に外へ追い出される。
「出ていけ!」
街角の美容院からテレサ・テンの懐かしい『時の流れに身をまかせ』が聞こえてくる。
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