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第十三章
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「いやあ、本当に疲れましたよ。慣れない業務は大変だった」
顧海は入念にパソコンの画面を見て住所を暗記し、笑顔で張副署長に告げる。
「ありがとう、張おじさん」
張副署長がその言葉に応える前に顧海は外に飛び出し、車で直接ホテルに向かった。
顧海がホテルにつくと、もう夜中の十二時を回っていた。彼はフロントで白洛因の部屋番号を確かめ、張副署長が調べた場所と一致したので安心して部屋に向かう。
インターホンを押したが、誰も出ない。石慧は寝ていて、白洛因はベランダにいて聞こえなかったのだ。
顧海はホテルの外から白洛因の部屋を眺め、すでに明かりが消えていることに気づいた。
きっともう寝てしまったのだろう。明日もう一度出直すか? 顧海は少しためらったが、やはりホテルの中に入った。明日の朝彼が気まぐれに居場所を変えてしまうかもしれない。
顧海は白洛因の部屋の前で蹲り、煙草を吸いながら夜が明けるまで待つつもりだった。
白洛因は煙草を吸い終え部屋に戻る。すると石慧が寒いと叫んでいる声がかすかに聞こえた。灯りをつけると石慧の肩と腕が布団の外に出ていて、艶やかな肌が薄明りの下でことさら白く滑らかに見える。胸の魅惑的な谷間もチラッとのぞき、布団を少し下へ滑らせれば男が大興奮するものが拝めるだろう。
白洛因は目を逸らしながら屈んでしっかり彼女を布団でくるみこむ。だが灯りを消すと石慧はまた寒いと叫び始めた。彼女は目が覚めているようでもあり、無意識のようでもあった。石慧の額に触るとたくさん寝汗をかいている。部屋を見回しても布団は一枚しかなかった。しばらく葛藤した末に彼はベッドに上がり、布団ごと彼女を抱き込んだ。
真夜中、石慧は目を開き、白洛因がすべての布団を自分にかけ、彼は何もかけずに横たわっていることに気づいた。自分の布団を白洛因にかけてあげようと思ったが、白洛因ががっちりと自分を抱き込んでいて、腕を出すことすらできない。
彼女の胸は感動でいっぱいになった。そして至近距離で白洛因のハンサムな寝顔を眺めているうちに我慢できなくなり、彼の薄い唇にそっと口づけ、満足して目を閉じる。
白洛因は眠ってはおらず、覚醒した状態のまま朝を迎えた。
石慧はまだ眠っていたが白洛因は腹が空き、下に行って朝食を食べてから彼女を起こそうと思った。
扉を開けた瞬間、白洛因はその場で凍りつく。廊下には吸い殻が散らばり、壁の隅に蹲っていた男がハッと目を覚ました。白洛因の前に立った顧海の顔色は悪く、無精ひげを生やしている。疲れてはいるようだったが、目には生気が宿っていた。
「目が覚めたか?」
白洛因は呆然と頷く。七日間ぶりだ。顧海は自分から白洛因と連絡を取ろうとはしなかったが、全身全霊で彼を求めていた。だから白洛因の姿を見た途端、自分を許してくれるかどうかも考えられなくなり、そのまま抱きしめる。
「家に帰ろう」
白洛因は何も答えなかった。身体は強張り、一晩中外にいた顧海よりも冷たかった。
「俺が荷物を片付けてやるよ」
すると白洛因は猛然と手を伸ばし、扉のところで阻む。顧海はやさしく笑い、白洛因の頬をつねった。
「まだ怒ってるのか? 俺が外で一晩待ってたことに免じて、笑ってくれよ」
白洛因は頭の中が真っ白になる。顧海は白洛因の様子がおかしいことに気づいていたが、まだ自分に腹を立てているのかと思っていた。部屋の中から声が聞こえてくるまでは。
「白洛因」
石慧は目を覚まし、白洛因の姿が見えずドアが開いているので思わず名を呼んだ。顧海は瞬時に顔色を変えて白洛因に目をやると、ドアを蹴破って中に入る。
石慧はベッドの上に座り、裸の胸を布団で無理に隠していたが、肩と腕は外に出し、さらに艶やかな背中も晒していた。ドアの外に別の人間がいるとわかると石慧の表情は明らかに動揺し、あわてて布団にもぐりこんでまた横になった。
顧海の視線は部屋の中からゆっくり白洛因の顔に移る。その顔は冷静すぎてぞっとするほどだった。
長い沈黙の後、顧海は冷たく言った。
「お前の居場所がやっとわかったのは夜中の十二時だ。ここに来た時にはもう灯りが消えていたから、俺は邪魔をしないようにずっと外で待っていたんだ」
白洛因はようやく口を開いたが、声には力がなかった。
「どうしてインターホンを押さなかった?」
「起こしたら悪いと思ったんだ」
「じゃあ家に帰って待てばよかったじゃないか」
「朝になったらお前がいなくなってるのが怖かったから」
白洛因は黙り込む。顧海は踵を返して立ち去ろうとし、白洛因は大股で追いかけ、彼の腕を掴んで引き留める。顧海は振り返ったが、その目は暗く光っていた。
「白洛因、このまま俺を行かせろよ。お前を罵ったり殴ったりしたくないんだ。もし俺にひどい目に遭わされたくないなら手を放してくれ」
腕から手を放したその瞬間、白洛因の世界は色を失った。
部屋に戻ると、石慧はもう身支度を済ませてベッドに座り、白洛因を待っていた。白洛因が戻ると彼女は思わず問いかける。
「さっき来たのは顧海?」
白洛因は頷き、スーツケースを持って外に出た。石慧も後から続いた。彼女は白洛因の情緒がとても乱れていることは感じ取っていたし、その原因が顧海だということも確信していた。そして何があったのかも薄々わかっていた。
ホテルを出ると白洛因は石慧に告げる。
「タクシーで家に戻ってくれ」
「もう少し一緒に歩かない?」
石慧は白洛因に同意を求めた。
白洛因はなんの異論もなかった。正確に言えば、石慧が側にいてもいなくてもどうでもよかった。石慧は白洛因が何も言わないので黙認したのだと思い、気分よく彼に寄り添った。
二人は黙ったまま歩いた。気まずい空気を打ち破ろうと、石慧は探りを入れる。
「顧海は私のことが嫌いなのかしら?」
白洛因は淡々と答えた。
「いや、単に俺が気に入らないだけだろう」
石慧はため息をつく。
「あなたたち男の子同士の付き合いはわからないけど、お互いに譲り合うべきじゃないかしら。どんな誤解も解決できるわ。あなたはなんでも心の内に溜めこみすぎるのよ。心を開けば、今よりきっとたくさんのものが得られるわ」
白洛因は石慧の話をまったく聞いていなかった。彼の気持ちはとても静かで、わずかな喧噪の音すら耳に届くほどだった。
ハッと振り向くと、草色の人影が二つ路地に消えた。
「どうしたの?」
石慧は尋ねる。白洛因は淡々と答えた。
「なんでもないよ」
路地の入り口に辿り着くまでずっと、後ろから聞こえる異様な足音が耳に残っていた。
石慧は立ち止まり、笑顔を向ける。
「家に帰るわ。あなたもゆっくり休んでね」
白洛因は手をあげて石慧のためにタクシーを止めた。
「家に帰ったら薬を飲めよ」
白洛因が言い聞かせると石慧は笑って頷いた。
「明日の朝また来るわ」
白洛因は彼女が何を話しているのかまったく聞いていなかった。車が去った後、彼の目はあたりを見回す。あやしい人影はもう見えなかった。白洛因は自分に言い聞かせる。一晩中起きていたから精神状態が悪く、幻覚を見たのだろう。
そう思いながら路地に入り、家に向かって歩いて行った。
事件は次の日に起きた。
石慧は白洛因がデートの約束を忘れているかもしれないと、わざわざメッセージで知らせた。だが白洛因はまったくそのメッセージを見ておらず、精神の疲れと夕べの徹夜のせいであっという間に眠りにつき、そのまま朝まで起きなかった。
白洛因は電話の呼び出し音で目を覚ます。
「もしもし?」
携帯電話からは雑音と騒音しか聞こえない。だがその中に石慧の声が混ざっている。だがよく聞こえず、何度か呼びかけたが応えはない。白洛因は石慧が間違えて通話ボタンを押した可能性も考えたが、男の粗暴な声と罵る声が聞こえ、やがて通話は向こうから切られた。
その瞬間白洛因は完全に目が覚めた。
携帯電話のメッセージを見ると、石慧が最後に送ったのは朝7時だった。『もうあなたの家の胡同についたから、出てきて』
とある。さらに見ると、夕べも送られてきていて、今朝ここに来ると書いてある。時計を見ると、もう7時半だった。
石慧の番号に電話をかけたが、一向につながらない。
白洛因は昨日背後でこそこそつけ回していた人影を思い出した。素早く服を着て、顔も洗わずに外に飛び出す。
早朝は霧が濃く、人の姿も三メートル離れればまったく見えなくなる。白洛因は胡同を端から端まで歩き回ったが、石慧の姿は見つからなかった。少し焦りながら名前を呼ぶが返事もない。ぞっとして周囲を隅々まで捜し回っていると、ようやくかすかな叫び声が聞こえて来た。
声のするほうへ駆け寄るとすぐ近くに三人の人影が見えた。
目の前の光景に白洛因は全身の血が逆流する。石慧は壁の隅に押し倒され、髪は乱れ、着衣はほとんど残っていなかった。彼女の体には二人の覆面をした黒衣の男がのしかかり、猥褻な行為をしながら罵っている。石慧が抵抗すると、男は彼女の腹を蹴った。
白洛因は飛びかかり、狂ったように二人の男を殴りつける。その最中に彼は二人の男が自分にほとんど手を出してこないことに気づいた。彼らの目的は石慧で、白洛因がどんなに蹴っても声も上げずに堪え、それでも残虐な手を石慧に伸ばそうとする。
白洛因はそのうち一人の手を掴んで股間を蹴ろうとしたが相手は抵抗し、黒い上着で覆われていた袖が大きく破れ、その下から草色のシャツが見えた。
この素材でこの色のシャツは、軍人しか着ない。白洛因はふいに顧海が立ち去る前に自分に向けた表情を思い出す。
「俺がもし本当に残酷になったら、お前は一生恐怖に晒されることになる」
もしかしたら、目撃したものは必ずしも真実ではないかもしれない。
顧海は一晩考えた。彼がこの二十数時間を耐えるには、この説を選ぶよりほかなかった。彼は気づいた。猜疑心と裏切りの中でもがき苦しむより、信じることを選んだほうが、それも何も気づかないふりをするほうがマシだ。石慧一人がベッドに横たわり、白洛因は服をちゃんと着ていた。もしかしたらあの小娘は自分が来ることを知っていてわざとあんな小芝居をしたのかもしれない。あるいは白洛因はあのベッドに寝ていない可能性だってある。ベッドには二つ枕が並び、彼の髪の毛は明らかに寝ぐせの痕跡が残っていたとしても。そう思わないと顧海の負けだ。俺は絶対にこんなことは受け入れられない! だから顧海は決めた。白洛因のところへ行って、すべて腹を割って話し合おう。あの女に少しでも付け入るチャンスを与えてはいけない。あいつは白洛因に値しないし、自分もこのまま諦めるつもりはまったくなかった。
再度闘志を燃やしながら洗面所で顔を洗っていると、かすかにインターホンの音が聞こえた。顧海は手でざっと顔を拭い、玄関に向かう。
ドアの外にいたのは白洛因だった。
その瞬間、顧海の心は浮き立った。もし白洛因が自分から言い訳に来てくれたなら、自分も体面を保つことができる。
「誰が帰って来いって言った?」
顧海は冗談交じりに何事もなかったような顔をする。昨日出かける前とは雲泥の差だった。
ドアの外に立った時には白洛因はまだ顧海を疑いたくないと思っていたが、彼の感情はごまかしようもなくはっきり顔に出ていて、顧海を庇う理由が見つからなくなった。
「お前が手配した奴らだろう?」
顧海はぽかんとした。
「俺が誰を手配したって?」
白洛因は部屋に押し入り、顧海を壁際に押し付け、獰猛な眼光を放ちながら顧海の目の奥を直視した。
「お前が人に頼んで俺たちの後をつけさせたんだろう? お前が石慧に乱暴させたんだろう?」
「俺がいつそんなことをした?」
顧海も怒った。白洛因は無表情のまま言葉を続ける。
「顧海、それはいくらなんでもひどすぎるだろう」
石慧の放った「あなたは私に勝てない」という言葉の意味を顧海は猛然と悟った。
「顧海、お前はマジでまともじゃない。俺は本当に見識を改めさせられたよ」
顧海は大きな手で白洛因の首を強く掴み、静かに問いかける。
「お前は俺がやったと思ってるのか?」
白洛因は顧海と目を合わせようとはしなかった。
「もう一度聞くぞ。俺がやったと思ってるのか?」
顧海は吠える。白洛因は依然として答えなかった。顧海は白洛因の首を彼の顔色が青くなるまで激しく締め付け、白洛因の呼吸が途切れがちになっても、その屈強な眼差しはまったく動揺を見せなかった。
顧海の心は完全に冷めた。
「お前は仇を討ちに来たんだな。じゃあ早くやれよ。俺が反撃できないうちにさっさと彼女が受けた辱めの仇討ちをしろよ」
白洛因は身を固くしたまま動かなかった。
「このチャンスを逃すんだな? 言っておくが、俺は明日からお前を普通の人間と同じように扱う。俺を殴ったり罵ったりするなんて、夢物語だ。これまでお前の好きにさせていたのは俺が弱いからじゃなくて、俺がお前を愛していたからだ。だがもうお前は俺の愛に値しない。失せろよ」
顧海は淡々と告げた。白洛因の足は強張ったまま、ドアに向かう。その一歩一歩の足音が顧海の耳に悲痛に響いた。
「白洛因、覚えておけ。俺がお前に失せろと言ったんだ。今後俺たちは一切無関係だ! いつかお前が悔い改め泣いて土下座をしたってもう遅いからな!」
顧海は入念にパソコンの画面を見て住所を暗記し、笑顔で張副署長に告げる。
「ありがとう、張おじさん」
張副署長がその言葉に応える前に顧海は外に飛び出し、車で直接ホテルに向かった。
顧海がホテルにつくと、もう夜中の十二時を回っていた。彼はフロントで白洛因の部屋番号を確かめ、張副署長が調べた場所と一致したので安心して部屋に向かう。
インターホンを押したが、誰も出ない。石慧は寝ていて、白洛因はベランダにいて聞こえなかったのだ。
顧海はホテルの外から白洛因の部屋を眺め、すでに明かりが消えていることに気づいた。
きっともう寝てしまったのだろう。明日もう一度出直すか? 顧海は少しためらったが、やはりホテルの中に入った。明日の朝彼が気まぐれに居場所を変えてしまうかもしれない。
顧海は白洛因の部屋の前で蹲り、煙草を吸いながら夜が明けるまで待つつもりだった。
白洛因は煙草を吸い終え部屋に戻る。すると石慧が寒いと叫んでいる声がかすかに聞こえた。灯りをつけると石慧の肩と腕が布団の外に出ていて、艶やかな肌が薄明りの下でことさら白く滑らかに見える。胸の魅惑的な谷間もチラッとのぞき、布団を少し下へ滑らせれば男が大興奮するものが拝めるだろう。
白洛因は目を逸らしながら屈んでしっかり彼女を布団でくるみこむ。だが灯りを消すと石慧はまた寒いと叫び始めた。彼女は目が覚めているようでもあり、無意識のようでもあった。石慧の額に触るとたくさん寝汗をかいている。部屋を見回しても布団は一枚しかなかった。しばらく葛藤した末に彼はベッドに上がり、布団ごと彼女を抱き込んだ。
真夜中、石慧は目を開き、白洛因がすべての布団を自分にかけ、彼は何もかけずに横たわっていることに気づいた。自分の布団を白洛因にかけてあげようと思ったが、白洛因ががっちりと自分を抱き込んでいて、腕を出すことすらできない。
彼女の胸は感動でいっぱいになった。そして至近距離で白洛因のハンサムな寝顔を眺めているうちに我慢できなくなり、彼の薄い唇にそっと口づけ、満足して目を閉じる。
白洛因は眠ってはおらず、覚醒した状態のまま朝を迎えた。
石慧はまだ眠っていたが白洛因は腹が空き、下に行って朝食を食べてから彼女を起こそうと思った。
扉を開けた瞬間、白洛因はその場で凍りつく。廊下には吸い殻が散らばり、壁の隅に蹲っていた男がハッと目を覚ました。白洛因の前に立った顧海の顔色は悪く、無精ひげを生やしている。疲れてはいるようだったが、目には生気が宿っていた。
「目が覚めたか?」
白洛因は呆然と頷く。七日間ぶりだ。顧海は自分から白洛因と連絡を取ろうとはしなかったが、全身全霊で彼を求めていた。だから白洛因の姿を見た途端、自分を許してくれるかどうかも考えられなくなり、そのまま抱きしめる。
「家に帰ろう」
白洛因は何も答えなかった。身体は強張り、一晩中外にいた顧海よりも冷たかった。
「俺が荷物を片付けてやるよ」
すると白洛因は猛然と手を伸ばし、扉のところで阻む。顧海はやさしく笑い、白洛因の頬をつねった。
「まだ怒ってるのか? 俺が外で一晩待ってたことに免じて、笑ってくれよ」
白洛因は頭の中が真っ白になる。顧海は白洛因の様子がおかしいことに気づいていたが、まだ自分に腹を立てているのかと思っていた。部屋の中から声が聞こえてくるまでは。
「白洛因」
石慧は目を覚まし、白洛因の姿が見えずドアが開いているので思わず名を呼んだ。顧海は瞬時に顔色を変えて白洛因に目をやると、ドアを蹴破って中に入る。
石慧はベッドの上に座り、裸の胸を布団で無理に隠していたが、肩と腕は外に出し、さらに艶やかな背中も晒していた。ドアの外に別の人間がいるとわかると石慧の表情は明らかに動揺し、あわてて布団にもぐりこんでまた横になった。
顧海の視線は部屋の中からゆっくり白洛因の顔に移る。その顔は冷静すぎてぞっとするほどだった。
長い沈黙の後、顧海は冷たく言った。
「お前の居場所がやっとわかったのは夜中の十二時だ。ここに来た時にはもう灯りが消えていたから、俺は邪魔をしないようにずっと外で待っていたんだ」
白洛因はようやく口を開いたが、声には力がなかった。
「どうしてインターホンを押さなかった?」
「起こしたら悪いと思ったんだ」
「じゃあ家に帰って待てばよかったじゃないか」
「朝になったらお前がいなくなってるのが怖かったから」
白洛因は黙り込む。顧海は踵を返して立ち去ろうとし、白洛因は大股で追いかけ、彼の腕を掴んで引き留める。顧海は振り返ったが、その目は暗く光っていた。
「白洛因、このまま俺を行かせろよ。お前を罵ったり殴ったりしたくないんだ。もし俺にひどい目に遭わされたくないなら手を放してくれ」
腕から手を放したその瞬間、白洛因の世界は色を失った。
部屋に戻ると、石慧はもう身支度を済ませてベッドに座り、白洛因を待っていた。白洛因が戻ると彼女は思わず問いかける。
「さっき来たのは顧海?」
白洛因は頷き、スーツケースを持って外に出た。石慧も後から続いた。彼女は白洛因の情緒がとても乱れていることは感じ取っていたし、その原因が顧海だということも確信していた。そして何があったのかも薄々わかっていた。
ホテルを出ると白洛因は石慧に告げる。
「タクシーで家に戻ってくれ」
「もう少し一緒に歩かない?」
石慧は白洛因に同意を求めた。
白洛因はなんの異論もなかった。正確に言えば、石慧が側にいてもいなくてもどうでもよかった。石慧は白洛因が何も言わないので黙認したのだと思い、気分よく彼に寄り添った。
二人は黙ったまま歩いた。気まずい空気を打ち破ろうと、石慧は探りを入れる。
「顧海は私のことが嫌いなのかしら?」
白洛因は淡々と答えた。
「いや、単に俺が気に入らないだけだろう」
石慧はため息をつく。
「あなたたち男の子同士の付き合いはわからないけど、お互いに譲り合うべきじゃないかしら。どんな誤解も解決できるわ。あなたはなんでも心の内に溜めこみすぎるのよ。心を開けば、今よりきっとたくさんのものが得られるわ」
白洛因は石慧の話をまったく聞いていなかった。彼の気持ちはとても静かで、わずかな喧噪の音すら耳に届くほどだった。
ハッと振り向くと、草色の人影が二つ路地に消えた。
「どうしたの?」
石慧は尋ねる。白洛因は淡々と答えた。
「なんでもないよ」
路地の入り口に辿り着くまでずっと、後ろから聞こえる異様な足音が耳に残っていた。
石慧は立ち止まり、笑顔を向ける。
「家に帰るわ。あなたもゆっくり休んでね」
白洛因は手をあげて石慧のためにタクシーを止めた。
「家に帰ったら薬を飲めよ」
白洛因が言い聞かせると石慧は笑って頷いた。
「明日の朝また来るわ」
白洛因は彼女が何を話しているのかまったく聞いていなかった。車が去った後、彼の目はあたりを見回す。あやしい人影はもう見えなかった。白洛因は自分に言い聞かせる。一晩中起きていたから精神状態が悪く、幻覚を見たのだろう。
そう思いながら路地に入り、家に向かって歩いて行った。
事件は次の日に起きた。
石慧は白洛因がデートの約束を忘れているかもしれないと、わざわざメッセージで知らせた。だが白洛因はまったくそのメッセージを見ておらず、精神の疲れと夕べの徹夜のせいであっという間に眠りにつき、そのまま朝まで起きなかった。
白洛因は電話の呼び出し音で目を覚ます。
「もしもし?」
携帯電話からは雑音と騒音しか聞こえない。だがその中に石慧の声が混ざっている。だがよく聞こえず、何度か呼びかけたが応えはない。白洛因は石慧が間違えて通話ボタンを押した可能性も考えたが、男の粗暴な声と罵る声が聞こえ、やがて通話は向こうから切られた。
その瞬間白洛因は完全に目が覚めた。
携帯電話のメッセージを見ると、石慧が最後に送ったのは朝7時だった。『もうあなたの家の胡同についたから、出てきて』
とある。さらに見ると、夕べも送られてきていて、今朝ここに来ると書いてある。時計を見ると、もう7時半だった。
石慧の番号に電話をかけたが、一向につながらない。
白洛因は昨日背後でこそこそつけ回していた人影を思い出した。素早く服を着て、顔も洗わずに外に飛び出す。
早朝は霧が濃く、人の姿も三メートル離れればまったく見えなくなる。白洛因は胡同を端から端まで歩き回ったが、石慧の姿は見つからなかった。少し焦りながら名前を呼ぶが返事もない。ぞっとして周囲を隅々まで捜し回っていると、ようやくかすかな叫び声が聞こえて来た。
声のするほうへ駆け寄るとすぐ近くに三人の人影が見えた。
目の前の光景に白洛因は全身の血が逆流する。石慧は壁の隅に押し倒され、髪は乱れ、着衣はほとんど残っていなかった。彼女の体には二人の覆面をした黒衣の男がのしかかり、猥褻な行為をしながら罵っている。石慧が抵抗すると、男は彼女の腹を蹴った。
白洛因は飛びかかり、狂ったように二人の男を殴りつける。その最中に彼は二人の男が自分にほとんど手を出してこないことに気づいた。彼らの目的は石慧で、白洛因がどんなに蹴っても声も上げずに堪え、それでも残虐な手を石慧に伸ばそうとする。
白洛因はそのうち一人の手を掴んで股間を蹴ろうとしたが相手は抵抗し、黒い上着で覆われていた袖が大きく破れ、その下から草色のシャツが見えた。
この素材でこの色のシャツは、軍人しか着ない。白洛因はふいに顧海が立ち去る前に自分に向けた表情を思い出す。
「俺がもし本当に残酷になったら、お前は一生恐怖に晒されることになる」
もしかしたら、目撃したものは必ずしも真実ではないかもしれない。
顧海は一晩考えた。彼がこの二十数時間を耐えるには、この説を選ぶよりほかなかった。彼は気づいた。猜疑心と裏切りの中でもがき苦しむより、信じることを選んだほうが、それも何も気づかないふりをするほうがマシだ。石慧一人がベッドに横たわり、白洛因は服をちゃんと着ていた。もしかしたらあの小娘は自分が来ることを知っていてわざとあんな小芝居をしたのかもしれない。あるいは白洛因はあのベッドに寝ていない可能性だってある。ベッドには二つ枕が並び、彼の髪の毛は明らかに寝ぐせの痕跡が残っていたとしても。そう思わないと顧海の負けだ。俺は絶対にこんなことは受け入れられない! だから顧海は決めた。白洛因のところへ行って、すべて腹を割って話し合おう。あの女に少しでも付け入るチャンスを与えてはいけない。あいつは白洛因に値しないし、自分もこのまま諦めるつもりはまったくなかった。
再度闘志を燃やしながら洗面所で顔を洗っていると、かすかにインターホンの音が聞こえた。顧海は手でざっと顔を拭い、玄関に向かう。
ドアの外にいたのは白洛因だった。
その瞬間、顧海の心は浮き立った。もし白洛因が自分から言い訳に来てくれたなら、自分も体面を保つことができる。
「誰が帰って来いって言った?」
顧海は冗談交じりに何事もなかったような顔をする。昨日出かける前とは雲泥の差だった。
ドアの外に立った時には白洛因はまだ顧海を疑いたくないと思っていたが、彼の感情はごまかしようもなくはっきり顔に出ていて、顧海を庇う理由が見つからなくなった。
「お前が手配した奴らだろう?」
顧海はぽかんとした。
「俺が誰を手配したって?」
白洛因は部屋に押し入り、顧海を壁際に押し付け、獰猛な眼光を放ちながら顧海の目の奥を直視した。
「お前が人に頼んで俺たちの後をつけさせたんだろう? お前が石慧に乱暴させたんだろう?」
「俺がいつそんなことをした?」
顧海も怒った。白洛因は無表情のまま言葉を続ける。
「顧海、それはいくらなんでもひどすぎるだろう」
石慧の放った「あなたは私に勝てない」という言葉の意味を顧海は猛然と悟った。
「顧海、お前はマジでまともじゃない。俺は本当に見識を改めさせられたよ」
顧海は大きな手で白洛因の首を強く掴み、静かに問いかける。
「お前は俺がやったと思ってるのか?」
白洛因は顧海と目を合わせようとはしなかった。
「もう一度聞くぞ。俺がやったと思ってるのか?」
顧海は吠える。白洛因は依然として答えなかった。顧海は白洛因の首を彼の顔色が青くなるまで激しく締め付け、白洛因の呼吸が途切れがちになっても、その屈強な眼差しはまったく動揺を見せなかった。
顧海の心は完全に冷めた。
「お前は仇を討ちに来たんだな。じゃあ早くやれよ。俺が反撃できないうちにさっさと彼女が受けた辱めの仇討ちをしろよ」
白洛因は身を固くしたまま動かなかった。
「このチャンスを逃すんだな? 言っておくが、俺は明日からお前を普通の人間と同じように扱う。俺を殴ったり罵ったりするなんて、夢物語だ。これまでお前の好きにさせていたのは俺が弱いからじゃなくて、俺がお前を愛していたからだ。だがもうお前は俺の愛に値しない。失せろよ」
顧海は淡々と告げた。白洛因の足は強張ったまま、ドアに向かう。その一歩一歩の足音が顧海の耳に悲痛に響いた。
「白洛因、覚えておけ。俺がお前に失せろと言ったんだ。今後俺たちは一切無関係だ! いつかお前が悔い改め泣いて土下座をしたってもう遅いからな!」
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月城雪華
BL
高校一年の夏、龍冴(りょうが)は二つ上の先輩である椰一(やいち)と付き合った。
けれど、告白してくれたにしては制限があまりに多過ぎると思っていた。
ぼんやりとした不信感を抱いていたある日、見知らぬ相手と椰一がキスをしている場面を目撃してしまう。
けれど友人らと話しているうちに、心のどこかで『椰一はずっと前から裏切っていた』と理解していた。
それでも悲しさで熱い雫が溢れてきて、ひと気のない物陰に座り込んで泣いていると、ふと目の前に影が差す。
「大丈夫か?」
涙に濡れた瞳で見上げると、月曜日の朝──その数日前にも件の二人を見掛け、書籍を落としたのだがわざわざ教室まで届けてくれたのだ──にも会った、一学年上の大和(やまと)という男だった。
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