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第6章
蝕まれる幸福
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恵まれた環境下に生まれた、と思う。
少なくとも裕璃の物心が付いた頃は、料理が得意で笑顔が似合うと評判の母と、仕事熱心で穏やかな父がずっと傍にいてくれた。
裕璃は、一般家庭の工藤家の一人娘として生まれ育った。専業主婦の母は家事の合間に裕璃と遊んでくれて、たまにお菓子作りなんかもした。
父も仕事が休みの日にはよく裕璃と一緒にいてくれたし、家族三人で出かけることもしばしばあった。
特別裕福な訳ではないが、ときたま小さな贅沢をできるほどには余裕がある、ごく普通の家庭だった。
優しい雰囲気をしたこの家族は、世間から見れば理想のようなものだった。
いつからだったのだろう。
はっきりとした時期は不明だが、裕璃が小学校に入学して少し経ったくらいだった気がする。
いつも朗らかに笑っていた父から笑顔が消えた。なんというか、明らかに憔悴したような顔でいることが増えた。
裕璃が話しかけても「あぁ」「うん」と適当な返事をすることが多くなり、時折ぼんやりと遠くを眺め、深いため息をつくようになった。
裕璃と母はそんな様子の父を心配し、精一杯労った。一緒にクッキーを作って渡すと弱々しいものの笑みを浮かべてお礼を言ってくれたし、「大丈夫?」と声をかけると大丈夫だと言っていたので、この時はこのまま時間が過ぎれば解決できるものだと思っていた。
ある日の夜、裕璃は喉が乾いて目を覚まし、水を飲もうと起き上がってキッチンに向かった。
すると、リビングから両親の沈んだ話し声が聞こえたので無意識に壁の陰に隠れて耳をすました。
「だから、仕事だから仕方ないって言っているだろう?俺が耐えれば今まで通りなんだからほうっておいてくれよ」
「そんなわけにはいかないわ。貴方、ここのところずっとこんな感じじゃない。沈んでばかりいると、健康を害するわよ?」
どうやら父の不調について話し合っているようだった。
顔を出しづらいな…と思いつつ、そのまま聞き耳を立てていると、父の大きなため息が聞こえた。
「そんなことを言ってもどうしようもないだろう!?大体、直属の上司が変わっただけでそれ以外は今までと同じなんだ。このくらいの程度でごちゃごちゃ言ってられないんだよ!!」
「…でも!私だって弱り果てた貴方をずっと見ているだけだなんてできない!」
沈黙が訪れる。先に口を開いたのは母だった。
「………ねぇ」
「何だ」
「転職…っていう考えはない?」
瞬間。裕璃は場が凍るというものを初めて体感した。
背中をかけるぞくりとした感覚に身を震わせ、恐る恐るリビングの中を覗き込むと、そこには普段の様子から一切想像できないような、怒気を帯びた父親がいた。
「…おい、今なんて言った?」
「だ、だから、転職はどうかって言ったの!貴方の話を聞く限りでは、それは完全にパワハラよ!!解決しようにも、話を聞く他の上司もそんな感じじゃあ一向に改善しないと思うわ。それなら今からでも新しい職場を探してはどうかと思ったの。裕璃も学校に行き始めたし、私もパートを探しているから何とかできるんじゃないかしら?」
「うるさい!!俺がどれだけ苦労して今の会社に勤めているか知っているくせに!!まともな職場がどれだけ少ないかお前だって分かっているだろう!?そう簡単に転職なんて口にするんじゃねえ!!」
「でも!今の貴方の環境はとても良いとは言えないわ。この年齢なら何とかなるわ。貴方が心配だから言っているのよ」
「黙れ!!!」
裕璃はこれでもかというほど目を見開いた。父が、母を殴ったのだ。仲の良い両親のこんな様子を見るのは初めてだった。
目の前の現実を受け止めきれず、かと言って自分が仲裁に入ることもできない裕璃は足音を立てないように気をつけつつも、全速力で自分の寝床に戻った。
(夢だ、これは絶対に夢だ。お父さんがお母さんを殴った?そんな訳ないじゃん。)
そう言い聞かせたが、冷えた足先と脳裏に浮かぶたった今見た光景が、現実であることを突きつけてくる。
裕璃は布団にくるまったまま、眠れない夜を過ごした。
少なくとも裕璃の物心が付いた頃は、料理が得意で笑顔が似合うと評判の母と、仕事熱心で穏やかな父がずっと傍にいてくれた。
裕璃は、一般家庭の工藤家の一人娘として生まれ育った。専業主婦の母は家事の合間に裕璃と遊んでくれて、たまにお菓子作りなんかもした。
父も仕事が休みの日にはよく裕璃と一緒にいてくれたし、家族三人で出かけることもしばしばあった。
特別裕福な訳ではないが、ときたま小さな贅沢をできるほどには余裕がある、ごく普通の家庭だった。
優しい雰囲気をしたこの家族は、世間から見れば理想のようなものだった。
いつからだったのだろう。
はっきりとした時期は不明だが、裕璃が小学校に入学して少し経ったくらいだった気がする。
いつも朗らかに笑っていた父から笑顔が消えた。なんというか、明らかに憔悴したような顔でいることが増えた。
裕璃が話しかけても「あぁ」「うん」と適当な返事をすることが多くなり、時折ぼんやりと遠くを眺め、深いため息をつくようになった。
裕璃と母はそんな様子の父を心配し、精一杯労った。一緒にクッキーを作って渡すと弱々しいものの笑みを浮かべてお礼を言ってくれたし、「大丈夫?」と声をかけると大丈夫だと言っていたので、この時はこのまま時間が過ぎれば解決できるものだと思っていた。
ある日の夜、裕璃は喉が乾いて目を覚まし、水を飲もうと起き上がってキッチンに向かった。
すると、リビングから両親の沈んだ話し声が聞こえたので無意識に壁の陰に隠れて耳をすました。
「だから、仕事だから仕方ないって言っているだろう?俺が耐えれば今まで通りなんだからほうっておいてくれよ」
「そんなわけにはいかないわ。貴方、ここのところずっとこんな感じじゃない。沈んでばかりいると、健康を害するわよ?」
どうやら父の不調について話し合っているようだった。
顔を出しづらいな…と思いつつ、そのまま聞き耳を立てていると、父の大きなため息が聞こえた。
「そんなことを言ってもどうしようもないだろう!?大体、直属の上司が変わっただけでそれ以外は今までと同じなんだ。このくらいの程度でごちゃごちゃ言ってられないんだよ!!」
「…でも!私だって弱り果てた貴方をずっと見ているだけだなんてできない!」
沈黙が訪れる。先に口を開いたのは母だった。
「………ねぇ」
「何だ」
「転職…っていう考えはない?」
瞬間。裕璃は場が凍るというものを初めて体感した。
背中をかけるぞくりとした感覚に身を震わせ、恐る恐るリビングの中を覗き込むと、そこには普段の様子から一切想像できないような、怒気を帯びた父親がいた。
「…おい、今なんて言った?」
「だ、だから、転職はどうかって言ったの!貴方の話を聞く限りでは、それは完全にパワハラよ!!解決しようにも、話を聞く他の上司もそんな感じじゃあ一向に改善しないと思うわ。それなら今からでも新しい職場を探してはどうかと思ったの。裕璃も学校に行き始めたし、私もパートを探しているから何とかできるんじゃないかしら?」
「うるさい!!俺がどれだけ苦労して今の会社に勤めているか知っているくせに!!まともな職場がどれだけ少ないかお前だって分かっているだろう!?そう簡単に転職なんて口にするんじゃねえ!!」
「でも!今の貴方の環境はとても良いとは言えないわ。この年齢なら何とかなるわ。貴方が心配だから言っているのよ」
「黙れ!!!」
裕璃はこれでもかというほど目を見開いた。父が、母を殴ったのだ。仲の良い両親のこんな様子を見るのは初めてだった。
目の前の現実を受け止めきれず、かと言って自分が仲裁に入ることもできない裕璃は足音を立てないように気をつけつつも、全速力で自分の寝床に戻った。
(夢だ、これは絶対に夢だ。お父さんがお母さんを殴った?そんな訳ないじゃん。)
そう言い聞かせたが、冷えた足先と脳裏に浮かぶたった今見た光景が、現実であることを突きつけてくる。
裕璃は布団にくるまったまま、眠れない夜を過ごした。
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