彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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番外編 姫との夏休み

第3楽章③

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「お疲れさまです、素敵でした」

 一樹が小さくテノールに声をかけると、次の40代のソプラノが舞台に出て行き、拍手が鳴る。うっすら額に汗を浮かべたテノールは、心底ほっとした声で言った。

「ありがとう、ほとんど満席だったよ」
「まあガラガラよりはいいですよね」
「舞台のライト結構強いから、印がついてるとこに立ったらちょっと眩しいかも」

 舞台の情報を得ておくのは大切だ。一樹は彼に礼を述べた。もはや、客席にどれだけ人がいようが関係無い。聞いてもらいたい人に、心をこめて歌うだけだ。
 ソプラノが高い音に駆け上がり、アリアを盛り上げて、派手な後奏が音楽を締めくくった。淡い目のオレンジブロッサムにオークモスがブレンドされたような、上品で控えめな甘い香りが、一樹の嗅覚をくすぐる。
 この間、同じ歌を同級生が試験で歌ったが、やはりパワーと技術のレベルが違った。これがアマチュアとプロを目指す者との差なのかと感じるのだが、苦難の末に恋人と結ばれる喜びをどちらが良く表現していたかと問われたら、胸に手を当ててやや前かがみで袖に入ってきた、若くないソプラノだと一樹は答えるだろう。彼女はこの音楽教室の中で、「香る」声を持つ数少ない歌い手だ。

「あぁ、歌詞間違えたし最高音割れちゃったぁ」
「大丈夫、今までで一番カッコよかったよ~」

 先生に肩を叩かれて、ソプラノははい、と笑う。スタンバイする一樹のほうを見て、頑張れ、と手を挙げた。

「1年ですっごい伸びたよね、リハでどこの名バリトンが歌ってるのかと思った」
「もう、おだてても何も出ませんよ」

 咄嗟に笑いながら返すと、深田くんどうぞ、と声をかけられた。全く、歌い手は皆フレンドリー過ぎる。おかげで、さっきまでもう出たくないと思っていたことを忘れた。
 ソプラノの声の香りに、想定外に緊張が和らいだのを一樹は感じた。ひとつ深呼吸して、ゆっくりと明るい場所に足を踏み出す。仄かに明るい会場は、確かにほぼ満席だ。
 ピアノの傍らにつけられた立ち位置の印より少し前に立つと、ライトが目に入らなかった。場所を決め、観客に向かって一礼すると拍手が起こる。ちらっと見たところ、前3列くらいまでの席には片山の姿は無いが、後方で聴いてくれているのだろう。1曲目の前奏が静かに始まり、一樹はばくばくする心臓を押さえつけながら、身体に息を入れた。



 プログラムの全てを終え、後半の部の出演者と伴奏者、そして指導者が全員登場し並んで一礼すると、会場が大きな温かい拍手に包まれた。一樹は、自分史上一番の大曲を、何とかミスなく歌いきってほっとしていた。客席が明るくなり、舞台上ではそのまま記念写真の撮影が始まる。
 人数も多くないので、前半のピアノのお子様たちと違いあっという間に並び順が決まったが、まだ人が残っている客席を見て一樹は驚いた。前の大学の混声合唱団の同期が4人、こっちに向かって手を振っている。その少し左手に、片山の姿が見えた。
 撮影が終わると、前半の部の出演者に用意されていたのと同じ鉢植えが配られた。女性たちは並んだ花を選んでいるが、一樹は残ったもので良かったので、客席に向かった。片山に先に挨拶をしたいのに、合唱団の同期に囲まれてしまう。

「ふかだんお疲れ、おまえほんとに芸大通ってるんだな……」
「かっこよかったぁ、声量倍増したな」
「食え、ふかだんの好物だ」

 手渡されたのは、神戸に本店があるケーキ店の看板商品である、リング型のバターケーキだった。混声合唱団の定期演奏会でOBからバスパートに差し入れされ、分けるのが難しく一樹がほとんど食べてしまったので、以来一樹の好物ということになっていた(普通に好きだが、やや誤解されている)。

「ありがとう、来てくれたのも嬉しい」

 一樹は紙袋を受け取り、全員の顔を見ながら言った。こぞって来てくれるとは思わなかったし、卒業式以来初めて会う者もいて、ちょっと泣きそうになってしまう。
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