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番外編 姫との夏休み
第3楽章④
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「これから打ち上げとかあるんだよな、近いうちに都内で飲もうぜ」
「うん、ほんとにありがとう、気をつけて帰れよ」
4人は一樹に向かって手を振りながら、わらわらと会場から出て行った。タイミングを見計らっていたのだろう、片山がこちらに来る。一樹は自分から彼に声をかけた。
「遠いし暑いのにありがとう、しかも最初から……」
片山はいえいえ、面白かった、と言いながら、北海道の菓子店の紙袋を差し出してきた。一樹はすみません、とつい頭を下げてしまう。同い年でも、彼は歌い手としては大先輩だからだ。
「……ふかだん」
片山は呟いて、ぷっと笑った。いや、まあ、と一樹は一気に恥ずかしくなる。
「俺もこれから深田さんのことそう呼ぶ」
「あっ、それは……うん、それでいいです」
同いだから敬語はやめようと言いつつ、そんなに話す機会が無いこともあり、片山は一樹を深田さんと呼び、一樹は彼に対して敬語混じりである。
片山はにこにこしながら言う。
「7月にプログラム渡された時、ふかだんシューマン歌わないんだと思ってちょっとがっかりしたんだけど、フィガロが良くて納得した」
言われた一樹はどきっとして、嬉しくなり照れた。
「あ、そうだった? 良かった……」
「慣れない戦場に行くことになったケルビーノを、実はフィガロはちょっと心配してるのかなって」
片山の言葉に、一樹は軽く驚いた。そこまで確たる解釈を持って歌った訳ではないが、半分罰される形で戦地に出される若い男の子を、ただいじめるようなフィガロにしたくないと思っていた。そんな何かが通じたのだろうか。
「ふかだんはそういう人なんだろうってわかった気がした」
言ってから片山は、自分の斜め後ろで家族と話すベテランバリトンにちらっと目をやる。
「あの人のジェルモン、息子を心配する父親感めっちゃ良かった、ふかだんの前のソプラノも良かったし……歌はほんとに亀の甲より年の劫だってあらためて思ったよ」
一樹は何故かそれを聞いて、自分が褒められたかのように嬉しくなった。
「ジェルモンさんは70半ばなんだけど合唱団でもずっと歌ってるんだよ、去年も奥さんと、お嬢さんがお孫さん連れて観に来てた」
「へぇ、ご家族が応援してるっていいなぁ……俺そんなに長く歌えるかな」
「うん、お互い長く歌おう」
一緒に笑いあったその時、先生が一樹を呼んだ。
「深田くん、お花貰って着替えてね……今年は沢山お友達呼んだんだ」
「はい、前の大学の同期と、こちらは芸大の院生さんです」
一樹が答えると、先生はあら、と目を丸くした。片山はこんにちは、とぺこりと頭を下げる。先生のほうが恐縮するような口調になった。
「学芸会みたいでごめんなさい、お詫びじゃないんだけど、お花持って帰らない?」
片山は一樹と先生を見比べた。先生は両手に、鉢植えの入ったナイロン袋を提げている。
「今日出られなくなった子の分なの、次レッスンにいつ来るかわからないから……」
一樹はとりあえず、先生から2つの鉢植えを受け取った。片山は軽く困惑していたが、ではいただきます、ありがとうございます、と答える。こういう場面に慣れている感じがした。
「ごめん、荷物になるから要らなかったら俺持って帰るよ」
こそっと一樹は言ったが、片山は袋の中を覗きこみ、きれいだな、と呟く。彼は黄色いガーベラの鉢を一樹の左手から受け取った。もう一つの鉢には色違いの、ピンクの花が咲いていた。
「ガーベラってそんなに育てるの難しくないって聞いたことあるから、頑張って世話してみる」
片山は笑顔で言って、花にそっと顔を近づける。
「匂いはしないんだな、ミミもガーベラを作ったら匂いがしないって嘆かなくてもいいな」
「……そうだね」
これから一樹は出演者有志と、先生とピアニストを交えた打ち上げに出る予定だった。片山ともっと話したいが、いつまでもこうしてはいられない。彼もそれをわかっているのだろう、じゃあまたあらためて、と微笑した。
「今日はありがとう」
それは遠くまで来てもらったこちらの台詞なのに、片山はそう言った。彼は先生にも会釈してから、軽やかな足取りでホールを出て行った。
一樹は袋の中のガーベラを覗いて、片山とお揃いだと思い、勝手にくすぐったくなった。俺も大切に育てよう。そう考えながら、楽屋への通路に向かう。客が完全に引いたらしいホールからは、がちゃがちゃと椅子を畳む音が聞こえていた。
「うん、ほんとにありがとう、気をつけて帰れよ」
4人は一樹に向かって手を振りながら、わらわらと会場から出て行った。タイミングを見計らっていたのだろう、片山がこちらに来る。一樹は自分から彼に声をかけた。
「遠いし暑いのにありがとう、しかも最初から……」
片山はいえいえ、面白かった、と言いながら、北海道の菓子店の紙袋を差し出してきた。一樹はすみません、とつい頭を下げてしまう。同い年でも、彼は歌い手としては大先輩だからだ。
「……ふかだん」
片山は呟いて、ぷっと笑った。いや、まあ、と一樹は一気に恥ずかしくなる。
「俺もこれから深田さんのことそう呼ぶ」
「あっ、それは……うん、それでいいです」
同いだから敬語はやめようと言いつつ、そんなに話す機会が無いこともあり、片山は一樹を深田さんと呼び、一樹は彼に対して敬語混じりである。
片山はにこにこしながら言う。
「7月にプログラム渡された時、ふかだんシューマン歌わないんだと思ってちょっとがっかりしたんだけど、フィガロが良くて納得した」
言われた一樹はどきっとして、嬉しくなり照れた。
「あ、そうだった? 良かった……」
「慣れない戦場に行くことになったケルビーノを、実はフィガロはちょっと心配してるのかなって」
片山の言葉に、一樹は軽く驚いた。そこまで確たる解釈を持って歌った訳ではないが、半分罰される形で戦地に出される若い男の子を、ただいじめるようなフィガロにしたくないと思っていた。そんな何かが通じたのだろうか。
「ふかだんはそういう人なんだろうってわかった気がした」
言ってから片山は、自分の斜め後ろで家族と話すベテランバリトンにちらっと目をやる。
「あの人のジェルモン、息子を心配する父親感めっちゃ良かった、ふかだんの前のソプラノも良かったし……歌はほんとに亀の甲より年の劫だってあらためて思ったよ」
一樹は何故かそれを聞いて、自分が褒められたかのように嬉しくなった。
「ジェルモンさんは70半ばなんだけど合唱団でもずっと歌ってるんだよ、去年も奥さんと、お嬢さんがお孫さん連れて観に来てた」
「へぇ、ご家族が応援してるっていいなぁ……俺そんなに長く歌えるかな」
「うん、お互い長く歌おう」
一緒に笑いあったその時、先生が一樹を呼んだ。
「深田くん、お花貰って着替えてね……今年は沢山お友達呼んだんだ」
「はい、前の大学の同期と、こちらは芸大の院生さんです」
一樹が答えると、先生はあら、と目を丸くした。片山はこんにちは、とぺこりと頭を下げる。先生のほうが恐縮するような口調になった。
「学芸会みたいでごめんなさい、お詫びじゃないんだけど、お花持って帰らない?」
片山は一樹と先生を見比べた。先生は両手に、鉢植えの入ったナイロン袋を提げている。
「今日出られなくなった子の分なの、次レッスンにいつ来るかわからないから……」
一樹はとりあえず、先生から2つの鉢植えを受け取った。片山は軽く困惑していたが、ではいただきます、ありがとうございます、と答える。こういう場面に慣れている感じがした。
「ごめん、荷物になるから要らなかったら俺持って帰るよ」
こそっと一樹は言ったが、片山は袋の中を覗きこみ、きれいだな、と呟く。彼は黄色いガーベラの鉢を一樹の左手から受け取った。もう一つの鉢には色違いの、ピンクの花が咲いていた。
「ガーベラってそんなに育てるの難しくないって聞いたことあるから、頑張って世話してみる」
片山は笑顔で言って、花にそっと顔を近づける。
「匂いはしないんだな、ミミもガーベラを作ったら匂いがしないって嘆かなくてもいいな」
「……そうだね」
これから一樹は出演者有志と、先生とピアニストを交えた打ち上げに出る予定だった。片山ともっと話したいが、いつまでもこうしてはいられない。彼もそれをわかっているのだろう、じゃあまたあらためて、と微笑した。
「今日はありがとう」
それは遠くまで来てもらったこちらの台詞なのに、片山はそう言った。彼は先生にも会釈してから、軽やかな足取りでホールを出て行った。
一樹は袋の中のガーベラを覗いて、片山とお揃いだと思い、勝手にくすぐったくなった。俺も大切に育てよう。そう考えながら、楽屋への通路に向かう。客が完全に引いたらしいホールからは、がちゃがちゃと椅子を畳む音が聞こえていた。
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