彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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番外編 姫との夏休み

第3楽章②

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 テノールが楽屋に戻ってきたので、入れ替わりに一樹が舞台袖に向かった。暗く静かな場所には、独特の緊張感が漂っている。本番前に1人5分ほど、舞台の上で立ち位置を確認し、声を出すことができる。一樹は明るい中に出てピアニストに一礼し、直ぐに歌曲を1番だけさらりと流して、まだ仕上がっているとは言えないアリアの、調子が変わる箇所をピックアップして歌った。

「『何とまさか、軍人の中に混じるとは!』」
「深田くん、そんな怖い顔で歌わないで~」

 客席の最後列に座る先生から声が飛んだ。その場にいるのは、これから出演する人間ばかりだが、それでも緊張はする。歌詞が多いので、飛びそうだと思った瞬間、舌がもつれた。

「そんなに力んで喋らない、そこは口の先だけの発音で届くよ~」

 すぐにできるなら苦労はしないと、歌いながら一樹は思う。今日観に来るバリトンなら、これくらい何ともないのだろうけれど。彼、片山三喜雄は、言葉の発音は何語でもきれいだという噂だ。普段どちらかというと緩い話し方をする彼だが、言葉が多くテンポの速い曲でも、それは変わらないらしい。彼の口の中はどうなっているのだろう。
 前期の最後の試験の後に杉本教授から、片山が「フィガロの結婚」の1幕冒頭部分を試験で歌ったと聞かされ、発表会で歌う曲を同じフィガロのアリアにしなければよかったと咄嗟に思った。この歌だって、あの人が歌ったほうが絶対に良いに決まっている……。
 やや集中力を欠いたままリハーサルを終えてしまった一樹は、そっと溜め息をつきながら楽屋に戻った。まあ試験じゃないし、と自分を慰めようとしたが、焦燥感は拭えない。
 出演者が一人、体調を崩して出られなくなったという情報が入ったので、一樹は片山にメッセージを送ることにした。一樹の出番は9番目だが、ひとつ繰り上がるので10分ほど早くなると言っておかなくてはいけない。
 片山の返事は早かった。

「どうもありがとう。後半の部の開始に間に合うように出たので、問題ありません。予想通り北千住駅で迷いそうになったw」

 一樹は数々の申し訳なさでもうひとつ溜め息をついた。こんなアマチュアの小さな発表会を、最初から見ようだなんて。しかも片山は、おそらく今車内なのだろうが、つくばエクスプレスに乗るのは初めてなのだ。
 すると続けてメッセージが現れた。

「生真面目な深田フィガロがケルビーノをどうからかうのか、楽しみにしています(*^^*)/」

 うわ、と声が出そうになった。俺に軽くプレッシャーかけてるなんて、思いもしないだろうなぁ、片山さん。そう感じる反面、本番前の言葉は純粋に嬉しかった。

「言葉を間違いそうでヤバい感じです」

 つい一樹は不安を告白してしまう。返事はまた直ぐにやってきた。

「歌詞はしくじっても誰もわかりません。点数をつけられない本番だから、楽しんでください♡」

 確かに、片山の言う通りだった。一樹の口許のこわばりが勝手に解け、肩から力が抜けた。



 15時になり、後半の大人の部が始まった。100ほど用意した椅子が3分の2ほど埋まっているという情報が楽屋にもたらされると、着替えた3人の男性歌手は、ほう、と一様に声をあげた。
 前の大学の混声合唱団で歌っていた時は、比較的大きなホールを使うことが多かったため、舞台にライトが入ると、客席が暗く沈んであまりよく見えなかった。しかしこのサロンタイプのホールは、舞台が段上がりになっていないので、客席が近く客の顔も良く見える。客数が少なくても、緊張感は十分高まるのだ。個人指導を受け始めて発表会に初めて出た時、つまり昨年は、ピアノの前に立った瞬間、客の近さに頭が真っ白になった。最初の音が僅かに出遅れ、途中でテンポが走るという散々な出来だったが、あの経験が無ければ、目の前で試験官が自分だけに視線を注ぐ、受験の実技試験に耐えられなかっただろう。
 3番前になれば舞台袖に向かうという段取りに従い、一樹は水と楽譜を持って楽屋を出る。ちょうどテノールが名前をアナウンスされ、舞台に出るところだった。昨年より演者に送られる拍手が大きいので、一樹は軽く驚いた。
 人の歌を袖で聴くのは、心臓がどきどきするばかりであまり楽しめない。テノールはやや高音が危なっかしかったが、歌曲とアリアの2曲を丁寧に歌いきり、拍手を浴びて袖に戻ってきた。彼が笑顔を見せるのを見て、羨ましくなる。もうこんなこと、早く終わればいいのに……。
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