レターレ・カンターレ

穂祥 舞

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1-①

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「やあ。きみは、星がいっぱいでしずかで、さびしいくらいだと、コドクがすきでも、だれかとお茶を飲みたくなる、いるかなの? 飲みましょう、いっしょに。ぼくは、きみと同じきもちのくじらです。……飲むのはビールでもいいけどね」
 そこでふたりは、まずはじめに、いるかのところへいってお茶を飲み、つぎに、くじらのところへいってビールを飲むことにした。

工藤直子『ともだちは海のにおい』「ふたりが であった」より



 三喜雄みきおは大学の敷地内のベンチに座って楽譜を広げていた。目の前に広がる芝生の匂いが心地良い。まだ少し暑いとはいえ、暴力的な夏の日射しはかなり緩んだ気がする。自分の故郷ならば、ここで一気に寒くなるところだが、東京は季節の移ろいが少し緩やかだ。
 三喜雄がこの大学の大学院に通い始めて約半年である。北海道の大学にいた頃と比べ、周囲のレベルが高いことや情報量が半端なく多いことにはだいぶ慣れたが、三喜雄の目は今、おたまじゃくしを半分ほど素通りしていた。3限目に、研究室に来るように言われているからだった。
 試験前でもないのに、音楽研究科声楽専攻を束ねる杉本すぎもと哥津彦かつひこ教授に呼び出されるなんて、ちょっと穏やかではない。杉本の伝言を持って来たのは、三喜雄と同じく声楽専攻で、歌曲コースを選択するメゾソプラノの坂東ばんどう美奈みなだった。

「時期も時期だしコンサートの話じゃないの?」

 いぶかる三喜雄に、美奈はカールした栗色の髪を揺らし、何でもないように言った。
 大学院生ともなると、先生がたの伝手でコンサートやオペラに助演する機会が出てくるようだが、優秀な美奈と違い、今のところ三喜雄にそんなお声がかかったことは無い。杉本と同じ声種のバリトンである三喜雄は、他の者よりも多少杉本から厳しい目で見られている自覚があり、まだまだ使えないと思われているに違いなかった。
 何の話だろうともやもやしているうちに、チャイムが鳴った。三喜雄は芝生でのんびり座っていた学生たちと同時に、仕方なく腰を上げる。
 研究棟に向かい、杉本の部屋のドアをノックすると、彼はすぐに顔を出した。髪に白いものが混じる往年の名バリトンは、やはりいい声で、どうぞ、と言いながら三喜雄を招き入れてくれた。
 室内の壁には本と楽譜とCDがびっしり詰まった棚がめぐらされていて、それに囲まれる形で置かれた古そうなソファには、杉本より少し若い男性が座っていた。先客との話が終わっていないとは思わなかった三喜雄は驚き、出直します、と咄嗟に言って回れ右しかけた。ところが、杉本に引きとめられる。

「どこ行くんだ片山かたやまくん、こちらの先生がきみにご用なんだよ」
「はい?」

 三喜雄は足を止め、杉本の客人に向き直った。銀縁の眼鏡をかけた、優しい雰囲気の人物である。彼は学生の三喜雄相手に礼儀正しく立ち上がり、ジャケットのポケットからカードケースを出した。

「初めまして、辻井つじいといいます」

 差し出された名刺によると、辻井まさしは私立の音楽大学の教授だった。杉本のような元プレイヤーの実践指導者ではなく、音楽教育学を担当している学者だという。
 三喜雄も自己紹介した。

「声楽専攻1年の片山三喜雄です」
「はい、存じ上げています……春に片山くんの歌を聴いて、私の研究の手伝いを頼みたいと思って来ました」
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