レターレ・カンターレ

穂祥 舞

文字の大きさ
1 / 36
1 演奏の依頼

1-①

しおりを挟む
「やあ。きみは、星がいっぱいでしずかで、さびしいくらいだと、コドクがすきでも、だれかとお茶を飲みたくなる、いるかなの? 飲みましょう、いっしょに。ぼくは、きみと同じきもちのくじらです。……飲むのはビールでもいいけどね」
 そこでふたりは、まずはじめに、いるかのところへいってお茶を飲み、つぎに、くじらのところへいってビールを飲むことにした。

工藤直子『ともだちは海のにおい』「ふたりが であった」より



 三喜雄みきおは大学の敷地内のベンチに座って楽譜を広げていた。目の前に広がる芝生の匂いが心地良い。まだ少し暑いとはいえ、暴力的な夏の日射しはかなり緩んだ気がする。自分の故郷ならば、ここで一気に寒くなるところだが、東京は季節の移ろいが少し緩やかだ。
 三喜雄がこの大学の大学院に通い始めて約半年である。北海道の大学にいた頃と比べ、周囲のレベルが高いことや情報量が半端なく多いことにはだいぶ慣れたが、三喜雄の目は今、おたまじゃくしを半分ほど素通りしていた。3限目に、研究室に来るように言われているからだった。
 試験前でもないのに、音楽研究科声楽専攻を束ねる杉本すぎもと哥津彦かつひこ教授に呼び出されるなんて、ちょっと穏やかではない。杉本の伝言を持って来たのは、三喜雄と同じく声楽専攻で、歌曲コースを選択するメゾソプラノの坂東ばんどう美奈みなだった。

「時期も時期だしコンサートの話じゃないの?」

 いぶかる三喜雄に、美奈はカールした栗色の髪を揺らし、何でもないように言った。
 大学院生ともなると、先生がたの伝手でコンサートやオペラに助演する機会が出てくるようだが、優秀な美奈と違い、今のところ三喜雄にそんなお声がかかったことは無い。杉本と同じ声種のバリトンである三喜雄は、他の者よりも多少杉本から厳しい目で見られている自覚があり、まだまだ使えないと思われているに違いなかった。
 何の話だろうともやもやしているうちに、チャイムが鳴った。三喜雄は芝生でのんびり座っていた学生たちと同時に、仕方なく腰を上げる。
 研究棟に向かい、杉本の部屋のドアをノックすると、彼はすぐに顔を出した。髪に白いものが混じる往年の名バリトンは、やはりいい声で、どうぞ、と言いながら三喜雄を招き入れてくれた。
 室内の壁には本と楽譜とCDがびっしり詰まった棚がめぐらされていて、それに囲まれる形で置かれた古そうなソファには、杉本より少し若い男性が座っていた。先客との話が終わっていないとは思わなかった三喜雄は驚き、出直します、と咄嗟に言って回れ右しかけた。ところが、杉本に引きとめられる。

「どこ行くんだ片山かたやまくん、こちらの先生がきみにご用なんだよ」
「はい?」

 三喜雄は足を止め、杉本の客人に向き直った。銀縁の眼鏡をかけた、優しい雰囲気の人物である。彼は学生の三喜雄相手に礼儀正しく立ち上がり、ジャケットのポケットからカードケースを出した。

「初めまして、辻井つじいといいます」

 差し出された名刺によると、辻井まさしは私立の音楽大学の教授だった。杉本のような元プレイヤーの実践指導者ではなく、音楽教育学を担当している学者だという。
 三喜雄も自己紹介した。

「声楽専攻1年の片山三喜雄です」
「はい、存じ上げています……春に片山くんの歌を聴いて、私の研究の手伝いを頼みたいと思って来ました」
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

その後の愛すべき不思議な家族

桐条京介
ライト文芸
血の繋がらない3人が様々な困難を乗り越え、家族としての絆を紡いだ本編【愛すべき不思議な家族】の続編となります。【小説家になろうで200万PV】 ひとつの家族となった3人に、引き続き様々な出来事や苦悩、幸せな日常が訪れ、それらを経て、より確かな家族へと至っていく過程を書いています。 少女が大人になり、大人も年齢を重ね、世代を交代していく中で変わっていくもの、変わらないものを見ていただければと思います。 ※この作品は小説家になろう及び他のサイトとの重複投稿作品です。

まだ見ぬ未来へ駆け抜けて!

小林汐希
ライト文芸
2年5組の生徒:松本花菜(17歳 高校2年生) 2年5組の担任:長谷川啓太(23歳 教師歴1年目) 幼い頃から、様々な悩みを抱えながら過ごしてきた花菜。 それは幼い頃に父との離別を経験した家庭環境だったり、小学校の最後に作ってしまった体の古傷であったり。 学校外の時間を一人で過ごすことになった彼女の唯一、かつ絶対的な味方でいてくれたのが、近所に住む啓太お兄ちゃんだった。 しかし年の離れた二人の関係では仕方ないとはいえ、啓太の大学進学や環境変化とともに、その時間は終わりを迎えてしまう。 ふさぎ込む花菜を前に、啓太は最後に「必ず迎えに来る」という言葉を残して街を離れた。 言葉を受け取った花菜は、自分を泣かせないための慰めだったという諦めも入りつつ、一方で微かな希望として心の中で温め続けていた。 数年の時を経て二人が再び顔を合わせたものの、もはや運命の意地悪とでもいうべき「担任教師と生徒」という関係。 最初は様子伺いだったけれど、往時の気持ちが変わっていないことを再確認してからは、「一人じゃない」と嬉しいこと・辛いことも乗り越えていく二人には少しずつ背中を押してくれる味方も増えていく。 再会した当初は「おとなしい終末的運命キャラ」になっていた花菜も次第に自信を取り戻し、新米教師の啓太も花菜のサポートを裏で受けつつ堂々と教壇に立ち続けた。 そんな互いを支えあった二人の前に開けた世界は……。 たった一つだけの約束を胸に、嬉しいときは一緒に喜び、悲しいときは支えあって走り抜けた二人の物語です。

沢田くんはおしゃべり

ゆづ
青春
第13回ドリーム大賞奨励賞受賞✨ありがとうございました!! 【あらすじ】 空気を読む力が高まりすぎて、他人の心の声が聞こえるようになってしまった普通の女の子、佐藤景子。 友達から地味だのモブだの心の中で言いたい放題言われているのに言い返せない悔しさの日々の中、景子の唯一の癒しは隣の席の男子、沢田空の心の声だった。 【佐藤さん、マジ天使】(心の声) 無口でほとんどしゃべらない沢田くんの心の声が、まさかの愛と笑いを巻き起こす! めちゃコミ女性向け漫画原作賞の優秀作品にノミネートされました✨ エブリスタでコメディートレンドランキング年間1位(ただし完結作品に限るッ!) エブリスタ→https://estar.jp/novels/25774848

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月
ライト文芸
――珈琲が織りなす、家族の物語  バリスタとして働く桝田亜夜[ますだあや・25歳]は、短期留学していたローマのバルで、途方に暮れている二人の日本人男性に出会った。  ほんの少し手助けするつもりが、彼らから思いがけない頼み事をされる。それは、上司の婚約者になること。   亜夜は断りきれず、その上司だという穂積薫[ほづみかおる・33歳]に引き合わされると、数日間だけ薫の婚約者のふりをすることになった。それが終わりを迎えたとき、二人の間には情熱の火が灯っていた。   旅先の思い出として終わるはずだった関係は、二人を思いも寄らぬ運命の渦に巻き込んでいた。

異世界転移物語

月夜
ファンタジー
このところ、日本各地で謎の地震が頻発していた。そんなある日、都内の大学に通う僕(田所健太)は、地震が起こったときのために、部屋で非常持出袋を整理していた。すると、突然、めまいに襲われ、次に気づいたときは、深い森の中に迷い込んでいたのだ……

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

2月31日 ~少しずれている世界~

希花 紀歩
恋愛
プロポーズ予定日に彼氏と親友に裏切られた・・・はずだった 4年に一度やってくる2月29日の誕生日。 日付が変わる瞬間大好きな王子様系彼氏にプロポーズされるはずだった私。 でも彼に告げられたのは結婚の申し込みではなく、別れの言葉だった。 私の親友と結婚するという彼を泊まっていた高級ホテルに置いて自宅に帰り、お酒を浴びるように飲んだ最悪の誕生日。 翌朝。仕事に行こうと目を覚ました私の隣に寝ていたのは別れたはずの彼氏だった。

処理中です...