レターレ・カンターレ

穂祥 舞

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1 演奏の依頼

1-②

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 三喜雄は首を傾げた。試験以外で音大の先生の前で歌った記憶は無い。三喜雄の疑問を察したかのように、辻井は笑いながら言った。

「池袋のライブハウスで、2曲歌ったでしょう? ヘルプだったようだけど」
「あ……」

 思い当たった。ジャズバンドのメンバーであるクラリネッティストの友人にヴォーカルの代役を頼まれて、急遽上がった舞台だった。ドラムとベースの前でマイクを使って歌うのは初めてで、自分の声があまり良く聴こえずちょっと焦ったけれど、楽しかった。
 三喜雄は思わず、杉本の顔を窺ってしまう。声楽の先生の中には、生徒がクラシック以外の曲を歌うのを嫌う人がいるからである。幸い杉本は、三喜雄の課外活動の話を楽し気に聞いていた。

「あのバンドが芸大生と芸大卒の子で構成されてるのは有名ですから、杉本先生にお尋ねして、こちらの前期試験のビデオから片山くんを特定しました」

 特定って。俺は犯罪者か。
 辻井の言葉に胸の中で突っ込みつつ、三喜雄はそうですか、と作り笑いを浮かべた。この業界は本当に狭く、こんな風にいくらでも個人の情報が回ってしまう。これを人脈と呼び、音楽活動の足掛かりにしようとするアグレッシブな人もいるが、三喜雄はこういう雰囲気があまり好きではない。
 初対面の学生の複雑な気持ちを知る由もなく、辻井は座るよう勧めてきて、本題に入った。

「12月の中旬に、立川市内の老人養護施設で、テノールの子と歌ってもらいたいです」
「えっ?」

 坂東美奈の予想はいい線を突いていたらしい。とは言え、依頼ルートがちょっと想定外だ。自分の大学の学生に頼めばいいのに、と一番に思った。
 辻井は左脇に置いていた鞄を開けて、クリアファイルを出した。こちらの予定も訊かれていないのに楽譜を見せられるとは思わず、三喜雄は一気に焦る。

「あっ、あの、待ってください……12月は今のところ暇です、でもどうして俺……私なんですか?」

 辻井は眼鏡の奥の目を丸くした。三喜雄はほとんどおろおろする。

「そちらの大学に、私なんかより上手い人が沢山いらっしゃるかと思うんですけれど」

 辻井と杉本が、三喜雄の発言に同時にぷっと笑った。

「面白い子ですね」
「謙遜じゃないですよ、無欲で自己評価低めだからね」

 三喜雄には杉本の意見に納得しかねる部分があったが、辻井はなるほど、と笑いながら、クリアファイルを三喜雄に差し出した。中に挟まっている楽譜には、そこそこ厚みがある。

「私は音楽療法の研究もしています、片山くんの声には独特の魅力がある……それが今回きみに歌ってほしいと頼む理由です」
「音楽療法……」

 よく耳にするのに、これまで自分に全く関係の無かったその言葉を、三喜雄は反復する。辻井はにこやかに続けた。

「今回片山くんと、テノールの篠原しのはらくんって子に協力してほしいのは、受動的療法にあたります」
「あ、はい」
「お年寄りに歌いかたを教えるとかじゃなく、コンサートだと思ってくれたらいい……ざっくり言えば、2人のアンサンブルが入居者にどういう感情をもたらすかを調べます」

 普通に歌うと言われて、ちょっとほっとする。しかし辻井の要求はそんなイージーモードではなかった。

「ただピアノの前で突っ立って歌うんじゃ芸が無いから、オペラほどでなくていいけれど、ちょっと動いてくれたらありがたいです」
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