6 / 36
2 初顔合わせ
2-③
しおりを挟む
歌手たちがピアノの前で楽譜を開くと、牧野は鍵盤に手をかざし、流れるような明るい前奏を弾き始める。篠原が緩やかな伴奏に乗り、「いるか」のパートを歌い出した。
「『くじらは、独りごとをいうようになった……すきなひとが、できたからだと思う』」
三喜雄がこれまで出会った同世代のテノールの誰よりも、澄んだ声だった。身体が細いせいか、音量はあまり大きくないのだが、響きが高い。宗教音楽が似合いそうな声だ。
三喜雄も丁寧に「くじら」の歌に入った。この間口ずさんだ美しいメロディを和音だけで盛り上げてくれる牧野の伴奏は、歌いやすかった。彼女のピアノは、リズムが安定していて音がクリアで、その後も速度や拍子の変化の瞬間を直感的に捉えることができた。おそらく三喜雄がこれまで知る伴奏者の中でも、ベストに近い気がする。
しかしテンポが上がり、2人の歌が掛け合いになる部分に入ると、三喜雄は何となく歌いにくさを感じ始めた。乗り切れないのだ。伴奏は滑らかだし、篠原のリズムも正確で、むしろ三喜雄のほうがたまに危なっかしいくらいなのに。
「『あのひとが笑う声を聞くと……ぼく、詩がどんどん書けるよ』」
「『そうだろう、そうだろう』」
テンポがくるくる変わり二重唱が盛り上がる場所で、三喜雄はようやく気づく。篠原の歌に、全く感情が入っていない。丁寧に歌っているが、楽譜に指示された以上の動きが一切無く、息継ぎの音もほとんど聴こえない。だから、合わせ辛いのだ。
重唱は、メロディを担う高音パートが音楽を引っぱらないと、もたついてしまう。バリトンの三喜雄がテノールの篠原よりも先に動くのはよくないのだが、そうしたくてたまらなくなった。個人レッスンの時は、国見がいるかのパートを生き生きと歌ってくれていたので、こんな事態になるとは想像もしなかった。
三喜雄は次第にイライラしてきた。くじらが初めて恋らしきものを知り、友人のいるかに励まされ一歩踏み出す決心をするという物語が、この二重唱の柱だ。オペラのデュエットほど濃くはないが、登場人物のキャラクターも存在するので、くじらとして多少役作りもしてきたつもりだった。それなのに掛け合いをひたすら無感情に返されるので、気持ちを入れて歌っている自分が馬鹿みたいに思えてくる。
左手に座る辻井が苦笑したのが、三喜雄の視界に入った。
わかってるなら、止めて何とか言ってくれたらいいのに! 何の罰ゲームなんだよ!
いけない、と三喜雄は腹立ちを自制し、緩やかな長い間奏で気持ちを立て直そうと試みる。本来2人でパントマイムをする部分だが、篠原は何らかのアクションどころか、楽譜を見つめたままである。これで動きをつけられるとは思えず、先が思いやられた。
これから恋人の許へ行くくじらの譜を何とか最後まで歌い切ると、三喜雄は疲労にしゃがみこみそうになった。ひとつ息をつき、曲を締めるいるかのソロを聴く。
「『うみのみなさん……くじらに、すきなひとが、できました』……」
篠原の声は彼の容姿と同様に美しかったが、やはり楽譜通りに音を出しているだけだった。宗教曲でもこれではアウトだ。淡々と続く歌に、三喜雄の苛立ちが沸騰する。
俺ならその「きれいだね」を、もっと優しく置くぞ。
「『くじらの、ゆうじんだいひょう……いるか』」
穏やかな下降音形で曲が終わると、ピアノの残響が消えないうちに、思わず三喜雄は右に立つ篠原を見た。彼の目の高さは、三喜雄よりほんの少しだけ低い。すると篠原も、嫌なものを見るように、三喜雄に向かって大きな目を眇める。
「気持ち悪いんだけど」
その言葉に、文字通り三喜雄の頭の中で何かが切れた。
「はぁっ?」
「もっとスマートに歌おうよ」
篠原のうんざりしたと言わんばかりの口調にかっとなった三喜雄は、言葉をオブラートに包めなくなる。
「そっちが一本調子過ぎなんだろ」
はいはい、と立ち上がった辻井がすぐさま間に入った。牧野は無責任にも、ピアノの前で笑いを堪えている。
「『くじらは、独りごとをいうようになった……すきなひとが、できたからだと思う』」
三喜雄がこれまで出会った同世代のテノールの誰よりも、澄んだ声だった。身体が細いせいか、音量はあまり大きくないのだが、響きが高い。宗教音楽が似合いそうな声だ。
三喜雄も丁寧に「くじら」の歌に入った。この間口ずさんだ美しいメロディを和音だけで盛り上げてくれる牧野の伴奏は、歌いやすかった。彼女のピアノは、リズムが安定していて音がクリアで、その後も速度や拍子の変化の瞬間を直感的に捉えることができた。おそらく三喜雄がこれまで知る伴奏者の中でも、ベストに近い気がする。
しかしテンポが上がり、2人の歌が掛け合いになる部分に入ると、三喜雄は何となく歌いにくさを感じ始めた。乗り切れないのだ。伴奏は滑らかだし、篠原のリズムも正確で、むしろ三喜雄のほうがたまに危なっかしいくらいなのに。
「『あのひとが笑う声を聞くと……ぼく、詩がどんどん書けるよ』」
「『そうだろう、そうだろう』」
テンポがくるくる変わり二重唱が盛り上がる場所で、三喜雄はようやく気づく。篠原の歌に、全く感情が入っていない。丁寧に歌っているが、楽譜に指示された以上の動きが一切無く、息継ぎの音もほとんど聴こえない。だから、合わせ辛いのだ。
重唱は、メロディを担う高音パートが音楽を引っぱらないと、もたついてしまう。バリトンの三喜雄がテノールの篠原よりも先に動くのはよくないのだが、そうしたくてたまらなくなった。個人レッスンの時は、国見がいるかのパートを生き生きと歌ってくれていたので、こんな事態になるとは想像もしなかった。
三喜雄は次第にイライラしてきた。くじらが初めて恋らしきものを知り、友人のいるかに励まされ一歩踏み出す決心をするという物語が、この二重唱の柱だ。オペラのデュエットほど濃くはないが、登場人物のキャラクターも存在するので、くじらとして多少役作りもしてきたつもりだった。それなのに掛け合いをひたすら無感情に返されるので、気持ちを入れて歌っている自分が馬鹿みたいに思えてくる。
左手に座る辻井が苦笑したのが、三喜雄の視界に入った。
わかってるなら、止めて何とか言ってくれたらいいのに! 何の罰ゲームなんだよ!
いけない、と三喜雄は腹立ちを自制し、緩やかな長い間奏で気持ちを立て直そうと試みる。本来2人でパントマイムをする部分だが、篠原は何らかのアクションどころか、楽譜を見つめたままである。これで動きをつけられるとは思えず、先が思いやられた。
これから恋人の許へ行くくじらの譜を何とか最後まで歌い切ると、三喜雄は疲労にしゃがみこみそうになった。ひとつ息をつき、曲を締めるいるかのソロを聴く。
「『うみのみなさん……くじらに、すきなひとが、できました』……」
篠原の声は彼の容姿と同様に美しかったが、やはり楽譜通りに音を出しているだけだった。宗教曲でもこれではアウトだ。淡々と続く歌に、三喜雄の苛立ちが沸騰する。
俺ならその「きれいだね」を、もっと優しく置くぞ。
「『くじらの、ゆうじんだいひょう……いるか』」
穏やかな下降音形で曲が終わると、ピアノの残響が消えないうちに、思わず三喜雄は右に立つ篠原を見た。彼の目の高さは、三喜雄よりほんの少しだけ低い。すると篠原も、嫌なものを見るように、三喜雄に向かって大きな目を眇める。
「気持ち悪いんだけど」
その言葉に、文字通り三喜雄の頭の中で何かが切れた。
「はぁっ?」
「もっとスマートに歌おうよ」
篠原のうんざりしたと言わんばかりの口調にかっとなった三喜雄は、言葉をオブラートに包めなくなる。
「そっちが一本調子過ぎなんだろ」
はいはい、と立ち上がった辻井がすぐさま間に入った。牧野は無責任にも、ピアノの前で笑いを堪えている。
32
あなたにおすすめの小説
マキノのカフェ開業奮闘記 ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
カフェ開業を夢見たマキノが、田舎の古民家を改装して開業する物語。
おいしいご飯がたくさん出てきます。
いろんな人に出会って、気づきがあったり、迷ったり、泣いたり。
助けられたり、恋をしたり。
愛とやさしさののあふれるお話です。
なろうにも投降中
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
マキノのカフェで、ヒトヤスミ ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
田舎の古民家を改装し、カフェを開いたマキノの奮闘記。
やさしい旦那様と綴る幸せな結婚生活。
試行錯誤しながら少しずつ充実していくお店。
カフェスタッフ達の喜怒哀楽の出来事。
自分自身も迷ったり戸惑ったりいろんなことがあるけれど、
ごはんをおいしく食べることが幸せの原点だとマキノは信じています。
お店の名前は 『Cafe Le Repos』
“Repos”るぽ とは フランス語で『ひとやすみ』という意味。
ここに訪れた人が、ホッと一息ついて、小さな元気の芽が出るように。
それがマキノの願いなのです。
- - - - - - - - - - - -
このお話は、『Café Le Repos ~マキノのカフェ開業奮闘記~』の続きのお話です。
<なろうに投稿したものを、こちらでリライトしています。>
彼はオタサーの姫
穂祥 舞
BL
東京の芸術大学の大学院声楽専攻科に合格した片山三喜雄は、初めて故郷の北海道から出て、東京に引っ越して来た。
高校生の頃からつき合いのある塚山天音を筆頭に、ちょっと癖のある音楽家の卵たちとの学生生活が始まる……。
魅力的な声を持つバリトン歌手と、彼の周りの音楽男子大学院生たちの、たまに距離感がおかしいあれこれを描いた連作短編(中編もあり)。音楽もてんこ盛りです。
☆表紙はtwnkiさま https://coconala.com/users/4287942 にお願いしました!
BLというよりは、ブロマンスに近いです(ラブシーン皆無です)。登場人物のほとんどが自覚としては異性愛者なので、女性との関係を匂わせる描写があります。
大学・大学院は実在します(舞台が2013年のため、一部過去の学部名を使っています)が、物語はフィクションであり、各学校と登場人物は何ら関係ございません。また、筆者は音楽系の大学・大学院卒ではありませんので、事実とかけ離れた表現もあると思います。
高校生の三喜雄の物語『あいみるのときはなかろう』もよろしければどうぞ。もちろん、お読みでなくても楽しんでいただけます。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる