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7 襲い来る過去
7-⑤
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「篠原くんも、森山くんに申し訳なく思うことないよ……もし俺が彼の立場だったら、きみが今も、自分の居場所を探して一生懸命歌ってるのを見て、嬉しいと思う」
三喜雄の言葉に、篠原は軽く鼻を啜った。
「ありがとう、そうだったらいいな……びっくりさせてほんとごめん、泣いたらすっきりした」
瞼を赤くした相棒は少し痛々しく、やはり高崎に似ていた。三喜雄は後輩のこんな顔を見たことがあった。
――僕はずっと片山さんのファンでいます。あなたの声は、あなたみたいにいつも優しいから。
三喜雄はあの時の夕暮れの光の色や、冷え始めた風の温度を思い出す。高崎は、三喜雄がコンクールの舞台で歌うのを聴きにきてくれた。そしてホールを訪れたその足で、故郷に帰った。別れる前に泣きながら言ってくれたその言葉は、今でも三喜雄の心の支えだ。
その時、篠原が驚きの声を上げた。
「えっ、どうしたんだよ、きみまで泣かないでよ」
差し出されたのは、篠原がリュックから出した彼のハンカチだった。自分でも驚いた三喜雄はそれを受け取り、知らない間に出てきた涙を慌てて拭く。胸の中が熱くなったのを冷やすため、冗談に逃げた。
「……何でハンカチ交換してんだろ」
うふふ、と篠原の笑い声がした。
「めちゃ濡らしたから洗って返すよ」
2人は同時にふう、と息をつき、小さく笑った。そして、静かなひとときを共有する。まるで、海の中で恋バナをして、遠くを見つめるくじらといるかのように。
「歌うのって大変だし怖いな、思わぬところで自分を丸裸にされるから」
篠原の言葉に、三喜雄は同意した。
「ほんとだな……この先何回も、こういうことがあるんだろうな」
「うん……でも俺、この依頼受けてよかったと今は思ってる」
篠原は三喜雄に向かって笑いかける。三喜雄も頷き、笑い返した。そう、今この歌と篠原に出会い、こんな風に練習し語り合ったことは、きっと自分の宝物になる。
音楽に真剣に向き合えば向き合うほど、プロであろうがアマチュアであろうが、楽しいだけでは済まなくなる。歌い続ければ、これからも時々躓いて苦しまなくてはいけないだろう。でもその時、音楽や共演者との出会いが得難いものとなれば、痛みや悲しみは喜びに柔らかく包まれて、その棘を少し引っ込めるのかもしれない。
打ち合わせを終えたらしい辻井と牧野が、ゆったりとした足取りで戻ってきたのが見えた。彼らは窓からイベントホールを覗き、若い歌手たちが落ち着いていることを見て取ったようだった。もしかすると2人は、三喜雄と篠原のために、少し時間をくれたのかもしれなかった。
「客席をどんな風に使うか決めてきたよ」
辻井の言葉に、はい、と答えて、三喜雄は立ち上がった。篠原がそれに続く。
「場当たりにちょっと手を入れようか、2人で動きをよく考えてきてくれたから、基本的にはさっきの感じでいいと思う」
篠原は、さっき歌を止めたことを辻井と牧野に謝った。
「気にしないで、大丈夫ならもう一度最初からいきましょう」
牧野は微笑し、ピアノに向かった。三喜雄は舞台の上手のほうに歩きつつ、窓の外の裸の桜の木が、冬の日射しの中で日向ぼっこをしているのを目に入れる。寒い冬を耐えて、また来春、美しい花を咲かせるのだなと思った。
高崎に出会った頃、グラウンドの桜の花がほころび始めていたことを思い出す。東京よりも春の訪れが遅い北国の高校では、入学式が終わり、在校生が1学年上がって少し落ち着いてから、桜が咲くのだ。するとその時また、高崎の静かな声が脳内に甦った。
片山さんはその声を、他人のために使う使命を与えられているんだと、僕思うんです。
……そんなこと言うなら、将来俺のコンサートに毎回来いよ。
三喜雄は独りで微苦笑した。プロになったら、高崎は自分を見つけてくれるのだろうか。ならば、それをプロを目指す理由にしてもいいのかもしれない。
三喜雄の言葉に、篠原は軽く鼻を啜った。
「ありがとう、そうだったらいいな……びっくりさせてほんとごめん、泣いたらすっきりした」
瞼を赤くした相棒は少し痛々しく、やはり高崎に似ていた。三喜雄は後輩のこんな顔を見たことがあった。
――僕はずっと片山さんのファンでいます。あなたの声は、あなたみたいにいつも優しいから。
三喜雄はあの時の夕暮れの光の色や、冷え始めた風の温度を思い出す。高崎は、三喜雄がコンクールの舞台で歌うのを聴きにきてくれた。そしてホールを訪れたその足で、故郷に帰った。別れる前に泣きながら言ってくれたその言葉は、今でも三喜雄の心の支えだ。
その時、篠原が驚きの声を上げた。
「えっ、どうしたんだよ、きみまで泣かないでよ」
差し出されたのは、篠原がリュックから出した彼のハンカチだった。自分でも驚いた三喜雄はそれを受け取り、知らない間に出てきた涙を慌てて拭く。胸の中が熱くなったのを冷やすため、冗談に逃げた。
「……何でハンカチ交換してんだろ」
うふふ、と篠原の笑い声がした。
「めちゃ濡らしたから洗って返すよ」
2人は同時にふう、と息をつき、小さく笑った。そして、静かなひとときを共有する。まるで、海の中で恋バナをして、遠くを見つめるくじらといるかのように。
「歌うのって大変だし怖いな、思わぬところで自分を丸裸にされるから」
篠原の言葉に、三喜雄は同意した。
「ほんとだな……この先何回も、こういうことがあるんだろうな」
「うん……でも俺、この依頼受けてよかったと今は思ってる」
篠原は三喜雄に向かって笑いかける。三喜雄も頷き、笑い返した。そう、今この歌と篠原に出会い、こんな風に練習し語り合ったことは、きっと自分の宝物になる。
音楽に真剣に向き合えば向き合うほど、プロであろうがアマチュアであろうが、楽しいだけでは済まなくなる。歌い続ければ、これからも時々躓いて苦しまなくてはいけないだろう。でもその時、音楽や共演者との出会いが得難いものとなれば、痛みや悲しみは喜びに柔らかく包まれて、その棘を少し引っ込めるのかもしれない。
打ち合わせを終えたらしい辻井と牧野が、ゆったりとした足取りで戻ってきたのが見えた。彼らは窓からイベントホールを覗き、若い歌手たちが落ち着いていることを見て取ったようだった。もしかすると2人は、三喜雄と篠原のために、少し時間をくれたのかもしれなかった。
「客席をどんな風に使うか決めてきたよ」
辻井の言葉に、はい、と答えて、三喜雄は立ち上がった。篠原がそれに続く。
「場当たりにちょっと手を入れようか、2人で動きをよく考えてきてくれたから、基本的にはさっきの感じでいいと思う」
篠原は、さっき歌を止めたことを辻井と牧野に謝った。
「気にしないで、大丈夫ならもう一度最初からいきましょう」
牧野は微笑し、ピアノに向かった。三喜雄は舞台の上手のほうに歩きつつ、窓の外の裸の桜の木が、冬の日射しの中で日向ぼっこをしているのを目に入れる。寒い冬を耐えて、また来春、美しい花を咲かせるのだなと思った。
高崎に出会った頃、グラウンドの桜の花がほころび始めていたことを思い出す。東京よりも春の訪れが遅い北国の高校では、入学式が終わり、在校生が1学年上がって少し落ち着いてから、桜が咲くのだ。するとその時また、高崎の静かな声が脳内に甦った。
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……そんなこと言うなら、将来俺のコンサートに毎回来いよ。
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