レターレ・カンターレ

穂祥 舞

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8 本番の前

8-④

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 牧野が伴奏を止め、篠原にフレージングを長くするよう指導する。辻井は隣に座った三喜雄に、静かに話しかけてきた。

「片山くんに音声の分析の話をしたのは、たまに自信が無いような素振りをするからなんだけど」

 三喜雄は辻井の顔を見た。少なくとも「恋するくじら」に関しては、十分身体に入っているはずだ。辻井は続ける。

「この歌じゃないよ、舞台人としての自信、かな? 僕の見る限り、片山くんは自分の声の良さに胡坐をかかずによく練習してるし、お客さんに楽しんでもらいたい気持ちも大きいし、事実いい歌い手だと思う……でも、プロになる気が無いんだって?」

 ああ、と三喜雄は低く呟いた。こんな話を辻井にしたのは、杉本か。篠原の可能性もある。

「えっと、歌で食べて行けるとはどうしても思えない……からです」
「確かに日本では、歌だけでは難しいかもしれないね……世界的に見たらそのほうがおかしいんだけど、それで片山くんが尻込みするのはもったいない」

 辻井も言葉を選んでいるようなので、三喜雄はちょっと申し訳なくなった。でも、海外でバリバリ歌うなんて、実力的に絶対無理だと思う。それに三喜雄には、先輩歌手や先生がたの伝手を頼って仕事を獲りに行くような、器用な真似もできない。

「ああ、片山くんは、自分の恋が『ほんもの』ではないんじゃないかって悩むくじらみたいなのかな」

 辻井は思い当たったように言った。恋愛小説が好きなくじらは、自分の気持ちを「いわゆる、かぶれているのさ」と自嘲気味にいるかに説明するのだが、いるかは「あんたは、ほんものさ」とくじらを励ます。この部分も難しくて、篠原とかなり苦労した。
 俺は、かぶれているだけの歌い手なんだろうか。ちょっと否定しきれない感じはあるな。
 三喜雄が考えていると、音楽が再開した。今度は、最後まで通りそうだった。辻井が篠原を目で追いながら、独り言のように言う。

「くじらみたいに、ほんものだと言われてその気になるのも悪くないと思うよ」

 おまえは本物だと誰かから言ってもらえたとしても、プロを目指す気になるとも思えないが、少なくとも悪い気はしないだろう。でも……今の三喜雄には、わからない。歌い続けていたら、今日の辻井の言葉を思い出して、自分を冷静に振り返ることができる日が来るかもしれない。
 テンポの確認なので、篠原は長い音を小さく軽く歌ってから、いるかとして客席に一礼する。後奏が静かに終わると、辻井がゆっくりと立ち上がった。

「よし、『うみのみなさん』も一緒に、最初から通してみようか」

 その場にいた全員が、辻井の言葉にはい、と返した。篠原は客席にいる三喜雄にちらっと笑いかけて、下手のホール入り口に向かう。牧野は楽譜を最初のページまでめくって戻し、三喜雄は上手の奥の隅に置かれた、木の衝立に向かった。
 歌に不安な箇所は無いし、まだリハーサルだ。それでも、三喜雄の心臓は少しばかり、大きく早く打ち始めた。今はとにかく、歌に集中する。中学生たちの期待混じりの視線を衝立越しに感じながら、ひとつ深呼吸した。
 辻井が助手の学生たちに指示する声がする。

「カメラと録音のチェックもよろしく、ではお願いします」

 軽やかな前奏が鳴る。顔を上げた三喜雄は恋するくじらとなり、衝立から出て足を舞台に踏み出した。
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