夜は異世界で舞う

穂祥 舞

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12 憂惧

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 節分を迎えて暦の上では春になったが、気温はまだまだ低い。晴也は厚手のコートにマフラーをぐるぐる巻きにして、会社帰りにめぎつねに出勤する。最近点検があったらしく、雑居ビルの古くて汚いエレベーターが少し掃除してあった。3階で降りてすぐに現れる、重い木の扉を押す。
 前の週、ママから頼まれて、金曜に出勤している若い子(晴也は彼の顔を知らない)と、木曜の出勤を交代した。金曜の客をほとんど知らない晴也は、客たちを麗華に紹介してもらうなどして新鮮だったのだが、前日の木曜に晶がめぎつねに1時間ほど顔を出していたので、すれ違ってしまった。そんな訳で、2週間近く晶の顔を見ていない。

「ハルちゃんおはよう、ショウから何か聞いた? ロンドンの話」

 バックヤードに入るなり、美智生がやや心配のニュアンスを醸し出しながら声を掛けてきた。晴也がへ? と思わず言うと、つけまつげの糊をつけていたナツミがこちらを見て、美智生と顔を合わせた。

「やっぱりロンドンから来たお友達にね、舞台に出ないか誘われたって先週話してたよ」

 聞いていない。ナツミの話に晴也は動揺した。年度末が近づいてきたため、お互い昼間の仕事が忙しく、晶は実家のバレエ教室の発表会の手伝いが始まったこともあり、最近LINEもあまりこまめにやり取りしていなかった。
 晴也は平静を装って言った。

「そうなんだ、俺は聞いてないけどその気になってるのかな」

 ナツミは先週も、店で晶の相手をしていたのだろう。その話題を続ける。

「その人新進気鋭の演出家らしいじゃん、ショウさん迷ってるみたいだったけど、ちょっと面白そうなプロットだって言ってた」

 ナツミにはそんな話をするくせに。晴也は夏の夕立の前に黒い雲が押し寄せるように、胸の中を一気にもやもやさせた。
 やはり明里はサイラス・マクグレイブを知っていた。知り合いなんてすごい、と驚いて、ショウも怪我さえしてなければ今頃世界的なスターだったかもしれないね、などと返信してきた。それを思い出して、更に晴也のもやもやが増す。

「やっぱりショウさんにはルーチェの舞台は狭すぎるんだよ……もう日本に帰って来なくなっちゃったら寂しいなぁ」

 ナツミの言葉に、美智生は少し腹立たしげに応じた。

「おいナツミ、ショウがロンドンに行くって勝手に決めるなよ」
「だってウェストエンドで踊ってたんでしょ? ある意味そうするのが当たり前じゃないですか……あー最初から私なんかの手が届く人じゃなかったなぁ」

 ナツミの声を聞くともなく聞きながら、晴也は鏡の前で化粧ポーチを出したまま、固まっていた。ナツミがトイレに立ったのを見て、美智生がハルちゃん、とやや強めの声で呼んだので、晴也は我に返る。

「ショウから聞いてないのか」
「ここのところお互い忙しくて……やり取りしてないんですよ」
「……ユウヤとタケルはちらっと仄めかされたみたいだ、ユウヤが昨日の夜教えてくれた」

 知らないのは俺だけか。晴也の神経に障るものがあった。その時ママが暖簾から顔を出す。

「誰か用意できたら食材片づけるの手伝ってくれないか? ハルちゃんどうした、気分でも悪い?」

 晴也はいえ、と笑顔を作る。ちょうどトイレから戻ったナツミがはぁい、と明るく返事をして、スリッパからミュールに履き替えた。
 2月からめぎつねでは簡単な軽食をメニューに加え、冷凍のピザや焼きおにぎりなどを出している。店内で電子レンジをあまりチンチンいわせるのも微妙なので、バックヤードで食材を保存して調理することになった。ナツミが冷凍食品を抱えて暖簾をくぐってくる。

「あ、俺入れるわ……ママと開店準備して」

 美智生はナツミに指示して、スタッフ用の冷蔵庫の冷凍引き出しを開けた。
 晴也は急いで顔にルースパウダーをはたき、アイシャドウをつける。今夜は服の色味が暗いので、気分を上げるためにもゴールド系のシャドウを選んだ。美智生は鏡を見て前髪を整える。

「ユウヤからはそんな……ショウがあっちに行って戻って来ないなんて、少なくとも俺は聞いてないぞ」
「……先月末は本人も……今の日本での生活が大切だって話してましたけど」

 晴也は言いながら、マスカラの具合を確かめるべく鏡に顔を近づけたが、完全にうわの空だった。
 まずい、こんな気持ちのままでは接客できない。晴也は自分の頬を両手で2回、軽く叩いた。少し気合いが入った。
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