夜は異世界で舞う

穂祥 舞

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14 万彩

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 久保が3月いっぱいで退職するという驚愕の情報を晴也が得たのは、木曜の朝だった。晴也は総務課に異動することが内定して、口添えしてくれていたらしい天河に朝一番に挨拶に行き、彼女からそれを聞かされたのだった。

「福原さんが気に病むことじゃないわよ、家業を手伝うんだって」

 晴也は心底驚いた。

「……確か梨か何かを作ってるって聞いたことあります」

 遥か昔のように今となっては思えるが、久保が新入社員の頃、兄が家の仕事を継ぐ気が無くて、両親といつも喧嘩をしているという話をしていた。天河にその話をすると、彼女はきれいにアイシャドウで彩った目を大きく見開く。

「農業なの? あの子には無理でしょ」

 確かに、久保には難しいように思えるが、本人が決めたならやる気なのだろう。晴也とこじれたことも、おそらく彼の退職の意志を後押ししただろうから、気にならないと言えば嘘になるが。

「……人事もほっとしてるんでしょうね、久保が辞めて俺が異動になって」

 晴也が言うと、天河は晴也を慰めるような微笑を浮かべた。

「どうなのかしら、こうなると福原さんは動かなくて良かったかもねぇ」
「俺はいいですよ、いろいろ心機一転する時なんだって受け止めてますから」

 晴也がさっぱりした言い方をしたからか、天河はゆっくりと瞬きした。

「……ウィルウィンの吉岡さんとのこと?」
「え? あ、まあ、それも含めて……」

 昨日は目覚めるなり、晶に朝勃ちを見つけられ手で一回いかされてしまった。ベッドの余韻を引きずったまま出勤するなどという、晴也的には前代未聞の経験をしてしまったのだが、それを言われているように思えて、勝手にいたたまれなくなる。

「少なくとも総務課では……私と課長がきっちり教育するから、嫌な思いをしたらすぐに言って」

 晴也が女装するゲイであるという話は、社内で既に周知の事実となりつつあった。だが、早川と久保がそのことを軽々しく取り扱ったことが、会社のイメージを何よりも重視する専務たちの耳に届き、個人の性的指向をからかうといったことは社として許容できないという通達まで出た。そのため最近、晴也は自分に聞こえる場所では、自分の噂を耳にしなくなった。

「ま、ぶっちゃけ久保さんは良いタイミングで辞めることにしたよなってこの辺では噂になってる」

 天河は苦笑気味になり、言った。

「そういうことに対する意識改革ってほんと難しいの、たとえ差別の気持ちがあっても、表面に出さないようにする分別を持つのが限界なんじゃないかな」
「表に出さないようにしてくれるだけで、当事者としては助かります」

 晴也が言うと、天河は小さく頷いた。何にせよ、いろんな意味で働きやすくなりそうなのは有り難かった。



 今日は内勤らしい久保が、昼休みに弁当箱を広げようとしていた晴也に話しかけてきた。

「……30分にそこのカフェに来てもらえます?」

 晴也は彼の顔を見上げる。別に悪意は無さそうなので、わかった、と答えた時に、岡野がコンビニの袋片手に戻って来た。彼は険しい表情になり、晴也と久保を見つめている。

「何だよ、福原さんいじめてる訳じゃねぇよ、監視すんな」

 久保は低い声で岡野に凄んでから、出て行く。岡野が心配そうに、晴也の近くのデスクの空いている椅子を引いて座った。

「何を言われたんですか?」
「え? 何か話があるみたい」

 岡野は眉間の皺を深くした。

「大丈夫なんですか?」

 喫茶店で会うのだから、危険は無いだろう……そう考えた晴也は、久保が自分に何かをするというよりは、自分が久保に暴力を振るう可能性に思いを馳せていた。
 岡野は疑わしげな視線を、久保の去った扉口のほうに向けた。

「僕の携帯にすぐ電話できるようにしておいてください、何かあったらすぐに行きます」

 言いながら彼は、コンビニの袋の中から弁当と割り箸を出す。どうしてここで俺と食うんだろうと不思議に思いつつ、晴也も弁当箱を開けた。



 12時半ちょうどに、会社のビルから一番近いファストなカフェに着くと、満席だったが久保が席を取ってくれていた。晴也はカフェオレを注文して、久保の待つ席へ行く。

「ごめん、待たせたかな」
「いいえ」

 トレイの上にコーヒーカップだけを置いた久保は、静かに答えた。少し気持ち悪いが、晴也は気にしないようにする。

「申し訳ありませんでした」

 久保は言って頭を下げた。晴也はやはり驚いたが、謝罪を受けるのが当然の立場ではあるので、黙って受け止める。

「……こちらこそ紅茶を浴びせたりして申し訳なかった」

 暴力に訴えたことは、謝っておく。久保はちらっと首を横に振った。

「もう耳に入ってるかと思いますけど、31日付けで退職します……父の心臓の具合が年末辺りから良くなくて、実家の梨作りを手伝うことにしました」

 彼は淡々と話したが、随分落ち着いた表情だった。

「お兄さんの代わりに継ぐのか?」

 晴也が問うと、久保はへ? と小さく言った。

「俺福原さんにそんな話したことありました?」
「うん、おまえが2年目に入る直前……ちょうどこれくらいの時期だった、誰かの送別会の時に」

 久保は意外そうな顔をした。

「福原さん、昔は飲み会出てたんだ」
「会社全体の忘年会とか部署の歓送迎会は……今でも最初だけ出ることにしてる」
「そうでしたっけ? ……とにかく兄は全くやる気無いんですよ、父も自分の代で終わりにするって言ってたんですけど、ゆるキャラのおかげで梨が出るようになったんですよね……辞めるに辞められないみたいで」

 久保の実家は船橋市である。同じ千葉の出身だということで、その頃は久保も晴也に割と懐いていたのだった。

「じゃあ継ぐんじゃなくてあくまでも手伝い?」

 晴也は別に久保とこんな話をしたい訳でもなかったが、もうあと1ヶ月経てば会わなくなるんだなと思ったせいか、聞き上手のハルのスイッチが入りかけていた。
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