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15 昼に舞う蝶とダンサー
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異動が内定した晴也は、年度末である以上に忙しくなった。自分が抱えていた営業事務の資料のデータを、各担当がすぐにわかるように整理を始め、必要ならば順番に口頭で説明した。
最近晴也が一番時間を割いていたのは、有限会社ウィルウィンの案件だが、軌道に乗り始めたのでこれからのデータのほうが大切になるだろう。崎岡はウィルウィンの業務の半分を、4年目になる男子社員と、岡野に任せることにした。晴也は岡野に少しずつ引き継ぎを始めて、午後から2時間ほどは総務課の女子社員から引き継ぎを受けるようになった。
総務課も人員が常に不足気味のところに、1人突発的に退職が決まった。晴也に引き継ぎをする女子社員は、4月から産休に入ることが、彼女の妊娠が判った時から決まっていたにもかかわらず、休みにくいとこぼした。彼女が安心して出産に臨めるように、晴也はここ数年で一番仕事に集中している。
ウィルウィンからの誘いを、晴也は断った。晶に汐野商事の営業課と総務課の現状を話し、木許にも個人的にお礼方々メールを送った。ただ晴也は転職しないと完全に決めたわけではなく、総務の仕事を覚えてからのほうが、よりウィルウィンの役に立てるのではないかと考えていた。その頃にまだ求められて、晶と仲良くやっていたら、今度は転職を視野に入れようと思う。
「福原さんの送別会をしたいと思うんですけれど……」
晴也は総務課から戻ったところに、若い社員から声をかけられて、はあ、と間の抜けた返事をした。退職するわけではないので、別にいいのにと思う。彼は声をひそめる。
「久保さんと一緒は嫌ですよね?」
「別にいいよ、久保がいいなら」
男子社員は目を見開き、しばし沈黙した。そして久保がいないにもかかわらず、低い声で晴也に訊く。
「やっぱり和解したんですか?」
「やっぱりって?」
「昨日久保さんも、してくれるなら福原さんと纏めたらいいだろって言ったので」
晴也はふうん、と言った。
「喧嘩両成敗で営業課にも平和が戻るだろ」
「これ、福原さんが動くことなかったんじゃないですか?」
「いいんだよ、俺はぼちぼち外の空気が吸いたかったんだから」
晴也は出来れば水曜と木曜を外して欲しいと若い社員に伝えた。めぎつねでも新人の教育があり、ナツミたちが退職するまでに、彼らにある程度の仕事を覚えてもらわないといけない。
4月から金曜日が、麗華と新人2人になるので、新人が慣れるまで、混雑のピークの2時間だけ手伝ってもらえないかとママから頼まれた。基本的に暇人である晴也は、悪くない話だと思っている。開店までに行かなくていいなら、ばたばた退社しなくていいし、22時過ぎに上がれるのであれば、ルーチェに行くこともできる。
閉店時間が繰り上がったことを知らなかった客が名残惜しげに去ったあと、晴也たちは手分けして店内の椅子を移動させた。床清掃はビル全体で行われるらしく、この雑居ビルに入る店は水曜定休が多いので、いつも水曜なのだとママが教えてくれた。
「エレベーターのメンテは別なんですよね?」
麗華の質問に、ママはそうなんだよ、と不満げに言った。
「年1回だからエレベーターだけ汚いんだ、前にオーナーに言ってやったんだけど」
「だいぶ古いしいっそ替えたらいいのに」
「ほんとに、1基だけなのにな」
雑談混じりに準備が終わると、3人のホステスは急いで着替えた。晴也と美智生はルーチェでナツミと落ち合う予定で、麗華は婚約者と駅前で会うからである。
「ナツミは男で来るのか?」
ママの問いに美智生ははい、と答えた。
「ゲイだらけのところに女装して行くのは微妙だって」
「今更そんなこと気にするのかぁ」
麗華は笑った。11月に女の恰好で堂々と乗り込んだ自分は、もしかして変な奴だったのだろうかと、晴也はそれこそ今更思った。
「店員もドルフィン・ファイブのメンバーも喜んでくれるのに」
「それも変な話だな」
晴也は美智生とママの会話に笑いながら、陰気な男の姿に戻った。そしてママに挨拶して店を出て、ビルから出たところで麗華と別れた。2軒隣のビルの前に立つナツミの姿が見えている。
「おはようございます、お疲れさまです」
背の高いイケメン大学生は、晴也と美智生に向かって、体育会系らしく頭を下げ、丁寧な挨拶をした。
「そちらこそお疲れさま、授業の後なんだろう?」
「めぎつねだっていつもそうでしたよ……それにもう卒業式を残すのみです」
ナツミは美智生に笑いながら答えた。
「そうか、卒業旅行は?」
「ゼミで韓国に行ってきました……ハルちゃんは卒業旅行はどこ行ったの?」
「えーっと、ゼミは北海道でサークルは箱根」
地下への階段を降りながら、意外と地味だと2人から笑われた。
「結構みんなバイトがあるとかで、アメリカやヨーロッパは難しかったんです」
「あっでも私もそんな人だから」
ナツミが自分たちに気を許し、少しずつ女の子に変化していくのがよくわかる。
店の自動ドアが開くと、店員たちがにこやかに出迎えてくれた。
「水曜に3人様は珍しいですね」
「金曜は最近混んでるしこの子が来れないんだ」
美智生は慣れた風情で店員とやり取りする。店員はカウンターに置かれた籠から、3本の白いバラを取り上げた。
「本日は水曜日初の人気投票を実施いたします、本日一番お気に召したダンサーにお渡しください」
「水曜は初めてなの?」
「はい、水曜もやって欲しいとリクエストがありまして、本日はお試しです」
良い香りを放つバラを1輪ずつ手渡され、晴也たちはすぐにテーブル席に案内された。ナツミは終演後にダンサーたちが回って来てくれることや、その際に花を渡すことなどに期待感が高まった様子である。
金曜と違って客席は薄暗く、テンションの高い話し声もしない。客層が違うことを、改めて晴也は実感する。自分たちにあからさまな好奇の視線を送ってくる男たちもいて、確かにナツミを1人で来させるには、微妙だったかもしれないと思った。
「相手を探すつもりでないなら、話しかけられても適当にやり過ごせよ」
美智生は晴也を初めて連れて来た時と同じように、ナツミに言った。
「まあみんな筋肉ダンサーたちのファンだから、ナンパはついでだったりするけどな」
「ミチルさんはこういう場所でお相手を探すの?」
ナツミの問いに、美智生は笑った。
「もう少し若い頃はそういうこともしたけど……今は無いなあ」
ビールがやって来たので、乾杯する。
最近晴也が一番時間を割いていたのは、有限会社ウィルウィンの案件だが、軌道に乗り始めたのでこれからのデータのほうが大切になるだろう。崎岡はウィルウィンの業務の半分を、4年目になる男子社員と、岡野に任せることにした。晴也は岡野に少しずつ引き継ぎを始めて、午後から2時間ほどは総務課の女子社員から引き継ぎを受けるようになった。
総務課も人員が常に不足気味のところに、1人突発的に退職が決まった。晴也に引き継ぎをする女子社員は、4月から産休に入ることが、彼女の妊娠が判った時から決まっていたにもかかわらず、休みにくいとこぼした。彼女が安心して出産に臨めるように、晴也はここ数年で一番仕事に集中している。
ウィルウィンからの誘いを、晴也は断った。晶に汐野商事の営業課と総務課の現状を話し、木許にも個人的にお礼方々メールを送った。ただ晴也は転職しないと完全に決めたわけではなく、総務の仕事を覚えてからのほうが、よりウィルウィンの役に立てるのではないかと考えていた。その頃にまだ求められて、晶と仲良くやっていたら、今度は転職を視野に入れようと思う。
「福原さんの送別会をしたいと思うんですけれど……」
晴也は総務課から戻ったところに、若い社員から声をかけられて、はあ、と間の抜けた返事をした。退職するわけではないので、別にいいのにと思う。彼は声をひそめる。
「久保さんと一緒は嫌ですよね?」
「別にいいよ、久保がいいなら」
男子社員は目を見開き、しばし沈黙した。そして久保がいないにもかかわらず、低い声で晴也に訊く。
「やっぱり和解したんですか?」
「やっぱりって?」
「昨日久保さんも、してくれるなら福原さんと纏めたらいいだろって言ったので」
晴也はふうん、と言った。
「喧嘩両成敗で営業課にも平和が戻るだろ」
「これ、福原さんが動くことなかったんじゃないですか?」
「いいんだよ、俺はぼちぼち外の空気が吸いたかったんだから」
晴也は出来れば水曜と木曜を外して欲しいと若い社員に伝えた。めぎつねでも新人の教育があり、ナツミたちが退職するまでに、彼らにある程度の仕事を覚えてもらわないといけない。
4月から金曜日が、麗華と新人2人になるので、新人が慣れるまで、混雑のピークの2時間だけ手伝ってもらえないかとママから頼まれた。基本的に暇人である晴也は、悪くない話だと思っている。開店までに行かなくていいなら、ばたばた退社しなくていいし、22時過ぎに上がれるのであれば、ルーチェに行くこともできる。
閉店時間が繰り上がったことを知らなかった客が名残惜しげに去ったあと、晴也たちは手分けして店内の椅子を移動させた。床清掃はビル全体で行われるらしく、この雑居ビルに入る店は水曜定休が多いので、いつも水曜なのだとママが教えてくれた。
「エレベーターのメンテは別なんですよね?」
麗華の質問に、ママはそうなんだよ、と不満げに言った。
「年1回だからエレベーターだけ汚いんだ、前にオーナーに言ってやったんだけど」
「だいぶ古いしいっそ替えたらいいのに」
「ほんとに、1基だけなのにな」
雑談混じりに準備が終わると、3人のホステスは急いで着替えた。晴也と美智生はルーチェでナツミと落ち合う予定で、麗華は婚約者と駅前で会うからである。
「ナツミは男で来るのか?」
ママの問いに美智生ははい、と答えた。
「ゲイだらけのところに女装して行くのは微妙だって」
「今更そんなこと気にするのかぁ」
麗華は笑った。11月に女の恰好で堂々と乗り込んだ自分は、もしかして変な奴だったのだろうかと、晴也はそれこそ今更思った。
「店員もドルフィン・ファイブのメンバーも喜んでくれるのに」
「それも変な話だな」
晴也は美智生とママの会話に笑いながら、陰気な男の姿に戻った。そしてママに挨拶して店を出て、ビルから出たところで麗華と別れた。2軒隣のビルの前に立つナツミの姿が見えている。
「おはようございます、お疲れさまです」
背の高いイケメン大学生は、晴也と美智生に向かって、体育会系らしく頭を下げ、丁寧な挨拶をした。
「そちらこそお疲れさま、授業の後なんだろう?」
「めぎつねだっていつもそうでしたよ……それにもう卒業式を残すのみです」
ナツミは美智生に笑いながら答えた。
「そうか、卒業旅行は?」
「ゼミで韓国に行ってきました……ハルちゃんは卒業旅行はどこ行ったの?」
「えーっと、ゼミは北海道でサークルは箱根」
地下への階段を降りながら、意外と地味だと2人から笑われた。
「結構みんなバイトがあるとかで、アメリカやヨーロッパは難しかったんです」
「あっでも私もそんな人だから」
ナツミが自分たちに気を許し、少しずつ女の子に変化していくのがよくわかる。
店の自動ドアが開くと、店員たちがにこやかに出迎えてくれた。
「水曜に3人様は珍しいですね」
「金曜は最近混んでるしこの子が来れないんだ」
美智生は慣れた風情で店員とやり取りする。店員はカウンターに置かれた籠から、3本の白いバラを取り上げた。
「本日は水曜日初の人気投票を実施いたします、本日一番お気に召したダンサーにお渡しください」
「水曜は初めてなの?」
「はい、水曜もやって欲しいとリクエストがありまして、本日はお試しです」
良い香りを放つバラを1輪ずつ手渡され、晴也たちはすぐにテーブル席に案内された。ナツミは終演後にダンサーたちが回って来てくれることや、その際に花を渡すことなどに期待感が高まった様子である。
金曜と違って客席は薄暗く、テンションの高い話し声もしない。客層が違うことを、改めて晴也は実感する。自分たちにあからさまな好奇の視線を送ってくる男たちもいて、確かにナツミを1人で来させるには、微妙だったかもしれないと思った。
「相手を探すつもりでないなら、話しかけられても適当にやり過ごせよ」
美智生は晴也を初めて連れて来た時と同じように、ナツミに言った。
「まあみんな筋肉ダンサーたちのファンだから、ナンパはついでだったりするけどな」
「ミチルさんはこういう場所でお相手を探すの?」
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