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太客とマフラー
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コートやセーターをクリーニング店から引き取った俺は、家に戻りそれらを片づけ始め、ふと手を止める。ネイビーにダークレッドの細いストライプが入った、カシミヤのマフラー。きっと上等なので、これだけはクリーニング店に任せるようにしていた。
俺は大学で音楽を勉強して、卒業後に一瞬「期待のテノール」などともて囃されたが、求められて歌い過ぎた挙句に喉を壊した。当然俺を見向く者は誰もいなくなり、歌うしか能が無かった俺が、安酒場のホールで働いたあとに、プロの女たちに紛れて身体を売るようになるまで、そう時間はかからなかった。
俺を買ったのは、比較的金持ちの男が多かった。俺はタチもネコもいけるので、コンスタントに指名を受けていたと思う。
最初に会った時、その人は随分と憔悴していた。肌は青白く、柔らかい色の髪はばさばさに伸びて、同じ色の瞳にも生気が無かった。
金で夜の相手を買うようなことはしなさそうな人種だったが、おそらく彼は何かが理由で自暴自棄になっていた。その証拠に、間違えて男を選び部屋に招いてしまったとわかっても、まあいいと言ってそのまま俺を抱いた。
それでも始終丁寧に扱ってくれたし、チップを随分はずんでくれたので、俺は満足だった。しかも再び指名をしてきて、ホテルに行く前に食事に連れて行ってくれるという。太客を掴んだかもしれないと、俺は密かにうきうきした。
ところが。
「ヨハン・ベーレンスさんだね」
やつれ気味の太客は、俺の本名と舞台歴をすらすらと口にした。痩せて髪の色も形も変え、嗄れ声でしか話せない俺が身バレするとは思わず、衝撃のあまり気を失いそうになった。
「どうしてこんなことをしてる?」
問いかけが腹立たしく、俺はレストランの中で暴れないようにするのが精一杯だった。
「……ほっといてください、あなたに関係ない」
「喉を潰したという噂は本当だったのか」
俺は唇を噛んで、黙って俯いた。太客は店員を呼んで食事を始め、俺も席を立てばいいのに、空腹に負けて馳走になってしまった。それくらい、まともなものを胃に入れない毎日を過ごしていたのだ。
ほとんど話さないまま食事を終えてレストランを出ると、雪が降っていた。薄いコートを着ていた俺が寒さにひとつくしゃみをすると、太客は自分の襟元のマフラーを外し、俺の首にふわりと巻いてくれた。
柔らかくて暖かく、いい匂いがした。幸福感に包まれ、思わずそれに鼻まで埋める。太客はゆっくり言った。
「もう君を抱かないから、ホテルで話を聞かせてくれないか」
話すことなど何も無い。歌えなくなって落ちぶれただけのことだ。ぼそぼそとそう答えると、太客は何故か申し訳無さそうな表情になった。
「きみは自分の歌の価値をわかっていなかったんだね……声も確かに良かったけれど、私たちの会社は音が綺麗なだけの音楽家は支援しない」
俺はその時、若い演奏家にやたらと金を出す物好きなチョコレート会社、コンディトライ・フォーゲルベッカーの名を思い出した。俺が職業音楽家として最初に出場した、国際声楽コンクールで2位になった時、2年間バックアップすると申し出てくれたのだ。
以降、オペラで役付きになる度に舞台に協賛してくれて、どれだけ誇らしかったか。思えば、俺の歌手人生で一番輝いていた頃を支えてくれた会社だった。
「私たちは君の歌の内面を評価したんだ、それは元通り歌えなくなっても、失われないと思うんだけれど」
本当は、歌いたいという思いをずっと持て余していた。太客のその言葉に思いが決壊して、俺はその場で人目も憚らず泣いた。
歌ってもいい。甘さの中に少しだけスパイシーさが混じるマフラーの匂いは、俺にそう告げてくれているようだった。
俺は借りたマフラーを、未だにあの太客、ノア・カレンバウアーに返すことができていない。フォーゲルベッカーのメセナ部門のトップだったあの人は、あの後すぐに日本の支社に行ってしまったからだ。
経済界の噂では、カレンバウアーは左遷されたらしいが、フォーゲルベッカーが日本で知名度を上げるのに貢献し、さらに何人かの優秀な音楽家を見つけて支援していると聞く。カレンバウアーが見出した歌手が、ヨーロッパに出てくるのが楽しみだ。
俺は医者を替えて喉を診てもらい、今の声帯で何が歌えるかを模索した。そして現在、昼職で働きながら、フォークロアバンドで編曲とヴォーカルをやっている。割と受けは良く、クラシック時代のファンもライブに来てくれることがある。荒んでいたあの頃を思うと、夢のようだ。
もうあのいい匂いはしなくなったが、ネイビーのマフラーは、今でも俺のお守りみたいなものだ。もしカレンバウアーに会うことがあっても、返さないかもしれないなと思っている。
*初出 2025.4.27 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「借り物」「匂い」
『恋する鳥刺し』の番外編の位置づけで温めていたネタでしたが、放出してしまいました。ノアは男も女も抱ける人です(ネタバレ?)。
攻め/ヒーローを「愛の伝道師」にしがちなのは、ある意味私の性癖かもしれません。もしかすると、受け/ヒロイン一筋でないという印象を与えるかもしれないのですが、やっぱりその包容力で、受け/ヒロイン以外の人生にも何かを深く刻んでいくって、良いと思いませんか?
俺は大学で音楽を勉強して、卒業後に一瞬「期待のテノール」などともて囃されたが、求められて歌い過ぎた挙句に喉を壊した。当然俺を見向く者は誰もいなくなり、歌うしか能が無かった俺が、安酒場のホールで働いたあとに、プロの女たちに紛れて身体を売るようになるまで、そう時間はかからなかった。
俺を買ったのは、比較的金持ちの男が多かった。俺はタチもネコもいけるので、コンスタントに指名を受けていたと思う。
最初に会った時、その人は随分と憔悴していた。肌は青白く、柔らかい色の髪はばさばさに伸びて、同じ色の瞳にも生気が無かった。
金で夜の相手を買うようなことはしなさそうな人種だったが、おそらく彼は何かが理由で自暴自棄になっていた。その証拠に、間違えて男を選び部屋に招いてしまったとわかっても、まあいいと言ってそのまま俺を抱いた。
それでも始終丁寧に扱ってくれたし、チップを随分はずんでくれたので、俺は満足だった。しかも再び指名をしてきて、ホテルに行く前に食事に連れて行ってくれるという。太客を掴んだかもしれないと、俺は密かにうきうきした。
ところが。
「ヨハン・ベーレンスさんだね」
やつれ気味の太客は、俺の本名と舞台歴をすらすらと口にした。痩せて髪の色も形も変え、嗄れ声でしか話せない俺が身バレするとは思わず、衝撃のあまり気を失いそうになった。
「どうしてこんなことをしてる?」
問いかけが腹立たしく、俺はレストランの中で暴れないようにするのが精一杯だった。
「……ほっといてください、あなたに関係ない」
「喉を潰したという噂は本当だったのか」
俺は唇を噛んで、黙って俯いた。太客は店員を呼んで食事を始め、俺も席を立てばいいのに、空腹に負けて馳走になってしまった。それくらい、まともなものを胃に入れない毎日を過ごしていたのだ。
ほとんど話さないまま食事を終えてレストランを出ると、雪が降っていた。薄いコートを着ていた俺が寒さにひとつくしゃみをすると、太客は自分の襟元のマフラーを外し、俺の首にふわりと巻いてくれた。
柔らかくて暖かく、いい匂いがした。幸福感に包まれ、思わずそれに鼻まで埋める。太客はゆっくり言った。
「もう君を抱かないから、ホテルで話を聞かせてくれないか」
話すことなど何も無い。歌えなくなって落ちぶれただけのことだ。ぼそぼそとそう答えると、太客は何故か申し訳無さそうな表情になった。
「きみは自分の歌の価値をわかっていなかったんだね……声も確かに良かったけれど、私たちの会社は音が綺麗なだけの音楽家は支援しない」
俺はその時、若い演奏家にやたらと金を出す物好きなチョコレート会社、コンディトライ・フォーゲルベッカーの名を思い出した。俺が職業音楽家として最初に出場した、国際声楽コンクールで2位になった時、2年間バックアップすると申し出てくれたのだ。
以降、オペラで役付きになる度に舞台に協賛してくれて、どれだけ誇らしかったか。思えば、俺の歌手人生で一番輝いていた頃を支えてくれた会社だった。
「私たちは君の歌の内面を評価したんだ、それは元通り歌えなくなっても、失われないと思うんだけれど」
本当は、歌いたいという思いをずっと持て余していた。太客のその言葉に思いが決壊して、俺はその場で人目も憚らず泣いた。
歌ってもいい。甘さの中に少しだけスパイシーさが混じるマフラーの匂いは、俺にそう告げてくれているようだった。
俺は借りたマフラーを、未だにあの太客、ノア・カレンバウアーに返すことができていない。フォーゲルベッカーのメセナ部門のトップだったあの人は、あの後すぐに日本の支社に行ってしまったからだ。
経済界の噂では、カレンバウアーは左遷されたらしいが、フォーゲルベッカーが日本で知名度を上げるのに貢献し、さらに何人かの優秀な音楽家を見つけて支援していると聞く。カレンバウアーが見出した歌手が、ヨーロッパに出てくるのが楽しみだ。
俺は医者を替えて喉を診てもらい、今の声帯で何が歌えるかを模索した。そして現在、昼職で働きながら、フォークロアバンドで編曲とヴォーカルをやっている。割と受けは良く、クラシック時代のファンもライブに来てくれることがある。荒んでいたあの頃を思うと、夢のようだ。
もうあのいい匂いはしなくなったが、ネイビーのマフラーは、今でも俺のお守りみたいなものだ。もしカレンバウアーに会うことがあっても、返さないかもしれないなと思っている。
*初出 2025.4.27 #創作BL版深夜の60分一本勝負 お題「借り物」「匂い」
『恋する鳥刺し』の番外編の位置づけで温めていたネタでしたが、放出してしまいました。ノアは男も女も抱ける人です(ネタバレ?)。
攻め/ヒーローを「愛の伝道師」にしがちなのは、ある意味私の性癖かもしれません。もしかすると、受け/ヒロイン一筋でないという印象を与えるかもしれないのですが、やっぱりその包容力で、受け/ヒロイン以外の人生にも何かを深く刻んでいくって、良いと思いませんか?
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