秋の風 冬の色

小谷野 天

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7章

春を待つもの

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 雨混じりの雪が降っている。少し前までは、さわさわとした白い雪だったのに、今日は、透明な雨の中に申し訳無さそうに小さな塊となって地面に落ちてくる。

 NICUに久しぶりに出勤した日。
 優芽が早和に声を掛けた。
「早和、びっくりしたよ。もう、大丈夫なの?」
「うん。迷惑掛けてごめんね。」
「薬ちゃんと飲まきゃダメだからね。」
「私、ずっと飲み続けるのかな。」
「薬で健康が守られるなら、安心じゃん。」
「そっか。」
「今、ここは落ち着いてるよ。」
「保育器、全部埋まってないもんね。」

 長岡医師がきた。
「秋元さん、久しぶりだね。」
「先生、ご迷惑お掛けしました。」
「看護師さんが、病気になったら、誰を頼ればいいだろうね。」
「先生、私達だって、普通の人間ですよ。病気にもなるし、嘘だってつく。」
 優芽がそう言った。

 夕方。
 ダウン症の赤ちゃんがやってきた。
 保育器で気持ちよさそうに眠る赤ちゃんの背中を、奏はそっと触った。
「天使だね。」
 奏が言った。
「本当にそう思う。」
 早和が言った。
「すごくいい子だから、神様が意地悪したって言われてる。」
「そんな意地悪な神様もいるんだね。」
 
 面会にきた母親は、5人目に生まれたその子を愛おしそうに眺めていた。
「この子を産んで良かった。」
 早和にそう言った。
「ダウン症だってわかって、みんなに産むのを反対されたの。子供達は兄弟が増えるのをすごく楽しみにしてて、夫はまだ、怒っているけれど、こんなに可愛いんだもの、きっとわかってくれるはず。」
 母親が伸ばした指に、赤ちゃんの手がギュッと握った。
「看護師さん、こんなにかわいい瞬間を見れるなんて、私は幸せだね。」

「早和。」
「ご飯食べに行こう。梶原先生の奢り。」
 帰ろうとする早和を優芽が呼び止めた。
「秋元さんの退院祝い。」
 梶原と奏が立っている。
「長岡先生と、師長も後からくるから。」

 店につくと、奏が早和の左に座った。
「秋元さん、しばらくお酒はダメだからね。」
 梶原が言った。
「薬を捨ててたなんて、恥ずかしいわよ。」
 師長が言った。
「飲もうとして、落としたんです。」
「だったら、代わりをもらえばいいじゃない。」
「看護師さんは、みんな忙しいそうで。」
「どこも人が足りないんだよね。」
 梶原がそう言った。
 飲み物が運ばれてきた。
「退院おめでとう。」
 長岡が乾杯をした。
「澤口先生は、小児科へ行くんでしょう?」
 優芽が長岡に聞いている。
「元々小児精神が専攻だからね。」
「先生はNICUが好きだと思ってた。」
 優芽がそう言った。
「NICUも好きだよ。」
「だったら、小児科なんて行かないで、ずっとNICUに入ればいいのに。」
「小児精神は、最近需要が多くてね。開業してる医者なんか、3年先まで予約がいっぱいだって言ってるよ。」
 長岡が言った。
「自閉症とか、アスペルガーとか、そういった病気を診るんでしょう?」
 優芽が奏に聞いた。
「そうだね。」
「難しいね。どうすれば良くなるとか、どうすれば治るとか、わからないもん。しかも、相手は子供だよ。」
 師長は奏に、
「あなたのお子さんは、発達障害ですって言われるのって、一生治らない病気を抱えて生きていけって言われていると同じ。どうやって、親に伝えればいいか、言葉につまるね、先生。」
「みんな、何かしら特性を持ってますよ。それをうまく隠せるかどうかの話しです。」
 奏が言った。
「早和はやっぱり透析室に行くの?夜勤はさせないって、澤口先生が言ってたから。」
「うちも人が足りないから、そう簡単には透析室には回せない。」
 師長はそう言った。
「川島さんも、妊婦になったのよ。」
「そうなの。」
「おめでたい事だけど、みんなが負担なく働けるだけのスタッフを確保してほしいわね。」
 師長はため息をついた。
 早和は、養護学校の面接を、週末に受ける事を奏に伝えていた。
 この状況で退職するなんて、罪悪感でいっぱいになった。
「不思議ですよね。ダウンちゃんって定期的にやって来る。」
 奏が言った。
「本当にそう思う。」
 長岡が言った。
「もう、NICUを辞めようかなって、思うタイミングで、やって来るんだよ。」
「先生も辞めたかったの?」
 優芽が長岡に聞いた。
「そうだったのかもしれないな。」
「長岡先生はNICUしか勤められないでしょう。どこ行っても他の先生と揉めるって有名だったよ。」
 梶原はそう言った。
「派閥があるからね。第一とか、第二とか、そんな派閥で分けて、患者を診るっておかしいと誰も思わないのか。」
 長岡はそう言った。
「数少ない科の医者は、はみ出し物だからね。かえって気が楽でいいね。」
 梶原は言った。
「ねえ、秋元さん、赤ちゃんって、時々笑うでしょう。
 長岡は早和に言った。
「はい。」
「空笑いって言ってね、夢を見てるのかって言われてるけど、生まれてすぐなのに、夢を見るもんなのかなって、ずっと不思議だったんだ。」
「先生でも、わからないことがあるんですね。」
 早和はそう言った。
「この前、師長がね、赤ちゃんが笑うのは、親を育児放棄させない技だって言うんだよ。」
「師長、そうなの?」
 優芽が聞いた。
「そうよ。大人が疲れたタイミングで、笑うのよ。うちの息子もそうだった。子供を育てるのって大変よ。毎日毎日休みなし。女なんて産んですぐに母親になれって責められるんだから。疲れて、ボロボロになった時、ニッコリ笑われるとね、もうどうでもよくなって、可愛いって、抱きしめたくなる。」
 師長は言った。
「NICUの赤ちゃんも、その技があるって、師長は言うんだよ。」
「あるわよ。私がイライラして少しやんちゃに物にあたると、どこかの保育器の子が、ニッコリ笑うの。」
「私も、それ思ってた。」
 優芽が言った。
「いいなぁ、NICUは。」
 梶原がそう言うと、
「大人は梶原先生じゃなきゃダメだって、はっきり言えるでしょう?だから、先生の外来は、いつも混んでますよ。」
 長岡が言った。
「秋元さんは、澤口先生に、空笑いされたのか?」 
 梶原は早和に聞いた。
「なにがですか?」
「何度断っても、澤口先生に時々空笑いされたから、秋元さんはついてきたんでしょう?」
「梶原先生、澤口先生は空笑いなんかしませんよ。いつも笑ってますから。怒ることなんてないんじゃないですか?」
「そうだったね。」
 梶原が言った。
「2人は結婚するのか?」
 長岡が言った。
「まだ、決めてません。」
 奏が早和の顔を見る。
「若い2人だからね。ちょっと、いろんな事を見過ぎたちゃったけど。」
 師長が言った。
「今の人達が結婚に前向きになれないのは、誰かと生活を共にするのが、苦痛なのかしらね。プライバシーやら、プライベートが重視されて、人との関わりが気薄になって、しかも、家族の形が見えない世の中だし。」
「師長の様に、お節介な人がいなくなったしね。」
 長岡が言った。
「最近は、なんで看護師になったんだろうって子が増えたね。スマートな仕事をするけど、気持ちの入らない子がたくさんいる。昔の看護婦さんって、もっとお節介で、おもしろい話しをたくさんしてたと思うけど。」
「梶原先生、看護師だって結局は技術屋だろう。母親の様な事を求めたれたら、誰もなり手がいなくなっちゃうよ。使命感とか、義理と人情なんて、今の若い子に一番嫌われる。失敗しないようにマニュアルがあって、定時で帰れるように業務が整理されてるのが、理想の職場だよ。ほら、師長、頑張ってよ。」
 長岡がそう言うと、師長はため息をついた。
「私は師長が好きですよ。面会に来ない親に電話を掛けてるのだって、マニュアルなんかない、師長の気持ちでやってる事ですから。誰も真似できない。」
 優芽が言った。
「師長、NICUの看護師達は、ちゃんと師長の背中を見て育ってるんだね。」

 お店を出ると、師長と優芽は、梶原ともう一軒行くと、歩いて行った。長岡は妻が迎えにきた車で、帰っていった。
「早和、今日は家においでよ。」
「先生の家はここから近いの?」
「少し歩くかな。」
「そっか。」
「どうした、疲れたの?」
「うん。」
「タクシーに乗ろうか?」
「ううん。家に帰る。」
「じゃあ、俺も一緒に行く。寒くなったからね、やっぱりタクシーで帰ろうか。」
 
 早和の部屋につくと、奏がストーブをつけた。
「先生。」
 早和が奏の隣りに座った。
「どうしたの?」
 奏は早和の冷たい手を包んだ。
「辞めるって言いづらいな。」
「自分で決めたんだから、ちゃんと言わなきゃ。」
「今日、ダウンちゃんが来たでしょう。」
「そうだね。」
「もう、何人もダウンちゃんに会ってるのに、いつもやっと会えたって思うの。親は大変な思いをしてるのに、勝手だね。」
「長岡先生も言ってただろう。あの子達は、特別な物を持って生まれてくるって。きっと、忘れていた優しい感情を、思い出させてくれるんだよね。」
「生まれてすぐの子達に会える仕事につけるなんて、本当は貴重な事だったのに。」
「どんな時に会えたって、その時は二度とない瞬間なんだよ。」
「先生は、本当に優しいね。優しくて頭がいい。」
「こんな人、どこにもいないだろう。」
「そうだね。」
「結婚しようか。」
 早和は首を振った。

 ストーブに暖められた、乾いた空気が部屋の中を行ったり来たりしている。
 当たり前のように奏に寄り掛かる様になったのは、いつからだろう。

 先生。
 ごめんなさい。少しだけ寄り掛かろうとして、ずっと寄り掛かったままだね。
 もう少ししたら、ちゃんと1人で歩いていくから。
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