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9章
夏が運んできたもの
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ずいぶん雨が続いていると思ったら、いつの間にか梅雨に入っていた。
生徒の1人が、早和の所に葉っぱを持ってきた。
「先生、見て。」
葉っぱの上には、ゆっくり進む蝸牛がいた。
「お腹空いてるじゃない?」
女の子がそう言ったので、早和は引き出しからビスケットを出して渡した。
「牛乳、飲める?」
「うん。」
女の子は食べ終えると、教室へ帰っていった。
保健室に残された蝸牛を、雨の中、そっと中庭に返すと、凌が廊下で待っていた。
「秋元先生、またお菓子あげたんですか?」
「だって、きっと朝ごはん食べてないんだろうなって思ったから。」
「まーちゃんは、食べて来てませんよ。朝寝坊ですからね。お母さんに、パンかなにか持たせるように言いますか?」
「それは、先生にお任せします。だけど、何か理由を見つけて保健室にくるのって、そんなにいけませんかね。」
早和が言うと、
「秋元先生、強くなりましたね。」
凌はそう言って笑った。
「ごめんなさい、出しゃばりました。」
「まーちゃんは毎日来ますよ。それでもいいんですか?」
「いいですよ、私はそれで。」
雨が上がったので、朝持ってきた傘を学校に忘れた。初めはポツポツ降っていた雨も、土砂降りになってきた。
学校まで、傘を取りに行こうかと思ったけど、このまま家に走って行くほうが早いと思って、早和はカバンをしっかり抱えると、家までの道を走って帰った。途中で大きな水溜りに足を入れてしまい、靴の中まで濡れてしまうと、誰かが早和の肩を掴んだ。
「秋元先生、傘、忘れたでしょう。」
凌は早和の傘を差していた。
「行きますよ。」
凌は早和の肩を掴むと、傘を差しながら、家まで送ってくれた。
「原田先生、ありがとう。」
「あっ、俺、自分の傘、持ってくるの忘れた。」
「アハハ、それならこれ使ってください。」
「秋元先生、少しお邪魔してもいいですか?」
「そうですね。先生、濡れたでしょうから、タオル持ってきます。小降りになるまで、休んでいってください。」
早和は濡れた靴下を脱ぐと、洗濯機に放り込んだ。
「どうぞ。」
凌が入ってきた。
「ストーブつけますから、服、乾かしてください。」
早和は凌にタオルを渡した。
凌は上着を脱ぎ、窓の所にそれを干した。
コーヒーを淹れている早和に
「先生こそ、着替えないと風邪ひきますよ。」
凌が言った。
「これ、淹れたら、着替えますから。」
早和はコーヒーを凌に出した。
部屋着に着替えてストーブの前に座ると、
「寒くないの?」
凌が聞いてきた。
「少し寒いです。」
そう言って、パーカーを羽織った。
「昨日、休んでたけど。」
「病院に行ってました。」
「耳の?」
「いいえ、腎臓の。」
「腎臓?」
「片方しか働いていないんです。」
「そうなんだ。」
早和は奏や梶原に会わないよう、病院を変えた。
薬だけを大量にくれた病院では、誰とも目を合わせて話す事はなかった。
「秋元先生は、いろいろ大変な事があるんだね。」
「私は欠けてる人間なんですよ。」
早和はそう言った。
「学校には、だいぶ慣れたでしょう?3ヵ月超えましたね。」
「そうですね。」
「保健室には、いつも誰か来てますね。」
「校長先生もよく来ます。胃薬ほしいって。こんなに誰かと話したのって、初めてです。」
「前の職場はどうして辞めたの?」
「すごくいいところでしたよ。だけど、なんだろう。別の場所で働きたくなって。」
「そうですか。」
「原田先生、もう1杯飲みますか?」
「もう、いいですよ。良かったら、晩ごはん一緒に食べませんか?」
早和は時計を見た。
「お腹、すきましたよね。何か作ります。」
早和は台所へ向かった。
「あんまり、上手じゃないけど。原田先生は、何でも食べれますか?」
「食べれるよ。」
「秋元先生は?」
「私はレーズンが苦手です。」
「あっ、俺も苦手。」
「大人になったら、食べれるようになるかと思ったのに、やっぱり食べれませんでした。」
「俺もね、ぶどうは食べれるのに、レーズンは苦手なんだよね。」
「私もそうです。」
凌は早和の隣りにきた。
「一緒にやろうよ。」
「いいですよ。座っててください。」
「一緒にやるから。これ、どうすればいい?」
「じゃあ、皮剥いてくれますか?」
「わかったよ。もしかして、カレー?」
「シチューです。カレーにしますか?」
「シチューでいいよ。」
「原田先生は、料理するんですか?」
「時々ね。秋元先生は?」
「私はぜんぜんしません。今日は奇跡的に冷蔵庫に何か入ってました。自分で作ったものって、あまり美味しくないし。自分が食べると思ったら、どうでも良くなります。」
「じゃあ、誰かのためなら、精一杯作るの?一緒に食べたら、美味しいって思うの?」
「それは、どうかな。」
「秋元先生って、いつもどこか離れた所から、自分を見てるよね。感情的にならないから、生徒の事も冷静に分析できる。」
「私だって、悔しくて、泣くこともありますよ。たまにですけど。」
「淋しくて泣く事は?」
「それはないです。」
「好きな人とかいないの?」
「いません。あと、少し煮込むんで、もう座ってていいですよ。」
出来上がったシチューを食べると、凌は美味しいと言った。
「それは、良かった。」
「今度、シチューのお礼に、美味しいもの食べに行こうよ。」
「原田先生が、私の傘を届けてくれたんですから、お礼をするのは私の方です。そうだ、原田先生。パソコン、教えてくれませんか?画像がなかなか貼り付けられなくて。」
「いいよ。食べたら、見せて。」
早和がパソコンを開くと、
「野球好きなの?」
凌が聞いた。
「そうです。もう引退したけど、岡田の背中が初恋でした。」
「背中に初恋なんて、変わってるね。」
「ねぇ、原田先生、この画像を貼り付けたいんです。」
「ほら。」
早和は順番をメモしていた。
「ありがとうございます。次は1人でできそうです。」
「もう、少し便利な方法も教えてあげる。」
早和がパソコンを覗き込んでいるので、凌はやってごらん、と早和と場所を変わった。
「できた。」
後ろを振り返った早和を、凌は抱きしめた。
「原田先生、苦しいよ。」
「ごめん。」
凌は早和から離れた。
「俺、秋元先生の事、好きなんだ。」
凌は早和に近づこうとしたが、早和は後ろに下がった。
「原田先生、私、ここに来る前にね、そんな感情はみんな捨ててきたの。」
「そっか。簡単には心を開かない人だとは思ったけど、もう少し、作戦を考えるよ。今日はごちそうさま。今度、野球でも観に行こうよ。」
凌は帰っていった。
早和は冷たくなった体を擦った。本当は早くにお風呂に入ってベッドに横になりたかった。
雨の中、追いかけてくれた凌に悪くて、ただなんとなく、時間をやり過ごした。
早くお風呂に入って眠ろう。
早和は浴室へ向かった。
次の日。
体が少し熱っぽく感じたので、早和は保健室にあった市販の風邪薬を飲んだ。
梶原が知ったら、きっと怒るに違いない。
良くしてくれた師長の事も、仲良くしてくれた優芽の事も、いろんな事を教えてくれた長岡の事も、そして奏の事も、結局、自分は裏切ってしまった。
嘘つきなのは、周りじゃなくて、自分の方。
早和はめまいがして目を閉じた。
「先生。」
まーちゃんが入ってきた。
「先生、見て。」
まーちゃんは蛇を持ってきた。
「まーちゃん、早く離しなよ。かじられるかもしれないよ。」
「さっきかじられた。」
「えーっ、困ったなぁ。」
まーちゃんが蛇を離すと、保健室の床をニョロニョロと這い始めた。
「ちょっと、どうしよう!」
早和の声を聞きつけて、玲が保健室に入ってきた。
「きゃー、ヘビ!」
何人か先生が蛇を外へ逃がすと、
「まーちゃん、かじられたんですよ。」
早和は言った。
「毒はないと思うけど、一応病院に行っておこうか。」
早和はまーちゃんを連れて病院へ行った。
まーちゃんのお母さんにも連絡し、病院で待ち合わせをした。
「先生。ヘビ、お腹すいてたね。」
「そうだね。病院が終わったら、ご飯にしようか。」
まーちゃんのお母さんが来た。
「先生、すみません。」
「お母さん、毒はないと思いけど、念の為に病院に来ました。」
2人は診察室に呼ばれて入って行った。
包帯を巻いて出てきたまーちゃんは、
「先生、ヘビ、お腹すいてたよ。」
そう言った。
「まーちゃん、ヘビはもういないよ。」
まーちゃんの母が言う。
「まーちゃんがお腹、すいてるんでしょうね。」
早和はまーちゃんの母親に言った。
「私は、お腹すいてないよ。」
「わかったよ、まーちゃん。ヘビのご飯、買ってこよう。」
まーちゃんの母は、娘の気持ちがわかった様だ。
「先生にいつもお菓子をもらってるって聞きました。まーちゃんは朝寝坊で、いつも食べる時間がなくて、何回かおにぎりを持たせたんですけど、自分が気に入った場所じゃないと食べない子でね、自分はお腹がすいてないって、繰り返し言うようになったんですよ。お菓子を食べても安心できる保健室は、すごく気に入ったんでしょうね。」
「お母さん、家に帰る?」
「帰ろう。ヘビさんのごはん、買って帰ろう。」
「先生、またね。」
「まーちゃん、またね。」
「早和!」
「先生。どうしてここに?」
「言いたいことが山程あるよ。仕事が終わったら、学校へ迎えに行くから。」
「先生、ごめんなさい。もう、話すことは何もない。」
「早和がなくても、俺はあるんだよ。あの子の通ってる学校にいるんだろう。夕方、迎えに行くからね。」
白衣を着た奏を初めて見た。
足早に呼びに来た看護師と、奏は診察室へ歩いて行った。振り返って広がった白衣の裾が、早和の目に焼き付いていた。
あの頃、いつも手を温めていた奏は、人がごった返す中に消えていった。
「秋元先生。」
凌が早和を呼んだ。
「原田先生。」
「校長から迎えに来るように言われたから。まーちゃんは?」
「さっき、母親と帰りました。傷も大した事はないけど、念の為、薬が出たみたいです。」
「そっか。まーちゃん、薬飲めるかなぁ。いつも隙を見て捨てちゃうみたいだから。」
「難しいですね。飲みたくない薬を飲むのは。」
早和は小児科外来を見つめていた。
「秋元先生、車停めてあるから、帰ろう。」
早和は凌と駐車場へ向かった。
「すごく混んでるんですね。」
「今日は、小児精神の日だからね。うちの学校の生徒もけっこう、通ってるよ。今年から新しい先生が来たみたいだね。すごく評判がいいんだって。」
「そうなんですか。」
「秋元先生、早く。」
早和は車に乗った。
「まーちゃん、とうとうヘビまで持ってきたか。」
凌が言った。
「私が保健室にくる口実を求めたからですよね。理由なんかなくても、何も聞かないで入れればよかった。」
「生徒の中には、まーちゃんのように、危険の認識が薄い子も多いからね。」
「すみませんでした。甘かったです。」
「秋元先生が謝る事ないよ。これから、まーちゃんは二度とヘビを捕まえようとしなくなくなるんだし。」
「そうでしょうか。」
「大人が教える事もあるけど、自分で学んでいく事だってたくさんあるよ。」
「原田先生、明日からどうすればいいですか?」
「そんなに深く考えなくても、またおいでって、一言言えばいいだろう。まーちゃんは、約束は絶対守るから。」
「原田先生、すごいな。」
「俺も新人の頃は、すごく悩んだよ。悩まないでできる仕事じゃないからね。あの頃、校長はまだ教頭でね。授業もしてたんだよ。」
「そうだったんですか。校長先生の授業、受けてみたいなぁ。」
「ねえ、秋元先生。」
「なんですか?」
「今度、野球観に行こうって約束だけど、今度の週末はどう?」
早和は考えていた。
「無理ならいいよ。急に言われたって困るだろうし。秋元先生の都合の良い時でいいから。」
「今日じゃ、ダメですか?」
「それは急に過ぎるよ。球場まで行く間に試合が終ってしまう。」
「今日は木曜日だから、野球はありません。それに、雨だし。」
「ドームだから、雨なんて関係ないでしょう。」
「外球場は雨だと中止なんですよ。」
「秋元先生、それなら土曜日ならいいでしょう?」
「野球なんていいんです。今日、一緒にいてくれませんか。」
「どうしたの、急に。」
「ごめんなさい。無理な事言って。」
「わかった。秋元先生、それなら家においで。」
早和は凌の顔を見つめた。
「話したい事、たくさんあるから、泊まっていきなよ。」
保健室の窓を少し開けると、蝉の鳴き声が小さく聞こえる。梅雨が明けると、あんなに降っていた雨が嘘のように、降らなくなった。少し湿った舗道が、今は時々恋しくなる。
先生。
なんでだろう。誰かの気持ちをうまく受け止めることができないよ。自分の気持ちだって、うまく渡す事ができない。
どうしてこんなに好きなのに、先生を遠ざけようとするのかな。
原田先生といるとね、いろんな事を教えてもらえるの。いろんな心が見えるみたい。
先生も、そうなの?
あの頃、赤ちゃんの小さな背中を優しく触っていたのは、先生しかわからない話しをしていたんだね。
優秀なお医者さんなんだから、片方欠けている私の事なんか、早く忘れて。
生徒の1人が、早和の所に葉っぱを持ってきた。
「先生、見て。」
葉っぱの上には、ゆっくり進む蝸牛がいた。
「お腹空いてるじゃない?」
女の子がそう言ったので、早和は引き出しからビスケットを出して渡した。
「牛乳、飲める?」
「うん。」
女の子は食べ終えると、教室へ帰っていった。
保健室に残された蝸牛を、雨の中、そっと中庭に返すと、凌が廊下で待っていた。
「秋元先生、またお菓子あげたんですか?」
「だって、きっと朝ごはん食べてないんだろうなって思ったから。」
「まーちゃんは、食べて来てませんよ。朝寝坊ですからね。お母さんに、パンかなにか持たせるように言いますか?」
「それは、先生にお任せします。だけど、何か理由を見つけて保健室にくるのって、そんなにいけませんかね。」
早和が言うと、
「秋元先生、強くなりましたね。」
凌はそう言って笑った。
「ごめんなさい、出しゃばりました。」
「まーちゃんは毎日来ますよ。それでもいいんですか?」
「いいですよ、私はそれで。」
雨が上がったので、朝持ってきた傘を学校に忘れた。初めはポツポツ降っていた雨も、土砂降りになってきた。
学校まで、傘を取りに行こうかと思ったけど、このまま家に走って行くほうが早いと思って、早和はカバンをしっかり抱えると、家までの道を走って帰った。途中で大きな水溜りに足を入れてしまい、靴の中まで濡れてしまうと、誰かが早和の肩を掴んだ。
「秋元先生、傘、忘れたでしょう。」
凌は早和の傘を差していた。
「行きますよ。」
凌は早和の肩を掴むと、傘を差しながら、家まで送ってくれた。
「原田先生、ありがとう。」
「あっ、俺、自分の傘、持ってくるの忘れた。」
「アハハ、それならこれ使ってください。」
「秋元先生、少しお邪魔してもいいですか?」
「そうですね。先生、濡れたでしょうから、タオル持ってきます。小降りになるまで、休んでいってください。」
早和は濡れた靴下を脱ぐと、洗濯機に放り込んだ。
「どうぞ。」
凌が入ってきた。
「ストーブつけますから、服、乾かしてください。」
早和は凌にタオルを渡した。
凌は上着を脱ぎ、窓の所にそれを干した。
コーヒーを淹れている早和に
「先生こそ、着替えないと風邪ひきますよ。」
凌が言った。
「これ、淹れたら、着替えますから。」
早和はコーヒーを凌に出した。
部屋着に着替えてストーブの前に座ると、
「寒くないの?」
凌が聞いてきた。
「少し寒いです。」
そう言って、パーカーを羽織った。
「昨日、休んでたけど。」
「病院に行ってました。」
「耳の?」
「いいえ、腎臓の。」
「腎臓?」
「片方しか働いていないんです。」
「そうなんだ。」
早和は奏や梶原に会わないよう、病院を変えた。
薬だけを大量にくれた病院では、誰とも目を合わせて話す事はなかった。
「秋元先生は、いろいろ大変な事があるんだね。」
「私は欠けてる人間なんですよ。」
早和はそう言った。
「学校には、だいぶ慣れたでしょう?3ヵ月超えましたね。」
「そうですね。」
「保健室には、いつも誰か来てますね。」
「校長先生もよく来ます。胃薬ほしいって。こんなに誰かと話したのって、初めてです。」
「前の職場はどうして辞めたの?」
「すごくいいところでしたよ。だけど、なんだろう。別の場所で働きたくなって。」
「そうですか。」
「原田先生、もう1杯飲みますか?」
「もう、いいですよ。良かったら、晩ごはん一緒に食べませんか?」
早和は時計を見た。
「お腹、すきましたよね。何か作ります。」
早和は台所へ向かった。
「あんまり、上手じゃないけど。原田先生は、何でも食べれますか?」
「食べれるよ。」
「秋元先生は?」
「私はレーズンが苦手です。」
「あっ、俺も苦手。」
「大人になったら、食べれるようになるかと思ったのに、やっぱり食べれませんでした。」
「俺もね、ぶどうは食べれるのに、レーズンは苦手なんだよね。」
「私もそうです。」
凌は早和の隣りにきた。
「一緒にやろうよ。」
「いいですよ。座っててください。」
「一緒にやるから。これ、どうすればいい?」
「じゃあ、皮剥いてくれますか?」
「わかったよ。もしかして、カレー?」
「シチューです。カレーにしますか?」
「シチューでいいよ。」
「原田先生は、料理するんですか?」
「時々ね。秋元先生は?」
「私はぜんぜんしません。今日は奇跡的に冷蔵庫に何か入ってました。自分で作ったものって、あまり美味しくないし。自分が食べると思ったら、どうでも良くなります。」
「じゃあ、誰かのためなら、精一杯作るの?一緒に食べたら、美味しいって思うの?」
「それは、どうかな。」
「秋元先生って、いつもどこか離れた所から、自分を見てるよね。感情的にならないから、生徒の事も冷静に分析できる。」
「私だって、悔しくて、泣くこともありますよ。たまにですけど。」
「淋しくて泣く事は?」
「それはないです。」
「好きな人とかいないの?」
「いません。あと、少し煮込むんで、もう座ってていいですよ。」
出来上がったシチューを食べると、凌は美味しいと言った。
「それは、良かった。」
「今度、シチューのお礼に、美味しいもの食べに行こうよ。」
「原田先生が、私の傘を届けてくれたんですから、お礼をするのは私の方です。そうだ、原田先生。パソコン、教えてくれませんか?画像がなかなか貼り付けられなくて。」
「いいよ。食べたら、見せて。」
早和がパソコンを開くと、
「野球好きなの?」
凌が聞いた。
「そうです。もう引退したけど、岡田の背中が初恋でした。」
「背中に初恋なんて、変わってるね。」
「ねぇ、原田先生、この画像を貼り付けたいんです。」
「ほら。」
早和は順番をメモしていた。
「ありがとうございます。次は1人でできそうです。」
「もう、少し便利な方法も教えてあげる。」
早和がパソコンを覗き込んでいるので、凌はやってごらん、と早和と場所を変わった。
「できた。」
後ろを振り返った早和を、凌は抱きしめた。
「原田先生、苦しいよ。」
「ごめん。」
凌は早和から離れた。
「俺、秋元先生の事、好きなんだ。」
凌は早和に近づこうとしたが、早和は後ろに下がった。
「原田先生、私、ここに来る前にね、そんな感情はみんな捨ててきたの。」
「そっか。簡単には心を開かない人だとは思ったけど、もう少し、作戦を考えるよ。今日はごちそうさま。今度、野球でも観に行こうよ。」
凌は帰っていった。
早和は冷たくなった体を擦った。本当は早くにお風呂に入ってベッドに横になりたかった。
雨の中、追いかけてくれた凌に悪くて、ただなんとなく、時間をやり過ごした。
早くお風呂に入って眠ろう。
早和は浴室へ向かった。
次の日。
体が少し熱っぽく感じたので、早和は保健室にあった市販の風邪薬を飲んだ。
梶原が知ったら、きっと怒るに違いない。
良くしてくれた師長の事も、仲良くしてくれた優芽の事も、いろんな事を教えてくれた長岡の事も、そして奏の事も、結局、自分は裏切ってしまった。
嘘つきなのは、周りじゃなくて、自分の方。
早和はめまいがして目を閉じた。
「先生。」
まーちゃんが入ってきた。
「先生、見て。」
まーちゃんは蛇を持ってきた。
「まーちゃん、早く離しなよ。かじられるかもしれないよ。」
「さっきかじられた。」
「えーっ、困ったなぁ。」
まーちゃんが蛇を離すと、保健室の床をニョロニョロと這い始めた。
「ちょっと、どうしよう!」
早和の声を聞きつけて、玲が保健室に入ってきた。
「きゃー、ヘビ!」
何人か先生が蛇を外へ逃がすと、
「まーちゃん、かじられたんですよ。」
早和は言った。
「毒はないと思うけど、一応病院に行っておこうか。」
早和はまーちゃんを連れて病院へ行った。
まーちゃんのお母さんにも連絡し、病院で待ち合わせをした。
「先生。ヘビ、お腹すいてたね。」
「そうだね。病院が終わったら、ご飯にしようか。」
まーちゃんのお母さんが来た。
「先生、すみません。」
「お母さん、毒はないと思いけど、念の為に病院に来ました。」
2人は診察室に呼ばれて入って行った。
包帯を巻いて出てきたまーちゃんは、
「先生、ヘビ、お腹すいてたよ。」
そう言った。
「まーちゃん、ヘビはもういないよ。」
まーちゃんの母が言う。
「まーちゃんがお腹、すいてるんでしょうね。」
早和はまーちゃんの母親に言った。
「私は、お腹すいてないよ。」
「わかったよ、まーちゃん。ヘビのご飯、買ってこよう。」
まーちゃんの母は、娘の気持ちがわかった様だ。
「先生にいつもお菓子をもらってるって聞きました。まーちゃんは朝寝坊で、いつも食べる時間がなくて、何回かおにぎりを持たせたんですけど、自分が気に入った場所じゃないと食べない子でね、自分はお腹がすいてないって、繰り返し言うようになったんですよ。お菓子を食べても安心できる保健室は、すごく気に入ったんでしょうね。」
「お母さん、家に帰る?」
「帰ろう。ヘビさんのごはん、買って帰ろう。」
「先生、またね。」
「まーちゃん、またね。」
「早和!」
「先生。どうしてここに?」
「言いたいことが山程あるよ。仕事が終わったら、学校へ迎えに行くから。」
「先生、ごめんなさい。もう、話すことは何もない。」
「早和がなくても、俺はあるんだよ。あの子の通ってる学校にいるんだろう。夕方、迎えに行くからね。」
白衣を着た奏を初めて見た。
足早に呼びに来た看護師と、奏は診察室へ歩いて行った。振り返って広がった白衣の裾が、早和の目に焼き付いていた。
あの頃、いつも手を温めていた奏は、人がごった返す中に消えていった。
「秋元先生。」
凌が早和を呼んだ。
「原田先生。」
「校長から迎えに来るように言われたから。まーちゃんは?」
「さっき、母親と帰りました。傷も大した事はないけど、念の為、薬が出たみたいです。」
「そっか。まーちゃん、薬飲めるかなぁ。いつも隙を見て捨てちゃうみたいだから。」
「難しいですね。飲みたくない薬を飲むのは。」
早和は小児科外来を見つめていた。
「秋元先生、車停めてあるから、帰ろう。」
早和は凌と駐車場へ向かった。
「すごく混んでるんですね。」
「今日は、小児精神の日だからね。うちの学校の生徒もけっこう、通ってるよ。今年から新しい先生が来たみたいだね。すごく評判がいいんだって。」
「そうなんですか。」
「秋元先生、早く。」
早和は車に乗った。
「まーちゃん、とうとうヘビまで持ってきたか。」
凌が言った。
「私が保健室にくる口実を求めたからですよね。理由なんかなくても、何も聞かないで入れればよかった。」
「生徒の中には、まーちゃんのように、危険の認識が薄い子も多いからね。」
「すみませんでした。甘かったです。」
「秋元先生が謝る事ないよ。これから、まーちゃんは二度とヘビを捕まえようとしなくなくなるんだし。」
「そうでしょうか。」
「大人が教える事もあるけど、自分で学んでいく事だってたくさんあるよ。」
「原田先生、明日からどうすればいいですか?」
「そんなに深く考えなくても、またおいでって、一言言えばいいだろう。まーちゃんは、約束は絶対守るから。」
「原田先生、すごいな。」
「俺も新人の頃は、すごく悩んだよ。悩まないでできる仕事じゃないからね。あの頃、校長はまだ教頭でね。授業もしてたんだよ。」
「そうだったんですか。校長先生の授業、受けてみたいなぁ。」
「ねえ、秋元先生。」
「なんですか?」
「今度、野球観に行こうって約束だけど、今度の週末はどう?」
早和は考えていた。
「無理ならいいよ。急に言われたって困るだろうし。秋元先生の都合の良い時でいいから。」
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「それは急に過ぎるよ。球場まで行く間に試合が終ってしまう。」
「今日は木曜日だから、野球はありません。それに、雨だし。」
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「外球場は雨だと中止なんですよ。」
「秋元先生、それなら土曜日ならいいでしょう?」
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「どうしたの、急に。」
「ごめんなさい。無理な事言って。」
「わかった。秋元先生、それなら家においで。」
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「話したい事、たくさんあるから、泊まっていきなよ。」
保健室の窓を少し開けると、蝉の鳴き声が小さく聞こえる。梅雨が明けると、あんなに降っていた雨が嘘のように、降らなくなった。少し湿った舗道が、今は時々恋しくなる。
先生。
なんでだろう。誰かの気持ちをうまく受け止めることができないよ。自分の気持ちだって、うまく渡す事ができない。
どうしてこんなに好きなのに、先生を遠ざけようとするのかな。
原田先生といるとね、いろんな事を教えてもらえるの。いろんな心が見えるみたい。
先生も、そうなの?
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