冬の雨

小谷野 天

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8章

渡せなかった指輪

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 アカマルが東京へ出発する日、稜はポケットからニンジンを出して、怪我をするなよ、そう言って鬣をなでていた。
 優はアカマルの横に立ったまま、涙が止まらなかった。   
 馬運車へ乗り込む手前で、アカマルは優の顔に鼻を近づけた。そして、優の頭をかぶっと噛んで、馬運車に乗り込んだ。 
 頭を押さえている優に、その場にいた皆が笑った。   
 
 松本牧場には、母馬の5頭だけが残されていたが、アカマルと一緒に生まれた馬達は、それぞれセリにかけられて、牧場を出ていった。  

 母馬達は、今年は1頭も身ごもってはいない。  

 浅尾は夏競馬が終わり、札幌から東京へ戻っていった。
 
 本格的な秋競馬が始まると、浅尾がここへ来ることはなくたった。
 優に東京に来てほしいというラインが、毎日のようにきていた。     

 12月のある日。
 辰夫は稜と優に、来年の2月で牧場を閉めると伝えた。
 母馬達は、それぞれ買い手がついて、来月にもここからいなくなる。 
 自分達はアカマルが売れたお金で、これからの生活は心配がなくなったし、稜には千歳の大きな牧場に来月から行く手配をつけたからと、伝えた。
  ここの厩舎の片付けは、優と自分達でやるといい、稜には来月から千歳の牧場に行くよう話しをした。  
 優には、浅尾さんと結婚して、東京に戻りなさいと、辰夫は伝えた。  
 稜は何も言わず辰夫の話しを聞いていたが、優は優子の手をとり、嫌だと首を振った。 
「どうして…。これから、幸せになれっていうのに、こんな所にいたらダメよ。」  
 優子は聞こえないとわかっていても、優に諭すように言った。 

「そうだ、稜。厩舎は俺だけで十分だ。優ちゃんを連れて、アカマルの新馬戦を見に行ってくればいい。」  
 辰夫は丸岡オーナーから送られてきた飛行機のチケットを稜に渡す。 
「辰夫さんと優子さんで行ってくればいいじゃないですか。」   
 稜がそう言うと、 
「親バカなんだよな、俺も優子も。稜、優ちゃんに立派になったアカマルを見せてやってくれ。」 
 辰夫は、稜にそう言った。 
 
「ごめんください。」  
 玄関で声がして、あわてて優子が出ていくと、優にお客さんだと、泣いている優を玄関に向かわせた。
   
 玄関には隆一の母と姉が立っていた。
 後から玄関にきた優子が、上がってくださいと2人に伝えると、隆一の母と姉は、それじゃあといい、居間のソファに静かに座った。  

 お茶を用意しようとして、手をすべらせた優子に代わって、優が手際よくお茶を入れた。
 辰夫と優子の湯呑み茶碗にも入れると、それぞれにお茶を配り、最後に稜にお茶を渡した。  
 
 優は隆一の母と姉に、床に頭をつけて謝った。
 顔を上げようとしない優を、隆一の姉はそっと起こした。  
 耳が聞こえないんでしたよね、隆一の母は、優子にそう言うと、優子はノートを2人の前に出した。  
 隆一の母は、ありがとうございます、手紙にしてきたので、とノートをテーブルに置き、持ってきた手紙を優に渡した。
 そして、小さな箱を、優の手に包ませた。 
 隆一の姉が手紙を読むように、両手を揃えて広げたので、優はその手紙を開けて読み始めた。 

 優さん   
 隆一が事故にあった時、どんなにあなたを責めたかわかりません。どうして、私達の大切な息子が、自分の誕生日に、最後を迎えなければならなかったのかと思うと、息子を奪ったあなたが憎くてたまりませんでした。  
 骨納が終ってから、隆一の部屋を片付けに行った時、机の中からこの指輪と、優さんが楽譜の裏に描いた落書きを見つけました。
 そして、隆一を失って悲しんでるのは、優さんも同じだと気がつきました。     
 辛い思いをしている優さんを、あんなふうに追い返してしまって、申し訳なく思います。  
 だけど、あの時の私には、あなたを責めることでしか生きられなかったの、許してください。   
 あれから、あなたの家を訪ねた時、今は北海道の牧場で働いていると聞きました。あの日以来、耳が聞こえなくなって、すっかり塞ぎ込んでしまった話しも、ご両親から聞きました。   
 隆一の事は、どうか、あなたの中でいい思い出にして、優さんには優さんの、歩んでいく道を進んでください。                                           
                  真理子    

 手紙を読み終えた頃、隆一の母は、優に箱を開けるように伝えた。
 優は静かに箱を開くと、そこには婚約指輪が入っていた。
  優は箱を閉じ、隆一の母にそれを渡す。  
<私は隆一さんから、たくさんの思い出をもらいました。大切な隆一さんを奪ってしまった事は、どんなに謝っても償いきれません。>
 そうノートに書くと、優はまた頭を下げた。
<もう、いいの。隆一はそういう運命だったんだから。>
  真理子はノートにそう書くと、優を抱きしめた。
<ここの生活は馴れた?>
<毎日があっという間です。>
 優はそう書いて、真理子に見せた。 あかぎれだらけで、ガサガサになった優の手を見て、真理子は言葉を失った。優子は涙ぐみながら 
「冷めないうちに、どうぞ。」  
 そう言ってお茶を勧めた。  
 隆一の姉が目をやった先には、優美の写真があった。 
「娘さんですか?」
「そうです。うちも、事故で娘を亡くしてね。ひょんなご縁で優ちゃんが家に来てくれた時は、娘が戻ってきたみたいで、やっと、この家に明かりが灯ったと、お父さんと喜びました。この男の子は、ここの従業員なんだけど、私達とは家族同然で、優ちゃんと一緒になってくれればいいなぁ、なんて思ったりしてますよ、バカみたいでしょう。息子さんを亡くされたそちらの気持ちも考えないで、ごめんなさいね。 さっき、優ちゃんの手を見て、私もびっくりしました。毎日、黙々と馬のお世話をして、キレイだった手が、こんなに荒れても、ここへきて、泣き言ひとつも言わかったのよ。 優ちゃんは幸せになってもらいたいわね。」
 真理子は凌の方を見た。
「あなたは、馬に乗れるの?」
「はい。」
「優さんは、馬に乗れるの?」
「乗れますよ。」
「聞こえない優さんには、どうやって話すの?」
「普通に、」
「書いたりとか?」
「書いて話す事は、あまりありません。」
「そう。」
 真理子は凌を見て微笑んだ。
「優さんはいろんな事をすぐに覚えるの。だから忘れられなくて、辛いでしょうね。」
「奥さん、亡くなった人の代わりはいません。生まれ変わりなんて、映画の中だけでしょう。私達も、悔んだり、誰かに寄りかかってばかりじゃなくて、それを乗り越えなきゃね。自分の娘が戻ってきたみたいに思ったけど、もう、優ちゃんを開放してやらなきゃなって、そう思いました。」 
 優子は2人にそう言うと、隆一の母と姉は、泣いていた。   
<優さん、もうあなたの人生を生きて。こんなにいい人達と会えて、本当に良かったわね。 > 
 隆一の母がそう書いたノートを見ると、優の目からポロポロと涙が溢れた。 
 優子は稜の方を見たが、稜はうつむいたまま動かなかった。     

 二人が去った後、優はずっと、ここにいてもいいかと、辰夫と優子に尋ねた。 
<自分で決めたらいい。>
辰夫はノートにそう書いた。明るい表情になった優を見ていた稜は、優子を見て軽く頭を下げた。
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