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7章
ピアノの音
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9月のある日、松本牧場に立派な車が止まった。
馬主さんが仔馬を見に来る事があり、田舎の道には合わない外車が走っているのを、たまに見かけた。
だいたいの馬主達は大手の牧場に行くので、松本牧場に車が止まった時、辰夫は何事かと驚いた。
馬主と一緒に細くて若い男性が車から降りて、優が引いているアカマルを指さしていた。
辰夫は稜に、アカマルと優を連れて来るのように言うと、稜は優の元へ向かった。
アカマルのそばにいた優は、稜には見せたことのない笑顔になっていた。
稜は馬主と話す辰夫を指さし、アカマルの手綱を引き始めた。
「この馬は、いつもこの人がお世話をしてるんですか?」
細身の男性、騎手の浅尾脩(あさおしゅう)が、辰夫に聞く。
「浅尾くんがね、どうしてもこの馬が気になって見たいっていうんでね、もう入厩は決まっているのかね。」
今度は馬主の丸岡(まるおか)が、辰夫に訪ねる。
「いいえ、セリもまだです。」
辰夫は丸岡から渡された名刺を見て、驚いた。
「あなたは、マルコの馬主さんでしたか。」
「馬主になって、15年になります。初めは馬主も、道楽で始めたと言われてましたが、やってみたらどうしてもダービーを獲りたくってね。今一番期待されている浅尾くんを連れて、牧場を回っていたわけですよ。」
辰夫と丸岡が話している間、浅尾は優にいろいろ話しをしていたけれど、返事をしない優に、だんだんとイライラしてきた。
「その人は、耳が聞こえないんだ。」
稜が伝える。
「この人はここの家族? 君はこの人のお兄さんとか?」
「いいや、違うよ。俺もこの人も、ここの従業員。」
「ふ~ん。」
辰夫が浅尾に、
「この子のお兄さんは、伊藤先生の所で働いているんだ。伊藤先生には、いろいろとお世話になっててね。」
そう言った。
稜はアカマルにニンジンを食べさせると、1人厩舎へ向かった。
「オーナー、この人のお兄さんが伊藤先生の所にいるらしいですよ。」
浅尾は優を指さしてそう言った。
丸岡と浅尾は、アカマルを見ると、浅尾はアカマルにさっと飛び乗り、牧場の中を走った。
辰夫と丸岡が何か話していたが、優はいつもと違うアカマルの姿が、とても不安になった。
アカマルと戻ってきた浅尾は、優に向かって微笑んだ。
夕食の時、辰夫がめずらしく、優と筆談した。
<アカマルを売りに出す。これからは、伊藤先生の所で競走馬として育ててもらう。 >
辰夫はノートにそう書いた。
涙を浮かべた優に、辰夫は付け加える。
<これが牧場の仕事なんだよ。優さんが一生懸命やってれたから、アカマルはすごい人の目に止まったんだ。 >
優は稜を見た。辰夫は続けて、
<あの人は有名な騎手で、お兄さんのこともよく知ってた。 アカマルはこれから立派になるよ。 >
優はもう一度稜を見て、稜の手を握った。
きれいだった優の手は、あかぎれだらけになっている。稜は何も言わず、優の手を離した。
皆、優の気持ちが痛いほどわかった。
大事にしていたものが遠くへ行ってしまう事は、なかなか受け入れるのは難しい。
優もそれがどうしようもないことだということは、よくわかっていた。
だけどどうして、自分の周りにある大切なものは、いつも突然別れがくるのか。
優は辰夫の顔を見ると、小さく頷いて、台所に向かった。
その夜、優はなかなか寝付けずに、部屋の窓を開けて、夜の匂いを嗅ぐ。
優の髪の毛が、風に揺れる。
頭の傷はすっかり良くなっているはずなのに、生えてきた髪の毛は、自分のものではないように感じていた。
隆一が今の自分を見たら、なんて思うだろう。
2人で過ごした時間が、ページをめくるように思い出となって蘇る。
優はガサガサになった手に、優子がくれたハンドクリームを塗った。
切れている所が少し滲みる。
隆一ともう一度、手を繋ぎたい。
優は布団に包まり、泣きながら眠った。
優がすすり泣く声が、部屋の前から聞こえた。
凌はドアを開けようとしたが、その手を止めた。
次の日、なかなか厩舎に来ない優を、辰夫は呼んで来るように稜に頼んだ。
「俺だって、本当は女の部屋に入るの嫌なんですよ。」
凌はそう言ったが、辰夫に早く行けと言われ、優の部屋の前にきた。
夕べは自分も眠れなかった。
久しぶりに優の部屋に入ろうとすると、今まで意識しなかった感情が湧いてくる。
稜は大きく深呼吸をすると、寝ている優の顔を覗き込んだ。
大きな哀しみから逃げるように言葉を失った彼女は、知らない土地で、毎日ボロボロになるまで働いている。
優しい言葉もなぐさめの言葉も、彼女の耳に届くことはない。このまま、消えてしまいそうな優の事を、稜は初めて意識をした。
稜は優の枕をそっと取った。気がついた優は、時計を見て、急いで布団をたたみ始めた。
ぐちゃぐちゃになった優の髪を、稜は後ろからそっと撫でると、そのまま部屋を出ていった。
久しぶりの寝坊に、辰夫は鬼の真似をした。何度も頭を下げる優に、アカマルの馬房に行くように、指をさす。
優は稜をちらっと見たが、稜はいつもと変わらず作業をしていた。
その3日後、浅尾から優に手紙がきた。
優さんへ
お元気ですか?
あなたの事を、お兄さんから聞きました。
牧場の仕事はとても大変だと思います。
次の木曜日、そちらに迎えに行きますので、あけておいてください。
浅尾脩
優は優子にその手紙を見せると、自分の耳を指さして、首を振った。
優子は優のポケットに入っているノートとペンを出して、
<浅尾さんはあなたの耳の事を知ってるよ。たまにはお化粧して、遊んでおいで、>
そうノートに書いた。
優子は不安そうな顔をした優の両腕をぎゅっと掴むと、ニッコリ笑った。
木曜日。
浅尾は優を迎えにきた。
優は浅尾に頭を下げると、助手席のドアをあけて、浅尾がどうぞと言っているのが見えた。
優は浅尾に頭を下げると、助手席に乗り、シートベルトを締めた。
浅尾はダッシュボードからノートを取り出し、
<これから海に行く。>
そう書いて優に渡した。
走り出した車の中で、優は魚の絵を描いていた。信号待ちで止まった浅尾は、優の絵にはなまるをつけた。
浅尾は優にペンを返して、微笑みかける。
優はカーナビを見て、目的地まであと1時間という表示を指さした。
浅尾は人差し指を、優に向ける。
優は1時間かかるということを理解して、うんと頷いた。
夏の終わりの北海道の海は、東京の空のように灰色だった。
磯の香りがする浜で、優は蝶の形の貝を見つけて浅尾に見せた。浅尾はその貝を手に取ると、優の髪に飾る仕草を見せた。
優は不意に課長が優の髪を触ってきた事を思い出し、浅尾から離れた。驚いた浅岡は、優の顔を覗き込む。優は少し笑いながら、首を振って、ごめんなさいと顔の前で両手をあわせた。
浅尾は傷だらけの優の手を両手で包むと、車を指さし、優の手を繋いで車に戻った。
<牧場の仕事は大変?>
そう書いて優に見せる。
<大変だけど、好きな仕事。>
優はそう書いて、笑顔を見せた。
<騎手は大変ですか?>
<好きな仕事だから、大変だけど、楽しい。 >
<アカマルは浅尾さんが乗るの? >
<乗りたいね、すごくいい馬だよ。 >
<いつ東京に行くの? >
<もうすぐ引っ越しだね。今度は、伊藤先生やお兄さんや、他にもいろんな人がアカマルを育てて行くんだよ。優さんも一度東京にきて、アカマルが走る姿をみたいだろ? >
優は浅尾の書いた言葉に大きく頷いた。
優と浅尾は、ノートがなくなるほどおしゃべりをした。
松本牧場の近くまでくると浅尾が車を止め、ページがなくなったノートの表紙に、
<次の木曜日にまた会いたい。>
そう書いた。
優は浅尾の文字の上に、はなまるをつけて微笑んだ。
笑顔を見せた優の肩を抱き寄せ、浅尾は優にキスをした。
優は張りつめていた気持ちが、砕けていくのを感じる。誰か好きになる事はもうないと思ったけど、こうして、もう一度、キスをする日が来るなんて、信じられなかった。
浅尾が優の髪を撫でた時、優は血まみれの隆一を思い出し、浅尾から離れた。
ノートの余白に、
<ありがとう、また >
と書いて浅尾に見せる。
「好きだよ。」
浅尾はそう言って軽くキスすると、優を抱きしめた。
優は部屋へ戻る途中、廊下で稜と会った。
稜は優をちらっと見たが、すぐに自分の部屋に入っていった。
優は部屋の床に座ると、机に置いてあるノートが目に入った。
その中に、笑っている太陽と、起きろ、と書いてある稜の文字を見つけた。
稜がノートに文字を書いていたなんて、今までぜんぜん気が付かなかった。ゴツゴツとした凌の手が、こんなにもキレイな字を書くなんて。優はその文字に引き込まれた。
そういえば、ここへきた頃、稜は毎日、自分の顔にノートを落として起こしてくれた。優が次のページを開くと、太陽は笑って優を包んでいる絵が描いてあった。次のページには、傘をさして泣いてる太陽が描いてある。
さっきまで浅尾と一緒にいて、あんなに楽しかったはずなのに、頭の中が稜の事でいっぱいになる。
今日も変わらず、馬達の世話をしていた稜の事を思うと、胸が締めつけられた。
稜は自分の耳が聞こえなくても、いつも特別扱いせずに接してくれた。同じ時間を過ごして、稜の仕草や、稜の顔を覗きながら、たくさんの事を感じた。
起きろ、と書いてある稜のキレイな文字とかわいい太陽を見て、稜の不器用な優しさを感じ、優はポロポロと涙が流れてきた。
次の木曜日。
浅尾は優を迎えにきた。
優子は、いってらっしゃい、と優を送り出した。
浮かない顔の優に、
<浅尾はどうしたの?>
そうノートに書いた。
優は稜の姿を探していた。
今日も変わらず、馬達と話しているのだろうか。
優は、
<なんでもないと>
そうノートに書くと、浅尾が迎えにきた車に乗った。
<今日は千歳まで行くからね。>
浅尾はそう書いて優に見せた。
<千歳には何があるの?>
優が書くと、
<大きな牧場がある。>
浅尾は優に笑顔を見せる。
車が走り出すと、優は窓から外ばかりを見ていた。
兄ときたこの道。
あの時は、まだ雪が残っていたけど、今は草が生い茂っている。
千歳には松本牧場の数倍広い牧場がいくつもあった。その中でも、一番大きな牧場に、浅尾は車を止めた。
浅尾の後をついて歩くと、幾人かの同じポロシャツを着た人達が、浅尾に声をかけてきて、浅尾はそのたびに、優の方を見て何かを言っていた。優に何かを話しかけてくる人もいたが、その度に浅尾は優の耳を指さし、耳が聞こえない事を伝えているようだった。
浅尾に案内された部屋に入ると、以前、辰夫を訪ねた丸岡オーナーと、牧場のオーナーらしい人が、浅尾と優を迎えた。
「浅尾くん、この子は松本さんところの?」
牧場のオーナーが浅尾に尋ねる。
「そうです。丸岡社長と牧場を回っていた時、この人が引いていた馬がどうしても気になって、丸岡社長に頼みました。」
牧場のオーナー、柏代(かしわだい)は、
「社長、そんなにいい馬だったのかい?」
丸岡に聞いた。
「線は少し細いが、いい馬だよ。浅尾くんが、どうしても、そう言うんでね。」
「血はどうなの?」
「昔、あの牧場から出た、ユキマルという馬がいただろう。秋華賞を獲った栗毛の。その子供だよ。中距離路線が、いいんじゃないかと思ってね。」
「入厩はどこに?」
「伊藤くんの所に。この子の兄がいるらしくってね。」
丸岡は優を指さした。
「伊藤さんの所かぁ。最近、いい馬が集まってるらしいから、それは楽しみだわ。うちは、もっといい血の馬が揃ってるんですけどね。小さな牧場の馬が、まさか浅尾くんの目に止まるとはね。」
浅尾達3人は、楽しそうに話しをしていたが、何を話しているかわからない優は、ただ3人の顔を時々見ながら、愛想笑いをしていた。
「浅尾くんは、馬よりもこの子が目に止まったってわけか。」
柏代が浅尾に聞く。
「遠くからでしたけど、優さんを見た時、キレイな人だなってそう思いました。」
浅尾はそう言って優を見た。
「キレイな奥さんでも、浅尾くんとは、離れて暮らす時間も多い。まして、マスコミから注目されている君の隣りにいるのは、きっと苦労すると思うけど。」
丸岡は続けて、
「浅尾くんなら、女優さんでも、アナウンサーでも、女性はたくさん寄ってくるだろうに。ある程度、嘘を許したり、自分も嘘をつける子じゃないと、女房は務まらんよ。 この前、一緒にご飯食べに行ったっていうあの子は、どうしたの?」
「あの子はただの友達ですよ。僕は優さんと一緒になりたいと思っています。」
浅尾がそう言って優に微笑むと、丸岡は優に向かって 、
「あんたは幸せものだなぁ。」
そう言った。優は浅尾に、みんなが何を言っているのか、顔を覗く。
<幸せものだって。>
浅尾はそう書いて優に渡した。それを見た優は3人に向かって、また愛想笑いをした。
牧場から出たあと、浅尾と優は近くのレストランに来ていた。
<疲れた?>
浅尾がノートに書いて優に見せると、優はゆっくり首を振った。
食事の途中で手を止めた優は、レストランにあるピアノをずっと見ていた。
隆一と優の出会いは、龍一がバイトしていた楽器店で、優がピアノを弾きにきたがきっかけだった。
ピアノに気持ちをぶつける様に弾く高校生の優に、「もう少し優しく弾いたら?」
大学生だった隆一は話しかけた。
優にとって、親に無理矢理習わされたピアノは、本当は大キライだった。発表会や進級テストが来るたびに憂鬱な気持ちになって、学校のピアノや、楽器店のピアノの前で、その鬱憤を晴らすように、激しいロックの曲を即興で弾いた。
母に反抗した優は、大学に入ると同時に、ピアノをやめて、隆一からギターを教えてもらった。
優が弾いていた家のピアノは、この10年、誰にも触れられる事なく、居間で眠っている。
ピアノはなんにも悪くない。
母は毎年、調律を頼み、優がピアノを弾いてくれる日を待っていた。
優子が優をピアノの前に座らせた時、最後の進級テストの課題曲だった、クラッシックの曲が頭の中に流れてきた。
隆一との思い出の曲ではなく、逃げ出したかったあの頃の自分が、今もピアノの前で、鍵盤に指を乗せているような気がした。
優は店の人を呼び止め、
<ピアノを弾いていいですか、>
そうノートに書いた。
店の人は、「どうぞ。」と優を案内すると、ピアノの蓋を開けて、赤い被布をとった。
優は静かにピアノを弾き始めた。
その音色は優の耳には届く事はないけれど、何度も何度も練習をした曲は、優の両手がまだ覚えていた。
優のピアノの近くまできた浅尾は、ガサガサになっている優の手が奏でる曲を、切ない気持ちで聞いていた。
曲が終わると、レストランの客のあちこちから拍手が上がったが、優はそれに気づかず、席に戻った。
食事が終わり、優がレストランの窓を眺めていると、浅尾が、優にノートを見せる。
<ピアノ、ずっとやってたの?>
<幼稚園の時から。>
<そんな特技あったんだね。>
優は浅尾を見て静かに笑った。
<牧場で働くと、せっかくの手がボロボロだ。>
そう書いた浅尾は、優の手をとって、優しく撫でた。
<松本さんが牧場をやめたら、一緒に東京で暮らそう。>
浅尾は、ノートにそう書いた。
驚いた優の顔を見て、
<高田くんは、来年からさっきの牧場で働く事になっている。 >
さらに続けて書いた。
優はうつむいたまま、浅尾の顔を見ようとしなかった。
車に戻ると、浅尾は優の髪の毛を撫でた。
優はあの日の課長の手と、隆一の血まみれになった手が、点滅する青信号のように優の目の前に浮かんできた。
課長が電話で自分を呼び出した声と、救急車のサイレンの音が頭の中で大きく響いてきて、たまらず耳を塞いだ。
浅尾はそんな優をどうしていいかわからず、優の体に触れる事も、声を掛けるもできなかった。
しばらくして、顔をあげた優は、浅尾を見て、ごめんなさいと、両手をあわせた。
<大丈夫?>
浅尾はノートにそう書いた。
<私、髪の毛、だめなんだ。>
優はノートに書いて気持ちを伝えた。
<前にも、そんな事、あったね。>
<そうだった? >
<なんとなく気になってたけど、髪の毛以外は大丈夫なの? >
優は首を振ると、涙が優の手にこぼれた。
また、耳を押さえて、塞ぎ込んだ優に、
<今日は少し疲れたでしょ。明日の朝、送っていくから。>
浅尾はそうノートに書いた。
優は首を振り、
<大丈夫、ごめんなさい、帰らないと。>
浅尾に文字を見せる。
浅尾は優の頭を撫でようとした手を止めて、
<無理しなくていいから。>
そうノートに書いた字を見て微笑んだ優を、たまらず抱きしめた。
優は浅尾の肩を、わかった、そう伝えるようにポンポンと叩く。浅尾は優から離れようとせず、そのまま優にキスと顔を近づけた。
優は浅尾から離れると、
<びっくりした。>
ノートに書いて笑ってみせた。
浅尾は優の腕を掴み、
<帰ろうか。帰りは、約束だからね。なんか飲まない?>
そう書いて、優に見せる。
<ちょっと待ってて。>
浅尾は車から、レストランに向かって歩いて行った。
優は車で浅尾を待っている間、絵本で見た"あかべい"を描いていた。
コーヒーを持って戻ってきた浅尾は、優の描いたあかべいを見て、
<ばん馬知ってるの?>
そう書いた。
優はあかべいを指さして、ばん馬と書いた浅尾の文字を指さした。
浅尾もばん馬の文字を指さして、2人は見つめ合った。
帯広にばん馬のレースをする競馬場があって、優が書いた絵のように、馬がソリを挽いてレースがあると、浅尾は教えてくれた。
< 今度、連れて行ってあげるよ。>
浅尾がそう書くと、優の目は明るくパッと開いた。
松本牧場に着く頃には、少し笑顔が戻った優に、浅尾は軽くキスをした。
ノートに、
<帰りに約束。>
そう書いてある文字を見せて、今度は優が離れないように、きつく体を抱いてキスをした。
浅尾はこんなにも自分を大切にしてくれているのに、何を考えてるかわからない稜の事で、優の心がいっぱいになる。
車から降りて、浅尾に手を振る優を、稜は窓から見ていた。
振り返った優は、稜がこっちを見ている事に気がつくと、稜の所へ走って向かった。
稜は優が走ってくるのがわかると、窓の戸を閉めた。
少ししてから優が部屋のドアを何度も叩く。
やっぱり、来たか。
浅尾とのデートを見てた事、そんなに怒っているのかよ!
こっちだって、見たくて見てたわけじゃないこのに。
「なに!」
稜はドアを開けた。
優は稜がノートに描いた太陽を見せる。
「だから、なに?」
<大きな牧場に行くのは本当?>
そう大きく書いて、優は稜に問い詰める。
あいつか、と稜は浅尾を思い浮かべると、優を指さし、左手の薬指に指輪をはめる仕草をした。
優は稜の腕を掴むと、稜の体を押しながら、何度も何度も首を振った。どんどん押してくる優の予想以上の力に負けて、稜は倒れそうになり、前にのめりそうになった優を優しく支えた。
優は稜に自分の気持ちを伝えられず、落ちているノートを拾い、胸に抱きしめると、静かに部屋に戻っていった。
稜は優の体を受け止めた時の感覚が腕に残り、自分の気持ちを素直に伝えられないもどかしさに苦しんでいた。
浅尾のように、自分も華やかな世界にいたら、優の事を、すぐにでも抱きしめてやれるのに。
馬主さんが仔馬を見に来る事があり、田舎の道には合わない外車が走っているのを、たまに見かけた。
だいたいの馬主達は大手の牧場に行くので、松本牧場に車が止まった時、辰夫は何事かと驚いた。
馬主と一緒に細くて若い男性が車から降りて、優が引いているアカマルを指さしていた。
辰夫は稜に、アカマルと優を連れて来るのように言うと、稜は優の元へ向かった。
アカマルのそばにいた優は、稜には見せたことのない笑顔になっていた。
稜は馬主と話す辰夫を指さし、アカマルの手綱を引き始めた。
「この馬は、いつもこの人がお世話をしてるんですか?」
細身の男性、騎手の浅尾脩(あさおしゅう)が、辰夫に聞く。
「浅尾くんがね、どうしてもこの馬が気になって見たいっていうんでね、もう入厩は決まっているのかね。」
今度は馬主の丸岡(まるおか)が、辰夫に訪ねる。
「いいえ、セリもまだです。」
辰夫は丸岡から渡された名刺を見て、驚いた。
「あなたは、マルコの馬主さんでしたか。」
「馬主になって、15年になります。初めは馬主も、道楽で始めたと言われてましたが、やってみたらどうしてもダービーを獲りたくってね。今一番期待されている浅尾くんを連れて、牧場を回っていたわけですよ。」
辰夫と丸岡が話している間、浅尾は優にいろいろ話しをしていたけれど、返事をしない優に、だんだんとイライラしてきた。
「その人は、耳が聞こえないんだ。」
稜が伝える。
「この人はここの家族? 君はこの人のお兄さんとか?」
「いいや、違うよ。俺もこの人も、ここの従業員。」
「ふ~ん。」
辰夫が浅尾に、
「この子のお兄さんは、伊藤先生の所で働いているんだ。伊藤先生には、いろいろとお世話になっててね。」
そう言った。
稜はアカマルにニンジンを食べさせると、1人厩舎へ向かった。
「オーナー、この人のお兄さんが伊藤先生の所にいるらしいですよ。」
浅尾は優を指さしてそう言った。
丸岡と浅尾は、アカマルを見ると、浅尾はアカマルにさっと飛び乗り、牧場の中を走った。
辰夫と丸岡が何か話していたが、優はいつもと違うアカマルの姿が、とても不安になった。
アカマルと戻ってきた浅尾は、優に向かって微笑んだ。
夕食の時、辰夫がめずらしく、優と筆談した。
<アカマルを売りに出す。これからは、伊藤先生の所で競走馬として育ててもらう。 >
辰夫はノートにそう書いた。
涙を浮かべた優に、辰夫は付け加える。
<これが牧場の仕事なんだよ。優さんが一生懸命やってれたから、アカマルはすごい人の目に止まったんだ。 >
優は稜を見た。辰夫は続けて、
<あの人は有名な騎手で、お兄さんのこともよく知ってた。 アカマルはこれから立派になるよ。 >
優はもう一度稜を見て、稜の手を握った。
きれいだった優の手は、あかぎれだらけになっている。稜は何も言わず、優の手を離した。
皆、優の気持ちが痛いほどわかった。
大事にしていたものが遠くへ行ってしまう事は、なかなか受け入れるのは難しい。
優もそれがどうしようもないことだということは、よくわかっていた。
だけどどうして、自分の周りにある大切なものは、いつも突然別れがくるのか。
優は辰夫の顔を見ると、小さく頷いて、台所に向かった。
その夜、優はなかなか寝付けずに、部屋の窓を開けて、夜の匂いを嗅ぐ。
優の髪の毛が、風に揺れる。
頭の傷はすっかり良くなっているはずなのに、生えてきた髪の毛は、自分のものではないように感じていた。
隆一が今の自分を見たら、なんて思うだろう。
2人で過ごした時間が、ページをめくるように思い出となって蘇る。
優はガサガサになった手に、優子がくれたハンドクリームを塗った。
切れている所が少し滲みる。
隆一ともう一度、手を繋ぎたい。
優は布団に包まり、泣きながら眠った。
優がすすり泣く声が、部屋の前から聞こえた。
凌はドアを開けようとしたが、その手を止めた。
次の日、なかなか厩舎に来ない優を、辰夫は呼んで来るように稜に頼んだ。
「俺だって、本当は女の部屋に入るの嫌なんですよ。」
凌はそう言ったが、辰夫に早く行けと言われ、優の部屋の前にきた。
夕べは自分も眠れなかった。
久しぶりに優の部屋に入ろうとすると、今まで意識しなかった感情が湧いてくる。
稜は大きく深呼吸をすると、寝ている優の顔を覗き込んだ。
大きな哀しみから逃げるように言葉を失った彼女は、知らない土地で、毎日ボロボロになるまで働いている。
優しい言葉もなぐさめの言葉も、彼女の耳に届くことはない。このまま、消えてしまいそうな優の事を、稜は初めて意識をした。
稜は優の枕をそっと取った。気がついた優は、時計を見て、急いで布団をたたみ始めた。
ぐちゃぐちゃになった優の髪を、稜は後ろからそっと撫でると、そのまま部屋を出ていった。
久しぶりの寝坊に、辰夫は鬼の真似をした。何度も頭を下げる優に、アカマルの馬房に行くように、指をさす。
優は稜をちらっと見たが、稜はいつもと変わらず作業をしていた。
その3日後、浅尾から優に手紙がきた。
優さんへ
お元気ですか?
あなたの事を、お兄さんから聞きました。
牧場の仕事はとても大変だと思います。
次の木曜日、そちらに迎えに行きますので、あけておいてください。
浅尾脩
優は優子にその手紙を見せると、自分の耳を指さして、首を振った。
優子は優のポケットに入っているノートとペンを出して、
<浅尾さんはあなたの耳の事を知ってるよ。たまにはお化粧して、遊んでおいで、>
そうノートに書いた。
優子は不安そうな顔をした優の両腕をぎゅっと掴むと、ニッコリ笑った。
木曜日。
浅尾は優を迎えにきた。
優は浅尾に頭を下げると、助手席のドアをあけて、浅尾がどうぞと言っているのが見えた。
優は浅尾に頭を下げると、助手席に乗り、シートベルトを締めた。
浅尾はダッシュボードからノートを取り出し、
<これから海に行く。>
そう書いて優に渡した。
走り出した車の中で、優は魚の絵を描いていた。信号待ちで止まった浅尾は、優の絵にはなまるをつけた。
浅尾は優にペンを返して、微笑みかける。
優はカーナビを見て、目的地まであと1時間という表示を指さした。
浅尾は人差し指を、優に向ける。
優は1時間かかるということを理解して、うんと頷いた。
夏の終わりの北海道の海は、東京の空のように灰色だった。
磯の香りがする浜で、優は蝶の形の貝を見つけて浅尾に見せた。浅尾はその貝を手に取ると、優の髪に飾る仕草を見せた。
優は不意に課長が優の髪を触ってきた事を思い出し、浅尾から離れた。驚いた浅岡は、優の顔を覗き込む。優は少し笑いながら、首を振って、ごめんなさいと顔の前で両手をあわせた。
浅尾は傷だらけの優の手を両手で包むと、車を指さし、優の手を繋いで車に戻った。
<牧場の仕事は大変?>
そう書いて優に見せる。
<大変だけど、好きな仕事。>
優はそう書いて、笑顔を見せた。
<騎手は大変ですか?>
<好きな仕事だから、大変だけど、楽しい。 >
<アカマルは浅尾さんが乗るの? >
<乗りたいね、すごくいい馬だよ。 >
<いつ東京に行くの? >
<もうすぐ引っ越しだね。今度は、伊藤先生やお兄さんや、他にもいろんな人がアカマルを育てて行くんだよ。優さんも一度東京にきて、アカマルが走る姿をみたいだろ? >
優は浅尾の書いた言葉に大きく頷いた。
優と浅尾は、ノートがなくなるほどおしゃべりをした。
松本牧場の近くまでくると浅尾が車を止め、ページがなくなったノートの表紙に、
<次の木曜日にまた会いたい。>
そう書いた。
優は浅尾の文字の上に、はなまるをつけて微笑んだ。
笑顔を見せた優の肩を抱き寄せ、浅尾は優にキスをした。
優は張りつめていた気持ちが、砕けていくのを感じる。誰か好きになる事はもうないと思ったけど、こうして、もう一度、キスをする日が来るなんて、信じられなかった。
浅尾が優の髪を撫でた時、優は血まみれの隆一を思い出し、浅尾から離れた。
ノートの余白に、
<ありがとう、また >
と書いて浅尾に見せる。
「好きだよ。」
浅尾はそう言って軽くキスすると、優を抱きしめた。
優は部屋へ戻る途中、廊下で稜と会った。
稜は優をちらっと見たが、すぐに自分の部屋に入っていった。
優は部屋の床に座ると、机に置いてあるノートが目に入った。
その中に、笑っている太陽と、起きろ、と書いてある稜の文字を見つけた。
稜がノートに文字を書いていたなんて、今までぜんぜん気が付かなかった。ゴツゴツとした凌の手が、こんなにもキレイな字を書くなんて。優はその文字に引き込まれた。
そういえば、ここへきた頃、稜は毎日、自分の顔にノートを落として起こしてくれた。優が次のページを開くと、太陽は笑って優を包んでいる絵が描いてあった。次のページには、傘をさして泣いてる太陽が描いてある。
さっきまで浅尾と一緒にいて、あんなに楽しかったはずなのに、頭の中が稜の事でいっぱいになる。
今日も変わらず、馬達の世話をしていた稜の事を思うと、胸が締めつけられた。
稜は自分の耳が聞こえなくても、いつも特別扱いせずに接してくれた。同じ時間を過ごして、稜の仕草や、稜の顔を覗きながら、たくさんの事を感じた。
起きろ、と書いてある稜のキレイな文字とかわいい太陽を見て、稜の不器用な優しさを感じ、優はポロポロと涙が流れてきた。
次の木曜日。
浅尾は優を迎えにきた。
優子は、いってらっしゃい、と優を送り出した。
浮かない顔の優に、
<浅尾はどうしたの?>
そうノートに書いた。
優は稜の姿を探していた。
今日も変わらず、馬達と話しているのだろうか。
優は、
<なんでもないと>
そうノートに書くと、浅尾が迎えにきた車に乗った。
<今日は千歳まで行くからね。>
浅尾はそう書いて優に見せた。
<千歳には何があるの?>
優が書くと、
<大きな牧場がある。>
浅尾は優に笑顔を見せる。
車が走り出すと、優は窓から外ばかりを見ていた。
兄ときたこの道。
あの時は、まだ雪が残っていたけど、今は草が生い茂っている。
千歳には松本牧場の数倍広い牧場がいくつもあった。その中でも、一番大きな牧場に、浅尾は車を止めた。
浅尾の後をついて歩くと、幾人かの同じポロシャツを着た人達が、浅尾に声をかけてきて、浅尾はそのたびに、優の方を見て何かを言っていた。優に何かを話しかけてくる人もいたが、その度に浅尾は優の耳を指さし、耳が聞こえない事を伝えているようだった。
浅尾に案内された部屋に入ると、以前、辰夫を訪ねた丸岡オーナーと、牧場のオーナーらしい人が、浅尾と優を迎えた。
「浅尾くん、この子は松本さんところの?」
牧場のオーナーが浅尾に尋ねる。
「そうです。丸岡社長と牧場を回っていた時、この人が引いていた馬がどうしても気になって、丸岡社長に頼みました。」
牧場のオーナー、柏代(かしわだい)は、
「社長、そんなにいい馬だったのかい?」
丸岡に聞いた。
「線は少し細いが、いい馬だよ。浅尾くんが、どうしても、そう言うんでね。」
「血はどうなの?」
「昔、あの牧場から出た、ユキマルという馬がいただろう。秋華賞を獲った栗毛の。その子供だよ。中距離路線が、いいんじゃないかと思ってね。」
「入厩はどこに?」
「伊藤くんの所に。この子の兄がいるらしくってね。」
丸岡は優を指さした。
「伊藤さんの所かぁ。最近、いい馬が集まってるらしいから、それは楽しみだわ。うちは、もっといい血の馬が揃ってるんですけどね。小さな牧場の馬が、まさか浅尾くんの目に止まるとはね。」
浅尾達3人は、楽しそうに話しをしていたが、何を話しているかわからない優は、ただ3人の顔を時々見ながら、愛想笑いをしていた。
「浅尾くんは、馬よりもこの子が目に止まったってわけか。」
柏代が浅尾に聞く。
「遠くからでしたけど、優さんを見た時、キレイな人だなってそう思いました。」
浅尾はそう言って優を見た。
「キレイな奥さんでも、浅尾くんとは、離れて暮らす時間も多い。まして、マスコミから注目されている君の隣りにいるのは、きっと苦労すると思うけど。」
丸岡は続けて、
「浅尾くんなら、女優さんでも、アナウンサーでも、女性はたくさん寄ってくるだろうに。ある程度、嘘を許したり、自分も嘘をつける子じゃないと、女房は務まらんよ。 この前、一緒にご飯食べに行ったっていうあの子は、どうしたの?」
「あの子はただの友達ですよ。僕は優さんと一緒になりたいと思っています。」
浅尾がそう言って優に微笑むと、丸岡は優に向かって 、
「あんたは幸せものだなぁ。」
そう言った。優は浅尾に、みんなが何を言っているのか、顔を覗く。
<幸せものだって。>
浅尾はそう書いて優に渡した。それを見た優は3人に向かって、また愛想笑いをした。
牧場から出たあと、浅尾と優は近くのレストランに来ていた。
<疲れた?>
浅尾がノートに書いて優に見せると、優はゆっくり首を振った。
食事の途中で手を止めた優は、レストランにあるピアノをずっと見ていた。
隆一と優の出会いは、龍一がバイトしていた楽器店で、優がピアノを弾きにきたがきっかけだった。
ピアノに気持ちをぶつける様に弾く高校生の優に、「もう少し優しく弾いたら?」
大学生だった隆一は話しかけた。
優にとって、親に無理矢理習わされたピアノは、本当は大キライだった。発表会や進級テストが来るたびに憂鬱な気持ちになって、学校のピアノや、楽器店のピアノの前で、その鬱憤を晴らすように、激しいロックの曲を即興で弾いた。
母に反抗した優は、大学に入ると同時に、ピアノをやめて、隆一からギターを教えてもらった。
優が弾いていた家のピアノは、この10年、誰にも触れられる事なく、居間で眠っている。
ピアノはなんにも悪くない。
母は毎年、調律を頼み、優がピアノを弾いてくれる日を待っていた。
優子が優をピアノの前に座らせた時、最後の進級テストの課題曲だった、クラッシックの曲が頭の中に流れてきた。
隆一との思い出の曲ではなく、逃げ出したかったあの頃の自分が、今もピアノの前で、鍵盤に指を乗せているような気がした。
優は店の人を呼び止め、
<ピアノを弾いていいですか、>
そうノートに書いた。
店の人は、「どうぞ。」と優を案内すると、ピアノの蓋を開けて、赤い被布をとった。
優は静かにピアノを弾き始めた。
その音色は優の耳には届く事はないけれど、何度も何度も練習をした曲は、優の両手がまだ覚えていた。
優のピアノの近くまできた浅尾は、ガサガサになっている優の手が奏でる曲を、切ない気持ちで聞いていた。
曲が終わると、レストランの客のあちこちから拍手が上がったが、優はそれに気づかず、席に戻った。
食事が終わり、優がレストランの窓を眺めていると、浅尾が、優にノートを見せる。
<ピアノ、ずっとやってたの?>
<幼稚園の時から。>
<そんな特技あったんだね。>
優は浅尾を見て静かに笑った。
<牧場で働くと、せっかくの手がボロボロだ。>
そう書いた浅尾は、優の手をとって、優しく撫でた。
<松本さんが牧場をやめたら、一緒に東京で暮らそう。>
浅尾は、ノートにそう書いた。
驚いた優の顔を見て、
<高田くんは、来年からさっきの牧場で働く事になっている。 >
さらに続けて書いた。
優はうつむいたまま、浅尾の顔を見ようとしなかった。
車に戻ると、浅尾は優の髪の毛を撫でた。
優はあの日の課長の手と、隆一の血まみれになった手が、点滅する青信号のように優の目の前に浮かんできた。
課長が電話で自分を呼び出した声と、救急車のサイレンの音が頭の中で大きく響いてきて、たまらず耳を塞いだ。
浅尾はそんな優をどうしていいかわからず、優の体に触れる事も、声を掛けるもできなかった。
しばらくして、顔をあげた優は、浅尾を見て、ごめんなさいと、両手をあわせた。
<大丈夫?>
浅尾はノートにそう書いた。
<私、髪の毛、だめなんだ。>
優はノートに書いて気持ちを伝えた。
<前にも、そんな事、あったね。>
<そうだった? >
<なんとなく気になってたけど、髪の毛以外は大丈夫なの? >
優は首を振ると、涙が優の手にこぼれた。
また、耳を押さえて、塞ぎ込んだ優に、
<今日は少し疲れたでしょ。明日の朝、送っていくから。>
浅尾はそうノートに書いた。
優は首を振り、
<大丈夫、ごめんなさい、帰らないと。>
浅尾に文字を見せる。
浅尾は優の頭を撫でようとした手を止めて、
<無理しなくていいから。>
そうノートに書いた字を見て微笑んだ優を、たまらず抱きしめた。
優は浅尾の肩を、わかった、そう伝えるようにポンポンと叩く。浅尾は優から離れようとせず、そのまま優にキスと顔を近づけた。
優は浅尾から離れると、
<びっくりした。>
ノートに書いて笑ってみせた。
浅尾は優の腕を掴み、
<帰ろうか。帰りは、約束だからね。なんか飲まない?>
そう書いて、優に見せる。
<ちょっと待ってて。>
浅尾は車から、レストランに向かって歩いて行った。
優は車で浅尾を待っている間、絵本で見た"あかべい"を描いていた。
コーヒーを持って戻ってきた浅尾は、優の描いたあかべいを見て、
<ばん馬知ってるの?>
そう書いた。
優はあかべいを指さして、ばん馬と書いた浅尾の文字を指さした。
浅尾もばん馬の文字を指さして、2人は見つめ合った。
帯広にばん馬のレースをする競馬場があって、優が書いた絵のように、馬がソリを挽いてレースがあると、浅尾は教えてくれた。
< 今度、連れて行ってあげるよ。>
浅尾がそう書くと、優の目は明るくパッと開いた。
松本牧場に着く頃には、少し笑顔が戻った優に、浅尾は軽くキスをした。
ノートに、
<帰りに約束。>
そう書いてある文字を見せて、今度は優が離れないように、きつく体を抱いてキスをした。
浅尾はこんなにも自分を大切にしてくれているのに、何を考えてるかわからない稜の事で、優の心がいっぱいになる。
車から降りて、浅尾に手を振る優を、稜は窓から見ていた。
振り返った優は、稜がこっちを見ている事に気がつくと、稜の所へ走って向かった。
稜は優が走ってくるのがわかると、窓の戸を閉めた。
少ししてから優が部屋のドアを何度も叩く。
やっぱり、来たか。
浅尾とのデートを見てた事、そんなに怒っているのかよ!
こっちだって、見たくて見てたわけじゃないこのに。
「なに!」
稜はドアを開けた。
優は稜がノートに描いた太陽を見せる。
「だから、なに?」
<大きな牧場に行くのは本当?>
そう大きく書いて、優は稜に問い詰める。
あいつか、と稜は浅尾を思い浮かべると、優を指さし、左手の薬指に指輪をはめる仕草をした。
優は稜の腕を掴むと、稜の体を押しながら、何度も何度も首を振った。どんどん押してくる優の予想以上の力に負けて、稜は倒れそうになり、前にのめりそうになった優を優しく支えた。
優は稜に自分の気持ちを伝えられず、落ちているノートを拾い、胸に抱きしめると、静かに部屋に戻っていった。
稜は優の体を受け止めた時の感覚が腕に残り、自分の気持ちを素直に伝えられないもどかしさに苦しんでいた。
浅尾のように、自分も華やかな世界にいたら、優の事を、すぐにでも抱きしめてやれるのに。
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