冬の雨

小谷野 天

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7章

ピアノの音

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 9月のある日、松本牧場に立派な車が止まった。
 馬主さんが仔馬を見に来る事があり、田舎の道には合わない外車が走っているのを、たまに見かけた。
 だいたいの馬主達は大手の牧場に行くので、松本牧場に車が止まった時、辰夫は何事かと驚いた。    

 馬主と一緒に細くて若い男性が車から降りて、優が引いているアカマルを指さしていた。  
 辰夫は稜に、アカマルと優を連れて来るのように言うと、稜は優の元へ向かった。  
 アカマルのそばにいた優は、稜には見せたことのない笑顔になっていた。  
 稜は馬主と話す辰夫を指さし、アカマルの手綱を引き始めた。   
「この馬は、いつもこの人がお世話をしてるんですか?」  
 細身の男性、騎手の浅尾脩(あさおしゅう)が、辰夫に聞く。 
「浅尾くんがね、どうしてもこの馬が気になって見たいっていうんでね、もう入厩は決まっているのかね。」
 今度は馬主の丸岡(まるおか)が、辰夫に訪ねる。 
「いいえ、セリもまだです。」  
 辰夫は丸岡から渡された名刺を見て、驚いた。 
「あなたは、マルコの馬主さんでしたか。」
「馬主になって、15年になります。初めは馬主も、道楽で始めたと言われてましたが、やってみたらどうしてもダービーを獲りたくってね。今一番期待されている浅尾くんを連れて、牧場を回っていたわけですよ。」 
 辰夫と丸岡が話している間、浅尾は優にいろいろ話しをしていたけれど、返事をしない優に、だんだんとイライラしてきた。
「その人は、耳が聞こえないんだ。」  
 稜が伝える。 
「この人はここの家族? 君はこの人のお兄さんとか?」
「いいや、違うよ。俺もこの人も、ここの従業員。」
「ふ~ん。」   
 辰夫が浅尾に、 
「この子のお兄さんは、伊藤先生の所で働いているんだ。伊藤先生には、いろいろとお世話になっててね。」
 そう言った。 

 稜はアカマルにニンジンを食べさせると、1人厩舎へ向かった。 

「オーナー、この人のお兄さんが伊藤先生の所にいるらしいですよ。」  
 浅尾は優を指さしてそう言った。  
 丸岡と浅尾は、アカマルを見ると、浅尾はアカマルにさっと飛び乗り、牧場の中を走った。
 辰夫と丸岡が何か話していたが、優はいつもと違うアカマルの姿が、とても不安になった。   
 アカマルと戻ってきた浅尾は、優に向かって微笑んだ。      
 
 夕食の時、辰夫がめずらしく、優と筆談した。  
<アカマルを売りに出す。これからは、伊藤先生の所で競走馬として育ててもらう。 >
 辰夫はノートにそう書いた。
 涙を浮かべた優に、辰夫は付け加える。
<これが牧場の仕事なんだよ。優さんが一生懸命やってれたから、アカマルはすごい人の目に止まったんだ。  >
 優は稜を見た。辰夫は続けて、 
<あの人は有名な騎手で、お兄さんのこともよく知ってた。 アカマルはこれから立派になるよ。 >
 優はもう一度稜を見て、稜の手を握った。
 きれいだった優の手は、あかぎれだらけになっている。稜は何も言わず、優の手を離した。    
 皆、優の気持ちが痛いほどわかった。
 大事にしていたものが遠くへ行ってしまう事は、なかなか受け入れるのは難しい。    
 優もそれがどうしようもないことだということは、よくわかっていた。

 だけどどうして、自分の周りにある大切なものは、いつも突然別れがくるのか。 

 優は辰夫の顔を見ると、小さく頷いて、台所に向かった。    
 
 その夜、優はなかなか寝付けずに、部屋の窓を開けて、夜の匂いを嗅ぐ。
 優の髪の毛が、風に揺れる。
 頭の傷はすっかり良くなっているはずなのに、生えてきた髪の毛は、自分のものではないように感じていた。

 隆一が今の自分を見たら、なんて思うだろう。  
 2人で過ごした時間が、ページをめくるように思い出となって蘇る。 
 優はガサガサになった手に、優子がくれたハンドクリームを塗った。
 切れている所が少し滲みる。 
 隆一ともう一度、手を繋ぎたい。 
 優は布団に包まり、泣きながら眠った。  

 優がすすり泣く声が、部屋の前から聞こえた。
 凌はドアを開けようとしたが、その手を止めた。

 次の日、なかなか厩舎に来ない優を、辰夫は呼んで来るように稜に頼んだ。  
「俺だって、本当は女の部屋に入るの嫌なんですよ。」
 凌はそう言ったが、辰夫に早く行けと言われ、優の部屋の前にきた。 
 夕べは自分も眠れなかった。
 久しぶりに優の部屋に入ろうとすると、今まで意識しなかった感情が湧いてくる。
 稜は大きく深呼吸をすると、寝ている優の顔を覗き込んだ。  
 大きな哀しみから逃げるように言葉を失った彼女は、知らない土地で、毎日ボロボロになるまで働いている。
 優しい言葉もなぐさめの言葉も、彼女の耳に届くことはない。このまま、消えてしまいそうな優の事を、稜は初めて意識をした。    
 稜は優の枕をそっと取った。気がついた優は、時計を見て、急いで布団をたたみ始めた。 
 ぐちゃぐちゃになった優の髪を、稜は後ろからそっと撫でると、そのまま部屋を出ていった。 

 久しぶりの寝坊に、辰夫は鬼の真似をした。何度も頭を下げる優に、アカマルの馬房に行くように、指をさす。  
 優は稜をちらっと見たが、稜はいつもと変わらず作業をしていた。  

 その3日後、浅尾から優に手紙がきた。 

 優さんへ  
 お元気ですか?  
 あなたの事を、お兄さんから聞きました。  
 牧場の仕事はとても大変だと思います。  
 次の木曜日、そちらに迎えに行きますので、あけておいてください。                   
                  浅尾脩  

 優は優子にその手紙を見せると、自分の耳を指さして、首を振った。
 優子は優のポケットに入っているノートとペンを出して、
<浅尾さんはあなたの耳の事を知ってるよ。たまにはお化粧して、遊んでおいで、>
 そうノートに書いた。
 優子は不安そうな顔をした優の両腕をぎゅっと掴むと、ニッコリ笑った。 
 
 木曜日。
 浅尾は優を迎えにきた。  
 優は浅尾に頭を下げると、助手席のドアをあけて、浅尾がどうぞと言っているのが見えた。 
 優は浅尾に頭を下げると、助手席に乗り、シートベルトを締めた。 
 浅尾はダッシュボードからノートを取り出し、
<これから海に行く。>
 そう書いて優に渡した。
 走り出した車の中で、優は魚の絵を描いていた。信号待ちで止まった浅尾は、優の絵にはなまるをつけた。
 浅尾は優にペンを返して、微笑みかける。
 優はカーナビを見て、目的地まであと1時間という表示を指さした。
 浅尾は人差し指を、優に向ける。
 優は1時間かかるということを理解して、うんと頷いた。    
 
 夏の終わりの北海道の海は、東京の空のように灰色だった。    
 磯の香りがする浜で、優は蝶の形の貝を見つけて浅尾に見せた。浅尾はその貝を手に取ると、優の髪に飾る仕草を見せた。 
 優は不意に課長が優の髪を触ってきた事を思い出し、浅尾から離れた。驚いた浅岡は、優の顔を覗き込む。優は少し笑いながら、首を振って、ごめんなさいと顔の前で両手をあわせた。  
 浅尾は傷だらけの優の手を両手で包むと、車を指さし、優の手を繋いで車に戻った。  

<牧場の仕事は大変?>
 そう書いて優に見せる。  
<大変だけど、好きな仕事。>
 優はそう書いて、笑顔を見せた。
<騎手は大変ですか?>  
<好きな仕事だから、大変だけど、楽しい。 > 
<アカマルは浅尾さんが乗るの? >
<乗りたいね、すごくいい馬だよ。 > 
<いつ東京に行くの? >
<もうすぐ引っ越しだね。今度は、伊藤先生やお兄さんや、他にもいろんな人がアカマルを育てて行くんだよ。優さんも一度東京にきて、アカマルが走る姿をみたいだろ? >
 優は浅尾の書いた言葉に大きく頷いた。  
 優と浅尾は、ノートがなくなるほどおしゃべりをした。  
 松本牧場の近くまでくると浅尾が車を止め、ページがなくなったノートの表紙に、
<次の木曜日にまた会いたい。>
 そう書いた。
 優は浅尾の文字の上に、はなまるをつけて微笑んだ。
 笑顔を見せた優の肩を抱き寄せ、浅尾は優にキスをした。  
 優は張りつめていた気持ちが、砕けていくのを感じる。誰か好きになる事はもうないと思ったけど、こうして、もう一度、キスをする日が来るなんて、信じられなかった。
 浅尾が優の髪を撫でた時、優は血まみれの隆一を思い出し、浅尾から離れた。 
 ノートの余白に、
<ありがとう、また >
 と書いて浅尾に見せる。
「好きだよ。」
 浅尾はそう言って軽くキスすると、優を抱きしめた。   

 優は部屋へ戻る途中、廊下で稜と会った。
 稜は優をちらっと見たが、すぐに自分の部屋に入っていった。
 
 優は部屋の床に座ると、机に置いてあるノートが目に入った。
 その中に、笑っている太陽と、起きろ、と書いてある稜の文字を見つけた。
 稜がノートに文字を書いていたなんて、今までぜんぜん気が付かなかった。ゴツゴツとした凌の手が、こんなにもキレイな字を書くなんて。優はその文字に引き込まれた。
 そういえば、ここへきた頃、稜は毎日、自分の顔にノートを落として起こしてくれた。優が次のページを開くと、太陽は笑って優を包んでいる絵が描いてあった。次のページには、傘をさして泣いてる太陽が描いてある。
 さっきまで浅尾と一緒にいて、あんなに楽しかったはずなのに、頭の中が稜の事でいっぱいになる。
  今日も変わらず、馬達の世話をしていた稜の事を思うと、胸が締めつけられた。  
 稜は自分の耳が聞こえなくても、いつも特別扱いせずに接してくれた。同じ時間を過ごして、稜の仕草や、稜の顔を覗きながら、たくさんの事を感じた。  
 起きろ、と書いてある稜のキレイな文字とかわいい太陽を見て、稜の不器用な優しさを感じ、優はポロポロと涙が流れてきた。 

 次の木曜日。
 浅尾は優を迎えにきた。
 優子は、いってらっしゃい、と優を送り出した。  
 浮かない顔の優に、
<浅尾はどうしたの?>
 そうノートに書いた。
 優は稜の姿を探していた。  
 今日も変わらず、馬達と話しているのだろうか。
 優は、
<なんでもないと>
  そうノートに書くと、浅尾が迎えにきた車に乗った。  
<今日は千歳まで行くからね。>
  浅尾はそう書いて優に見せた。  
<千歳には何があるの?>
 優が書くと、
<大きな牧場がある。>
  浅尾は優に笑顔を見せる。  

 車が走り出すと、優は窓から外ばかりを見ていた。  
 兄ときたこの道。
 あの時は、まだ雪が残っていたけど、今は草が生い茂っている。  
 
 千歳には松本牧場の数倍広い牧場がいくつもあった。その中でも、一番大きな牧場に、浅尾は車を止めた。 
 浅尾の後をついて歩くと、幾人かの同じポロシャツを着た人達が、浅尾に声をかけてきて、浅尾はそのたびに、優の方を見て何かを言っていた。優に何かを話しかけてくる人もいたが、その度に浅尾は優の耳を指さし、耳が聞こえない事を伝えているようだった。  

 浅尾に案内された部屋に入ると、以前、辰夫を訪ねた丸岡オーナーと、牧場のオーナーらしい人が、浅尾と優を迎えた。
「浅尾くん、この子は松本さんところの?」  
 牧場のオーナーが浅尾に尋ねる。 
「そうです。丸岡社長と牧場を回っていた時、この人が引いていた馬がどうしても気になって、丸岡社長に頼みました。」   
 牧場のオーナー、柏代(かしわだい)は、 
「社長、そんなにいい馬だったのかい?」 
 丸岡に聞いた。 
「線は少し細いが、いい馬だよ。浅尾くんが、どうしても、そう言うんでね。」 
「血はどうなの?」 
「昔、あの牧場から出た、ユキマルという馬がいただろう。秋華賞を獲った栗毛の。その子供だよ。中距離路線が、いいんじゃないかと思ってね。」 
「入厩はどこに?」    
「伊藤くんの所に。この子の兄がいるらしくってね。」
 丸岡は優を指さした。
「伊藤さんの所かぁ。最近、いい馬が集まってるらしいから、それは楽しみだわ。うちは、もっといい血の馬が揃ってるんですけどね。小さな牧場の馬が、まさか浅尾くんの目に止まるとはね。」  
 浅尾達3人は、楽しそうに話しをしていたが、何を話しているかわからない優は、ただ3人の顔を時々見ながら、愛想笑いをしていた。
「浅尾くんは、馬よりもこの子が目に止まったってわけか。」   
 柏代が浅尾に聞く。 
「遠くからでしたけど、優さんを見た時、キレイな人だなってそう思いました。」  
 浅尾はそう言って優を見た。
「キレイな奥さんでも、浅尾くんとは、離れて暮らす時間も多い。まして、マスコミから注目されている君の隣りにいるのは、きっと苦労すると思うけど。」 
 丸岡は続けて、 
「浅尾くんなら、女優さんでも、アナウンサーでも、女性はたくさん寄ってくるだろうに。ある程度、嘘を許したり、自分も嘘をつける子じゃないと、女房は務まらんよ。 この前、一緒にご飯食べに行ったっていうあの子は、どうしたの?」 
「あの子はただの友達ですよ。僕は優さんと一緒になりたいと思っています。」  
 浅尾がそう言って優に微笑むと、丸岡は優に向かって 、
「あんたは幸せものだなぁ。」  
 そう言った。優は浅尾に、みんなが何を言っているのか、顔を覗く。
<幸せものだって。>
 浅尾はそう書いて優に渡した。それを見た優は3人に向かって、また愛想笑いをした。  
 
 牧場から出たあと、浅尾と優は近くのレストランに来ていた。
<疲れた?>
 浅尾がノートに書いて優に見せると、優はゆっくり首を振った。  
 食事の途中で手を止めた優は、レストランにあるピアノをずっと見ていた。 

 隆一と優の出会いは、龍一がバイトしていた楽器店で、優がピアノを弾きにきたがきっかけだった。 
 ピアノに気持ちをぶつける様に弾く高校生の優に、「もう少し優しく弾いたら?」
 大学生だった隆一は話しかけた。 
 優にとって、親に無理矢理習わされたピアノは、本当は大キライだった。発表会や進級テストが来るたびに憂鬱な気持ちになって、学校のピアノや、楽器店のピアノの前で、その鬱憤を晴らすように、激しいロックの曲を即興で弾いた。
 母に反抗した優は、大学に入ると同時に、ピアノをやめて、隆一からギターを教えてもらった。
 優が弾いていた家のピアノは、この10年、誰にも触れられる事なく、居間で眠っている。
 ピアノはなんにも悪くない。
 母は毎年、調律を頼み、優がピアノを弾いてくれる日を待っていた。   
 優子が優をピアノの前に座らせた時、最後の進級テストの課題曲だった、クラッシックの曲が頭の中に流れてきた。
 隆一との思い出の曲ではなく、逃げ出したかったあの頃の自分が、今もピアノの前で、鍵盤に指を乗せているような気がした。  

 優は店の人を呼び止め、
<ピアノを弾いていいですか、>
 そうノートに書いた。
 店の人は、「どうぞ。」と優を案内すると、ピアノの蓋を開けて、赤い被布をとった。    
 優は静かにピアノを弾き始めた。
 その音色は優の耳には届く事はないけれど、何度も何度も練習をした曲は、優の両手がまだ覚えていた。  
 優のピアノの近くまできた浅尾は、ガサガサになっている優の手が奏でる曲を、切ない気持ちで聞いていた。 
 曲が終わると、レストランの客のあちこちから拍手が上がったが、優はそれに気づかず、席に戻った。  
 食事が終わり、優がレストランの窓を眺めていると、浅尾が、優にノートを見せる。 
<ピアノ、ずっとやってたの?>
<幼稚園の時から。>
<そんな特技あったんだね。>
 優は浅尾を見て静かに笑った。  
<牧場で働くと、せっかくの手がボロボロだ。>  
 そう書いた浅尾は、優の手をとって、優しく撫でた。  
<松本さんが牧場をやめたら、一緒に東京で暮らそう。>  
 浅尾は、ノートにそう書いた。
 驚いた優の顔を見て、 
<高田くんは、来年からさっきの牧場で働く事になっている。 > 
 さらに続けて書いた。
 優はうつむいたまま、浅尾の顔を見ようとしなかった。      
 車に戻ると、浅尾は優の髪の毛を撫でた。 
 優はあの日の課長の手と、隆一の血まみれになった手が、点滅する青信号のように優の目の前に浮かんできた。
 課長が電話で自分を呼び出した声と、救急車のサイレンの音が頭の中で大きく響いてきて、たまらず耳を塞いだ。 
 浅尾はそんな優をどうしていいかわからず、優の体に触れる事も、声を掛けるもできなかった。  

 しばらくして、顔をあげた優は、浅尾を見て、ごめんなさいと、両手をあわせた。  
<大丈夫?> 
 浅尾はノートにそう書いた。  
<私、髪の毛、だめなんだ。>
 優はノートに書いて気持ちを伝えた。
<前にも、そんな事、あったね。>
<そうだった? > 
<なんとなく気になってたけど、髪の毛以外は大丈夫なの? >   
 優は首を振ると、涙が優の手にこぼれた。 
 また、耳を押さえて、塞ぎ込んだ優に、
<今日は少し疲れたでしょ。明日の朝、送っていくから。>
 浅尾はそうノートに書いた。
 優は首を振り、
<大丈夫、ごめんなさい、帰らないと。> 
 浅尾に文字を見せる。  
 浅尾は優の頭を撫でようとした手を止めて、
<無理しなくていいから。>
 そうノートに書いた字を見て微笑んだ優を、たまらず抱きしめた。
 優は浅尾の肩を、わかった、そう伝えるようにポンポンと叩く。浅尾は優から離れようとせず、そのまま優にキスと顔を近づけた。  
 優は浅尾から離れると、
<びっくりした。>
 ノートに書いて笑ってみせた。
 浅尾は優の腕を掴み、
<帰ろうか。帰りは、約束だからね。なんか飲まない?> 
 そう書いて、優に見せる。
<ちょっと待ってて。>
 浅尾は車から、レストランに向かって歩いて行った。 
 優は車で浅尾を待っている間、絵本で見た"あかべい"を描いていた。  
 コーヒーを持って戻ってきた浅尾は、優の描いたあかべいを見て、
<ばん馬知ってるの?>
 そう書いた。
 優はあかべいを指さして、ばん馬と書いた浅尾の文字を指さした。  
 浅尾もばん馬の文字を指さして、2人は見つめ合った。
 帯広にばん馬のレースをする競馬場があって、優が書いた絵のように、馬がソリを挽いてレースがあると、浅尾は教えてくれた。  
< 今度、連れて行ってあげるよ。>
 浅尾がそう書くと、優の目は明るくパッと開いた。

 松本牧場に着く頃には、少し笑顔が戻った優に、浅尾は軽くキスをした。
 ノートに、
<帰りに約束。>
 そう書いてある文字を見せて、今度は優が離れないように、きつく体を抱いてキスをした。
 浅尾はこんなにも自分を大切にしてくれているのに、何を考えてるかわからない稜の事で、優の心がいっぱいになる。 

 車から降りて、浅尾に手を振る優を、稜は窓から見ていた。  
 振り返った優は、稜がこっちを見ている事に気がつくと、稜の所へ走って向かった。
 稜は優が走ってくるのがわかると、窓の戸を閉めた。  
 少ししてから優が部屋のドアを何度も叩く。
 
 やっぱり、来たか。
 浅尾とのデートを見てた事、そんなに怒っているのかよ! 
 こっちだって、見たくて見てたわけじゃないこのに。 
「なに!」  
 稜はドアを開けた。  
 優は稜がノートに描いた太陽を見せる。 
「だから、なに?」  
<大きな牧場に行くのは本当?>
 そう大きく書いて、優は稜に問い詰める。
 あいつか、と稜は浅尾を思い浮かべると、優を指さし、左手の薬指に指輪をはめる仕草をした。
 優は稜の腕を掴むと、稜の体を押しながら、何度も何度も首を振った。どんどん押してくる優の予想以上の力に負けて、稜は倒れそうになり、前にのめりそうになった優を優しく支えた。  
 優は稜に自分の気持ちを伝えられず、落ちているノートを拾い、胸に抱きしめると、静かに部屋に戻っていった。  
   
 稜は優の体を受け止めた時の感覚が腕に残り、自分の気持ちを素直に伝えられないもどかしさに苦しんでいた。 
 浅尾のように、自分も華やかな世界にいたら、優の事を、すぐにでも抱きしめてやれるのに。
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