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5章
過去の窓
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優の部屋の前に立つ稜は、深呼吸をすると、入るぞ、そう言って、優が寝ている布団に近づいた。
凌が大学を卒業し、札幌の乗馬クラブで働いて2年目の暮れに、両親が経営していた牧場が倒産した。
稜と父と親しかった辰夫は、残された馬達と共に、従業員も引き取った。体を悪くしていた両親の近くにいるため、凌は仕事をやめ、従業員として、松本家にやってきた。 ちょうど辰夫の娘の優美が中学3年になった年だった。
まもなく凌の父は腎不全で亡くなり、後を追うように母は乳がんを患い亡くなった。稜は天涯孤独の身となったが、辰夫夫婦が家族同然の様に扱ってくれた。
辰夫達もまた、ひとり娘の優美を交通事故で亡くしていた。
優美の高校の卒業式の翌日、友人と札幌まで遊びに行き、ホテルに帰る途中の横断歩道で、信号無視した車にはねられて亡くなった。
娘を亡くしてから、辰夫も優子も、生きる希望をなくし、少しずつ牧場を縮小し、たくさんいた従業員も、皆、別の牧場へ移っていった。
去年、そろそろこの牧場を閉めると、辰夫は凌に伝えた。そして最後まで残っていた稜には、ここを出て大きな育成牧場に行く事を勧めた。
辰夫は優美が稜を慕っていた事も、稜も優美を好きだった事も知っていた。いつまでも、もういない優美を思うより、新しい道を進んでほしい、そう願っていた。
稜は眠っている優を見ながら、あんたが来なければ、自分はここにはもういなかったのかと、心の中で呟いた。
眠っている優を見てどうしていいか、わからなくなった稜は、蹴飛ばしたり起こしてください、と書いてあるノートを、優の顔に落とした。
顔をしかめた優は、稜が来ている事に気づき、急いで布団を上げだした。
稜は優の部屋のドアを閉め、厩舎へ向かった。
昨日、覚えた仕事を事細かくノートに書いていた優は、ひとつひとつ確かめながら、仕事をしていた。
力を仕事などしたことのない優にとって、どんな作業にも時間がかかった。
辰夫も稜も、黙々と作業をしている。
優は、2人が何を話しているのか気になったが、相変わらず、大きなフォークで草を扱うのに手間取り、なかなか2人に、仕事の事を見る事ができないでいた。
稜がさっと馬に乗り、牧場へ向かった。
朝日に吸い込まれるように、あっという間にその光りの中に消えていった稜を見ながら、優はこんな世界があったのかと、しばらくその後ろ姿を見ていた。
辰夫が優の肩を叩く。
馬房を指さして、馬が待ってると、頭に2本の指を立てた。優はごめんなさいと頭をさげると、馬房へ走って行った。
優の肩を掴んだ辰夫は、走ってはダメとジェスチャーをした。
お昼を食べてから、夕方までは休憩がある。
優は牧場の柵に腰掛け、馬が草をはむ様子を眺めていた。
音は聞こえなくても、風の匂いを感じた。
草がサラサラとなる音が、優にはわかった。
ここは課長に呼ばれる事も、メールを見る事もない。パソコンを開く事も、給湯室で愛想笑いをする事もない。
初めは取り残された気分でいた優も、慣れない仕事を必死で覚えていくうちに、1日を生きていく事が、こんなにも大変なのかと感じるようになっていた。
稜は牧場を眺める優の様子を、自分の部屋の窓から眺めていた。
そろそろ嫌になって帰ろうとしているのかも。
凌はそう思うと、なんだか少し淋しくなった。
凌が大学を卒業し、札幌の乗馬クラブで働いて2年目の暮れに、両親が経営していた牧場が倒産した。
稜と父と親しかった辰夫は、残された馬達と共に、従業員も引き取った。体を悪くしていた両親の近くにいるため、凌は仕事をやめ、従業員として、松本家にやってきた。 ちょうど辰夫の娘の優美が中学3年になった年だった。
まもなく凌の父は腎不全で亡くなり、後を追うように母は乳がんを患い亡くなった。稜は天涯孤独の身となったが、辰夫夫婦が家族同然の様に扱ってくれた。
辰夫達もまた、ひとり娘の優美を交通事故で亡くしていた。
優美の高校の卒業式の翌日、友人と札幌まで遊びに行き、ホテルに帰る途中の横断歩道で、信号無視した車にはねられて亡くなった。
娘を亡くしてから、辰夫も優子も、生きる希望をなくし、少しずつ牧場を縮小し、たくさんいた従業員も、皆、別の牧場へ移っていった。
去年、そろそろこの牧場を閉めると、辰夫は凌に伝えた。そして最後まで残っていた稜には、ここを出て大きな育成牧場に行く事を勧めた。
辰夫は優美が稜を慕っていた事も、稜も優美を好きだった事も知っていた。いつまでも、もういない優美を思うより、新しい道を進んでほしい、そう願っていた。
稜は眠っている優を見ながら、あんたが来なければ、自分はここにはもういなかったのかと、心の中で呟いた。
眠っている優を見てどうしていいか、わからなくなった稜は、蹴飛ばしたり起こしてください、と書いてあるノートを、優の顔に落とした。
顔をしかめた優は、稜が来ている事に気づき、急いで布団を上げだした。
稜は優の部屋のドアを閉め、厩舎へ向かった。
昨日、覚えた仕事を事細かくノートに書いていた優は、ひとつひとつ確かめながら、仕事をしていた。
力を仕事などしたことのない優にとって、どんな作業にも時間がかかった。
辰夫も稜も、黙々と作業をしている。
優は、2人が何を話しているのか気になったが、相変わらず、大きなフォークで草を扱うのに手間取り、なかなか2人に、仕事の事を見る事ができないでいた。
稜がさっと馬に乗り、牧場へ向かった。
朝日に吸い込まれるように、あっという間にその光りの中に消えていった稜を見ながら、優はこんな世界があったのかと、しばらくその後ろ姿を見ていた。
辰夫が優の肩を叩く。
馬房を指さして、馬が待ってると、頭に2本の指を立てた。優はごめんなさいと頭をさげると、馬房へ走って行った。
優の肩を掴んだ辰夫は、走ってはダメとジェスチャーをした。
お昼を食べてから、夕方までは休憩がある。
優は牧場の柵に腰掛け、馬が草をはむ様子を眺めていた。
音は聞こえなくても、風の匂いを感じた。
草がサラサラとなる音が、優にはわかった。
ここは課長に呼ばれる事も、メールを見る事もない。パソコンを開く事も、給湯室で愛想笑いをする事もない。
初めは取り残された気分でいた優も、慣れない仕事を必死で覚えていくうちに、1日を生きていく事が、こんなにも大変なのかと感じるようになっていた。
稜は牧場を眺める優の様子を、自分の部屋の窓から眺めていた。
そろそろ嫌になって帰ろうとしているのかも。
凌はそう思うと、なんだか少し淋しくなった。
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